11/5/15朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書17:22-37、創世記19章12-14節 「終末への心備え」

11/5/15朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書17:22-37、創世記19章12-14節

「終末への心備え」

 

いささかわかりにくい、あるいはわかるのが恐ろしい話をイエス様がしておられると感じられるかもしれません。死体のある所に、というのは格言だろうと言われますが、もう少し別の言い方、例えば、食べ零した所に蟻が集まるとかですね、もうちっと柔らかい表現はなかったかとも思います。が、事実、恐ろしい話であればこそ、はぐらかさず聴いて欲しいと、イエス様は願われたのだと思うのです。ノアの時代の人々もロトの時代の人々も、罪のある所には、神様の裁きが来るという事実をはぐらかして生きておった。あなたがたは、そうであって欲しくないと救い主として懇願されているとさえ言えんでしょうか。

神様が全世界を裁かれる、いわゆる世の終り、終末の何たるかを説明して、イエス様は、その日は「人の子の日」だと言われます。旧約聖書のダニエル書7章に「人の子」という表現が出てくる。この世界に神の国のご支配を完全に来たらせる救い主、神の国の統治者を「人の子」とダニエルは呼びました。世界は勝手に滅亡するのではないのです。人の子が、神様のもとから、そこから来られて生きている者と死んでいる者とを裁かれる。ならば問題は、世が終わる終わらんということより、そこで裁きがなされるということです。終わること自体、裁きでもある。罪に満ちた世界は裁かれて終わり、まったく新しい世界が造りなおされて始まります。その希望に生きるというのが、キリストの再び来られる再臨を信じる、私たちの再臨信仰です。

特に厳しい試練の中で、イエス様、もう耐えられません、早よう来て下さいと願わざるをえんときがあります。主も、あなたがたが人の子の日を切望する時が来ると言われます。本当にそうだと思います。私も、いやけんど、家族が救われるまでは、友人、隣人が救われるまではと祈りながら、けれど苦しくて苦しくて仕方のうて、しかも人間の罪の威力に圧迫されて、もう嫌や死にたいとばかり思うときは、主よ、早よう来て下さいと祈ったときがあります。自分が楽になりたいというだけでなく、罪の世の存在が苦しくて仕方ないときってないでしょうか。詩編を読むと、そういう祈りが多々あります。この人の存在をなくして下さいと赤裸々に祈る、罪に圧迫された信仰者の姿に、共感せざるをえんときがある。弟子たちに向かっても言われるのです。あなたがたも、きっとそういう日が来るに違いない。イエス様ご自身、ここで人々から排斥されることを語られるように、弟子たちもまた迫害を受けることを知っておられて言われるのでしょう。けれど、そうした苦しみの中で、つい惑わされてしまうという誘惑があるき、注意しなさいと言われるのです。どんな誘惑か。見たいという誘惑です。見よ、あそこだ。え?て見たくなる。信じるよりも見るほうが楽という誘惑だとも言えるでしょうか。ファリサイ派の人々が、前回イエス様に戒められたように、ハッキリ見えるほうが、そりゃ楽に違いないのです。神の国、神様のご支配があるのかないのかハッキリしてほしい。苦しい時は尚更です。本当に神様はおられるのかとすら苦しむときに、それでも信じる、この苦しみの中に尚、キリストは共におられて、神様の憐れみのご支配を下さっていると信じるのは、決して楽ではありません。信仰の闘いと呼ばれる所以でしょう。自分の感覚の訴えを、むしろ信じたくなってしまう。だって神様なんか感じないと、神様の愛も力も感じない。感じるのは苦しみだけじゃないかと、神様はどうして私を助けてくれんのかと、恨みたくなるような苦しみの中で、見えない神様のご支配を信じるよりも、目に見える奇跡とか、声を聴いたとか、つい、そっちに行きたくなる誘惑に流されやすい弱さがある。キリスト信仰はご利益信仰ではないとわかっていながら、けれど感覚的ご利益とでも言うのか、平安とか幸せとか、感覚に支配されるという弱さを、誰しもが持ってはいないでしょうか。無論、そうした感覚が与えられるのも主の約束ではありますけれど、それが一番の求めになると、主を信じるというよりも、利用するということになるでしょうし、平安がいつも自動的にあるというわけでもありません。イエス様だって、不安に押し潰されそうなときがありました。私たちが不安や怖れに圧倒されるのは、むしろ当然かもしれません。そのときにどうするかでしょう。アルコールや他の様々な快楽という現実逃避に逃げるのも、やはり感覚的な誘惑と言えるのではないかと思います。神様のご支配を信じるよりも、つい楽なほうに行きやすい。

そういう誘惑に弱いのです。その誘惑を、イエス様もまた知っておられて、けんど、そっちに行ったらいかんと注意をされます。わたしは、あなたがたをそんな風に、ああ、実はもう来ていたと、たぶらかしたり振り回したりはせんき、来るときは、稲妻のように来て、しゃっと終りやき、そのわたしを信じて欲しいと言われます。そうでしょう。まるで誰かをたぶらかして、あの人、あんたのこと好きらしいでとか、あんたにチョコくれるらしいでとか、何の証拠もない一部の人だけ知っちゅう噂ほど怪しいものはありません。稲妻が見えるときには皆に見えます。それがイエス様の再臨ですから、皆に公平に、瞬時に現れる救い主を、待ち望んだら良いのです。

ただ、人の子の日、キリストの再臨は一瞬であっても、その後、裁きの座の前で、神様の前に立つときには、誰もが肉眼で主を見るのです。見たい、ということにこだわるのであれば、そこにこそ、こだわってもらいたい。裁きの日に、あなたがわたしを見ることになる、そのとき、どんな思いで見ることになるのか、そこに焦点をあわせて欲しいと主は言われます。イエス様の焦点は、そこにあります。人々が、自らの裁きの一歩手前で焦点をしぼって、世の終りはどんなやろうと風評や噂話に振り回されているときに、イエス様はその終りのドアの向こうにある、罪の裁きを見ておられます。また、人々が裁きなど忘れて神様も忘れて今の生活にだけ焦点をしぼって生きているときも、イエス様はその人々のための裁きである、十字架を見つめておられたのです。そこに裁きを見ておられました。人々の罪が神様の前で裁かれる終わりの日の裁き、罪の裁きを、イエス様は、ご自分が架かられる十字架で見つめられ、あそこで終わらすと、今の時代の者達から排斥されようと、全ての時代のあらゆる人々から邪魔者にされ、救い主らあ、いらんき、あっちいけと排斥されようと、わたしはその人々の罪を負い、あの十字架で裁かれようと、人の子は、まっすぐに十字架の裁きを見られるのです。

それが私たちの身代りとなるために人となられた神様の国、キリストのご支配ではなかったでしょうか。だから神の国の到来を来たらしてくださる救い主は、人の子と呼ばれるのではなかったでしょうか。お高い方ではないのです。まして罪を野ざらしにされる無責任な神でもないのです。罪は罪として必ず裁かれる。必ず多くの苦しみを受け、その罪の責任を取らなければならない。罪を犯すほうは、そこに心の焦点がないからわからんのかもしれませんけど、罪を犯して、散々誰かを苦しめておいて、何のお咎めもなしで責任回避、誰も責任を取らないなんて、そんな馬鹿げたことがあるでしょうか。人間の世界ではいつもそうです。皆、あの人が悪い、あの人のせいだと責任をなすりつけ、何とか回避しようとして、自分を守ろう、自分の命を救おうとして、嘘を重ねて、罪を重ねて、ますます命を失う泥沼にはまっていく。その泥沼の只中に、神様が人の子として飛び込んで来られて、わたしがその責任を負うからと、十字架に架かって裁きを受けて、まずキリストが苦しみ死なれて、それから世界は終りを迎える。まず人の子が裁かれ死なれる。

イエス様がずっと見ておられたのは、その裁きの十字架です。御言葉によって全世界を造られ、私たち一人一人を造られた神様が、ご自分が愛し、お造りになられた人々に、私にはあなたなど必要ないし、むしろ私の人生の邪魔をするなと、捨てられ、罵られ、殺される。その十字架をじっと見つめて、自分を殺そうとする人々に主の憐れみを教え続けられながら、十字架に向かって立ち止らずに進んで行かれる。それは想像し難いことですし、何故そんなことがおできになられたかと、詮索すること自体、神様の愛がわかってないということなのかもしれません。けれど少なくとも、こう問うことは許されるのではないかと思うのです。イエス様はノアの洪水を見ておられた。滅び行く大勢の人を見られながら、あるいは大勢の人の滅びであろうと、一人の人の滅びであろうと、ご自分が愛され造られた人が裁かれるところを見られながら、しかし、その一人一人の神様であられる三位一体の神様は、きっと耐えられない思いであられたに違いないのです。その愛のゆえ、三位一体の神様は、御子を人の子として、世に遣わされることを決められました。神様はこの滅び行く世界の罪を、御子に負わせて、裁き、赦される救いを選ばれました。

その人の子、イエス・キリストが言われるのです。だからあなたは、この滅び行く坂道の途中で立ち止り、そこに立てられた十字架を仰いで命を得なさい、赦しの十字架によって打ち立てられた、裁きに打ち勝つ憐れみの御国に、あなたは身を寄せて生きればよいと、主は、十字架を見させてくださるのです。これこそが、私たちの見ることのできる神様の御国の証拠です。ならば私たちもまたイエス様と共に、十字架に命の焦点を合わせて生きるとき、やがて来る裁きに真剣な思いで、向き合うこともできるのです。襟を正してイエス様の再臨を待ち望む、心備えができるのです。弟子たちが、まるで他人事のように、どこにその恐ろしい裁きは起こるのですかと尋ねたように、ピントの外れたことを問うこともなくなるでしょう。罪のない所があるのでしょうか。自分には罪がないと言えるのでしょうか。神様は全世界を公正に裁かれます。裁かれない人は一人もいません。けれど人の子が来られるその時に、裁かれるというよりはむしろ、そこで十字架の上に取り上げられるようにして、神様の裁きの何たるかを、十字架で知る者がいると主は言われます。謎めいた言い回しではありますけれど、死ぬということを考えてみても、私たちは、主のもとに召されるという恵みを知っているのです。死体のある所を、復活の園に変えられた、人の子の希望に生きられるのです。