14/4/20イースター召天者記念礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章14節、ヨブ記19章23-27節 「復活があるから立てる」

14/4/20イースター召天者記念礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章14節、ヨブ記19章23-27節

「復活があるから立てる」

 

今日はキリストの復活による救いをお祝いしながら、その復活の希望に包まれて先に天に召された家族を記念する、礼拝を捧げております。いいですね、懐かしいお顔を思い出しながら礼拝していると、また天国で再び一緒に礼拝をする日が本当に来るんだなあと、実感されるのではないかと思います。

また今年はこの日が清和の礼拝出席日となりました。あの写真何やろと思っておったかもしれません。ま、まだ存命の者も写っていますが、この方々は言わば復活に一番近い人たちです。今読んだ御言葉に、正義を胸当てとして着けと言われます。言い換えれば、こんなにも正しい愛の救い主キリストに、この人たちみたいにギュッと包まれて、そのまま復活しなさいと、そうイメージしてもよいのではないかと思います。

私は21歳で洗礼を受けたのですが、その時に、この正義、と言うよりは、正しさと訳したほうがわかりよいのですが、この正しさとは「神様との正しい関係」のことだと教わりました。救われる正しさとは関係の正しさだと。それから22年経ちました。牧師になるため神学校で神学を学んで、ここで12年間、聖書を説き明かし続けてきて、ますます、その通りだと思うようになりました。私たちがその正しさに包まれて、その正しさを胸に着けて、復活の日まで、ずっと守られる正しさとは、神様との関係の正しさのことである。

関係が正しいって、どんなイメージでしょう。例えば、正しい親子の関係があるから、私は親として正しいとか、子として正しいとか。また正しい友達関係があるから、真実な友だと言える。同じように、正しい神様との関係があるから、私は神様の子供として正しいと、その正しさに包まれて毎日生きられて、また安心して死にさえできる。だって復活に包まれて眠りにつくのです。この皆さんも本当にそうでした。

逆に言ったら、神様との関係が正しくないと、人が自分ではどんなに自分は正しいと思っていても、それは自分だけなのです。例えば私は夫として、自分では正しいつもりの夫では、いたくないです。そういう妻でいて欲しくもないですが、続きは二人で話し合います(笑)。神様との関係もそうです。ぜひ聖書を読んで、祈って、神様と二人で沢山話して下さい。会話がない関係も、やはりどこかがおかしいですから。

じゃあ関係が正しかったら、罪が重い人でも救われるのか。人は罪の重い軽いを、そうやって考えるかもしれません。誰かと比べて自分より重い罪を犯して、あるいは多くの罪を重ねている人と自分を比べて、私も罪はあるだろうけど、軽いほうだ。だから私はまだ正しいと。そうやって、罪の多さとか大きさという、数で、人の価値、自分の価値を測り計算し、人と比べて、私は正しいとか、平均値より低いから正しくないとか。そういう数で計算できる正しさは、でも神様の正しさではないのです。神様は、正しい関係によって私たちを受け入れて下さる。

正しい関係。ズバリ言うと、正しい信頼関係のことです。正しい友達関係でもそうでしょう。皆さん、友達との約束は必ず守りますか?もし破ったらもう終わりでしょうか?それとも、ごめんねと謝れる関係が、正しい友達関係じゃないでしょうか。ごめんと謝ったら赦してくれる、受け入れてくれる、仲良くしてくれると相手を信頼できるから、ごめんねと言える関係。それが正しい関係でしょう。関係を保つためにメールの返信を絶対忘れたらいかんとか、誕生日メールを絶対忘れたらいかんとか、息が詰まるような関係は、正しくないでしょう。最近私は親として子供に厳し過ぎやせんか、息が詰まるような関係の空気を、また作り出してないかと、しょっちゅう反省するのです。牧師としても教会員に厳し過ぎやせんか、夫として…もうそれはいいでしょう。この前、子供が、お母さんが怖いもんてあるが?って尋ねたら、お父さん。怒るきと面前で言ってました。そう言っても私が怒らんろうという信頼のしるしなんでしょう、多分(笑)。でも、ありがたいもんです。

関係が正しいって、信頼の正しさでしょう。それは正しく信頼しているかではありません。自分は正しく信頼してるか自分は自分は…そんな自分蟻地獄の正しさではない。自分がどうとかを超えて、むしろこんな私でごめんなさい、でも受け入れてほしいのです、受け入れてくれますよねと相手を信頼する、信頼によって成り立つ愛の関係という正しさ。こんな自分だけれども受け入れてくれると信頼できるからこそ、ごめんなさいって言えるんでしょう。その関係は正しいのです。

先に言ったように、神様は数で私たちの正しさを計測しませんし、それによって受け入れるかどうかを決めたりもされません。例えば正義と悪のリストアップをして、これをしたからプラス一点、あ、あれをしたきマイナズ一点…で、それを集計して、正義と罪が何点対何点で、白組の勝利、じゃあ天国に…そんなんじゃない。私たちが胸に着ける正しさは、数字で測れない正しさです。神様の愛の正しさは数値化できない。私は中学で陸上やってた時、自分が正しく練習してきたかどうかは数字で出ると思っていました。一位二位という数字の正しさ。言い換えれば人と比べて順番という数字で測られてしまう正しさ。順位が低かったら努力したのに信じてもらえず、責められたことってないでしょうか。

確かに数字は私たちが怠惰にならんよう、開き直らんよう、傲慢にならんよう、私たちが自分の心の弱さや罪に気付くために役に立つということはあります。自分でこりゃいかんと気付かんと、本当に変わりたいと思いませんから、人間は。そういう時に数が役に立つというのは確かにあると思います。が、それは、その人を受け入れるかどうかとは関係ないことです。数によって関係が悪くなるとか、相手の態度がガラリと変わって、結局は求められている数を満たさなかったら優しくしてくれないというのは、救い主をくださった神様じゃない。そんな数の要求を十字架の神様は要求されない。神様が求められるのは、私たちを造られた神様との愛の信頼関係です。その信頼を、一般に信仰と呼ぶのです。神様を信じるとは、神様を信頼することです。神様おると思うでっていうのじゃなく、私に信頼の関係を求められる神様を信頼することです。神は愛ですと呼ばれる神様。その名を愛と呼ばれる神様を、信頼する。それが信仰です。

だから神様に、ごめんなさい、私の罪を赦して下さいと、素直に悔い改めて言えるのです。信頼があるから言えるのです。違うでしょうか。だから、私は罪人ですと言える。罪人の頭ですとさえ言える。言えるほど信頼できる。神様は、こんな私をさえ受け入れて下さる、まことに私の天の父ですと、父よと呼べる。何故なら、父がくださったイエス様、神様が人となられて、救い主となられたイエス様が、あなたは神様を、天の父と呼びなさい、信頼によって、その胸に飛び込んでいきなさいと恵みと祈りをくださったからです。そして赦しをくださいました。救いの鍵、ただその愛を信頼するだけで罪赦される信頼という鍵を、さあと差し伸べて下さいました。私たちがそのままで神様の子供として受け入れられるために、神様との関係を破壊する私たちの罪を、全部十字架で引き受けて裁いて終わらせるため、天の父はキリストを私たちの救い主として与えて下さったからです。そして十字架で全部の罪の赦しを背負って死なれた救い主を、私たち人間の代表として復活させられました。あなたも同じように、復活の命に歩みなさい、さあ立ちなさいと、信頼による救いの正しさへと、私たちを子として招いてくださいました。

そうやって私たちは、誰でも神様を天の父と呼んで、その信頼の正しさを胸に着けて、父のみもとに進み出られます。またそれを邪魔しようとする数の悪魔に、退けサタン!と立ち向かえるのです。

性格的に、いや~その態度はちょっとって人もおるかもしれません。でもこれは傲慢な態度ではありません。自分に信頼しているのを傲慢と言い、神様を信頼しているのは、むしろ謙遜と言うからです。注意する点は、謙遜を計算せんことです。私これだけ謙遜だから…、その時点で謙遜じゃない。謙遜は計算できるもんではない。いや、計算しようとしたら人を見て、また自分の手を見て、神様を見なくなってしまいます。そしたら神様を信頼するより、自分を計算して傲慢になるか、あるいは計算して落ち込むのも、もっと自分のレベルは高いはずなのにという、傷ついた傲慢であるかもしれません。だから計算はせんのです。

そもそも正しい愛の信頼関係が謙遜です。私が子供の父なのは、父としてのリストを標準値以上満たしているからか?逆に子供は子供としてすべきことのリストをこなして、しかも親の満足に足る基準値を満たしているから子供なのか?そんなのおかしいって知っているのです。でもそのイメージを天の父に当てはめて傷つけてしまうのです。でも天の父はあれをせんと愛しちゃらんとか、キリストをくれてやったのにとか言われません。キリストも死んでやったとか言わない。私たちもこれだけやっているのに神様はとか、神様を信じてやっているのにと言うのが、どれだけおかしいか知っているはずです。

全部、自分が何かしたからではないのです。何かをこれからするからでもありません。神様が全部もうしてくださったからです。キリストが罪を背負って下さって、私の裁きを引き受けて、身代わりに裁かれ死んで下さったから。私たちの代表責任者として人となられて、死なれて、復活させられて、私たちの救い主となってくださったから、だから私たちは救われます。その神様を信頼して、私の罪を赦して下さい、赦して下さり、私を受け入れて下さってありがとうございますと、キリストのお名前によって祈れるのです。私は罪人です、ごめんなさいと信頼して言える。それが正しい謙遜です。

そして、復活の希望に抱かれて、今もう包まれて立てるのです。もう立つことがキリストに約束されているから。先に天の父のもとに行かれた写真の先達たちが復活のキリストに保証されて、今主に抱かれて休んでおられるように、私たちも同じ主の恵みのお陰で、やがて復活に立たせて頂ける。その神様の愛の正しさを胸当てとして、キリストの救いの正しさを信頼して、だから今、その愛と信頼に立つのです。