11/3/20朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書15:11-24、ゼカリヤ書3章1-5節 「うちの子が帰宅した!」

11/3/20朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書15:11-24、ゼカリヤ書3章1-5節

「うちの子が帰宅した!」

 

自由になりたい、自分の自由に生きていきたいと、おそらく皆どこかで思っているのでしょう。けれど、実際は中々そうはいかなくて、外食をしたり、買い物をしたりして、プチ自由を少し味わっては、またもとの生活に戻っていく。それが大方の自由の選び方なのかもしれません。それなのに、私の分になる遺産を分けて欲しいと、親がまだ生きちゅううちから尋ねるらあて、どんな神経の持ち主かと、聴いていてお思いにならなかったでしょうか。もし私が息子から同じことを言われたら、俺の子やきねゃと、諦めるかもしれません。が、もしも娘に言われたら、妻の、いやいや、お父さん何を間違うたろうと涙ぐむかもしれません。

イエス様が語られたこの譬えは、聴いて難しいところはあまりないと思います。当時のユダヤの習慣では長男が他の兄弟よりも二倍の遺産を受け継ぎますから、弟が、それなら自分の力でそれを倍にしてやろうとあるいは考えたかもしれない。また、ユダヤでは豚を汚れた動物と見なしましたから、豚の世話をして生きるというのは、自分を汚す生き方をすることである。それはイエス様に近寄ってきた罪人と呼ばれた人々の生き方が暗に言われているのだろうという説明を他にすると、後は難しい話ではないと思います。例えば上手い噺家が落語でやったら、涙して聴く人もいるかもしれない、言わば、良い人情話の趣もあります。ただ明らかにここで語られている父親は、あなたの天の父なる神様のことだという譬えを主は語っておられる。昔からこの譬えが福音の中の福音と呼ばれてきた所以でしょう。失われた我が子の帰りを見つけた神様が、どんなに心つき動かされ揺さぶられて、走り寄って来て抱きしめてさえくださるか。何故イエス様が私たちに、あなたは祈るとき、天の父よと呼びかけるよう教えられたか。ここに美しく描かれるのです。

ただ、この父が私たち一人一人を造られた父なる神様であればこそ、よく読むと、わかりにくい話でもあるのです。何で父は遺産を分けてしまうのか。分けますか?借金の返済で困っちゅうと泣きつかれてというのであれば、わかりますが、要するに、あなたから自由になりたいきと言われて分けるというのは、人間の親子の常識ではありえんでしょう。教会で言うなら、教会生活が窮屈になってきたき、教会を抜けさせてください、それで私が神様に捧げてきた献金を返して下さいと。長老会で承認されるでしょうか。むしろ説得されんはずがありません。もし何も言われんかったとしたら、そんなあなたとは、こっちから縁を切りたいということでしょうか。であれば手切れ金です。私たちの父はそんなにも怒りっぽくて無口な父だと主は言われるのか。断じてそうではない。むしろ息子。息子は父の語る言葉を聴いておったのでしょうか。聴く耳を持ってなかったら、どんなに熱心に語られていても、素通りで自分のことだけで終始してしまう。だから聴く耳のある者は聴きなさい、神の言葉を、聴いて欲しいと、イエス様も言われたのだと思うのです。

遠い国に旅立つずっと前から、息子の心は父から遠ざかっていたのかもしれません。聴く耳持たず、心ここにあらず。ならどこにあるのか。父から遠く離れたところで、自分の力、自分の人生、自分の幸せを夢見ておった。その息子に、父は財産、ビオスを分けたと主は言われます。直訳は、生命の分け前を与えたです。同じ言葉が例えば長く出血を患っていた女性が医者に全財産、生命を使い果たしたと言われます。また、エルサレム神殿で献金を捧げた貧しいやもめ、未亡人を見てイエス様が彼女は生活費、生命の全てを捧げたと言われた。生命を支えている財産という言葉です。父は、俺に人生をくれという息子、あるいは人生を私の人生にしたいという娘に、それならと生命を分け与えられます。神様はそのように、私はこれをしたいという人間の自由を、尊重される神様であるというのは、確かに聖書全体の語る真実です。神様は、罪を抑制されますし、やめなさい、死ぬな、生きよと言われますけど、聴く耳を持たないで、私はこれがしたいと執拗に自分の人生に固執する者をも、人としてその自由を尊重されます。そして人間は命をいただいた神様に背いて、罪を犯すことを選ぶのです。そして何をするかの自由を確かに与えられてはいますけど、その行った行動の結果を選ぶ自由はありません。人は自分の蒔いた種を刈り取ります。本当は誰もが知っていることではないでしょうか。そして息子は、父から遠のいて生きることを選んだ結果、いただいた人生を、無駄にします。

無駄って何でしょう。礼拝も無駄な時間と思うから行こうと思わんのかもしれません。それって有益ではないということでしょうか。無益。言っても無駄。馬の耳に念仏。無駄。そう言います。役に立たん、思ったような効果をあげんから、お金の無駄、時間の無駄とよく言います。でもそれって、利益主義という考えが基本にあると思うのです。生き方の基本、人生の座標軸にしているとも言えるでしょうか。中学の数学で学んだのだったか、X軸とY軸のグラフで、人生の利益、損得を測る。例えば横軸の下は損。上は得。縦軸の右はお金を儲けるとか、実際上の損得。縦軸の左を精神的な損得とするとして、私が7,000円の神学の本を買うとする。内容が良ければ、私は得と思いますが、本に7,000円!内容は?宗教改革と聖餐式について?さあ、この7,000円の買い物を座標のどこに置きますか。無駄って、こういうグラフの上で計算されるのではないでしょうか。聖書でも、豚に真珠とか言いますから、グラフで考えることが全くないとは思いません。急所は、そのグラフの中心に、誰がおるかです。中心におるのが自分なら、無駄は、私にとっての無駄ですし、損か得か、有益か無益かも、ぜんぶ私にとってです。自己中心とはそういうことです。例えば、少し贅沢をして、170円の甘いものを買っても、いやけんどこれはほら、ストレスを和らげるため、精神的には有益やき、これは無駄な買い物じゃないがやきと自分に言い聞かせることが多いのは私だけでしょうか。1,700円はどうでしょう。17,000円ならどうでしょう。放蕩息子は、一体幾らを自分に使って、これも役に立つ、損失も勉強のうちと言い聞かせて、幾ら勉強をしたのでしょう。彼は誰のために役に立つと思ったのでしょう。彼は命を無駄遣いしたとイエス様は言われるのです。この人生の座標軸の中心に、神様におっていただかんかったら、人生は破綻すると主は言われます。

いや、めった。こんな話を聴いたら、これからお菓子も食べれんなると心配されている方はおられるでしょうか。大丈夫です。そういう話になってしまうと、今度は来週話をする兄の間違いに陥りますので、自分の自由が何もない、自分のためには何ちゃあできんという話ではありません。安心してスイーツを買って欲しいと思います。イエス様もきっと甘いものを食べては大喜びで、こりゃうまいとか言って楽しまれて、けれどファリサイ派の人々からしたら、それが気に食わないのです。

急所は、神様を私の主よとお呼びして、人生の中心を明け渡しているかです。そして、その主のお顔を仰いでも、この甘党の罪人めと、そんなことで怒ってない、むしろ、私のことを私以上にご存知で、弱さをも憐れんでくださる父のお顔を感謝して仰いでいるかどうかです。神様との関係を神様中心に楽しんでいるかどうか、そう言っても良いのです。放蕩息子が、どうして人生を無駄に使ったか。父との関係を無視したからです。父との関係をさえ自分の座標軸のどこかに位置付け、だから、私はこの父から離れて暮らしたい、父と一緒だと自由になれないと、こんなにも憐れみ深い父を捨て、父が自分を思ってくれている深い憐れみがわからんなるほどに、自分を父から遠く離したからです。

だから、父なる神様の憐れみから遠く離れた放蕩息子は、それがすべての間違いだったと、悔い改め、父のもとに帰ろうと向き直った。人はそのとき、本当の我に帰るのです。自分を天の父の前に置いて初めて、人は自分の本当の座標を知るのです。我に帰るってそうでしょう。父なる神様を知らずして、どうして自分がわかるでしょう。そして、そこでまず知る私たちの姿こそ、放蕩息子がまず知った、父にとっては無益に生きた貧しい自分の姿です。甘いスイーツを食べることさえ、父に感謝し、こんなことさえ喜んで下さる父の喜びのためにと、一度でも食べたことがあったろうか。父のため、すなわち父の御心を求めて、私が何をしてきたろうか。私は父に罪を犯した。その人格を無視し続けた。もしも父の座標軸に私を置いたら、どんなに無益な人生を無駄に過ごしてきたことか。まず、その本当の我に帰るのです。

でもそれで終りではないのです。その無益な放蕩息子に向かって父が走り寄ってきて抱きつくのです。おんしは俺の子供やと言うて下さる。まだ遠く離れていてもです。その距離を埋めるのは、熱心な悔い改めではありません。ご自分から遠く離れていた無益な息子が、ごめんなさいと我に帰るとき、その距離を、それがどんなに遠くても、遠すぎて帰ることができんということが決してないよう、父のもとに帰るその距離を父の憐れみが埋めるのです。こんなに悔い改めましたからという態度の中心に、誰がいるかを考えたら、きっと素直にわかるのです。こんなに頑張って生きてきましたからという態度の真ん中に、誰が座っているかを考えたら、救いがどうしてただ主の憐れみによるのかが、天国への道が、どうして主の憐れみで満ちているかが、きっと見えてくるのです。その憐れみの道となるようにと御子イエス・キリストは来られました。神様が人となられて、私たちの罪を全て負い、罪人がどんなに遠く離れていても、ただキリストの犠牲のゆえに帰れるようにと、キリストが身代りに裁かれ死なれた。ここに父の憐れみがあるのです。神様と人とに罪を犯して歩む私たちに、すべての報いを刈り取らせるのでなく、避けられない裁きと報いは確かにあっても、それでも帰って来れるように、この道を通って帰って来れるようにと、キリストが、死んでなお復活して永遠に生きられる、救いの道となってくださった。死から立ち上がってくださった。だからどのような罪人でも、どんなに無駄な命を生きたとしても、人は立ち上がることができるのです。キリストを、死から立ち上がらせてくださった、全能の父が立ち上がらせてくださる。だから私たちも罪と死から立ち上がり、父のもとに帰ることができるのです。