14/5/25復活節第六主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章16節、詩編37篇1-29節 「この盾に身を委ねます」

14/5/25復活節第六主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章16節、詩編37篇1-29節

「この盾に身を委ねます」

 

信仰を盾として取る。この盾は体全体をスッポリ覆い隠す大きな盾、大盾です。軍隊が敵の軍隊と向き合う時、最前線の歩兵たちに向けて、矢が、雨のようにビュンビュン降ってくる。弓矢って、あれ戦争の時は前向いてじゃなくて、上向いて撃つんですね。前に映画で見ましたら、空から真っ黒な豪雨のように矢が降り注いでくる。恐ろしい光景です。すると歩兵たちは一斉に身を屈めて大盾を上にかざす。そしたら巨大な一枚の盾になる。そして前に進んでいく。また第二陣の矢が降り注ぐ。盾で身を守って、前進する。皆で一緒に、前進していく。

そこで必要不可欠なのが、この信仰の盾だと御言葉は告げます。大盾の中にスッポリ身を委ねて、攻撃から守るように、私たちは信仰の中にスッポリ身を委ねて、降り注ぐ攻撃から身を守る。全身をです。誰もが一日24時間生きています、その24時間の生活全部、朝起きて、礼拝に行く時も行かん時も、友達と遊びに行く時も、家でテレビを見る時も、全部をスッポリと信仰の盾の中に入れて、結婚生活も、あるいは恋愛も将来の夢も、過去の痛みも、全部スッポリと包み込んで守る盾の中で、ここでのみ我が身は守られると、頭を低くして身を守る。

でなかったら、盾からはみ出ちゅう生活に、ザクッと、悪魔の誘惑の火の矢が刺さります。いきなり倒れるかもしれんし、強い人は、こんなのへっちゃらと、弁慶のように仁王立ちしちゅうかもしれません。が、問題は、その矢には火がついちょって、引火する。ひょっとその弁慶のような強さがプライドから来ちゅう強さだったら、この火はプライドに引火しますから、下手したら自分が倒れるよりもひどい結果、つまり、人を巻き込むかもしれません。いずれにせよ、この火の矢は厄介です。しかも雨のように降り注いでいる。

何で、降り注ぐイメージで御言葉が語るのか。おそらくは、私たちの24時間の生活を取り巻く、ありとあらゆる誘惑の故でしょう。神様との親密な関係をダメにして、引き離し、こっちの虜にしてやろうという、悪魔の誘惑が、もう逃げ道のない雨みたいじゃないかえ?ん~本当やと納得して、信仰の盾を取ってもらうためでしょう。それがもし、信仰は大事ですね、以上。で終わったら、例えば盾なしでテレビ見て、盾なしで恋愛して、盾なしで生きて、罪の傷を負って、立てんなる。

立てんなるというのは、具体的には、いつも神様の前に立っている、あるいは先週の言い方で言えば、イエス様に自分の方からもくっついていくという正しい愛の関係から、離れて、距離を置いてしまう。段々と距離を置くか。いきなり離れるか。色々あると思いますが、倦怠期だろうと、気まずさだろうと、要するに、神様を慕う思いが、冷たくなる。そりゃあ私には神様が必要だと思ってはいるけど、心がついて行かんと言うか、行動と態度がついていかんなって神様との関係が疎遠になる。距離ができる。それが火の矢が狙い撃つ攻撃プランです。11節の御言葉では「悪魔の策略」と言われていました。巧妙なプランです。人間の弱さを、よく知っています。同時に、神様の強さも知っておりますから、キリストによって結ばれた救いの関係が、たとえ疎遠になっても切れることはないことも知っています。だから、悪魔が何をするか言うたら、壊すことのできん関係を、けんど、疎遠にさせて、距離を置かせて、要するに、神様の御心より自分の思いを優先させることができたら、教会は平和の福音を告げる力を失ってしまう。救いの関係は壊れなくても、教会は救い主の御心に従わなくなる。それが狙いです。

改めて申しますが、救いとは神様との揺るぎない愛の関係、神の家族の関係が神様の方から差し伸べられて、その関係にこちらもまた入らせて頂いて、関係が結ばれること。しかも揺るぎない、決して壊れてなくなってしまわない、神の家族の関係が、三位一体の神様と私たちとの間で永遠に結ばれてしまうことです。そのための100%の赦しを保証する完全な犠牲として人となられたキリストであり、そのキリストと100%結びつけて決して離さない家族の絆として、聖霊様が私たちとキリストとを結びつけておられる。三位一体の神様が総動員、全力で結び、保証されている救いの関係、家族の関係ですから、これは壊れません。が、家族の関係は、いつでも愛の関係ですから、その愛が一方通行でよしとされることも決してありません。その愛の責任を、神様は私たちに問われますし、それ以上に、求められます。神は愛です。

いつでもそうだと思いますけど、その愛の神様に対して、どこか後ろめたい気持ちを持ってないキリスト者はおらんのじゃないでしょうか。だから神様に従って、神様を愛そうと思うのですけど、弱くって、愛が弱くって、自分が嫌になったりするか。自分が強すぎて、自分はできているのに、何でできない人がいるのかと人を裁くか。そのミックスか。そこに火の矢が降ってくる。プライドに引火させたり、傷を負わせて、とにかく愛から、神様の愛の関係から引き離そうと試みる。

それに対して私自身、どうやって闘っているか、どうやって信仰の盾を取っているかと言ったら、具体的にこの御言葉の陰に身を隠すことが私の盾です。共にお開き頂ける方は、新約の285頁、ローマの信徒への手紙8章31節以下の御言葉です。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか。私たち全てのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さるのです。誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「私たちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてある通りです。しかし、これら全てのことにおいて、私たちは、私たちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています。 私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。」

私はこの御言葉をお語り下さる神様を信じます。この神様の愛を信じます。この愛で、私と永遠に結ばれることを望んで下さり、求めて下さり、そのために御子を十字架にお付け下さった神様を、愛と恵みの神様を信じます。この神様を信頼するという盾のもとに身を隠すとき、自分の罪もわかります。それまで頭ではわかっていても、心がついていかなかった罪のひどさが、神様の愛によって示されます。この光の下でしか見えない汚れが罪なのです。罪は本来、関係の破れですから、関係に対する感覚が鈍ると、罪の痛みも鈍くなる。まるで脳血栓のように、愛の関係の絆に自分自分が詰まってしまって、それで破れて傷を負っている関係に、でもキリストの愛の御言葉が染み込む時、神様との愛の関係を詰まらせ、また心を詰まらせていた罪の自分を、ごめんなさいと捨てられるのです。これが正しいって心でわかるのも、その時でしょう。

そのためにも、この順番は本当に大切だと思いますけど、平和の福音を告げるためにも、まずは自分に語るのです。46時中自分に語りかけ、自分自分で心を詰まらせ、神様との信頼関係の絆を詰まらせてないか。主よ、憐れんで下さい、キリストよ、憐れんで下さいと、ただ十字架にすがるのです。すがるという信仰の大盾、我が身を主の愛に委ねるという信頼の大盾に、頭を低くしてスッポリ入って、恵みによってのみ立つのです。自分で立たん。自分は、むしろ捨てなさいとイエス様は言われました。でないと、弟子としてついては来れないとおっしゃいました。本当にそうなのです。神様との信頼関係を詰まらせてしまう自分自分という罪は、キリストに日毎に執り成して頂く他ない。主の祈りを本当に毎日祈るのは、そのためでもあると思います。赦しによってのみ立つのです。天にまします我らの父よ、赦して下さいと祈る時、父を信頼して祈る時、その手には信仰の大盾があります。その盾にはキリストの血が塗ってあります。その血が火の矢を消すのです。自分だろ、自分の思いが優先だろとゴーゴー燃える罪の火を、あるいはお前はダメだダメだと自分を責めて自意識過剰に燃やす火を、消すのはキリストの血潮です。ご自分を捨てられて、赦しを下さり、新しい生き方を下さった救い主の血が、自分自分の火を消して、その名を愛と呼ばれる神様の子供として私たちの命と心を守ります。主の愛が、自分自分の火を消します。真実の愛があるところ、自分は息をできんからです。

ですから信仰とは、自分が信じている!という手柄ではありません。そんなもの掲げても、火の矢で燃え盛ってしまうだけです。信仰はまず何よりも、神様の方から与えられた信頼関係の絆に対して、はい、私もその関係に入りたいです、あなたは私の神様ですと、神様にくっついていく信頼です。恵みによって始まって、信頼によって心が通い合う関係の絆、関係のパイプ。決して切れることのない神様との関係を、ならば自分で詰まらせないように、自分を捨てて、愛の関係に生きていこうとキリストが招いて下さった。そのキリストに、はいと答えて、身を低くして、洗礼を受けて、聖餐を受ける。恵みはいつでも受けるものです。そこに身を置いて生きることを、恵み恵みで生きて行くことを、聖書は信仰と呼ぶのです。

具体的には、その関係に招かれる主の御言葉を信頼します。詳しくは17節、霊の剣で説き明かしますけど、自分を信じさせようとする残酷な知恵や自分の考えに従うのでなく、神様の知恵のほうが正しいと、神様を信頼するのです。御言葉に生きる。そしたら多くの過ちから身を守れます。自分から火に飛び込まんで済むばかりか、火に悩む人を自己責任で放置せず、むしろ自分を捨てて、その人のためにも信仰の盾を、救いの屋根として広げて生きられる。教会は、そうした救いの家なのです。