14/6/15朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章17節、詩編1篇 「聖書は最大の防御なり」

14/6/15朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章17節、詩編1篇

「聖書は最大の防御なり」

 

聖書と出会う。その出会い方は人によって様々であろうかと思いますが、私にとって、その後の人生をある意味決定づける聖書との出会いをしたことがあります。それまでもギデオン協会でもらった聖書を持ってはいました。開いて読んだこともありました。が、まだ神の言葉として出会ってなかった、と言えばわかりよいでしょうか。ある宗教的知識が書かれた特別な本だと思っていました。それがあるキリスト者の青年と話をしておって、幸生、真理が存在すると思うかと問われた。時代が変わっても国が変わっても、幸生が変わっても、永遠に変わることのない神様の真理ってあると思うかと。私は、なかったら、全てが偶然で風の吹くままで、そんないい加減な世界なら俺は生きたくないと答えましたら、彼が大事にしておった聖書を手にとって、幸生、その真理がここにあると言った。私は不思議と、あ、ここにあったかと、私が探していた答えがここにあるのかと、妙にストンと心に落ちて、これが聖書かと、聖書に出会いました。それから早速、毎日読み始めました。新約聖書を一日三章読んだら一年で読み終わるとか言われて頑張りましたが、何せ極道なもんですから、三年かかりました(笑)。でも何で頑張れたか。おもには、その数ヶ月後イエス様を私の救い主として祈って受け入れたというもっと大いなる出会いがあったからですが、やはり先に申しました聖書との出会い、ここに真理がある、ここに全ての答えがある、という出会いが大きかったと思います。

色々な答えを求めていました。それを聖書に求めました。様々な人生の答え、また救いとは何かについて、救われて生きるとはどう生きるのか、ありとあらゆる悩みの答えを聖書に捜し求めて読みました。そして求める者には与えられるとのイエス様の約束通り、与えられ続けてきた二十数年でした。

皆さん、今更のように問いますが、求めていますか?何を求めておられますか。答えでしょうか。その答えは、ここにあります!もし、モノやお金を求めておられるなら、では、どのようにそれを求めればよいのかも、やはりその答えがここにあります。

聖書の言葉を、しかし神の言葉として語りかけて下さる御霊なる神様が、私たちの問いに答えてくださいます。それを御霊の剣と、御言葉は呼ぶのです。ですから、この剣は、取扱注意が必要です。何故ならモノではないからです。聖書の言葉をモノ扱い、言い換えれば知識扱いしていると、傷を負うかもしれません。あるいは神様に傷を負わせることもあります。生きておられる方の言葉ですから、例えば、今私が話している言葉の取り扱いも、モノ扱いされると傷つくと言えばわかりよいでしょうか。へ、それはおんしが言いゆうことや…という態度とまでは言わずとも、言葉の取り扱いは、その人に対する態度と同じですから、軽んじられたら嫌な気持ちになる。皆さんも同様の体験がないでしょうか。言葉を聴く、聴かん、あるいは理解する、せんというのは、言葉だけ、知識だけの問題ではない。言葉に向き合うというのは、それを語る相手の人格に向き合うことと同じです。詳しくは次週説き明かします。

さて、こういう話し方をしていますのは、先にも言いましたように、私自身の通ってきた体験を振り返りつつ、私自身、どうやって御霊の剣を手に取ってきたかをたどりながら、御霊の剣について説き明かしているからです。ですので、生々しい話もあると思います。御霊の剣をどう用いるかは、それが私たちの具体的で生々しい生活に直接関わってくるからです。直接で具体的な話をせざったら、言わば家電製品の取扱説明書みたいなもんで、別に読まいでも使えたらえいがやおう、大体わかっちゅうき大丈夫ちやと、結局自分なりのやり方で、人生をも取り扱うということがあるかも知れません。本当に困った時だけ取扱説明書を開くのは、極道な高知の人だけではないでしょう(笑)。でも、人生を自分のモノだと思っていると、あるいは思ってなくても、結果そういう人生を送ってしまっていると、人生とは神様と一緒に生きる愛の生活であるということが、頭だけの知識になりやすい。そしてその知識とは別のところで、具体的な生活が営まれ、本当に困った時だけ…という家電製品とその取扱説明書のような関係に陥ってしまうかもしれません。

神様と一緒に歩んでいく共同生活としての生活、信仰生活、愛の信頼関係を、自分なりにやってみるっていうのは、聖書によって語りかけ、導きを与えて下さっている神様に対して無礼なだけでなく、危険です。それが御霊のとしての聖書でもあります。仕事で刑務所に行きましたら、廊下にズラッと防災の安全ヘルメットが並んであります。どうして並んでいるか。言わずもがな。地震がくるからです。じゃあ、どうして御霊の剣が、ここにあるのか。闘う必要があるからです。大根切るわけではありません。愛する家族、知人、隣人を切るのでもない。むしろ、守るためです。聖書なんか取扱説明書みたいにどっか置いとけ、わかるろう、自分の人生の使い方ぐらい、お金の使い方も、時間の使い方も、言葉も使い方も、わかるのに読む必要らあない、困ったら読めえという悪魔の策略と、闘うための剣が、ここにある!そうして聖書が存在していること自体!が、私たちが危険であること、そしてそれを切り抜けるために聖書が与えられていることの雄弁な証拠です。その御言葉が命じるのです。御霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい!

今、人生の使い方、お金の使い方、時間の使い方、言葉の使い方、と敢えて言いました。神様と共に歩む人生において、本来それらは捧げると言ったほうが適切でしょう。人生を捧げ、お金を捧げ、時間を捧げ、言葉を捧げる。これらを、子供のために親が捧げているのを考えたら、納得できると思います。あるいはそれも、関係をどう見るか、どう大切にしているかによって生まれるニュアンスの違いかもしれません。子供にお金を使う。ん~まあ間違いではないかもしれませんが…捧げるのほうが、大切にしている感じが私はします。感性、センスの違いかもしれませんが、例えば献金のお祈りの時に、ただいま支払いました献金を、とは祈らんでしょう(笑)。会費じゃないんですから。でももし教会にはお世話になっちゅうき、というセンス、感覚で教会生活をしていると、そういう言葉になるかもしれません。捧げるというのは、自分を後回しにしても、犠牲にしてもよいから、あなたを大切にするという言葉だと思います。愛の言葉だと思います。教会は愛の言葉を語るのです。

そうした具体的な言葉の用い方を教えるのが聖書です。そしてそれは単なる言葉遣いのhow toではなく、神様の前で言葉を語るとは、どういうことかを教えるのです。言葉を「捧げる」と余り言い慣れない表現をしましたが、賛美は捧げるでしょう。語る言葉すべてを、賛美の言葉、神様を褒め称える言葉として、神様の御前で語り、捧げる。いつでも、どこでも、私たちと共におられる神様の御前で言葉を語るなら、それはやっぱり捧げるのです。神様の御前、ラテン語でコラム・デオでの言葉の用い方を聖書は教えます。そして、それが教会の言葉をつくります。私たちの言葉が福音に根ざした言葉、慰めの言葉になっているか。それとも自分勝手で自己責任で裁きの言葉になっていないか。生々しい話になりますが、人は言葉によって、あ、そうかって神様に導かれ、神様と出会ったり、逆に、言葉につまずいて教会から遠のき、神様から遠のくということが起こります。そんな恐ろしい程に大切な言葉を、自分なりに家電製品をいじくるように使えたらえいとは、やはり言えません。だから、自らも人をも守る御霊の剣、聖書の語り口を身に着けるのです。

またお金も、やはり捧げる。このことも御霊の剣によって身に着けるより他ないんじゃないでしょうか。具体的な話をしますが、税金だって神様に捧げるのです。イエス様ご自身、人をつまずかせんために税金を納めなさいとおっしゃった御言葉もあります。そうか、つまずかせんというのが御心かと、御霊の剣によって答えを得て、地にも御心がなりますようにと、御心のなるため、神様のため、神様を大切にするが故に、神様に捧げる。献金だけが捧げるお金で、後は自分のという考えもないでしょう。それだと感謝と献身の徴として献金をお捧げしますと祈れなくなります。御言葉が「あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」(コリント一4:7)と私たちの心に語りかける時、それは確かに私たちの信仰告白で「聖書は…信仰と生活との誤りのない基準であります」と告白する通りに、献金という信仰生活の基準だけでなく、お金に対する態度そのものの基準となるのです。無論、人のものを捧げることはできません。それしたら泥棒ですから(笑)、自分のものなんですが、それを自分の自分のって固執せんですむようになるのも、自分自分の鎖とかせに繋がれていた心に、御霊の剣が振り下ろされて、ジャキンと鎖から切り離されるとき、いただいた感謝のしるしとして、捧げます!って、献金が嬉しくなるのでしょう。

時間も捧げます。誰と時間を過ごすかと言い直したほうがわかりよいでしょうか。そら好きな人と過ごしたいのです。恋愛や結婚や子育てや仕事や、色んな事がそこで問われると言ってもよいのです。それを誰のためにしていますか、誰のための時間にしていますかと。その一つ一つに対し具体的な説明をする暇はありません。が、聖書はその全てに対して、具体的な答えを持っています。恋愛も結婚も子育ても仕事もって、何で挙げたかっていうと、私がその全てに対して聖書に答えを求めたのを列挙したからです。いずれも、喜びや悲しみや失望や裏切りや、自分なりにやって取り返しのつかないことをしてしまいやすいという、生々しい闘いがあればこそ、それらを悪魔の策略の犠牲にしないで、神様に祝福されたものとして受けたいと願えばこそ、御霊の剣を取るのです。聖書の答えに聴くのです。何であろうと、自分で持とうとすると失います。でも神様からいただいたものとして、これを受けるとき、その象徴が洗礼を受けるという態度表明、信仰表明ですが、神様から受けたものなら、捧げられます。神様の御前で、捧げられます。世がそれは損だと言っても、自分の中の肉の思いが失いたくないと叫んでも、御霊の剣を高くかざして、神様の答えを求めるところに道は切り開かれるのです。