11/5/1朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書17:11-19、エレミヤ書17章14節 「いやしと救いの間」

11/5/1朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書17:11-19、エレミヤ書17章14節

「いやしと救いの間」

 

この御言葉を読みまして、神様に感謝するとはどういうことかと昨日思いを巡らしていました。するとギヤーと息子の叫び声がして、急いで降りていきますと額がパックリ割れていまして、幸いすぐに血は止まりましたが、妻が救急に電話をかけて一緒に医療センターに行って、外側を七針、中の肉も引っ張って縫い合わせる手術をしてもらいました。しばらくして家に帰ることもできる状態で部屋から出てきた息子を見て、心から神様に感謝しました。生々しい話ですが、別の意味で生々しい話をしますと、歩いて出てきた息子を見たとき、主よ、明日、感謝献金を捧げますと。神様に感謝を何かで表したい、神様に何かをしたいと言えば良いでしょうか。きっとイエス様のところに急いで戻ってきて、大声で、それはもう大声で賛美しながら、ひれ伏し感謝したこのサマリア人も、憐れみを与えて下さったイエス様に、感謝せずにはおれんかったのだろうと思うのです。

心の内側で、ありがたいなと思うだけではない。また、表に表れ出てくるというだけでもないのです。おそらく他の9人の癒された人々も、それまでと同じ表情ではなかったろうと思います。まさかそうではないでしょう。喜びが心から溢れ出て、やはり大声で、やったー、やったーと叫んだのじゃなかったろうかと思います。違うでしょうか。感謝がなかったとは思いません。神様、ありがとうございますとまったく思わんはずはないでしょう。けれどイエス様のもとに、くるりと顔を向け、心をイエス様のもとに向きなおし、更にはひれ伏して感謝するまでには、他の9人はいたらんかった。どうしてでしょう。また、イエス様の言葉を借りるなら、当時のユダヤ人から外国人と呼ばれ、差別をされていたサマリア人が、イエス様のもとに、くるりと足を向け、顔を向け、心をイエス様のもとに向きなおして、まるで日曜日の礼拝が待ちきれんというほどに、心急いで、だんだん走ってイエス様の足下にひれ伏して感謝を捧げた。何故でしょう。何が両者の違いを生むのでしょうか。そして癒しと救いの違いを生むのでしょうか。癒されたのは10人です。けれどあなたの信仰があなたを救ったとイエス様から言っていただいたのは、当時のユダヤ人が、あの人々は救われんと思っておった何とサマリア人だった。

何で救われんと思われておったか。サマリア人は、先祖が純粋なユダヤ人でなく、戦争で負けた後の政略によって外国人と強制結婚させられたからというのもあるのですけど、問題は、それ以来、彼らの信仰しておった中身が、旧約聖書の証言する信仰かどうか、怪しくなっておったというのが一番の問題でした。聖書も創世記から申命記まで。その後はユダヤ人の王ダビデから救い主がお生まれになるという約束が中心となっていくからでしょうか。へ、ダビデの子中心のユダヤ主義なんか信じないと、聖書の一部しか信じない。言わばユダヤ教の異端だと思われておったのがサマリア人です。だから、サマリア人が救われるはずがないとユダヤ人は思っておって、ずっと犬猿の中だった。じゃあユダヤ人なら自動的に救われるのか。ユダヤ人なら、自動的に正しいことを信じておって、自動的に神様を信じておって、その信仰が正しいから救われるのだと、またサマリア人の信仰は、自分たちのようには正しくないから救われないのだと、本当にそれが言えるのか。何が救いの根拠であって何が信仰の正しさだと主は言われるか。それがイエス様のお言葉の背景にあるのです。救われる信仰を告白したのは、誰だったか。正しくないと思われておった、サマリア人ではなかったか。あなたの信仰は、ではどうか。あなたは今、どこにおるかと問われるのです。

この9人も、癒される信仰はあったのです。行動に表された信仰と言えば良いでしょうか。イエス様のお噂を耳にしたのでしょう。この方なら癒して下さるかもしれない。どんな先生かはわからんけれど、神様の力を受けておられる先生に違いない。もしそうでなくても期待したい。そして行動に出るのです。イエス様のもとに行くのです。ただし人々に近づくことは禁じられておって、それをわきまえてもおりましたから、村にも入らないし、同じ苦しみを知る者同士、一般には差別されていたサマリア人も、お前も俺らと一緒やねや、仲間やねやと、村の外側で、入口からも離れたところで、イエス様が来るのを待ち構え、イエス様、憐れんで下さいと声を張り上げた。心に思うだけでなく、行動に現れた信仰です。信仰は行動に出るのです。そしてイエス様もその信仰をご覧になって、その信仰があれば癒される、そうだ、神様はあなたを憐れんで下さると、彼らの行動に現れた信仰を認められ、だから行動にすぐに出なさい、清めの宣言をしてくれる祭司のところに、さあ行きなさいと言われます。そして彼らはすぐに出かける。見事な信仰だと言えるでしょう。まだ結果は出てはないのです。結果を見んと信じれんというのではない。結果が出てなくても、信じて行動に出るのです。彼らは信じて出発する。そして癒された。10人は、もしかすると差別されておったかもしれません。こんな病気になったのは何か悪いことをしたからだと、勝手な憶測で差別され、人格を否定すらされたかもしれません。けれどイエス様は、その一人一人の人格を認められ、憐れまれ、信じる者には神様の力となって働かれる、神の言葉をくださるのです。

そのお力が働いて彼らの病は癒されました。10人残らず癒されました。主は10人を憐れまれ、信じる者には力ある御言葉をくださって、10人はそのお力を信じて行動に出て、憐れみをその身に受けました。けれどその憐れみを受けたとき、癒された、やったーと思った人と、神様が私を憐れんで下さった、神様が私を心にかけて下さった、憐れみ深い神様が、私をも憐れんでくださる神様が助けて下さった、神様がなさった、神様が癒して下さったーと思ったサマリア人とで、行動が二つに分かれます。動いて行くと書いて行動です。体が動く行先に、その信仰の中身が現れます。10人皆、癒しは求めておったに違いありません。でも1人が走って行く先に、ごんごん走って行く先に、やがて小さく、だんだん大きく現れたのは、彼がその憐れみを求め、助けを求めて祈っておった彼を救い出す彼の神様のお姿でした。彼は癒しを求めるよりも、助けを求めておったとも言えるでしょうか。癒しは自然に癒えることもあるでしょう。けれど助けは、誰かが助けてくれんといかんのです。先週お話した罪の赦しも同じです。赦してくれんと赦されません。助けてくれんと助けられません。誰かに憐れんでもらわんかたら、憐れみを受けることはないのです。憐れみって、助けて欲しいってことですし、助けてあげたいってことでしょう。きっと求めておったのです。助けて欲しい。助けて下さい。神様、本当にあなたがおられたら、私を助けて下さいと祈っておったのではないでしょうか。少なくとも、求めておったのではないでしょうか。きっと求めておったのです。神様を求めておったのです。求めなさい。そうすれば与えられると主は言われました。何かを、でしょうか。探しなさい、そうすれば見つかる。叩きなさい、そうすれば開かれると主は約束をして下さいました。勝手にドアは開きません。開けて下さる方がおられる。神様は開いたドアとして来られたのです。憐れみ深い神様が私たちの救い主として来て下さって、罪の赦しという鍵を開け、重荷を負うている者は誰でもわたしのもとに来なさいと、私たちのところに来て下さった。その神様のもとに行くのです。憐れんで下さいと求める者に、わたしはあなたを憐れむと御言葉をくださる神様の足下近くにさえ行くのです。神様に救われる信仰がここにあります。