11/5/8朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書17:20-21、エゼキエル書34章23-24節 「ここにきた神の国」

11/5/8朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書17:20-21、エゼキエル書34章23-24節

「ここにきた神の国」

 

教会に続けて来るようになって、おそらく最初に覚えるのが主の祈りではないかと思います。いやあ、主の祈りは覚えてないけど、日本基督教団信仰告白なら暗記しちゅうという方には、未だ出会ったことがありません。私も試してみたら覚えていませんでした(笑)が、主の祈りは覚えています。というより、やはり祈っているのです。これはただ朗誦するというのでなく、いわば祈りの手引きです。例えば、御名をあがめさせたまえの祈りに導かれて、今日の礼拝を感謝しますとか、これから祈る祈りを導いて下さい、偉大なる父よ、御言葉によって世界を造られた造り主よ、私の心を造り変え、信仰をお与え下さい、大胆に祈ることを得させて下さい、恵み深い三位一体の主よ、と御名が具体的にあがめられるよう、祈りがより広くまた深く導かれていく。それがイエス様のくださった主の祈りだと言われます。

そしてこう祈る。御国を来たらせたまえ。今読みました御言葉にある神の国。これです。ではイエス様は、何を祈りなさい、どう祈りなさいと、神の国を求める祈りを教えられたのか。

そもそも神の国という言葉がわかりにくいと思います。国と聞いたら世界地図とか土地をイメージするのではないでしょうか。じゃあ神の国だから、天から土地が舞い降りてくるのか。映画、天空の城ラピュタのイメージでしょうか。ご存じない方は、一つの街ほどの大きさの巨大な植木鉢のような要塞が、雲の中から現れ出るアニメです。もしかすると黙示録の最後に天からエルサレムが降りてくる幻が描かれますから、そこからとったイメージかもしれません。が、あれは第一に幻で、しかもその前に今のこの天地が消えてなくなって、新しい天地が現れるという展開ですから、じゃあ私たちはその時、どこにおるのかという話になります。ならやはり目に見える形で、というのではないのです。

そもそも神の国と訳すより、神様のご支配、神様が統べ治められる、統治と訳したほうが、むしろ、わかりやすいのではないかと思います。土地ではなく、支配領域。神様がご支配されているところ、あるいは、ご支配そのもの。それが神の国であり、御国ですから、御国を来たらせたまえと祈るとき、父よ、私たちの今日一日をご支配下さい、私が罪を犯すことのないよう助けて下さい、私をご支配下さいと祈る。神様のご支配を求めて祈る。イエス様ご自身、私たちの身代りに完全な人としてお生まれ下さったのですから、そう祈られたと思うのです。私をご支配下さいと。イエス様は罪を犯されませんでしたが、罪の只中にあって、多くの誘惑にあって、目を開いたら罪が見えて、まるで罪の支配が横行しているような世界の只中で、父よ、ここに神の国を、あなたのご支配を来たらせて下さいと祈られたに違いないのです。私たちだって祈らんでしょうか。目を開いたら罪の支配が見えてくる。私は罪に支配されているのではないかという現実がある。掻き立てられた欲望によって歪められた、輝く名ばかりの幸せ、成功、楽しさ、美しさ。そこで更に引き起こされる欲望、自己中心、暴力、苛立ち、乱費、言い訳、現実逃避。一々具体的に言わんでもかまんくらいの身近な罪の国に生きておって、けれどその只中で、御国を来たらせたまえと祈ることが許されているのです。さあ、祈りなさいと、イエス様が励まして下さっている。

弟子たちもイエス様と一緒に、きっと祈っておったろうと思います。ただ神の国の中身を、この時の弟子たちが、どのくらいわかって祈っておったかはわかりません。祈りつつ身に付けていくしかないとも思うのです。あるいはファリサイ派の人々のように、神の国を、目に見えるものだと勘違いしておったかもしれません。天から舞い降りてくる植木鉢のような神の国を想像しておった人はおらんかったかもしれませんが、神様の支配がいつ来るか、どんな風に来るのかを、こう想像しちょった人はおったかもしれません。当時、ローマ帝国に支配されていたユダヤの国を、神の支配のもとに救い出すため、ある日、天から光の剣で武装した天使の軍勢が舞い降りてきて、ローマ帝国の支配の剣を、バキッと砕き折ってくれるに違いないと。そうやって神の国が、私の信じる神の支配が来るのではないかと、ひょっとしたら中世の十字軍も似たようなことを信じておったのかもしれません。目に見える形で、あるいはモヤモヤしない、ハッキリと見える、こうだ!とわかりやすく目に見える形の支配を求める。求めやすい。支配があるようなないような、そういうのは嫌。白黒ハッキリ支配して欲しい。ハッキリ見させてくれと思う。しかしこの求めは、繰り返される人間の罪の歴史の中で、嫌というほど繰り返されてきた、暴力的支配のハッキリではないのでしょうか。

譬えるなら今度29日に教会修養会をしますとき、母子礼拝室で子供らが、自己中心丸出しで暴れたとします。支配したくならんでしょうか。人の子はいざ知らず、とは言いませんが、でも自分の子がしよったら、御国を来たらせてくださいと祈る前に、力によって支配しようとするかもしれません。はっきりと目に見える支配、力ずくで静かにさせる支配を、来たらそうとせんでしょうか。神様の名前を出してきて怒るのは、私は気が引けるのでしませんが、それは私が、やはり力で子どもを支配しようとしているという後ろめたい気持ちがあるからだと思うのです。自分で支配しようとしているから、主の御名をみだりに唱えることになると知っているからだと思います。愛が支配欲に勝つときもあります。例えば説教で愛を語った直後とか、今日とか、怒りにくいですね。長く続かんような気もしますけど。でもそういう時は子供の目線にまで膝を屈めて、心で主の名を呼びつつ、神様のお名前を出して説得することもできるかもしれません。いや、それができるところでは敢えて神様のお名前を出す必要もないでしょう。むしろそこでは二人一緒に、神様ごめんなさいと悔い改めの祈りを捧げることになるのではないでしょうか。

そうやって罪を赦すことができるところでは、キリストの名によって罪が赦されているところでは、来ているでしょう。神の国、神様の愛のご支配が。御子を私たちの罪の身代りに十字架で裁き死なすため、人として生まれさせてくださった、救い主イエス・キリストを下さった、父なる神様の愛と赦しのご支配が、そしてキリストを復活させて下さった聖霊様の新しい命、永遠の命のご支配が、来てないはずがありません。だから、ここにも来ているのです。キリストをお与えくださった世界の只中で、しかもその中でも、そのキリストがたたえられ、その愛と赦しと救いとが高らかに宣言されている、主をほめたたえ礼拝する私たちのこの只中に、神の国はもう来ているのです。

イエス様は、あなたがたの間に、と言われました。間というのは、私と皆さんとの間、私たち一人一人の間です。この間に、キリストが来られました。私はイエス様信じてないから来てない、とも言えんのです。ファリサイ派の人々も信じていませんでした。キリストを十字架につけさえしたのです。その人々を見つめられながら、神の国はあなたがたの間に、ほらとイエス様は言われたのです。あなたのために、わたしは来たから、だから、ほらここに神様の救いの現実が来たのだと主は言われたのです。ハッキリせんから、来てないでしょうか。やがて、ハッキリするでしょう。いつまでも目に見えんわけではありません。ならばこそ私たちは信じるのです。私たちの間には、確かに罪もある。でもその罪をキリストが、十字架で負って下さった。神様が赦しに来て下さった。その愛を信じて良いのです。ここに主の愛がもう来たのです。その愛を携え遣わされて行って、私たちは神の国の福音を伝えるのです。