11/3/27朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書15:25-32、ホセア書11章8-9節
「憐れんで当たり前やか」
好きな人の言うことを聞くのは苦ではないのに、好きでない人の言うことを、なのに聞いて従わないかんとき、これを人は、義務と呼ぶのでしょう。天の父の愛は決して義務ではないのにです。これは神様と私たちの譬えであり、兄の考え方はこうなのです。私は義務を果たしてきたのに、弟は義務を果たしてこんかった。その弟が、間違っている弟が、喜んで受け入れられるのは間違っている。怒りは正義の表れとして噴き出します。自分の正義が否定されると、人は顔つきが怖くなります。
不公平だと思ったのでしょうか。損をしたと感じて、頭に来たのか。自分の自由にしたいという気持ちを我慢して、義務を果たしてきたのにと。兄が「わたしは何年もお父さんに仕えています」と言った言葉は、直訳すると「奴隷奉公しています」です。自分は奴隷として我慢して仕えてきたのに。なのに義務とか奉仕とかちっとも考えてない、自分のことしか考えてない、あの脳天気な裸の王様である、あなたの息子が、弟とは呼びません。呼びたくもないほど怒っているのです。あなたのあの息子が、好きなことをやって当然の報いで苦しんで、裸になって帰ってきたら、何と家にある一番上等な服を着せられて、皆喜んでお祝いをしてご馳走を食べて、なのに私は野良作業の服を着て、疲れて奴隷奉公をして帰ってきて、どうして一緒に喜んで食事につけるかと、ちゃぶ台が空を飛ぶ。ま、気持ちはわかります。言いつけに一度も背いたことがないほど頑張って奴隷奉公してきた私に、なのに子山羊一匹さえ友だちと喜びやって恵んでくれたことなど一度もなかった。ズルイ、不公平や。そんながやったら、私も好き勝手やったらよかったと、弟の帰りを喜べない。でもそれは、兄も父の家に帰ってないから、彼もまた父から遠くにいるからだとイエス様は言われるのです。
父の言いつけと訳された言葉は、掟という言葉です。教会学校の礼拝で十戒を唱和するとき、私はいつもこう言います。神様が下さった神の家族の掟、十戒を一緒に唱和しますと。十戒の冒頭、前文と呼ばれるところで主はこう言われます。わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。その神様の掟を守るとき、奴隷奉公すると感じるのなら、まだ奴隷の家にいるのです。いや、神様の家にいるにもかかわらず、私がいるのは奴隷の家だ。果たさないかん義務に縛られ、あれをせないかん、これもせないかん、それでも義務は義務やき、やらないかんがやと、そうやって父との関係を感じておればこそ、あるいは父の心を感じることもなく、せないかん義務にだけ心がいって、義務だから頑張ってやっているなら、喜びは失われてしまいます。その名を愛と呼ばれる神様の、家族の掟を義務と感じたら、家族愛が失われ、奴隷になって、父から遠のいてしまいます。
兄は、突飛な想像かとも思うのですが、本当は甘えたかったのだろうかと、ふと思いました。私が兄だからでしょうか、弟ばっかりズルイ!という気持ちを、つい考えてしまうのかもしれません。掟を破ってきた弟が受け入れられるのはズルイと思う。それこそ掟破りだ。しかもそのルール違反を、父がしているのが頭にくる。真面目にやってきた私が、どうしてここで腹を立てなければいけないのかという気持ちは、けれどまるで小学生ぐらいの時に、何か味わってきたような気もするのです。
甘えって何でしょう。甘えの研究で有名な土井健郎さんの著作など、読まれた方もおられるかもしれませんが、端的に言えば、甘えは二つに分けられるかと思います。一つは自分を受け入れて欲しいという甘え。もう一つは、自分の好きにさせて欲しいという、言わば甘ったれです。あまり図式的過ぎるのも良くないと思いますが、この二つは重なるところもあるでしょう。本来の甘えである、自分を受け入れて欲しいという思いは、受容欲とも言えるでしょうか。お腹の中の胎児のように、そのまま受け入れられたいという思い。それは神様が三位一体の神様の形に人を造られた、互いが互いに受け入れあっている、愛の本性とも言えるような、人間に与えられている本来の甘え、あるいは本来の自己愛とも言えるでしょうか。それとある程度重なるようにしてあるのが、言わば甘ったれでありまして、自分の好きにさせて欲しいという自己欲。我欲とも呼ばれますが、受け入れられたいというよりも、まるでブラックホールのように全部自分のモノにしたいという飽くなき吸収欲、支配欲。自分が自分が、自分で自分で、自分の好きにさせて欲しいという欲望は悪い自己愛、罪の根源です。
現代はこの二つをごちゃ混ぜ、ない交ぜにしてしまい、愛することを自己愛の追求に置き換えました。そして愛の現場を、人への愛も、神様への愛も、ぐちゃぐちゃに破壊してきたように思います。違うでしょうか。だからこそ、繰り返し語る必要があるのです。神様は人を愛し受け入れてくださいますが、罪は甘やかされません。主の愛は、自分の好きなことをして良いという甘ったれの許可ではありません。その名を愛と呼ばれる聖なる神様は、罪をまるで無害なものと受け入れ許可をすることは決してありません。罪は人を傷つけ殺します。だから罪は罪として断罪されて、罪を犯したら処罰され、必ず裁きを神様から受けます。
ならば甘ったれて自分の好きなことをして苦しんだ弟を、蔑んだ兄が正しくて、受け入れた父が甘ったれているのだと、兄が勝ち誇ることができるのか。決してそうではないと主は言われます。イエス様は決して甘やかすことのない父と完全な合意をされた上で来られた救い主です。聖なる三位一体の神様の御子である方が、罪人の身代りとなれるよう、人として生まれて、その救い主として言われるのです。わたしが父の掟を一身に受けて、罪の裁きを全部身に負って、十字架であなたのために裁かれ死ぬから、あなたは赦されて父のもとに帰りなさいと。あなたの父の御心は、あなたが帰ってくることなのだと、イエス様はこの兄の話をされるのです。あなたも父に、受け入れられているではないかと、父の憐れみを語られます。あなたも、あなたの弟も、まったくの恵みによって赦され、受け入れられているのなら、そこに不公平などないではないかと、自分を信じる甘ったれから兄を解放されているとも言えます。この父の恵みと憐れみのもとでなら、自分では受け入れがたいと思う人をも、きっと受け入れられるだろうと。
怒り、あるいは受け入れたくないという感情は、相当に御し難い感情であると思わされます。イエス様の譬えはここで終わって、後は聴く人に委ねられます。ここでも聴く耳のある者は聴きなさいということになるのです。兄は弟を受け入れたでしょうか。いや、私こそ恵みによって父から受け入れられているということを、兄は受け入れたでしょうか。そこに罪の本拠地があるのです。この譬えを聞いていたファイサイ派の人々は、悔い改めて、今まで蔑んでいた罪人を、受け入れ喜んだでしょうか。かえって怒りを深くしたのではなかったでしょうか。その怒りがイエス様を殺すのです。私は間違ってないという自分の正しさ、傷ついたプライドが、神様の憐れみに牙をむき、キリストを殺し、父から自分を遠く引き離し、自分を失わせてしまうのです。それ故、この譬えは、二人の放蕩息子の譬え、あるいは二人の失われた息子たちの譬えとよく呼ばれます。兄もまた父から遠くにいます。一つ屋根の下におったとしても、兄の心は父から遠く離れた荒れ野で、自分の正しさが支配する、私の王国で暮らしています。表面上は父に従っているように見えても、人には見えない心の中で、自分が正しいとしているのなら、それ故に、父の言いつけの本意が見えんのです。掟の優しさを閉め出して、神様と表面上の関係に留まって、そうなると掟が義務になってしまい、表面上は従っているようでも、心では、こんな厳しい掟を頑張って守っている自分を褒めてあげたいということにならんでしょうか。よくぞ、こんな言いつけに頑張って自分は耐えていると。だから、頑張ってない弟が頭にくるし、頑張ってない弟を受け入れる父にも腹が立つ。甘い。何でこんな甘い受け入れをして、しかも喜んで受け入れるのか。義務を頑張って果たしている私こそ、私こそ受け入れられるのが当然じゃないか。
けれどこの兄を受け入れようと家から飛び出してくる父の憐れみこそ甘い!と思われんでしょうか。甘いでしょう。弟は少なくとも、自分が間違っていましたと、自分自分ではダメでしたと我に帰って悔い改めて父の家に帰ってきたのです。ごめんなさいと言って帰って来たのです。この兄はまだ自分の正しさに固執しています。まだ自分が間違っているとは思えない。認めたくない。その正しさでキリストを殺すのです。人をも自分をも殺してしまう、誰をも活かしえない自分の正しさという罪を抱えて、兄は怒り続けているのです。だからこそキリストはこの罪と怒りを受け止められて、あなたを殺すこの罪は死なないかんと、両手を広げられて十字架に上げられて、打たれたご自分の命の中に、この罪を受け止められるのです。受け入れたらいかん罪だからこそ、この罪を父はキリストに負わせて、御子との完全な合意のもとで、兄をも神の家族として受け入れるために、救い主を断罪なさるのです。十字架の御子の執り成しは、兄への執り成しです。未だ目を吊り上げた兄に囲まれて、キリストは、兄の赦しを乞われるのです。父よ、彼らを赦して下さい、自分が何をしているか、わからんのですと、ご自分は、父から罪そのものとして処断され捨てられ死んでしまわれる。これが甘くなくって何なのでしょうか。弟が受け入れられるのは甘いでしょうか。聖なる三位一体の神様は、兄をさえ受け入れられるため、御子を見殺しにされるのです。これが甘くなくって何なのでしょうか。でもだからこそ、人は神様の憐れみによって生きられるのです。何をしているかわからない、自分の正しさを抱えて死のうとしている兄もまた、自分を知って我に帰って悔い改めることができるのです。私たちの罪を赦すのは、御子をくださった父なる神様の驚くべき憐れみの甘さ以外の何物でもない。この甘い憐れみと恵みによってのみ、頑なな心も変えられます。いくら頑張っても変わらなかった心が、父よ、とすがるとき変えられていきます。下手な祈りでも、下手な甘えでも、父よ、とすがりついていく私たちの心を父は必ず喜ばれるからです。この喜びが、神の家族の当然なのです。