12/9/2朝礼拝説教@高知東教会
エフェソの信徒への手紙2章18節、詩編122篇
「祈りは私たちを変える」
御父に近づくことができる、父なる神様に近づくことができるとは、具体的には、さあ、どんな近づきを言うのでしょうか。皆さんは、どう御父にお近づきになっておられますでしょうか。御言葉は、近づくことが「できる」と言いますから、できるのですけど、実際に近づいていかんかったら、遠いままということがあるのかもしれません。例えば人間関係ってそうです。近づくことができるのだけれども、近づかないから遠いままっていう関係、ないでしょうか。単に距離のみを言うだけではないと思います。関係の距離、信頼の距離、心を許しあえる近い関係。そういう関係を持っているかいないかで、人生って随分変わってくるのです。そんな近い信頼関係は、共に時間を過ごしたり、何かを共有することで、次第に築き上げられていく。学生時代、何かしらよく泊まりにいった友人たちとは今でも近い距離感を持っています。
神様との距離感って、皆さん、どんな近さを感じられるでしょうか。ここで御言葉が求める近さって、そうした具体的に感じることのできる関係の近さです。神様、いや、敢えてここでは御父と呼ばれる、父と子の関係の近さを持ってきて、あなたはあなたの神様を私たちの父、御父と呼べるだろう、呼んでないだろうか、もし、呼んでなかったのなら、是非、父よと呼んで欲しいと求めておられる。子供たちの愛と信頼とを求めてやまない父が、私たちには永遠におられるのです。
信仰の成長ということを、聖書も教会も大事にしますが、その根底にあるのが、この信頼関係の距離感でしょう。信仰の知識や生活の変化も父との関係の距離感に比例して、成長するのではないでしょうか。ならまず父に、近づくことが求められます。この手紙でも、その求めは神様を知るという表現で既に祈られてきました。皆さんは、父をどのように知っておられますでしょう。これだけ知っているという、知識の量というよりも、どのように知っておられるか。ここでは人格的な関係が求められます。私の子供たちが、私の戸籍に書いてある情報を知っているかどうかは、私の心を動かしません。どんな学歴、職歴を持っているか、私自身、関心がありません。でもいつ洗礼を受けたか、それからどんな信仰生活を送ってきて、神様とどのような関係を築いてきたか、聴いてくれたら嬉しく思います。いや、私が関心を持っていない学歴でさえ、お父さん、どんな学校行きよったがって聴いてくれたら、内容がどうだってかまいません。私のことを求めてくれたって、それだけで心が躍るでしょう。ならば、天の御父は一体どれほどに、私たちが父を求めて、近づいてくることを、心待ちにしておられるか。この今も。
礼拝は、そのように父の心に喜びを与える聖なる時、つまり、神様の時間です。週に一度の特別な時間に、私たちは父を求めて、御言葉を聴き、讃美を捧げ、祈りを捧げます。すべて父のため、そしてそのために三位一体の神様が総動員で働かれていることを感謝して、礼拝の最後には、三位一体の神様に讃美を捧げ、祝福を求めます。それもまた、父に喜ばれる求めです。お父さん愛して、と近づく子供たちを、どうして、父が祝福しないということがあるでしょう。安息日を聖別せよと、父がお命じくださったそのお気持ちを知ることこそ、父への具体的な近づきの一歩です。あるいは、その一歩が出るための心の動きです。そうして実際に一歩を出す。それが礼拝であり、献身とも言えるでしょう。礼拝とは、自分を神様に捧げる行為です。この時間を父にまるごとあげるのです。そうやって御父に、一緒に近づいていくのです。
一緒に、共に、というのが、今日の御言葉の急所です。父の求めは、個人的で終わることはありません。父の家は核家族化はしていません。むしろ、そんな分裂した関係を終わらせるために、独り子を十字架の上にお付けになって、その身を裂かれ、ご自身のお心をもまたその十字架で引き裂かれ、これで分裂は終わりにしようと、すべての者をご自身のもとに引き寄せられた。あなたがたもまた、わたしの子供たちではなかったか、今や皆、わたしのもとに立ち帰りなさいと、家族となる救いをくださったのです。今日の説教題を、祈りは私たちを変えるとしましたが、そこで一つ変えられるのは、私が、私たちに変わる変化です。私が祈るのではなくなって、イエス様が祈りを教えてくださったように、天にまします、我らの父よ、私たちの父よと、家族の祈りに変えられる。個人的な求めから脱していく。そこに私の変化があります。具体的に、祈りの内容も変わるのです。私の求めという感覚が薄くなると言ったらよいでしょうか。父の求めを意識するようになっていき、父が求めておられる父の家族の一員として、私もまた変えられますように、また兄弟姉妹が、このように助けられ、癒され、あなたが共にいてくださって、父の子、私の兄弟姉妹として、共々に罪から救われ、誘惑から守られ、キリストの香りを放つ家族として祝福されますようにと、具体的に祈る態度が変えられるでしょう。言い換えれば、そうやって皆で父に近づいていくのです。それが祈りの目的になります。私の求めではない。あの人の求めでもない。父の求めが、祈りの目標となり、動機になります。なら祈りは聴かれると、信じて祈れるはずなのです。父の求めなら、聴かれんはずがないからです。私たちが祈り始めたころはおそらく、私の求めが中心だったでしょう。動機は私の必要だった。それが変えられていくのです。それが私たちを神の家族とされる、聖霊様のお働きです。
改めて今日の御言葉を聴きたいと思います。「それで、このキリストによって私たち両方の者が、一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」一つの霊に結ばれて、直訳は、一つの霊の内に。めいめい個人個人、自分の必要と思いに従ってではない。それでは父に近づけんのです。自分では近づいていっているつもりでも、家族への愛が見えんところでは、家族を求められる父のお気持ち、その御心には、どれだけ近づいていると言えるでしょうか。ただし、確信を持って言いますが、そのような祈りも、父は聴いてはおられます。答えてさえ下さっているでしょう。神様が父と呼ばれるその所以は、父が驚くほどに恵み深いからです。そのような私たちの父となることを望まれたからです。だから父として一人一人を愛されますし、また父であればこそ、一人一人が、キリストの内に一人の新しい人に変えられ、皆一つの家族とされます。一人の父から注がれる、家族の愛に生きるようにと、態度も生活も変えられていく。それが信仰の成長です。
それが見えるのが祈りです。ま、態度にも見えますが、それを変えるのも祈りです。そして祈りを変えるのが、一つの霊と呼ばれる、聖霊様なのです。先に、時間を共有すると距離感が縮まると言いましたけど、じゃあ時間を共有できんかったら。あるいは時間を共有しておっても、気持ちを共有できんかったら。そういう人間の限界を、私たちは十分なほど、知ってきたと思います。その限界に破れてきた敗戦の歴史があると思います。だから、その隔ての壁を壊されたキリストの御名を呼び、聖霊様によって祈るのです。父よ、私たちには不可能なこの壁を、でもキリストが十字架で壊されましたから、キリストの十字架の勝利に依り頼みますから、他にもう頼れる何もありませんから、キリストを下さった御父よ、この壁を打ち破られたキリストの平和を、聖霊様によって、実現ならしめてください!ここに実らせ現してください!人間の限界を打ち破る、神の国の現実、聖霊様の力ある御業によって、私たちの罪と弱さを打ち破ってください!人間にはできないことも、父よ、あなたにはおできになります、これは、あなたご自身の願いです!父よ、あなたの子供たちを変えてくださいと、聖霊様によって祈るのです。人間による力を捨てるということでもあります。私の求めを十字架につけるとも言えるでしょう。そこで三位一体の神様の、救いの願いが成るのです。自分では自分を救えない、神様の家族になど到底なれない、罪人を神の子に変えられる救い力が、すべて三位一体の神様にあるなら、私たちは聖霊様によって近づくのです。眼には見えない御父に、霊的に近づいていくのです。
最後にはっきりと申します。この三位一体の神様の救いは霊的です。人間のあらゆる能力や身体を用いられますが、それが罪の力に負けてしまって神様を知ることができないところで、聖霊様によって救われるのです。自動的ではありません。キリストによって与えられた道を、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神様を知る道を通ってですけど、眼では見えない神様を知り、父に近づくことを可能とされるのは、すべて聖霊様のお働きによるのです。そのお働きに頼るのです。それが、祈りであるのです。
聖霊様を求めてください。わからんという遠さがあっても、その遠いところから求めてください。求めが近づいていく鍵です。それを聖書は愛と呼びます。求めてください。求めがないという乾いた心なら、その乾いて死にそうな心のままで、聖霊様に求めてください。信じることができますようにと。近づくことができますようにと。できます。それが三位一体の神様の約束です。私たちは御子と御霊とによって、御父に近づくことができるのです。祈ってください。互いに祈り続けて下さい。そこに御国は聖霊様により来て、御心が地にも成るのです。