11/4/17朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書16:19-31、詩編17篇6-15節
「富の誘惑、主の慰め」
今週、私たちは教会の暦で、受難週と呼ばれる特別な週を歩みます。この週の木曜日に、イエス様は弟子たちの足を洗われて、最後の晩餐をなさった後、人々の手に渡され、金曜日、十字架に張り付けにされて、罪人の身代りに死なれました。そして、陰府にくだられた。
陰府という言葉は、人が死んだ後に行く場所という意味です。一般に天国と地獄という分け方で考えられることが多いように思いますけど、イエス様は陰府と言われます。むしろ陰府の中に、神様の友と呼ばれたアブラハムがいる上の方と、その間には大きな淵がある下の方があるというイメージでイエス様は陰府を語っておられます。ただこのイメージは、当時一般に流通しておったイメージで、イエス様が一般の人々にもわかりやすく、そのイメージを下地に譬えに用いられたというのが実際のようです。陰府の内部構造について教えることなど、イエス様は全く関心を持ってなかったとも言えるでしょう。それは救いの本質ではないからです。聖書によれば陰府もやがて滅びる定めにあるものです。死者は復活し、陰府はその存在意義を失います。そんなものを語っても仕方ない。問題は、神様の裁きです。生きている間にもらったものに、忠実であったか。それとも自分を押し通したか。16章全体、あるいは15章から続いている一大テーマ、私たちは神様の憐れみのもとで神様に向き合って生きているか、それとも神様から遠のいて自分勝手にしてはいないか。これはあなたの死後に関わる、あなたの永遠に関わる一大事だから、よく考え直して、悔い改めて生き直して欲しいと、主はこの譬えを通して言われます。
この金持ちは暑いパレスチナが舞台でしょうけど毎日快適に暮らしていました。柔らかい麻布は汗を吸って蒸発させ風通しのよい気持ちよい高価な下着です。高知の夏を想像したら、ああ、これは快適やろうというのがうんと現実的にわかります。最高級ドライメッシュという感じでしょうか。毎日快適に暮らす。そりゃあ誰もが望むでしょう。
けれど、すぐそこでイエス様は、見よ、ここには格差があると、もう一方の現実に目を向けさせます。汚い恰好で横たわっている人がいる。今の高知で、門前に人が横たわっているのを見ることはほとんどないかもしれません。でも眼前にはどうか。目を開けば、格差は見えてくるのです。ラザロも患っておりましたが、病も格差を生じさせます。病ゆえ仕事に就けないという悲しみもあります。そうやって更なる格差が生まれてもいって、お葬式にまで格差が生じる。金持ちはさぞかし盛大に葬られたのでしょうか。涙を流してくれる人の数にも、きっと格差が生まれるのです。
そして場面が変わります。格差も大転換するのです。死後にも格差がある。しかも生前の格差と、無関係ではないのです。主はアブラハムの口を通して、こう言われます。子よ、思い出して見なさい。あなたは生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、あなたはもだえ苦しむのだ。無論、そんなんだったら、良いものをもらわなかったらよかったというのではありません。その頂いた良いものを、あなたはどうしたかと問われるのです。神様から与えられた富の、良き管理人であったか。神様の恵みに忠実な生き方、友のため、与える生き方をしてきたか。総決算があると言われる。
金持ちは自分の快適さのために、もらった良いものを消費してきた。眼前に横たわるラザロのために、しかも、その格差を埋めるほどまでに用いるということを、神様から求められているのではないのかと、彼は少なくとも祈って神様に尋ねたことがあったでしょうか。私がもらった良いものは、何のため、もらったものかと、神様に向き合って、その舌で問うたことがあったでしょうか。それからラザロに話し掛けたことがあったでしょうか。慰めの言葉をかけたでしょうか。あるいは言葉だけでは足らんと知っていて、だから話し掛けることもせんかったでしょうか。それとも軽蔑の言葉が口から出たか。その舌を彼はどう用いたか。日本語では、口と言ったほうがわかりやすいかもしれません。口は災いの元とも言われます。ユダヤでは、舌は火だ、しかもこの小さい火が、人生を焼き尽くすと言われたりもします。金持ちが受けている火の苦しみは、所以なき一般的裁きではないでしょう。人は自分が蒔いた種を刈り取ります。神様の裁きは具体的です。罪は具体的だからです。悲惨で具体的な罪と裁きの現実をイエス様は具体的な死後の姿として描かれることで、具体的な悔い改めを求められます。金持ちはその口をラザロのために用いたでしょうか。口だけなんて意味がないからと、優しい言葉を口にさえしないで、憐れみのスタート地点にさえ立ち得なかったか。その金持ちが叫ぶのです。わたしを憐れんでください。
憐れみとは何かを、金持ちはここで初めて知ったのでしょうか。もしそうならば遅すぎるのです。憐れみとは何か。イエス様が、あなたがたの天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさいとおっしゃった。その憐れみとは何を言うのか。助けてほしいということでしょう。助けてあげたいということでしょう。ラザロという名前で主はこの助けを必要とする人を呼びました。ヘブル語で、神様が助けてくださる、という意味の名前です。イエス様の数ある譬え話に登場する人物で、名前がつけられているのはラザロだけです。どんな思いを込められて、イエス様がこのラザロの名前を呼ばれたかと思います。様々な登場人物を出しながら、イエス様は多くの譬え話をされました。目の前で話を聴いている人を、その登場人物に重ねながら、あなたはこの人ではないのか、そうであるなら、あなたは今何をしなくてはならないかとイエス様が、聴く耳のある者は聴きなさいと呼びかけられた。あなたに聴いてほしいのだと、そして心から変えられて欲しいのだと、私たちの物語を語ってくださった。
私たちはもしかすると、金持ちに自分を重ねて聴くかもしれません。だいぶ前ドイツの神学校に留学しておられた先生が言われるには、当時社会運動とか連帯とか盛んに言われていて、神学校でも、貧しい国々に献金をしようと呼びかけがあって、そこでこの譬え話が読まれた。でもその先生は、連帯はもちろん結構だし、献金はするべきだろう、けれどこの御言葉を聴いて、献金袋が回されてきて、財布から多少の献金をして、しかし、そういう話だろうかと皆に問いかけられた。イエス様が、ここで求めておられるのは、そういうことかと。もしかしたら、そのお金で、私たちが本当に変革しなければならないところを、何も変えないままで、済ましてしまうことになりはしないかと問いかけられた。その問いは的を射抜いていると思うのです。その先生はこう続けます。私たちは、自分がラザロであることを見ない限り、私たちは神様の憐れみに生き得ないのではないか。神様に助けて頂かなくて生きている人など、たったの一人でもいるのでしょうか。あるいは貧しさや病を負って、私は助けてもらってないと思う人ならいるかもしれません。もしかしたらラザロもそうだったかもしれません。彼の人格が温厚で優しく憐れみに富んでいたとかは言われんのです。信仰がどうであったとかも言われません。無論、なくっても一向に構わないということではないでしょう。むしろ、ここでイエス様が強調されるのは、彼が神様に助けてもらったという、その一点です。この世では散々な人生だったに違いないラザロは、神様に助けてもらった。病を負った貧しいこの人を、イエス様は、限りない憐れみを込められて、ラザロと呼ばれ、ラザロは慰められると言ってくださった。イエス様が、あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい、と呼びかけて下さったすぐ前で、こう約束して下さった言葉を思い出さずにはおれんのです。貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。そして、こうも言われた。しかし、富んでいるあなたがたは不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは不幸である。あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は不幸である。あなたがたは悲しみ泣くようになる。だからイエス様は私たちに言ってくださった。あなたも憐れみ深い者となりなさい。父の子供になりなさい。あなたの罪を、ただ憐れみによって赦してくださり、御子を十字架にお付けになられた、憐れみ深い父の子供になりなさい、もし今あなたの人生が不幸でも、貧しさと病で涙に暮れていようとも、神様はあなたを助けてくださる。あなたの永遠は神様の憐れみによって助けられる。父の憐れみのもとにいるラザロ、あなたは幸いだ、あなたはラザロではないのかと、イエス様はこのとき既に、すべてのラザロの十字架を負って、呼びかけられていたに違いないのです。だからあなたも父の憐れみに助けられ、憐れみの子として生きていけと。
キリストは私たちの全ての罪を十字架で負われて、死んで陰府にまでくだられた。死んで終りではないのです。死んだ後、陰府で苦しむか慰められるかだけでもないのです。キリストが陰府にまで降られたのは、陰府を終わらせてしまうためです。キリストがポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架に付けられ、死んで葬られ、陰府にまで降ってくださったのは、三日目に陰府の扉をこじ開けて、死人の内からよみがえり、あなたも死してなお永遠に生きる、復活の憐れみに生きなさいと私たちを招かれるためなのです。その復活の希望のもとで、この譬え話も語られた。そのイエス様ご自身、またこうも言われる。たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聴き入ればしないだろうと。ならイエス様は無駄な復活をされたのでしょうか。神様にはそうではないのです。人には閉ざされた固い心も、人間は超えていけない深い淵をも、神様なら越えていけるのです。だから、御言葉を聴くのです。御言葉で世界を造られた主の言葉を、闇に光を、死者に命を与えて下さる命の御言葉を聴くのです。人は皆、神の言葉によって生きるのです。