11/10/16礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書21:29-38、イザヤ書40章1-8節 「ぶれない言葉と祈り」

11/10/16礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書21:29-38、イザヤ書40章1-8節

「ぶれない言葉と祈り」

 

イエス様は、夏が近づいたことは、木を見たら自ずとわかるろう、と言われました。自ずと、というのは、人から言われいでも自分で、あ、夏が近いと、自分でわかる。同じように、この世界に、私たちの、今の生活にも終わりが来ることは自ずとわかるはずだ、違うかと言われる。ところでそれを譬えるのに、木を見なさいとおっしゃるのは、イエス様優しいなあと思います。もしも、人を見なさい、~さんや、他のすべての人を見なさい…だったらどうか。よう見てみ。しわが出て、下っ腹も出て、立つとき、よいしょって声も出てきたら、中年を迎えて、御国が近づいていることを悟りなさい…であれば、自ずと悟るというよりは、ああ、考えとうないと、心を鈍くさせてしまうでしょうか。現実逃避をしたいのが人間なのかもしれません。

けれど、神様から逃げてはならない。それがイエス様のおっしゃっておられることでしょう。どんなに逃げても終わりの日が来る。人は色々言い訳をしては、自分の好きにできる世界を確保しようとしますけど、そうした如何なる人間の支配も、神様の裁きの前にある。必ず終わりが来るのです。それをイエス様は、神の国が近づいていることを、あなたは自分でわかるはずだ。神様のご支配の前に自分はいると、人に言われいでも悟れるろう、違うかと言われる。終わりは勝手には来んのです。罪の支配、自分の支配、人の支配が終わるとき、その終わりに向かって起こるすべてのことは、勝手にそうなるのではありません。すべては、世界をご支配なさる神様の御手の内にあるからです。滅びもそうです。ただ、ここで滅びと訳された言葉は、直訳すると、過ぎ去るという言葉です。英語で死ぬことをpass away過ぎ去ると言うように、過ぎ去っていく。どんな滅びも、どんな死も、私たちの目の前を過ぎ去って、ならどこに行くか。神様の裁きの前にです。終わったと思ったら終わりではなくて、いわゆる最後の審判の座で、目が覚める。真実の意味で目が覚めます。今まで、神様はおらんと思っていた。あるいはおっても何とかなると思っておった。よたんぼが、平気で警官に殴りかかっていくように、心が鈍くなっていて、愚かな生き方をしておった。でも今は自分がどんな生き方をしておったかと、神様の前で目が覚めて、厳粛に、永遠の法廷に立つのです。

それは御言葉による裁きです。既に世界が聞いてきた、あるいはそれでも無視をしてきた同じ御言葉によって、すべての行いが審査される。御言葉が、それは裁かれるぜよと告げてきたのに、いや、大丈夫と豪語してきた人間の言葉は、そこで跡形もなく滅びます。すべての言い訳と嘘、自己保身のために築いてきた防御壁が全部私の前から崩壊して、目の前に迫るのは、あの同じ、しかも圧倒的な響きをもって語られる主の御言葉の現実です。目の前に神様がおられて、例えば十戒が、例えば、あなたは自分を愛するように、あなたの隣人を愛したか、わたしの愛に生きたか、この最も小さき者を愛したかと問われる。目を背けたくなるけれど、しかしだからこそ語られる御言葉の現実を、イエス様は、悟りなさいと語られるのです。心が鈍くならないように、目覚めていなさいと言われます。

神様だからです。誰一人滅んで欲しくなどないからと、御子を十字架につけられた天の父から私たちの救い主として贈られた、人となられた神様ならばこそ、イエス様はどれだけ真顔で言われたか。グリム童話の狼と七匹の子山羊の物語で、お母さん山羊が、このドアは開けたらいかんと、きつく言った。親なら当然言います。父親山羊は出てきません。狼に食べられてしまったからでしょうか。ならば尚更、母親は絶対に、真顔で言うたはずです。言うことを聴かんと死ぬぞねと。現実を知っているからです。注意しなさいと何度でも言う。重い言葉です。なのに、どうして子山羊たちは狼を入れたのでしょう。

イエス様も、人間の弱く残酷な現実を顧みて、注意しなさいと言われたのです。心が鈍くなってしまったら、入れてもいいかなと思うから、狼に食べられた胃の中で、まあ、しゃあないとか、ドアを開けたのは、私じゃなくて、あいつじゃないかとか、悔いる心も罪悪感も、どんどん鈍くなって朦朧としてきて、そして終わりを迎えるのでしょうか。断じてそうなってはならないと、神様が人となって来てくださった。人の子として来てくださって、目を覚まして祈れ、わたしの前に立てと言ってくださった。この言葉こそ、過ぎ去らんのです。決して滅びない、この御言葉に、あなたも立ちなさいと、主が言われる。

放縦というのは、自分を信じて好きに生きるということですが、直訳は朦朧としちゅうという言葉です。朦朧としちょって、考えられない。考えないまま、欲望のまま、思考停止して、ええい、やってしまえ、と行動に出る。深酒、酒に逃げるのもそうでしょう。酒だけでしょうか。性的行動、衝動買い、仕事に逃げることだってあるでしょう。

逃げたくなる生活もある。生活の煩いで心が鈍くなって、神様の前から逃げるような生活に、ますますなってしまうこともあるでしょうか。悩み多き生活であればこそ、その生活に神様の御心を祈り求めて、心に神様のご支配を求める、のでなく、心が生活に支配される。神様のお心がわからんなって、今の大変な生活がすんだら、神様のことを考えますとなるほどに、心が鈍くなりがちでもある。朦朧とした心が思うのは、神様から距離を置こうという思いでしょうか。神様のことを考えなくてすむようになったら楽になると思うのでしょうか。ストレス解消のお酒がいつしか、そこに逃げ込むお酒になって、深酒になるのも、嫌な現実を考えなくてすむようになるからでしょう。人間となられたイエス様ですから、それはようわかる、ということだとも思います。ようわかる、ようわかるけんど、それが神様からの逃避になるなら、それは罪の罠にはまってないか。神様抜きですむことなどあるのか。逃げるなら、どうして神様のもとに逃げ込まないのかと、正しい逃げ方を教えて下さっているとも言えるでしょう。逃れなさいと主は言われる。

自分優先の思い、罪の誘惑から逃げるのです。逃げることそのものがいかんのではない。神様から逃げたらいかんのです。神様からの逃げ癖をつけない。よくわかることだと思います。逃げ癖をつけたら、状況はどんどん悪化します。どんなことにも言えるでしょうけど、神様からの逃避は特にそうです。逃げるなら、罪の誘惑から逃げる。誘惑と距離を置く。何故か。正直、強すぎるからです。違いますか。それよりもっと大事な理由は、神様が逃げろとおっしゃるからです。恥を忍んで言いますが、私がタバコを吸わんなったのは、妻が吸うなと言ったからです。イエス様の愛の真顔を見るときに、滅びから逃げる力が与えられます。これもよくおわかりになると思うのです。

なら、どうやって滅びから逃げればよいか。神様の愛の現実の中に、御言葉と祈りによって逃げ込んでいくのです。これはもう理屈ではありません。無論、説明だったら幾らでもできます。今から3時間ぶっ通しで話すこともできるでしょう。でもそれよりも30分御言葉に深く入り込んで、30分深く祈るほうが、ずっとよくわかると思います。祈って主の愛の中に逃げ込む。これは体験する他にないのではないかと思います。泳ぎを教えるようなものです。水の中に入ればわかるのです。仮に自己流でも、説明を聞くより、何となくわかるのではないでしょうか。主が祈りなさいと言われる。なら、祈るしかない。シンプルです。人の子の前に立てと言われる。なら、主の前に立ち止まる。イエス様のお名前によって、イエス様の支払われた命の代償によって、わたしの名によって祈るなら、天の父はあなたの祈りを聴いてくださるという、三位一体の神様の愛の現実の中に飛び込んで、うめきながらでも、空を掴むようでも、天の父に顔を向けて、祈る。両手を挙げて、顔を上げて、イエス様のお名前によって祈ります、父よ、わたしをお救いくださいと、十字架の主に心の焦点を向けるなら、命の焦点はぶれんのです。悩みは減らんかもしれません。けれど正しく悩めるようになります。罪を犯したらいかんとわかります。頭でわかるだけではなくて、心が目覚めてわかるのです。ごめんなさいと言えるようになる。悔い改めの言葉が出るようになる。祈りの言葉が身につくとも言える。

祈りは身につける他ありません。だから教会は祈祷会を重んじてきました。一緒に祈りを身につけるためです。私は自分の言わば祈りの歴史を知っています。牧師たちの祈り、先輩たちの祈り、友の祈りから身につけた祈りの歴史を感謝して思い出します。祈祷会が熱くなるとき、教会にリバイバルが起こってきたのは所以なきことではないでしょう。そこで目を覚ますのは自分だけではない。教会が目を覚ますということもあるのです。最初はペンテコステがそうです。皆が祈っておったとき、教会に聖霊様が降られました。その後も繰り返し祈りの中で、奇跡が起こり続けてきました。弱くて罪ある人間にはできんことも、神様に不可能はないからです。いつも熱い祈りとは限らんでしょう。妙な言い方ですが、気が乗らんときだってあると思います。弱いのです。朦朧とするときもあるのです。それでもイエス様、イエス様と主の名を呼んで祈ればよい。たとえ気分が乗らんでも、祈ることで生活の焦点がぶれないようにするのです。十字架のイエス様の名を呼びながら、助けて下さいと祈りつつ、私たちが頂いているこの生活は、すべてあなたのものなのですと、命の焦点を定めるのです。与えられている生活の焦点、命の焦点がぶれやすい私たちであればこそ、イエス様は、祈りつつ、わたしの前に立ちなさいと言ってくださる。いま既に、主の前に立つことができるのです。そのために、人となられて来て下さった、罪を背負って赦してくださった、人の子と呼ばれる救い主です。疲れた人、重荷を負う人は誰でもわたしのもとに来なさいと、招いてくださった救い主です。このイエス・キリストの前に立ち、主の名を呼んで生きる僕は、すべてが過ぎ去っていく裁きの時も、神様の前に立つことができる。しかも主は、あなたがたは、と言ってくださる。一人じゃない。一緒に主の前に立つのです。だから教会は私たちの主の名によって祈りを集結するのです。