ガラテヤの信徒への手紙2章19-21節、詩編145篇「恵みを無にせん生き方」

17/12/17待降節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙2章19-21節、詩編145篇

「恵みを無にせん生き方」

無意味な人生は送りたくない。意味のある人生を持ちたい。誰しもが願われることではないでしょうか。

それは、聖書全体からの教えで言えば、神様が私たち一人一人に命をお与えになられた時、全ての命に、意味をお与えになられたからです。お腹の中で命を失う子供であっても。無意味な命などありません。それを誰かが、いや無意味だと言ったとしても、それで無意味になるわけではないでしょう。意味はある。ただ、わからないで苦しむということがあるのです。

人は神様から与えられた命の意味、人生の意味がわからなくなった。あるいは意味が分からないから、じゃあ自分で自分の命や、あの人の命に、意味を与えようと、例えば自分が満足するのが、私の生きる意味だとかって、自分で決めてしまう。これが私にとっての意味、私の正しい生き方の基準だと。だから、これはして良いこと。これは本当はいかんけど、自分を満たすためなら仕方ないから良いことにするなど。それを親や先生から決められたくない。いい大学に入ってとか、人に敷かれたレールの上を走るなんてまっぴらごめんだと私も若い頃は思いました。あるいは年を重ねても思っておっても、結局はこの問いに答えなくてはならんのです。自分で決めていいのか。命の意味も、その意味を満たす正しい生き方も、本当は神様の領分ではないのか。

今朝の御言葉の特に21節の背景にあるのは、その問いです。

「私は神の恵みを無にはしません。もし人が律法のお陰で義とされるとすれば(つまり、これが正しいということを自分は頑張っているからというので、天国の入口で、あなたは正しい、正義を満たしたと言ってもらえるとすれば)、それこそキリストの死は無意味になってしまいます」。無意味。何のため死んだが?別に死ぬ必要ないやか。自分の頑張りで正しいと認められるがやお?そして自分は頑張りゆうがやき。やに私たちの罪を身代わりに背負って、罪の裁きの死を受けたが?けんど自分の頑張りで正しいと認められるがやったら、それ無意味でねえ、という話になってしまう。

この手紙が送られた当時の教会だけでなく、今の教会でも、何で自分はキリストを信じたのか、キリストの何を信じているのか、わからなくなってしまうということが起こる。何で起こるのか。キリストによって救われたら、そういうことはならないんじゃないか、と思われやすいのですけど、聖書は、そうは言わんのです。いや起こると。自分の頑張りで自分は救われるんじゃないかと、惑わされてしまう。言い変えれば、自分は正しいと自己正当化する理由を、言わば自然に自分に見出して、自分に対しても人に対しても良い気になっていたりする。で、神様から天狗の鼻を折られるような、いわゆる何でこんなことが私に起こるが、ということが起こると、気分を害して、だって自分は正しいのに!と。こんなことが起こるなんて間違っていると感じる理由、気分を害してもよい理由を、自分に見出す。自分は正しいのにと。自然と自分の正しさに、と言うか、自分に意識が向いて、救い主に向かない。キリストへの信頼による正しさに、信仰による義に、そこで意識が向いてないことが多い、ということが起こるのは、何故か。

「肉」による、と聖書は教えます。犯人はお前だ!という感じです。肉とは、私たち皆が持っている肉体のことですが、ひとまずは、いつも私が使っている用語、自分自分の自分、あるいは自分自分という態度の出所とお考えください。詳しくは3章3節で再び「肉」という言葉が用いられますので、その時に説き明かします。

肉が、私たちの意識を、特に正しさの意識を、も、しょっちゅう自分中心に引き寄せてしまうのです。自分の考えが正しい、自分のセンスが正しい、自分のやりゆうことが正しい、自分の信仰が正しい、だって…と言って、自分より正しくないと思われる人を見ることはありますが、キリストは見ない。とは言っても、キリストを全く無視し続けることはできませんから、どっかで意識はするんですけど、言わば、キリストは脇に置いてしまうことがある。キリストの真正面に向き合えば、ごめんなさいと言う他はありませんから、そしたらキリストに、あなたが私の主です、私ではありませんでした、あなたが望まれる態度に変えて下さい、助けて下さいと、祈り、悔い改めることができるんですけど、もしそれを避けている時があったら、それ、肉の仕業です。自分自分の態度が、自分を主としたい態度が、キリストを脇に置いてしまう。意識の片隅に、ほとんど意識しないところに、時にはパトカーを振り切るような暴走をしてキリストを置き去りにして、肉の欲望に飲み込まれる。

もし、牧師は何で私のことを知っているのかと思われるなら、それは私も同じ肉を持っている罪人だからです。自分の話をしているのです。そして20節の3行目でキリストの使徒パウロが「肉において」と言っている時も、パウロは今述べた肉の誘惑、自分自分の態度の力、自己中心の凶悪な引力について、神様の恵みから私たちを引き離そうとする罪の重力について述べながら、しかし、こう宣言するのです。「わたしが今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

肉において生きている。強烈な言い方です。パウロは罪を知っているのです。自分自分の誘惑を知っているのです。ローマの信徒への手紙7章では「私は…肉では罪の法則に仕えている」とさえ言うのです。

皆さん、もし肉の問題で苦しんでおられたら、ぜひ知って頂きたい。それはあなただけではありません。私も、パウロも、皆そうです。良心が麻痺するという問題もありますが、そうであれば尚のこと、この肉において、しかし生きているのは!と聖書は言う。そこに心を留めて頂きたい。「私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。私は生きている!という宣言をしたパウロの信仰と、同じ信仰を、キリストへの信仰を、私は教えられ、受けて、信じて、キリストを信頼したのだから、この肉の誘惑、自己中心の罪の引力はあるけれど、それを私は開き直らなくて良いのだと。あるいはその罪悪感で、自分の信仰を否定するようなこともしなくてよい。むしろ神様が私に望んでおられるのは、私がパウロと同じように、私は肉にありますけれど、でも生きている!私は、しかし肉によって生きているのじゃなくて、こんな私を愛し、私のために身を献げられた神の子、クリスマスの御子、イエス・キリストに対する信仰によって、私は生かされて、生きているのだと、キリストの愛を信じて宣言すること。それが神様が私たちに望んでおられることです。

何故なら、キリストは無意味に死んだのではなかったからです。明確な意味を持って、目的を持って、ゴールを見据えてキリストは十字架に向かわれたからです。その意味、その目的は、人となられた神様の死によって、全ての人の全ての罪の責任を神様が十字架で引き受けられて、私たちの代表責任者として死なれたキリストの償いの故に、私たちの罪が赦される。それがキリストの死の意味です。

私たちも死にます。そして皆、死後の裁きを受けますが、その裁きの只中で、その裁きから救われるための罪の償いを、キリストが与えて下さったから、私たちはキリストを信じて、その死の意味を信じて、愛を信じて、私たちは今、生きられる。あなたにも、そう宣言して欲しい、と主は言われるのです。

ですので、私たちも、キリストを脇に置かない。肉が、キリストらあ脇に置いたち、どうせ赦されらあえ、とかって自分中心の引力で私たちを惑わしても、キリストを脇に置かない。それが21節で「私は神の恵みを無にはしません」と言っている意味だからです。

神様が与えて下さったキリストの恵みを脇に置いて、その意味を無にしない。何故なら、先に申しました私たちの生きる意味、命の意味が、そこに回復されるからです。何故生きるのか。神様に愛されて生きるためです。罪を犯しても、どんなに自己中心でも、変わりたいと思っても変われないどうにもならない自分であっても、そうであれば尚のこと、神様は、あなたはわたしの愛によって生きなさい、罪赦されて、全てを十字架で受け止められて、キリストと共に、この愛に生かされて生きなさい。それがあなたの生きる意味だと、死んでも愛されて、キリストと共に生きるのだ、と命の主がおっしゃるからです。

私たちは、自分で自分の意味を決める必要はありません。人の意味も決めなくていいです。そんな肉の行いや態度に従う義務はありません。私たちの主は肉ではありません。そのような私たち、肉なる人間の全ての罪を償うために、同じ肉を取られ、人となられて、なのに全く自己中心の誘惑に負けないで、人を愛して、父なる神様を愛されて、その愛の故に、私たちの救いのために死んで下さった方こそが主です。そのためにクリスマスの夜、人としてお生まれくださったイエス・キリストが、私たちの主だからです。

キリストが十字架で死ぬためにクリスマスの夜に生まれられたのには意味がある!クリスマスには意味がある。十字架には意味がある。その意味を、その恵みを、無にはしないで、在りにして、キリストに、向き合い祈って信頼して歩む。キリストを主として歩むそのところに、命の意味は満ちるのです。