12/4/8イースター礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書24:1-12、詩編23篇 「主は生きておられる」

12/4/8イースター礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書24:1-12、詩編23篇

「主は生きておられる」

 

岩山を横に掘った墓の中を、いくら捜しても見当たらない。主の体がない。捜しても、どこにも見当たらない。音読みで、見当が外れたとも言えます。まったくの、見当違いをしておりました。

私もしょっちゅう見当違いなことをしています。料理、上手やねえ、特にこのお白和えがと褒めちぎったら、それだけスーパーのお惣菜だったり。皆さんもないでしょうか。見当違い。

もう聞かれなくなったかもしれませんが、自分捜しという言葉、これも見当違いで捜しておったら、見つかることはないでしょう。復活の主を死者の中に捜すように、本来の私たちではないところに、本当の私を捜しても見つかりません。どこを捜すのでしょう。救いとは何なのか。これが本当の私だとか、ここに私の幸せはあるはずだとか、自分の救いを求めるのには、場所が決め手だと天使は言います。神様が、私たちをどう救われるのか。どこに救いを求めればよいか。ここだと天使が言う場所が、主イエス・キリストの復活です。墓には、つまり死者の中には主イエスの体が見当たらなかった。聖書は主イエスと言います。聖書が主イエスと告げるときには、イエス様はあなたの主でしょ。ねえ、そうじゃないか。あなたの主となるために人として来られて、死んで、復活された主イエスの体が、死者の中にはないのなら、どうしてあなたも、自分を復活の光の中に見ないのか。そのために主は来られたでしょう。なら見たらよい。あなたの主となられた主イエスの復活の中に、自分を見たらよい。他を捜すのは見当違いだと言うのです。

思い出しなさい、と天使が言ったのは、単に記憶情報を取り出せというのではなく、自分のものにせよという言葉です。主の言葉を、私の主の言葉として聴く。そうか、主の言葉なら、私のために死んでさえ下さった神様の言葉なら、真実ながや。私の神様の言葉ながやと、私と主という関係が、自分のものになるときに、あ、私はイエス様を信じていると、信仰を自覚もするのでしょう。こう言って良いとも思います。天使が私たちに言うのです。主の救いの言葉を、あなたのものにしなさい。ここにあなたの救いがある。主は、必ずと言われた。必ずだ。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている。必ず。それは、あなたが救われるための必然であったと。

必ず罪人の手に渡され、です。誰が主を渡されたのか。天の父です。私たちの天の父であられるのに、父から離れ、自分捜しをせないかんなるばあ、私が父の子であることが、わからんなるばあ神様を見失っていた罪人の私たちの手に、父は救い主を渡されました。子供にプレゼントをあげるようにです。罪を犯した手であれば、その手が受けるのは裁きなのに、本来裁きを受ける手に、しかしならばこそこの手の内に、わたしはあなたの主を渡すと、父は私たちの罪を負って死ぬ、私たちの身代りとなる主を渡されて、受け取りなさい。あなたの救いの必然を、あなたの救い主イエス・キリストをわたしは渡す。その主に、あなたの罪を委ねればよい。あなたの死をも委ねればよい。あなたの主だ。その名によってあなたが呼べば、わたしは応える。わたしが渡す主の名によって呼べばよい。わたしはあなたを必ず救い出し、あなたを襲う死の刺を抜き、十字架の御子の体に、それを突き通し、その身代りの死によって、あなたの罪を赦すから、あなたの死として、あなたの主の死を受けるから、あなたの救いの必然である、あなたの主イエスを、あなたの救いを受け取りなさいと、父が主を、この手に渡してくださったのです。

そして何よりも大切なこととして、父が私たちの手に渡されたのは、主の死による赦しだけでなく、主の復活による私たち自身の復活です。主が身代りに死なれたというのは、主が私たちとして死なれたということです。そして主が父により復活させられたということは、父が主を、私たちの復活そのものとして、復活させられたということです。どうして私たちはイエス様を主と呼ぶのか。実にイエス様が私たちの主として死なれ、主として復活させられたからです。罪人がその手に受けたのはこの主イエス・キリストによる救いです。

なら私たちはこの手をどうするか。罪を捨てる他ありませんし、こうも言うことができるでしょうか。墓に来た婦人たちが手にしていた香料を、善意ではあっても見当違いゆえに手に持っていた、死を隠すための香料を捨てるのです。ないでしょうか、隠す香料。もういらんのです。死の腐敗、罪の腐敗を、隠すだけで止めることのできないその香料は、もういらなくなってしまったからです。その代わり、キリストが私たちの死を覆われます。私たちの腐敗を覆われるキリストを受け取ればよいのです。それを聖書は、キリストの香りを放つとも言うのです(Ⅱコリ2:15)。死を隠すのでなく、死に勝利したキリストの香りを身にまとい、いや、香りそのものになるとすら言います。私たちがキリストの香りとなる。余談のようですが香水と言えばフランスです。が、フランス人は香水を、体臭を消すデオドラントとしては使わんそうです。逆に、神様から与えられている体の自然な臭いをより魅力的にするために作ってきたのが、フランスの香水文化だと専門書で読んで、改めて美しい文化だと思いました。あなたもキリストの香りの中にあるじゃないかと、父が言うて下さっているのです。だから罪の死臭を、隠す努力をするのではなく、キリストの赦しの香りを身に受けて、赦された者としての喜びの香りを、世界に放ちつつ生きてほしいと願われて、父はこの手に、主を渡し与えてくださったのです。

その主のもとに本来の私の臭いもあります。英語ではアロマとも訳されます。良い訳です。赦されたアロマ。愛されているアロマ。赦され、愛され、主を受けるところで、私が私として本当に生きられる。神様の子供としての本来の香りを、どんなに多くの人々が、キリストに包まれて知ってきたでしょうか。今日もその香り高いキリストの水を、一人の兄弟が洗礼によって受けられます。聖なる水に清められ、神より自分という腐敗を捨てて、捨てるところで得ることのできる、本来の私になるのです。復活に照らされた私です。主と死んで、主と生きる。キリストに包まれて生きられる、永遠の命に生きるのです。父の子として生きるのです。だから主の、私たちの主となって下さった主イエス・キリストの復活を、私たちは喜び祝うのです。