11/6/5朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書18:15-17、詩編145篇9-21節 「天国は神様の国」

11/6/5朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書18:15-17、詩編145篇9-21節

「天国は神様の国」

 

イエス様の前に連れてこられた乳飲み子たちは、目の前で「神の国はこのような人々のものである」と語っておられるイエス様に対して、どのような反応をしたと思われるか、パッと想像して頂けるでしょうか。バブ、何て感動的なお言葉、と目を潤ませながら見入っている子は、おそらく一人もおらんかったろうと思います。乳飲み子ですから。泣きよった子もおったのじゃないでしょうか。一人が泣くと、不安になるのか皆泣き出す。弟子たちが嫌がったの理由の一つでもあったでしょうか。教会の礼拝でも、子供が騒ぐと迷惑だろうからと遠慮される気持ちは、まあ、親としてうんとよくわかります。でも神様の前に出る礼拝って、このような人々のものです。ま、司式者や説教者の声が、よし、負けんと頑張るぞって少し大きくなって、霊的な雰囲気ではなくなるかもしれませんが、そこでこそ礼拝に集中しようとする心に聖霊様は働かれるでしょう。無論、礼拝で騒いでかまんとか、好き勝手してよいというのではありません。神の国とは、神様のご支配、支配領域という言葉ですから、それを受け入れないで、自分の支配、自分のやりたいことをまかり通らせてやろうというのは、これは受け入れられません。そもそもそこでは、神の国が受け入れられてないのです。

乳飲み子はその点、無力です。自分を無にしているとは言いません。乳飲み子だって、お乳~、おもらし~って、十分に自分を主張しているでしょう。でも無力です。私が無いと書く、無私ではない。でも無力。親が、この子をイエス様の前に連れていって、祝福してもらおうって連れられていったら、祝福を受ける。乳飲み子を見ゆうと思いますが、私みたいな親でも受け入れるらあて、いやあ、この子はできちゅう、偉いというのではないでしょう。あるいは無力やき受け入れざるを得んき、仕方ない、受け入れちゃらあと妥協しているわけでもない。無力って、大人ぶって考えると、そういう考えになるのでしょうけれど、幼子からしたら、ああ、これが親かと、そのまま受け入れる。イエス様のもとに連れてこられた。文句を言う大人もおったけど、イエス様の優しい笑顔が近づいてきて、祝福をしてもらった。そしたら、その祝福を受けるのです。その子が生まれる前から、その子を愛し抜いてやまれなかった、その子のために命を差し出され罪を負われた、その子の救い主イエス様に、触れられ抱かれて祝福されてしまうのが幼子です。もしもその子が泣いてわめいて、いずれ私も、そういう幼児洗礼を授ける時があるのかなとも思いますけど、じゃあ、そのとき私は、どうもこの子は嫌という意思表示をしているから洗礼やめますと言うでしょうか。それがもし、手術室での出来事だったら、手術やめますって言うでしょうか。洗礼も救いも神様のご支配も、そのような人々のものなのです。イエス様は、その幼子を殊更に憐れまれ、慈しんで、神様のご支配をくださいます。

どれだけ多くの幼子たちが、イエス様に祝福されたのでしょう。沢山だったろうと思います。もしこのときは少数でも、大人の歴史の中で、しかも無力ではないがばっかりに人を傷つけ、自分を主張する大人が累々と築き上げてきた罪と死の歴史に、隠れてうずもれるようにして、どれだけ多くの幼子たちが、イエス様に祝福されてきたのでしょう。神の国は、このような幼子たちのものなのです。イエス様の腕に抱かれた幼子たちのように、そうやってイエス様を受け入れ、地上に到来された神様の愛のご支配を受け入れた幼子たちのように、主の愛は、受け入れられることを求めて、ここにも到来しています。ここでイエス様が言われるのです。あなた自身も、わたしのところに来させなさい。妨げてはならない。わたしはもう、あなたのもとに来たのだからと。

弟子たちは、その福音、キリストによってもたらされた神の国の恵みのご支配に、一番生きることを求められていたのです。が、スッと自分の支配が出るのでしょう。襟を正されます。イエス様のもとに来ることに条件を付けてしまうのです。条件をつけよったら誰も救われんから、だからイエス様が来て下さったのに、その恵みのご支配にスッと背を向けて、自分とは違う人を見て、あなたはあれも満たしてない、これもしてないと、人に条件をつけてしまう。でもそれは、先週の御言葉で登場した、ファリサイ派と何が違うでしょうか。だいたい人につける条件って、自分では満たしているつもりなのです。私は献金をしゆうとか、私は弟子として歩みゆうとか。しかも、それにこだわりをもっておるから満たしてない人を見たら癪に障る。叱りさえする。

しかし、イエス様はその弟子たちのこだわりはズレちゅうと、神の国のこだわりは、そこじゃないと、乳飲み子たちに、おいでと呼びかけ、腕に抱き、神の国はこのような人々のものである、と言われるのです。そこに神様のこだわりがあります。神様の恵みのご支配は、自分に条件を見出さない人々のものである。それでも条件をつけたいというなら、子供たちこそが既に満たしている条件を、あなたは満たしているのだろうか、あなたは小さな幼子のように、神の国を受け入れているか。そうでなければ決してそこに入ることはできんと主は言われます。

説教題に、天国は神様の国とつけました。誰の国か。神様の国です。こう考えたらわかりよいでしょう。もし皆さんの家に、誰かピンポンも押さないで入ってきて、私ここに入ることになっちゅうきと言ったら、ここに誰が入るかは私が決めると言わんでしょうか。私の家ってそういうことでしょう。フリースペースではありません。神の国もです。それを幼子のように受け入れるのです。神様が恵みによってご支配されるところが神の国です。ならば、その恵みの神様の前に身を低くして、神様が私たちに望まれる恵みと憐れみを受け入れないで、どうやって神の国に入るつもりか、決して入れないではないかとイエス様は心痛めて言われるのです。別に幼子は身を低くしているのではありません。もともと低い。大人だってもともとは低い。死ぬときなんて本当に低い。それを私はこんなにって高ぶるところに、自分の支配が生まれます。神様のご支配を退けて、自分に条件をつけ、神様にまで条件をつけ、黙って天国に入れたら良いと。人は自分を何者だと思っているのでしょうか。

その人間に日々向き合っておられる神様は、一体誰をご自分の御国に受け入れるとお決めになられたか。神様は何を決められたか。私たちを憐れむと決められたのです。それはこう問うてもよいのです。神様は誰のため御子を身代りに渡すと決められたか。キリストは、誰のために血を流し肉を裂くと決められたか。私のためではないと誰が決められるでしょうか。十字架の主がこう言われるのです。幼子たちをわたしのもとに来させなさい。妨げてはならない。あなたも幼子になりなさい、いやあなたも幼子ではないのかと、わたしは、あなたを呼んでいるのだと。神様に呼ばれているのなら、年齢は関係ありません。高い低いもありません。人間がつける条件は通用しません。神様が、幼子をわたしのもとに来させなさいと招いておられる。ならその幼子が誰であろうと、自分自身だろうと、それを妨げてはならんのです。

この後続いて行われる聖餐式で、キリストの招きを改めて聴きます。これは、あなたがたのための、わたしのからだである。それは洗礼によって、神様の子供として生まれ変わった幼子たちが受ける、幼子の食卓への招きだと言ってもよいのです。キリストが与えてくださった、罪の赦しと永遠のいのち、神様の幼子とされる恵みを、ただ受けなさいと。そこに洗礼への招きもあるのです。どうぞ幼子として、キリストの前に来て下さい。神の国はそのような人のものだからです。