11/5/22朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書18:1-8、詩編88篇2-19節 「主から目を離さないで」

11/5/22朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書18:1-8、詩編88篇2-19節

「主から目を離さないで」

 

主が、ここで求めておられる信仰を、その日、見出してもらいたい。そう思われないでしょうか。イエス様ご自身、わたしはその信仰をあなたに見たい、と望まれておればこそ、主はこの譬えを語ってくださいました。ならば、いやあ、私はこんな風に祈っているかなあと、単に祈りだけを問うのではピント外れになってしまうでしょう。絶えず祈るのは難しいで終わってしもうたらいかんのです。むしろ私はこのように信じているだろうか、私はこのように神様を信じる祈りを祈っているかと、イエス様に向き合うことが求められているのだと思います。

救われる信仰の何たるかについては、既に前の頁の17章で言われていました。10人の重い病を患っていた人々が、イエス様のお力を求めて、癒しを信じて、御言葉の言うとおりにしたら癒された。けれど、癒しの信仰を持っておった10人の中で、神様ご自身を求めておったのは一人だけ。しかも当時ユダヤ人から、彼らが救われるはずがないと思われ差別されていたサマリア人だけが、イエス様から、あなたは救われる信仰を持っていると認めてもらえた。あなただけが、神様にひれ伏し賛美する信仰を持っている、それが救われる信仰だと言ってもらえた。

今日の御言葉では、その信仰は神様を信じて祈る信仰だと言われる。ええと、それは当たり前ではないのですかと、あるいは思われるかもしれません。それが当たり前だと思います。でなければ、ご利益信仰じゃないかと神様に言われても仕方ない。自分を捨てて主にひれ伏して賛美せん信仰はないでしょう。まかり間違っても、自分を賛美してあげたいという自分信仰にはならんのが、神様を賛美する信仰です。自分は主の前にひれ伏します。でなければ、神様と肩を並べているつもりか、上に立って、何で神のくせに、私を助けてくれんのかと、やってしまうかもしれません。場所は大事です。罪を犯したアダムとエバに、神様がこう問われたのは大事です。あなたは、どこにいるのか。神様の前におらんかったら、神様に向き合っておらんかったら、失われてしまっている。造り主の前こそ、私の真実の居場所であるのに、そこから離れておらんなったら、私は失われているのです。神様の横に並ぶのも、自分をわきまえていませんし、まして上に立つなんて言わずもがな、の、はずなんですが、確かに言われいでも、きっとわかってはいるのですけど、頭でわかっている知識は、決して人を救いません。いい気分にはなるかもしれません。知っているという満足感がある。でも神様は満足されない。そして、あなたは、どこにいるのかと問われるのです。わたしの前に、おらんではないかと。

だからイエス様は、この譬えを語ってくださいました。あなたは神様の前におってよいのだと、あなたの居場所は、どんなに周りが暗くなっても、たとえ絶望の暗闇に閉ざされたとしても、あなたの居場所はここにあるのだと、祈りの場所を教えてくださった。あるいは、気を落とす誘惑に気をつけなさいと、この誘惑に対抗する闘い方を教えてくださったとも言えるでしょうか。

気を落としてしまうのです。落胆し、勇気を失い、望みを失って失望し、あるいは絶望してしまう。信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残ると聖書は告げます。その中で最も大いなるものは愛であるとも言うのです。これも知識としては知っているかもしれません。教会で何度も語られる御言葉です。けれど、いつまでも残る信仰と希望は、本当に、そうですか、私にはもう残っていませんと思うときがくる。神様の愛も感じられない。こんな苦しみに圧迫されている中で、どうして神は愛だと言えるのかと、つい気落ちしてしまう誘惑に遭うかもしれない。愛を感じることができるなら、希望もあるし、信じることもできるかも知れんけどと、つい、そう思いたくなる弱さを持つのは、特定の人だけだと言えるのでしょうか。サマリア人は救われないと思われていたように、自分たちは正しい神様の知識を持っているけど、彼らはそれを持ってないからと、差別の後ろ指を指されたように、まるで正しい信仰を失ってしまったかのように見える兄弟姉妹に、誰が後ろ指を指すことができるでしょうか。私の愛して止まない御言葉、ローマの信徒への手紙14章にこうあります。口語訳でお聴きください。他人の僕を裁くあなたは一体何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。気落ちすることがあるのです。膝が崩れることだってあるのです。もう立っていられなくなる。神様の愛も感じられない。でもその僕を、神様が立たせてくださるのです。そもそも神様によって召されて、あなたはここに立ちなさいと、神様の前に立たされて、そして、キリストの前にひざまずいて、洗礼を受けて救われたのです。その人を、いや、神様がご自身の僕として召し、呼んで、選ばれた、主の僕を、神様は十字架の愛の力によって、立たせることがおできになる。今は立つことができんでも、きっと立つことができると信じることができるようになる。だから信仰と希望と愛は残るのです。その中で最も大いなる神様の愛によって信じることができるからです。神様が決着をつけて下さると。不合理にも私がこんな苦しみを受けている、どうして私ばかりという苦しみによって押しつぶされそうなばかりでなく、その私を差別し、指を指して苦しめる人々によっても、私は圧迫を受けて、希望を失い、信じる勇気を失いそうになる。しかし神様は私の決着を、必ずつけてくださると、完全に正しい裁きによって、完全な決着をつけてくださると、キリストをくださった神様の愛を、今は感じることができんでも、あるいは信じることさえ今はできなくても、私は神様に向かって叫び求めることができるようにされている。主なる神様、あなたが正しい裁きをして下さって、私を守って下さいと主の前に叫び求めることができるのです。僕は立つことができるのです。今は立てずとも、祈ることができる。自分の居場所がどこにあるのか、神様の前だと知ってはいても、その神様を感じることができず、あるいは信じることさえおぼつかない暗闇の中で、けれども、ご自分に向かって祈っているご自分の僕に、イエス様は必ずこう言って下さるのです。あなたはわたしの前にいる。わたしはあなたに、信仰を見ている。あなたはわたしに呼ばわっている。そのあなたのための正しい裁きを、わたしは必ず行いに来る。わたしが正しい決着をつけに来ると、キリストは約束してくださっているのです。

気を落とすというのは、あるいは、暗い気分を伴わないこともあるかもしれません。楽観的絶望とでも言えそうな不信仰の類もあることを、イエス様はこのすぐ前で語られてもいるのです。ノアの時代の人々や、ロトの時代のソドムとゴモラの住人は、日々苦しみに圧迫されておったわけではなかったのかもしれません。彼らの心にあったのは、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりの地上の日々です。明日はあれを買いに行こうという、それが希望でもあったでしょうか。植えた花が咲くのを待ち望み、暗い気分があったとしても気分転換をする手立てがあれば、あるいは神様も別にいらん、という考えになるのでしょうか。神の正しい裁きがあるだなんて、地上のどこに見出されるかと、力のあるものがのさばって、信じられないお金を使って、湯水のようにそれを使って、神が裁きをせんのであれば好きなように生きたらえいじゃないか、自分なりの正しさに生きればえいじゃないか、正しくなくっても、何が悪いと、正しい神様を信じることに絶望した楽観的な考えになるのでしょうか。その考えが、日々の生活に表れるのです。地上に見出しうるのです。ノアの時代の人々や、ソドムとゴモラの住人は、果たして祈っておったでしょうか。イエス様がこの次に語られた、ファリサイ派の人の祈りが、祈りと呼べるものであるのなら、あるいは祈っておった人もおったかもしれません。でもそこに、イエス様は信仰を見出すことができんのです。ご利益信仰ならあったかもしれない。病を癒される信仰すら、ひょっとあったかもしれません。けれど神様の前にひれ伏し祈り、主の御名を呼び求め、あなたが決着をつけてください、私に正義を果たして下さい、義なる神様、聖なる主よと、神様にすがりついて祈る正しい信仰を、果たして神様はノアの時代に見出すことができたでしょうか。ロトの時代、アブラハムが執り成し祈ったソドムの町に、たった10人の正しい人でも、主は見出すことができたでしょうか。見出すことができなかった悲しみ、あるいは口惜しさとでも呼びうるような歯噛みする痛みを、主は感じておられたに違いないのです。

しかし、あなたには祈って欲しい。わたしの名を呼んで御国を求めよと、イエス様はこの譬えを語ってくださいました。仮に神様を無責任で愛のない不正な裁判官のように思っておって、それ故に、祈っても仕方ないから祈らんと、そういう生活になってしまっても、そういう地上の一部になって神様の前から見失われてしまうことのないように、あなたはわたしの前に出なさいと主は言ってくださる。苦しみに圧迫されて、祈っても祈っても変わらなくっても、それでも神様の前に出て、祈り続けたら良いのだと。神様は必ず裁きを行ってくださる。罪が裁かれないままで、不正が裁かれないままで終るなんて、その名を聖なる万軍の主と呼ばれ、あがめられる神様は、決してそれをお認めにならないから、だからあなたは主の名を呼んで、わたしの名を呼んで祈りなさいと、主は僕を励ましてくださいます。

譬えの中で、やもめが訴えた「私を守って下さい」という言葉は、私に正義の裁きを行って、私に正義を下さいという言葉です。単に悪いことがおこらんように、それを未然に防いで下さいというのではありません。私になされている悪を裁いて、罪を裁いて、正しい裁きがなされることで、私が耐えている不正を終わらせて下さいという訴えです。正義を求める訴えです。言い換えれば、それが御国を来たらせたまえという祈りなのです。そうやって祈れば良いと主も言ってくださる。祈ることさえできないと思うときにも、主の祈りを昼も夜も祈ればよい。そこに主は信仰を見出して下さいます。御国はその人のものなのです。