11/8/21朝礼拝説教@高知東教会 詩編139篇1-12節、ヨハネの手紙一1章5-10節 「闇の中でも神様の光が」

11/8/21朝礼拝説教@高知東教会

詩編139篇1-12節、ヨハネの手紙一1章5-10節

「闇の中でも神様の光が」

 

先週、水木金と西日本教会青年同盟の夏の献身修養会を行ってきました。そこに参加する青年たちが、真剣にイエス様に従いたい、主の道を歩んでいきたいと、御言葉を求め、交わりを大切にする姿には、いつもながら励まされます。できた子たち、というのではないのです。それぞれに悩みを抱え、生きにくさ、弱さ、また罪に悩んでおればこそ、神様と向き合い、人と向き合い、自分と向きあうことができるのかもしれません。楽な人生を生きたいと思えば、そりゃ向き合わないことを選ぶのが、人間の弱さではないでしょうか。逃げる。今、忙しいきというのもあるでしょうか。何かに忙しく没頭することで逃避するということもあると思います。色んな逃避を人間はやっている。そのことにも、まあ、向き合いたくはないでしょう。ただ、逃げられるうちは、という限定つきだと思います。おそらくそんなに遠からぬ内に、付けが回ってくるのです。そしたら結局は苦しくなる。人との付き合いや、社会的なこと、しなければならないけれどもやりたくないこと、自分自身に対しても、そうではないかと思うのです。真実に自分と向き合うよりも、逃げたいと思ってしまわんでしょうか。夢の自分を夢見ているのは、若者だけに限らんと思います。そんな大きな夢ではなく、これをしなくてもよかったらよいのにとか、これから逃げても大丈夫ならよいのにと、逃げられない現実、あるいは責任から、それでも逃げようと夢を見る。これって卒業する時があるのでしょうか。

すぐに心に浮かぶのは、死の時であるかもしれません。死ぬまで直らんという言葉も使われたりします。確かに死んだら、もうこの世で色々とやらないかんことから逃げる必要はなくなります。この世の様々なしがらみから解かれるというのも確かです。その意味で、死は自由をもたらすと言えないこともないと思います。けれど今読みました詩篇の言葉は、たとえ死んでも神様は、そこにおられる。どこに行っても神様がおられる。たとえ、この世のすべてのものから逃げおおせても、そこにもどこにでも神様がおられる。どうしてか。神様は、私を究め、知り抜いていて下さっているからだ、と言うのです。私を知っておられるから、だから、離れることができんのだという。それって、どういう知識でしょう。私から片時も心を離さず、いつも私を知っておられる。しかも、私以上に私をご存知で、私が自分では見たくない、逃げたい、向き会いたくないと思っている、いわば私の闇の部分まで、知って、向き合ってくださって、それであきれられて捨てられるのでなく、まったくなく、だからなおのこと私を導き、とらえてくださる。それほどに私を知っておいでの、神様がおられる。

皆さんが、一番知っている人って、どなたでしょう。この人についてなら、世界中で私が一番よく知っている、ということもあるかもしれませんが、むしろ、自分が知っている多くの人々の中で、私が一番知っているのはこの人、という人。どなたでしょう。その人って、自分の愛する人ではないでしょうか。複雑な感情もあるかも知れません。私たち、ロボットではないですから、愛しているのに、怒りを覚えるってことだって、当然あります。テレビの人気番組で、初めてのおつかい、というのを見たことがあります。小さな子供が初めて一人でおつかいに行って帰ってくる一部始終を、その子にわからんようにテレビカメラで撮るのですけど、途中で買った中身を急な坂道の上から落として、また下まで取りに行って、また頑張って登ったり、ビニール袋を引きずって破れて手におえんなって泣いたりと、涙なしには見れん場面が人気の原因かとも思います。が、相手が小さな子供だから、泣いたり微笑んだりできるのかもしれません。もし私が自分の愛する人の一部始終を知りえたとしたら、いや、私の今までの一部始終が誰かに知られたとしても、それでも何もなかったように愛せるか。その人から、また自分から逃げないで知り続けることができるか。なら、知るということは、向き合うということでしょう。それ以外に、どうして誰かを知りうるでしょうか。

単なる物知りなんて、ここでは部外者です。そもそも物知りの知識は部外者の知識です。仮に人間全般についての博覧強記の物知りが、野口さん、あなたはこうこうこういう人間のようだから、こういう風に対処したらよいと、私に教えてくれたとして、私は教えたから、後はあなたの自己責任だから、このありがたい知識を実践して、あとはあなたが頑張りなさいと、それで終わってしまうなら、その人は、私の何を知っていると言えるのでしょうか。私に向き合ってくれてない人の、私についての正しい知識は、部外者の知識に過ぎんでしょう。違うでしょうか。ところで自戒を込めて申しますが牧師はその危険性を持っています。人間についての、罪人についての、神様についての、知識を教えて楽するという堕落の急斜面が、いつも両脇にあるとも言えます。教会は、その堕落に敏感である必要があるでしょうし、そのためには、この急斜面が無論、牧師の両脇にだけあるのではないことをわきまえて、自分に向き合う必用があります。教会は、物知りの神様などは信じてないことを、お互いに知り合うということで確かめるからです。教会は聖徒の交わりを信じるということを、文字通り、お互いに向き合って知り合うことで告白する。知り合うというのは単純ですけど、掛け替えのない、神様の愛を知る道でもあるからです。インターネット時代の一方的で愛のない知識から、自分自身も、また愛する人をも守るため、神様の愛に倣うのです。相手と向き合い、その人を知ることを大切にする。

神様は私たちを愛しておられます。単純過ぎる言葉かも知れませんけど、何度も言います。神様は私たちを愛しておられて、いつもどこでもどんな時でも、私たちに、逃げない愛によって向き合っておられます。そして、確かに導いておられる。私たちはこの愛によって生きられるのだと、この愛に倣っても生きられるのだと、この愛に一緒に生きていこうと、招き、確かに導いておられる。あなたが今どんな状態にあろうとも、あなたがどこにいようとも、あなたは、わたしの前にいると、主の御手が私たちを導きます。どんなに神様から離れたと思っても、そこに神様はおられます。その思いやあきらめや不信仰さえ、知っておいでの神様です。それでも私たちを愛される全知全能の愛ゆえに、ただ一方向に向かって導かれます。私たちの唯一の救いであるご自分の恵みへと、私たちを導かれているのです。

その神様から逃げたいと、なおも思ってしまうなら、私はどうかしているのでしょうか。神様が愛して下さるのは、ありがたいけど、この点に関しては、関わりをもって欲しくない。色々言われたりしたくない。そういうときって、神様を意識するんじゃないでしょうか。でも、意識したくないから、どうするかって言うと、逃げる。要するに、考えないことにする。意識しながらも。自分の意志を固くするというか、それを聖書は、頑なになると言いますが、考えないように、えいって実行に移すのでしょうか。実行に移すことを止められんかったから、だから、と言い訳することさえあるかもしれません。神様に導かれるって、自分で何も決めんでかまんようになるということでは決してありません。私がやっぱり決めるのです。そしてその責任を問われるのです。えいって、あるいは無表情で闇の中に飛び込んでいくとき、既に導かれている神様の導きに背いてやっていることは、わかっているのではないかと思います。牧師も例外ではありません。意外に思われるか、とっくに知っちゅうと思われるか。それはそれで牧師としてどうかとも思いますが、人に隠すことができるが故に、闇に留まってしまうなら不幸です。人には隠れているから大丈夫だと思うなら、私は自分にだまされています。闇に目を見えなくさせられてしまっていて、本当は危険だと意識しながら、まだ大丈夫だと思わされてしまう。いや大丈夫じゃないと知っていて、裁きがあると知っていてもなお、罪を犯してしまうのです。使徒パウロの言葉を思い出します。私は自分のしていることがわかりません。それが私ではないでしょうか。そのどうしようもない罪の私を、知っておられて、だからこそ憐れまれ、キリストを、その私たちの身代りに十字架に釘打って、まるで神様の前から逃げることができない私たちのように釘打って、貼りつけて、面と向き合って、あなたが背負ったその罪の故に、あなたは恵みから見離されて死ななければならないと、キリストを裁いてくださった。キリストの命を私たちと引換えにしてくださった。この神様が、私たちに常に向き合ってくださっているのです。キリストもまた、その私たちのために、十字架でこうおっしゃってくださった。父よ、彼らを赦して下さい。自分が何をしているか知らんのです。向き合うことができんのです。だから、神様が向き合ってくださいます。私を知ってくださいます。私が大丈夫ではないことを、それゆえに、私の身代りになって死なれるキリストが、私にはどうしても必用であるということを、そしてキリストに結ばれたなら、あなたは大丈夫だということを、神様は全部ご存知で、前からも後ろからも私を囲み、キリストを私に与えてくださり、ただ信じよ、と呼びかけてくださる。キリストを信じて、いのちを得よ、罪の中でも赦されて、キリストの光に照らされて、わたしの前に導かれよと、福音の言葉をくださるのです。何度も何度でも、夜でも昼でも、闇の中であればなおのこと、キリストの光に照らされよ、それがあなただ、赦された者よと、つかんでくださる。

この知識こそが、人間の思いを遥かに超えて、理解したと思ったら、スルリとすり抜けていくような、あまりに高くて到達できない驚くべき福音の知識です。だから、でしょうか。福音はいつでも信じるのです。理解できない神様の愛を、罪赦されて生きられる恵みを、イエス様と言って信じればよい。わからんけれども、助けて下さいと、主の名を呼べば、よいのです。「主よ、あなたは私を究め…あまりにも高くて到達できない。」(1b-6節)その高いところからキリストが来て下さって、すべてを捨てて来て下さって、そこに導いてくださいます。そして神様に向き合えるのです。私から逃げないと決めてくださった、恵みの神様に向き合えるのです。