11/1/23朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書13:10-21、出エジプト記23章12節
「束縛は解けた」
今日は私たち高知東教会の教会設立記念礼拝を捧げています。大津の地で南国教会大津伝道所として伝道を開始したのは1987年ですが、いよいよ準備が整って教会として設立されたのが1998年1月25日でした。それで伝道開始からは既に23年が経っていますが、高知東教会としては13歳を迎えたことになります。伝道所開設と、教会設立と何が違うかという話になるのですが、何が違うと思われるでしょうか。呼び名が違うだけで、毎週礼拝を捧げているし、伝道をしているし、ということであれば、特に実際上の違いはないとも言えます。日本基督教団の規則は、ではどういう違いを立てているかと言うと、人数が20名を満たすとか、年間経常会計が教区の基準を満たすとかあるのですが、一番大きな違いがあるとしたら、ここです。教会になるということは、教会員が一丸となって教会員としての責任を果たすようになったら、その群れは教会となる。ですから、呼び名は伝道所でも、実際は教会と呼ばれて相応しい伝道所がほとんどではないかということで、今この件に関する教団規則を現状に即して変更しようということにもなっています。おそらく規則を作成した戦後には、およそ今で言えば伝道集会所というようなものを伝道所と呼んで、規則は後回しでかまんからと、とにかく伝道の拠点をあちこちに作っておったのだと思います。例えば今も安芸と室戸の間の中芸地区で毎週礼拝を捧げ伝道をしていますし、須崎の北、檮原町でも毎週礼拝を捧げ伝道をしています。どちらとも現在信徒はいなくて須崎教会、また室戸教会とその伝道を共に担う協力教会の信徒が、自分とこの教会の礼拝が終わったら、牧師と一緒に出向く。ただし伝道所は、びっくりされるかもしれませんが、教団の規則で言えば信徒がいなくても開設できることになっています。規則には、所属すべき信徒がある場合は、その概数を教区に伝えることになっています。概数ですから、まあ2~3人いると言えばいますねえと、そんなんで大丈夫かと思いますが、伝道所はそれでも良い。とにかく伝道の開拓拠点が伝道所であるという考えであって、ものすごく勇ましい考え方だと思います。
しかし、教会はそうであってはならない。これははっきりさせているのです。教会は、一人一人の教会員が、私はこの教会の重要な一部ですと与えられた分に応じて自らの責任を果たすことによって、初めて教会は教会となる。私たちの教会は13年前に、よし、その機が熟したと判断して、伝道所から教会となる教会設立申請をし、1998年1月25日の礼拝後、盛大な喜びと祈りを頂いて、高知東教会として立てられた。これは決して過去にしてはならない、まさに記念すべき恵みのとき、そして献身のときであったのだと、改めて私たちの魂に刻みたいと願います。恵みとして与えられた教会魂、あるいは教会員魂の再確認をする礼拝。それが教会設立の記念礼拝だとも言えるのです。
その教会が捧げる礼拝というのは、言わば先に言いました会員の数が概数で構わない、毎週何人礼拝を捧げるか、さあ、見当もつきませんという集会所や規則上の伝道所で捧げられる礼拝とは、およそ一線を画すはずです。単なる人数の問題ではありません。無論、人数が概数でかまわないはずはありませんけれど、今朝のイエス様の御言葉を直訳で借りるなら、そうありようがないのが、教会が礼拝を捧げるということでしょう。礼拝を捧げるというのは一体どのように捧げるのが礼拝なのか。ここではどんな礼拝を捧げているのか。礼拝の姿勢が問われるのだと、主は言われます。こうあるべきという礼拝の姿、直訳すると、こうあって当然、然るべき当たり前の安息日の姿、礼拝の姿を、あなたも本当は知っているではないかと言われる。
神様がその聖なる掟で、安息日を心に留め、これを聖別せよと求められた礼拝の日、安息日に、イエス様は一人の女性に心を留められます。腰が曲がって、よう伸ばすことができない女性。歳を召された方だったでしょうか。この姉妹は、どんな思いで神様を礼拝しに来られておったのか。18年もの間、私たちで言えば、1993年から、ひょっと毎週ではなかったかもしれません。それは長患いをしたことのある人でないとわからないことなのかもしれません。それでも苦しみを負いつつ礼拝に来られておったのに、でもどうもその間、その病のために祈りましょうと、少なくとも安息日に言ってくれた人はおらんのです。安息日に病を癒すのは、勝手に癒えたのなら良いけれど、癒すのは安息の戒律を犯すことになるからいかんという原則主義、律法主義が当時はまかり通っておったので、それが当然なのだろうと、誰も何も感じなかったのかも知れません。それが安息日に礼拝することの当然のことだろうと、これが当然の礼拝の姿だと、当たり前のように、しかし神様を礼拝しにきて御言葉を聴いておった。その礼拝の姿は、けれど本来あるべき当たり前の礼拝の態度だろうか。そこで礼拝されている神様は、どんな神様として信じられているのか。違う。それはあなたがたを罪とサタンの束縛から救い出す、あなたがたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神様だろうかと、イエス様はこの女性を優しく御許に招きよせ、あなたはその病から解放された、神の国はあなたのもとに来たと、優しく力強い手を置かれ、この人を束縛から解かれたのです。安息日を心に留めても、重荷を負う人に心を留めない礼拝の姿は罪に束縛されている。束縛から解いてくださる憐れみ深い神様をこそ、あなたは礼拝しているのではないか。あなたがたの天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさいと、主はここでもおっしゃっているのです。
これにカチンときた会堂長をイエス様がどのように説得なさったか、敢えて説明するまでもないと思います。ここでも再び自分のこととして考えたらわかるでしょうという話をなさいます。ただイエス様は「偽善者たちよ」と、会堂長以外の人にも言っておられる。他にもカチンときた人がおったのでしょうけど、じゃあこのときはカチンときてなくて、こぞってイエス様の解放の御業を讃美した群集は、ああ、それは、あのカチンときた人々に言われたことだと、自分たちは除外できるか。そんな単純かなとも思うのです。彼らは病を負っていたこの人と18年礼拝を捧げていながら、礼拝の中、あるいは後で、この人のために祈ったことがあったでしょうか。それは安息日にしたらいかん当たり前のことで、平日にやったらよいのだと自分に言いながら、ならば翌日に祈ったか。ならやはりイエス様から、あなたも偽善者になっていないか、原則主義に束縛されて、人も束縛し、自分をも束縛し、奴隷になってはないか、あなたも憐れみに解かれなさいと、言われているように思うのです。
私たちが教会として礼拝に生きるとき、教会員としての責任を持って礼拝を捧げるとき、この神様の憐れみに生きているかどうか。そこに、教会の姿勢がピンと伸びて成長しているか、あるいは曲がってしまっているかが見えるのです。何を当たり前とするかで、教会の姿勢が決まってしまう。原則主義を当たり前にすると、ピンとしているようで曲がっている。昔は食事時などに背筋が曲がっていると、襟元から物差しを差し込まれたという話を聞きますが、私たちで言えば、十字架を負っているかどうかでしょう。罪に束縛された私たちをキリストが憐れまれて、十字架で私たちの犠牲となって下さった。甘やかしでもない。憐れみのない裁きでもない。十字架を負って、犠牲になって、憐れみの正しさを恵みとして差し出してしまう、キリストの十字架による完全な救いが、私たちのあるべき姿、礼拝の姿勢をもビシッと伸ばしてくれるのです。またすぐに曲がりやすい背中であればこそ、礼拝の恵みもあるのです。
礼拝の特に司式者の祈りの中で、執り成しの祈りが捧げられるとき、たとえ名指しで誰それのためにと祈られてなくっても、心からキリストの名による癒しと憐れみを祈るとき、神の国を来たらせて下さいと礼拝に集う教会員が心を一つにして祈るとき、何も起こらなくても当たり前などと、決して言えないと思うのです。無事礼拝が終わったという言い方は、まるで神様が何も救いの出来事を起こされなかったみたいだから好ましくないと、ある人が言いましたが、そうだなと思います。無事に礼拝が終わってほしくないのです。私が洗礼を受けた教会では、礼拝後祈って欲しい人がおられたら、そのために献身した教会員が前にいますから、どうぞ前に来てくださいとの呼びかけがありました。会堂も大きかったので行きやすかったのもありますが、前の隅っこで、いつもヒゲモジャのおじさんが優しい笑みを浮かべて立っていました。私は常連客のようにしょっちゅう祈ってもらっていました。だからって、その場で特別な出来事を体験したり、瞬時に病が癒されたりはしませんでしたけれど、ま、別の機会に瞬時の癒しを体験したことはありますが、それで気落ちしたりすることはありませんでした。涙はよく流しました。でも流さない時のほうが多かったかもしれません。それでも神様が私と共におられることを、神様に決して見離されてはないことを改めて覚えて、全て神様の御手の内にあると確信して、教会堂を後にすることができました。うちの教会でもやったらいいじゃないかとも思うのです。祈りの執事とでも呼べる奉仕があることは、教会が健康であることの何よりのしるしだと言えるかもしれません。あるいは礼拝の後で自然に挨拶をして、互いの近況や家族、仕事のことなどを分かち合って、じゃあ祈ろうかと、短く立ったまま、あるいはベンチに腰掛けて祈りあう姿があるなら、それは幸いな姿だと心から思います。変な言い方ですが、その意味で、もっと福音派的な教会に成長したらよいなとも思うのです。
イエス様が続いてなさった神の国の譬えでは、始まりはほんの小さなことなんだと言われます。それがどんどん成長し、憩いを与える大木となる。教会も、また教会員であることも同じです。神様、ここに献身します。この小さな業を祝福して下さいと、神の国に奉仕する時、たとえそれが誰かに声をかけるということでも、たとえ一緒に祈るまでには至らなくても、やがて至るんじゃないでしょうか。伝道もです。神の国に献身したら、必ず成長するのです。だから小さな種蒔きという献身を、神様に捧げる感謝と献身としての礼拝を共に捧げていくのです。私たちが主の憐れみを信じ差し伸べる手の先に、御国が与えられるのです。