11/5/29朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書18:9-14、詩編30篇7-13節 「受け入れられる正しさ」

11/5/29朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書18:9-14、詩編30篇7-13節

「受け入れられる正しさ」

 

へりくだる者は高められる。それって、具体的にはどうされるのでしょうか。私はこんなに謙遜やに、どういて皆、私みたいに謙遜になれんがやろうと、妙な言い方ですが、謙遜を高ぶることではないでしょう。無論、神様が高めてくださるのです。自分でじゃない。まるで幼子が、ごめんなさい、お願い赦してと、べそをかいているのを、親がかがんで身を低うして、その子を抱き上げ、懐に抱きしめたまま立ち上がって、そうやってね、ごめんなさいって言ってくれて、うんと嬉しいで、大好きでって、笑顔で高い高いしてくれる。十字架のキリストをくださった神様が、私たちのためにしてくださることって、そういうことだと思うのです。

それにしても私たちの罪というのは、例えばそうやって神様に高められたことさえ、自分で自分を高ぶらせる材料にしてしまうのかもしれません。私は自分が罪人だと知っているから、だから私は正しいけれど、あの人は自分の罪を知らないから正しくない。どういて自分の罪がわからんろうと高ぶる。そういう人、冒頭で「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」を、今日の話から、徴税人ファリサイ派と呼ぶ言葉さえあるそうです。当時、自分らは宗教的な義務を正しく果たしているから救われるんだと自負していた、ファイサイ派の名を借りて呼ぶのです。ここで「うぬぼれ」と訳された言葉は、自分を信頼するという言葉で、こう訳してもよいと思います。自分は正しいという自信を持っている人。その人は他人を見下してしまう。何故か。自信があるからです。現代の、自分を信じろ、自分を信じろと、まるで洗脳するが如く垂れ流されているメッセージは、ファリサイ派を大量生産しているようなものだと言えるのかもしれません。だからではないでしょうか。とにかく人と比べてしまう。違うでしょうか。自分は正しいと自信を持つため、一瞬でも心を満たすため、他人の存在を利用する。そのとき、人は自分のためにいるのであって、逆ではありません。そういう自分のための人を見つける眼差しって、たまあ目ざといって思います。パッと見つけてしまう。本屋に置いてある数ある本の中で、痩せるって書いてある本にパッと目が行くように、自分の正しさを自己確認させてくれる見下せる人を、自分のために、パッと見つけるレーダーを持っている。でも本当は、私がその人のためにいるのです。私たちの中に住んでいるファリサイ派の心が、その本当の私の真実を見えなくさせてしまうのです。人が私のためにいるのではない。私が人のためにいる。その真実に生きられるなら、実際に罪に陥っている人を見つける目ざとさも意味が違ってくるはずです。イエス様は、そういう目ざとさで、人から見下されている人のところに行かれました。まなざしの理由が違うのです。自覚する、いのちの理由が違うからです。わたしはこの人のためにいる。イエス様が教えられた、へりくだり、そして高さって、そういうことだと思うのです。神様が造られた、そして今も尚私たちに望んでおられるいのちの高さを、イエス様は私たちに差し出して下さった。そしてそのことがわかるのは、神様の前以外ではないのです。

ファリサイ派は、そもそも祈っていたのでしょうか。心の中で祈ったと訳されていますが、直訳は、自分に向かって祈った、です。外に言葉を出さないで、という意味に理解すると、心の中でということになる。あるいは、祈りの内容についてイエス様はおっしゃったのだという理解もあるようです。なるほど自分のことしか祈らんのです。人のため祈るとりなしが、彼の祈りのどこにもない。自分のためにしか祈ってない。自分のための人なら多く出ますが、その人のためには祈らない。何故でしょう。愛がないからでしょうか。違うと思います。神様が、その人々を死ぬほどに愛されていると信じてないからでしょう。じゃあ、どんな神を信じているのか。自分が見下している人々を裁く神でしょう。全くの間違いだとも思いません。確かに神様は裁きをなさる神様です。彼が間違っているのは、その神様が十字架で罪人の身代りに裁きを被られ、死んで赦しを与えられるほどに、罪人を愛されているという事実に反しているからです。そして、自分はその愛で愛されてもいなければ、裁かれもしないという間違いです。私は正しいという自信をもって生きておればこそ、裁かれるなどとは思わんし、どんなにその彼を、しかし神様が愛されているかを知り得ないほど、醜い自信に支配されている。

彼は心の中で祈ったのかもしれませんが、あるいは後半部分は声に出したかったかもしれません。週に二度の断食と十分の一献金を私はしています、という部分です。言わば、当時の正しい人のバッジのようなもの。議員さんが、認められ、選ばれた人としてバッジをつけて歩くように、私はファリサイ派として正しいことをやっていますと、当時、自分に証明するものであったようです。教会でも、週に二度の断食を行って祈っているキリスト者が今日どれくらいおるかわかりませんが、断食も無論、十一献金も、悪いことではありません。いや、断食らあしゆう、ファリサイ派や、え、十分の一献金しゆうが、悔い改めよと、そんなことはまさかありません。何のため、いや、誰のためにするかでしょう。神様が求められるから、するのでなければ、神様が喜ぶ顔を見たいから十分の一にすら縛られず捧げもすれば、あの人に救われて欲しい、癒されてほしいと断食もして祈るのでしょう。因みに断食しても祈らんかったら、ひもじいだけと言った人がありますが、けだし名言と思います。断食しようと献金しようと、義務だから、自分にとって正しいからと、もし自分の正しさのためにやるのなら、この人は神様の前にはおりません。あるいは心の中で祈ったというのは、私たちも体験がないでしょうか、心の中でグルグルグルグル自分の考えが巡っているだけで、神様に向かっていかんのです。自分に向かって祈るだけなら、鏡の前にいるのです。もしも鏡の前にいて、自分の醜さに嘆くなら、神様、憐れんで下さいと、立って神殿に行くかもしれない。けれど鏡に自分の正しさを見るだけであれば、もしそこが神殿であり、礼拝堂でも、神様の前にいる保証はありません。ファリサイ派の問題はそこにあります。どうして、とりなしの祈りができなかったかも、ここに理由があるのです。神様の前におらんのです。私を裁かれる神様の前に、そして私を私から救われる神様の前に、立つか立たんか。神殿はそこにあるのです。

一方、当時ローマ帝国が徴収する税金を仲間のユダヤ人から取り立てておった徴税人。しかもピンはねをしてもかまんからと、金のため自分のために仲間を売った裏切り者、卑怯者と呼ばれていた徴税人も神殿にのぼり、けれども遠くに立って祈ります。誰から遠く立ったのか。先に祈ったファリサイ派からか。それもあるかもしれません。でないと巻き込まれてしまいもするのです。人の目を気にする自分の正しさは、人と比べて、惨めに思って、どうせ私はと自分に巻き込まれてしまうなら、やはりただ満たされんだけの自分の正しさに留まってしまいます。この人は、目を天に上げることができません。今さら、どんな顔をして神様を仰ぐことができるだろうかと、恥じる思いがあるのでしょう。当時のユダヤ人たちは、立ったまま、天に向かって両手を挙げて、顔も上げ、神様を仰いで祈るのが普通だったようです。けれど顔をあげられない。きっと神殿からも、遠く離れて立ったのだと思います。神様のもとに近寄れない。私は相応しくないという自覚がある。ここにいてはいけないという思いすらある。ファリサイ派が向こうで私をチラチラ見ている。ますます針の筵のような思いがある。だけれども、神殿に来ざるを得んのです。自分でも場違いだと思っても、人から何をしに来たと思われても、胸が苦しくて苦しくて、神様の前に出ざるを得ない。神様に、祈りを聴いてもらわんわけにはいかんのです。胸を打ち叩いたというのは、ユダヤでは悲しみを表すと言われますけど、本当に息が苦しくて、思い切り息を吸おうとしても、どんなに頑張って息を吸っても、ほんの少ししか入ってこなくて、本当に苦しかったのではないでしょうか。元来、そうであったから、悲しみのしぐさともなったのでしょう。どうして胸が苦しいか。神様の前に、罪人である私が辛いのです。葬りたいほどに苦しいのです。だから神様に祈るのです。神様、罪人の私を憐れんでください。直訳は、罪人の私への怒りを宥められて、私と和解して下さいという叫びです。どうしてこんなに苦しいか。神様が私に怒っておられて、私ですら自覚している私の罪を神様が怒られ、裁いておられて、何か苦しい出来事に、試練に遭ったのかもしれません。何もなかったにしても尚、この苦しみはどうしてか。良心が痛むだけではないのです。誰に対しての良心か。自分への良心であるのなら自分に向かって祈るだけです。自分で解決するだけです。この人は神様に向かって痛むのです。赦して下さい、ごめんなさい、神様、罪人の私を憐れんで、私をお救いくださいと、神様の裁きの座の前で祈るのです。うつむいていようと、遠くに立とうと、この人はファリサイ派の祈りが立ち損ねた、私を裁かれる聖なる神様の前に立って、赦して下さいと祈るのです。裁かれるべき罪人であることを自覚して、自分が正しくないことを自覚して、それでも、赦して下さい、ごめんなさいと祈るのです。神様の赦しの憐れみを信じて祈った。

その人の、真後ろにイエス様は立つようにして、あなたもこの人を見ないか、この人と一緒に立たないかと、うつむき立っているこの人を、この人の背中から紹介されて、言っておくが、義とされて家に帰ったのはこの人だ。天の父なる神様から、あなたは正しいと迎え入れられ、この人は神様の家にも帰るだろう、あなたもこの人の後ろで祈りなさい、神様の憐れみの裁きの前に立ちなさいと、彼と一緒に立たれるのです。そこにもう十字架が見えているのです。神の国への入口があるのです。十字架のイエス様に支えられ、神様の憐れみの裁きの前に立つときに、そこでこそ、私たちは本当に祈り得る。主の名によって祈れるのです。

また、そこでこそ私たちは主の憐れみに導かれ、人のために立つこともできるでしょう。祈らざるを得んなると思います。キリストと共に、へりくだり、父の御前にあげられて、正しい祈りに生きられるのです。

夜も���������そこに主は信仰を見出して下さいます。御国はその人のものなのです。