ガラテヤの信徒への手紙2章21節、詩編100篇「その恵み、有効です!」

18/1/7主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙2章21節、詩編100篇

「その恵み、有効です!」

無にはしません!ここには決意があります。私は神様の恵み、しかもキリストによって与えられているこの恵みを、無にはしないぞ!という決意表明がなされています。

私たちも新年を迎えるにあたり、何かしら決意表明をしたかもしれません。私は家族から、お父さんは今年何をする?と聞かれて、え?何にも考えてなかったので、パッと頭に浮かんだことを言いました。パーマかける(笑)。ま、冗談で言ったので、実行する気はないのですが、今年何をするか、この御言葉を改めて読みまして、これだ!と思いました。私はこの神の恵みを、キリストがくださった恵みを無にはしません!新年礼拝に相応しい御言葉が与えられました。この決意表明の御言葉から新年の主の日を迎えられることは如何に幸いなことかと思います。

無論、この決意表明をするのは今年だけの話ではありません。神様がキリストを私たちの救い主として与えて下さって以来、この決意表明はずっと私たちの前に与えられています。言わばキリストが私たちの顔を見つめられて、そうだろう、私たちはこの恵みを無にしようだなんて思わない、さあ、わたしについて来なさいと、言って下さっている。これは、そうやってキリストと共に恵みに生きる決意を新たにする御言葉です。何度も何度でも。私はキリストと共に生きるこの恵みを無にはしません、イエス様、助けて下さい!と主に向かって決意を新たにするのです。新年だけじゃない。日々新たに!人や悪魔は言うかもしれません。あれ?もう決意破ったがって。でもキリストはそうはおっしゃらない。さあ、わたしのもとに来なさい。この恵みに共に生きよう。ついて来なさい、と言われる。だから言えるのです。私は神の恵みを無にはしません。それが神様のくださった、イエス・キリストの恵みだからです。

さて、この「無にはしません」という言葉。これは「無効にしない」と言い換えることのできる言葉です。私は神様のこの恵みを、無効にはしません。

無効にも色々とあります。例えば期限付きで、いかん、引換券の有効期限が過ぎちょった、せっかく集めたに、全部パーという、期限が過ぎて無効になるってのもありますが、キリストの恵みを無効にしない、というのは、むしろ、こういうイメージでしょうか。

私は、刑務所で収容者の助けをする教誨師の働きをしておりますが、その教誨活動を支える、高知県宗教教誨後援会という組織の事務局長もしております。会長は四国銀行の相談役の方です。後援会運営のお金を出し入れする銀行口座も四銀にあって、通帳の名前は会長の名前です。で、会長ですから、結構な額を後援会費として振り込んで下さいます。私が必要なお金を引き出す時は、会長の名前を書いて後援会のハンコを押して窓口に行くと、引き出せる。そのあたり、イエス様のお名前によって祈るのと同じです。私の名前では引き出せない。いやだって私こんなにも頑張ってやっていて、牧師ですよ、信用できないんですか?と言っても無理。私の口座ではないですから。イエス様の口座からイエス様の名前でいただく。それが恵みだと言ったらわかりよいでしょうか。

ところが以前その恵みを無効にする、こんなことがありました。開拓伝道をしております十市に行った際、会長からの後援会費の振り込みを確認しようと思って、十市にある四銀の入口のところにあるATMに通帳を入れたら、使えません、と返ってくる。頁を間違えたかなと入れ直しても、使えません、ベロっと。そんなはずはないと何回やってもダメ。しばらく仕事を怠けてて通帳使ってなかったから、ひょっと期限切れで無効になったのか?と、真っ青になって窓口に行って、この通帳使えませんて返ってくるんですけどと見せたら、すみません、これはうちでは扱えませんと突き返された。え?どうしてですか?と尋ねたら、うちは高知銀行ですので(笑)。四国銀行さんはお隣です。大恥かいて外に出たら駐車場がくっついてまして、入る銀行を間違えていました(笑)。

皆さん、キリストの恵みを頂いて、入る場所、その恵みが有効に働く場所を間違えるってこと、ないでしょうか。具体的に言うなら、自分はこんなにも頑張って信じているんだからと、自分が主語になってしまう態度に入り込んでしまうと、今日の御言葉が言う「律法のお陰で義とされる」自分を信じましょう銀行に、恵みの通帳を持っていくようなものです。この世の至る所に支店がある自分を信じましょう銀行では、この恵みキリストの恵みは無効なのです。

キリストの恵みには、キリストが私たちのため身を献げられたのは、このためだ!という目的があるのです。それは単に天国に入るという、ともするとボンヤリしてしまう死んだ先のことだけでなく、今!律法のお陰ではなく、つまり自分の頑張りや自分の正しさのお陰で自分は天国にも入れるほど正しく生きられるのだと自分を信じるのではなくって、むしろそんな生き方や態度のお陰で、自分ではなく人の気持ちを考えて生きる愛の生き方も、まして神様のお気持ちを考えて生きることもできない生き方をしてしまう。人にも神様にも罪を犯してしまう。それでも自分は正しいと、どうしても捨てられない間違った正しさを、だから、キリストが十字架で引き受けられたのです。愛に生きられないあなたの正しさを、わたしがこの身ごと捨てるからと、聖なる裁きを身代わりに受けられて、ご自身を、私たちとなって捨てて死んで下さった。それは私たちが古い自分も古い使えない正しさも脱ぎ捨てて、神様の愛という新しい正しさに生きるためです。それが私たちの受けているキリストの恵み、キリストが私たちの救い主として、さあ、この正しさに生きようと、共に生きて下さっている理由と目的です。

ですので、キリストを信じる、というのは、この恵みの目的に沿って具体的に言い換えれば、私たちはキリストの恵みのお陰で、神様の正しさに生きられると信じて、キリストと共に生きるということです。

それはもう罪を決して犯さないほどに完璧に生きられるというのではありません。むしろまた自分を信じたがばっかりに、神様を悲しませることをしてしまった罪を、ごめんなさいと悔い改めて、自分の正しさを捨てて、キリストをくださった神様の恵みの正しさに、何度も何度でも向き直って生きられる道、恵みの道に、私はもういるということです。その道から離れようともするでしょう。くるっと後ろ向いて古い生き方に戻ろうともするでしょう。罪の力、肉の誘惑は強いのです。それでもそこにある恵みの道は消えません。希望の光、信仰の光は消えません。そこにキリストが、常に、私たちと共に、そして私たちの前に、私たちの主として、救い主としておられておっしゃるからです。あなたはこの恵みを信じなさい。あなたは神様の正しさに生きられる。あなたの罪は赦された。あなたはわたしのものだ。だから一緒にこっちを向いて歩む他ないだろう。こっちがゴールだ。一緒にゴールするんだと、十字架の救い主、復活のキリストが共に歩んで下さっている。

先に、この御言葉は決意表明の言葉だと言いましたが、その決意とは何よりもキリストをくださった神様の決意表明です。キリストによって神様が共に歩んで下さって、赦して受け入れて愛し抜かれて、わたしはあなたをあきらめないから、あなたも、わたしの正しさに生きることをあきらめるなと、信じよと言って下さる。わたしは主、あなたの神、あなたと共に永遠に生きる神だと、ご自身の決意表明をなさった神様が、私たちの神様、神様は恵みの神様なのです。だから私たちもこの神様の恵みを信じて、私はキリストを無にはしません!と生きていくのです。