12/8/26朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章17-19節、イザヤ書57章14-21節 「一つ十字架の屋根の下」

12/8/26朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章17-19節、イザヤ書57章14-21節

「一つ十字架の屋根の下」

 

先週、火水木と皆さんの祈りに送り出され、軽井沢での青年大会2012に行って来ました。施設の収容数を10名越す270名の参加者が与えられ終始熱気と祝福に溢れていました。皆さんの祈りに心から感謝します。

中高生と青年に分かれて講演があったのですが、青年の講演で、講師がこう言いました。この大会には台湾と韓国からの参加者も与えられ、一つの神の家族としての交わりが与えられ嬉しく思う。実は私の娘も、台湾の方と結婚したので、私の家族は、二つの民族を持っている。今、民族主義を煽るような動きがあるが、家族は民族を超えるんだ。民族が土台ではない。家族は民族を超える。ならば教会は尚のこと、そうだ。私たちは一つの神の家族である、とおっしゃって、私は大変に感動しました。その後の分団で、お二人の台湾の青年からも、あの言葉には大変感動したと聞きました。アーメンと改めて感動しました。この台湾からの青年グループは皆同じTシャツを着ておりまして、イエス様の顔らしきデザインが描かれておりました。その顔の中心には十字架が描かれ、鼻と眉毛になっている。で、その鼻の十字架の左右は、十字架を中心に向き合っている二人の横顔でもあるのですけど、その向かい合う二人の顔が、十字架を中心に一人の顔、しかもイエス様の顔になるデザインになっている。そこに込められたキリストの福音に感動しました。台湾にも民族問題があると聴いていますし、日本との間にも歴史的悲しみがあった。でもそうした問題を、十字架を中心に互いに向き合うところで、一人の人になるのです。しかも互いに十字架を中心に向き合うその二人が、一人のイエス様のお顔になって、世界にキリストの顔として歩んでいく。そうだ、これが教会だと思いました。

また、その青年の通訳を、分団で私が英語でしたのですが、途中声が詰まって通訳できんなりました。その青年は大会初日の夜歌われた台湾の讃美歌を聴いて、昨年3月11日の次の日曜日、教会全員で日本のために祈ったことを思い出したと言われたのですが、それを訳す声が出なくなりました。一致の土台は民族じゃない。愛です。本当は誰もが知っている。愛が私たちを一つにする。じゃあどうして一つじゃないところが私たちの関係にあるのでしょう。それも知っているのだと思います。愛だと知ってはいるのだけれど、その愛が私たちには欠けていることを。

本来私たちは皆、その名を愛と呼ばれる神様の形に造られて、神様の御名の栄光を現すべく存在している。互いに向き合えるはずなのです。なのに争い、いがみ合い、そのための条件さえマッチするなら、殺しさえできるほどに、愛から遠くなってしまっている。考えやフィーリングが近い人とは仲良くなれても、違うと感じたら壁ができる。できた壁は中々壊れない。その人間が作った壁を壊すため、その名を愛と呼ばれる神様が人となられて、キリストが私たちの只中においでくださった。

今日の御言葉で、遠く離れているとか、近くにいるとか言われますのは、この壊れた世界に、救い主キリストを与えますよという神様の約束を知っていて、それ故にキリストに近いイスラエルの民と、知らんが故に遠かったそれ以外の民、いわゆる異邦人のことを言うのですが、ある説教者は大変興味深いことを言っています。近かろうが、遠かろうが、その与えられた約束の中に、入ってなかったら同じだと。そうですね。だからある意味、それを一番表しているのが聖餐式なのだと思います。礼拝に出席して、すごくすごく近づいているのだけれど、洗礼を受けてキリストの救い、神様の家族に入ってなかったら、キリストの体と血を受けることができなくて、近いのに遠く感じられるのではないでしょうか。だからこそ、聖餐式では、必ず招きの言葉を語るのです。キリストが、すべての人々に向かって言われる。すべて疲れた人、重荷を負う人は、わたしのもとに来なさいと。その十字架の下に自らの荷を下ろし、流されたキリストの命によって、罪を赦され、洗礼を受け、神様の子供にしていただける。そのキリストのもとに来なさい、わたしの家族になりなさいと、キリストが今も両手を一杯に拡げて招いておられる。

御言葉も、近くにいる人々には、キリストの招きがないとは言わんのです。近くにいる人々にも、キリストの平和の福音が告げ知らされんといかんから、キリストは来られた。私には関係ないと思っている遠くの人のもとに、そして、近いんだから、私は別にかまんと思っているかもしれない人々のもとに、すべての人々に必要な赦しの平和を与えるために、キリストがすべての人々のもとに来てくださった。その赦しこそ、キリストが十字架の上で成し遂げられた、隔ての壁の破壊です。私は赦される必要などないと、神様の前にそびえ立てた壁も、あの人と私は別に一つになる必要などない、関係ない、むしろ離れていたいと、神様の愛にも自分の真実の心にも逆らって立てた壁をも、キリストがご自身の内に全部引き取って、父よ、このすべての壁を、わたしもろとも破壊して、その壁という罪の裁きを、わたしを十字架で裁くことによって成し遂げてください、わたしが全責任を負いますからと、十字架で壁、罪、敵意を、全部引き受けて死んでくださり、三日目に、裁きを負いきった宣言として、復活させられて、こう言って下さった。あなたがたに平和があるように!この平和を、差し出されてない人も、また必要としてない人もおらんのです。キリストがこうして私たち全てのもとに、あなたに平和があるようにと、罪の赦しを携えて来てくださった。今もここにキリストがおられて招いておられます。すべて疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげようと、十字架の赦しの陰の中に身を委ね、その中に入って憩いなさいと、キリストが招いておられます。どうぞ重荷を負ったまま来てください。自分では負えない重荷ならばこそ、キリストが負ってくださいます。

その平和の根拠は、キリストです。私たちがした、あるいはしなければならない何かではありません。聖書の語る平和とは、争いがない状態ではなく、調和がある状態です。例えば色々な思いが心の中で争いあって、心が苦しいとき、なお私は神様の赦しの約束の中にあって、苦しみの只中で、十字架の調和を頂いているのです。キリストは私の救い主であり続けてくださり、私との関係を決して裏切ることも破壊することもないと約束して下さっていると、苦しみもがいている只中でキリストの約束の中に身を置けるのです。苦しみに壊されない調和があるのです。

人間の考える平和というのは、もろく壊れやすいものであればこそ、自分が既に持っている何かを土台にする。例えば民族とか愛国心とか、自分の持っているモノを神のようにして、絶対化して、そうやって自分を守り、違う者たちを排除することで、私は平和だと思いたい。だからもろいのですけど、キリストを平和の根拠として持つときには、そこに色々な違いをも含みうるのです。先に言いましたように、家族が民族を超えるなら、キリストを根拠とする平和は、あらゆる違いを超えます。十字架の下で、全ての人々の罪が負われたことを確かめ合える平和は、色々な違いを許容するのです。キリストご自身の存在そのものが、それを担っているとも言えます。マタイによる福音書1章の有名なキリストの系図の中に、母マリアを除いて4名の女性の名があげられる、その一人にラハブがいます。エリコの街に住む異民族で身を売って生活をしていましたが、そんな生活を許容した街と共に滅びることを免れて、イスラエル人と結婚し、息子ボアズをもうけます。先の四名の中に同じく名をあげられた異民族の女性ルツの夫となる男性ですけど、裕福なのに、ずっと結婚できませんでした。もしかしたら、異邦人で身を売っていた女の息子なんぞに、うちの娘を嫁がせられるかと、差別されておったのでしょうか。日本にある差別と同じ理由で、表向きは仲良くされていても、結婚となると話は別だと。でもそのボアズと、異邦人の妻ルツを通して、キリストは人としてお生まれになることを選ばれたのです。その出生の系図そのものが、全ての隔ての壁の罪を、ご自分の命の中に飲み込んでいます。その上でご自分を十字架により破壊して、あらゆる敵意の壁を壊して、ならもう、あなたがたの間では、一切の壁は不可能だろうと、遠くの者にも近くの者にも、キリストを根拠とする平和の福音を告げてくださった。十字架を中心に向き合う二人は、新しい一人の人になり、あなたがたはこれから新しい関係、全く新しい、神の家族という関係に生きるのだと、ご自身の全存在をかけて造られた平和の関係に、私たちを招き入れてくださったのです。

それで、と18節は言います。「それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」

天の父なる神様に、私たちが、天にまします我らの父よと近づける理由は、私がした何かによるのではありません。人間の側の理由ではありません。キリストが、十字架の上で成し遂げられた罪の赦しを携えて、私たちのところにおいでになって、あなたの罪は赦された、わたしのもとに来なさい、共に歩もうと招かれて、私たちの主となってくださったからです。キリストだけが根拠なのです。だからキリストの名によって祈るのです。父よ、あなたがくださった、救い主キリストの執り成しを信じて祈りますと、キリストによって祈れるのです。

まだ洗礼をお受けになっておられない方にも、その呼びかけはなされています。わたしのもとに来なさいと、キリストが呼びかけて下さっているからです。キリストの名によってお祈りください。キリストをくださった天の父よと。それ以外の神様ではないからです。この御父にこそ私たちは近づくことが「できる」のです。できるのですから、近づきましょう。できるのに、近づかないところで誘惑に遭います。罪を犯して壁が作られて、父から疎遠になってしまって。その弱さを知らない人はおらんでしょう。父こそは、その弱い私たちをよくご存知です。だからキリストをくださいました。私たちの主としてくださいました。だから主の名を呼ぶのです。キリストの名によって祈るのです。キリストをくださった天の父よと。そうやって神様の近さを知ります。赦しの近さ、十字架の近さ、恵みの近さを知るのです。近づきましょう。キリストがおいでてくださいました。この主によって、神の家族は生きるのです。