ガラテヤの信徒への手紙3章10-12節、ハバクク書2章4節「最初から態度が的外れ」

18/2/18受難節第一主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙3章10-12節、ハバクク書2章4節

「最初から態度が的外れ」

この律法と信仰のように、二つ全く別々のものを、ようわからんけど似たようなもんやろうって、乱暴に自分の都合で考えてしまうと、あ、取り返しのつかんことになった、ってこと、結構あります。

例えば、国を動かす政治家が、ああ、彼は私の友人だからと、本当は厳密な法律に従って補助したり契約を結んだりしなければならない事柄を、これは友情関係だと、よしよし任せとけ言うて、忖度なんて便利なものを利用して国からお金を都合したりする。法律に基づいた国政事業を、法律なんかには基づくはずのない友情と、自分の都合でごっちゃにしてしまった結果、取り返しのつかんことになるのです。

今朝の御言葉が教える、律法と信仰の関係も同様です。律法は神様の正義を指し示す法、定め、決まりであって、大胆に言えば、それ以上のものではない。別の手紙では、律法は文字だとさえ言います。それ自体に魔術的な力が宿っているわけではないし、律法を行えば天国に行けるに違いない、だってそういうことだからと自分の都合で律法を考えて、律法を定められた神様の人格もお考えも、自分の都合で無視してしまうことさえある。そういう意味で律法は、神様との人格関係、信頼の関係と切り離すなら、利用さえされる決まりや文字に過ぎんのです。

でも、例えば愛する人からもらう手紙の文字は、ただの文字などではありえません。大切な暖かな文字です。何故か。信頼の関係があるからです。関係のない人にとっては、書き手など誰でもよいただの文字が、信頼関係を持つ者には、愛する人そのもののように大切に思える。

今朝の御言葉が「律法の実行に頼る者は誰でも呪われています」と、強烈な言い方で説得しているのも、要するに、じゃああなたはキリストをくださった神様への信頼関係から、律法を見ていますか?それとも、律法の実行そのものに、言い換えれば神様との信頼関係を脇において、文字のように便利に自分の都合で、おお、俺は私はこれを実行していると幾らでも自分の思いで言えるような、神様の人格を無視した生き方を神様の前でしているのではないか。もしそうなら、神様との信頼関係の絆、信仰によって生きてないなら、取り返しのつかんことになるから、さあ一緒に神様への信頼に生きましょう、生きる態度を変えましょうと説得をしているのです。

人格をお持ちの神様との信頼に生きるより、あるいは神様との関係が気になるより、自分があれこれを実行しているかどうか、自分の実行が気になるというのは、もうそこに自分の生きる態度が表れています。

態度というのは、基本姿勢と言い換えることもできるでしょう。人と向き合う時、例えば、その人に優しい顔で接するか、能面のような顔で接するかで、その人に対する態度が、あるいは私はこういう人には笑顔で接するけど、知らん人や気に食わん人には無表情で接するという基本姿勢が、顔に出る。行動に出る。生き方全体に表れるものです。

それが神様の前で問われて、義とされる、つまり正しいと認められるか、正しくない、つまり罪であり、有罪だから、それに相応しい正義の報いを受けなければならないと正義の執行があるかが問われる。これが生きることの一番根底にある大問題です。

今、受験シーズン真っ最中ですが、大体は単なる文字の質問に文字で正しく答えたら良いだけの試験ではありません。面接がある。何故か。学校で、共に生きることが求められるからでしょう。お一人様の正しい学校生活のみが求められるのなら、面接はないと思います。

神様も、面接をされます。顔と顔とを合わせる、という聖書の言葉もあるくらい、人格と人格とで向き合われる。そこに文字である律法など出る幕もない。人格と人格。そこで生き方が、生きる態度そのものが、また生きてきた態度が、神様の顔の前で問われるのです。

私たち、自分がどういう態度で生きているか、自覚あるでしょうか。あるいは生きる態度そのもの、私は、生きることそのものに、こういう態度で向き合って生きるんだと、例えば行き当たりばったりで生きるんだという態度もあれば、なるべく損しない得する生き方をしたいとか、色んな態度があるものです。皆さんはどうでしょう。

10節が言う「律法の実行に頼る者」というのも一つの態度です。この態度と真逆にあって、こっちで!この態度で生きようと招かれ求められているのが、前の7節が言う「信仰によって生きる人々」です。日本語の訳がそろっていませんが、元の言葉は同じです。直訳すると「律法の実行に由来する者」そして「信仰に由来する者」。どこに由来するか。あなたの生き方の態度は、どこから出ていますか?どこを拠り所、出発点としていますか?と問うのです。

これ、私、ハミガキ粉のチューブを押したら、ニューっと出てくる、あれをイメージするのです。私たちが毎日生きているあらゆる場面で、ある態度から、ニューっと出てくる生き方がある。ニューっと出るのは言葉だったり、さっき言った表情だったり、行いも、どんな決断をするかも、出所がある。それがキリストをくださった神様との信頼関係から信仰からニューっと出るのか。それとも俺は私はこういう正しいことを実行しているから、これこれを自分は頑張っているからというお一人様の律法の実行からニューっと出ているか。皆さんの生き方は、どこから出ていますでしょうか。

何でハミガキ粉のチューブなんかを私が思うかには過去があります。今は蓋が太いのを逆さに置く、誰でも押したらすぐニューっと出る形のを使っているんですが、今朝は妻が受験の付添でおらんので伸び伸び言いますが(笑)、結婚した当初は、昔の細い蓋をクルクル外して、後ろからギュ―っと押しださないと出て来ない形のを使っていました。で、私が使う時には後ろからキレーイに押し出して、まるで美しい魚の尾びれのような形にするのですが、私が、さあ歯磨こうと思うと、美しかった魚が残酷に握り潰されて(笑)、尻尾にあんこが全部戻って美しくない。で、また尻尾からギュ―っと押しだして置いとくと、また残酷に握り潰されて(笑)…の繰返し。私、結婚カウンセリングの本を読んで(笑)、ああ私だけじゃないがやと安心しましたが、でもたかがハミガキ粉で、私は美しく合理的で正しい!ハミガキ粉の律法の実行を拠り所として、毎日キチンと私は正しくやっているのに、何で同じように正しくできんのかと腹を立てる。それがどっから出てくるかというと、やはり自分が決めてやっている自分の律法の実行から、自分は正しいと決定しているお一人様の態度から、自分の思い通りにならん人への不満やら、傲慢な態度や、言葉やら、表情が、ニューっと出てくるのです。

じゃあこれ、神様との信頼関係から、信仰からニューっと出るなら、どんな態度や言葉が出るようになるか。頭を逆さに置く形のハミガキ粉を買うのも一つです。割高でも(笑)相手との信頼関係のほうがずっと大切だと。だって神様は、御子の命さえ惜しまずに、そんな割高とか、比較できるものではないだろうと、私たちを共に生きたい相手として、愛してくださった。あなたは大切だということを、口だけじゃなくて、命を差し出して、痛みを負って、ご自分の大切なものを失ってまでも、それでもあなたと共に生きたいと、あなたは大切なんだと、身をもって表して下さいました。その神様を信じて、神様、私は、あなたと一緒に生きていきたいです、そのために十字架で私の罪を身代わりに負って、私の受けるべき裁きを負って死んで下さったキリストを、人となられた神様、あなたが与えて下さった私の救い主として信頼しますと、十字架の神様を信頼して、洗礼を受けて歩む。その生き方は、生き方の出所が違ってくるのです。神様との信頼関係に生きる信頼が、私の生きる態度だと、神様の前に生きる生き方は、やはり信仰からニューっと生き方が出てくる生き方になっていく。あるいは消極的な言い方かもしれませんが、私は、お一人様の自分自分の態度になっているとハッと気付かされる時、この私は正しくないと、神様との信頼関係に生きる正しさこそ、救われた私の正しさだと、悔い改めることができるのです。

それは具体的には、ことあるごとに、あ、そうや、私はお一人様で生きゆうがや最早ないがやと、神様を仰ぐ。祈るって言ってもよい。神様の前で、しかも私が信頼を寄せる神様との関係に生きるのです。その生き方は、もうお一人様じゃない。神様と共に、神様との関係に、しかも信頼関係に生きている。それが信仰に生きる生き方です。

その反対に、もうおわかりだろうとも思いますけど、律法の実行からニューっと出て生きるのは呪われている、というのは、そんなお一人様の独り善がりの正しさで私は生きていくんだという生き方は、本当に誰かと共に生きる愛の生き方を失って、極端に言えば、あなたが誰だろうと、私には全く関係ない、どうでもかまんと、無視され、共に生きる愛の関係から切り離された存在になるということだからです。イエス様がマタイ7章で、神様の正義とは何か、それを教える律法とは何か、説教なさった。その最後で、イエス様に対して、主よと口だけで言うたり、私はこれもしてあれもしてと、いくら自分は実行したんだと言っても、天の父の御心である、神様との信頼関係に生きることを実行しているのでなかったら、そこに関係がないのだから、裁きの日、あなたのことをわたしは知らないと言うだろう、それでいいのか?と厳しくおっしゃいました。それだけ真剣に迫られたのです。それが呪われるということだと。神様を父と呼ぶ信頼関係、信仰によって生きるのではなくて、一体どうやって神様の前に生きるのか、死んでも生きるのか、自分は実行をしているということがそんなに偉くて、正しいのかと、今朝の御言葉は「律法の書に書かれている全ての事を絶えず守らない者は皆呪われている」と繰返し、訴えかけるのです。誰がそんなにも完全に自分は生きていると言えるのか。言えないだろう。誰も、赦されなくては生きて行けない。そして事実、あなたの全ての罪をわたしは背負って、償い切ったのだから、天の父はそれを根拠に、あなたと共に永遠に生きるために、あなたを赦すからと、キリストは私たちを招かれるのです。何故なら、それが命の正しさだから、正しい者は信仰によって生きるからです。