10/7/18朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書9:1-17、申命記31:7-8 「あなたも愛すのです」

10/7/18朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書9:1-17、申命記31:7-8

「あなたも愛すのです」

 

イエス様が弟子たちの手によって、人々に食べ物を与えられたとき、そこで与えられていたのは、食べ物だけだったでしょうか。確かに弟子たちがイエス様に進言した通り、食べ物だけなら自分で手に入れることもできたでしょう。でも自分では得られないもの、味わうことができんものがある。イエス様がそこで与えられ、人々がそこで味わったのは、まさしくそのような神の国の味わいでした。笑顔があったと思います。神様すごい!という賛美や感謝もあったでしょう。そして皆、多かれ少なかれ、その神の国の味わいの内に、神様の愛を感じ取っておったではないかと思います。イエス様が、この実習の中で弟子たちに感じ取り、習得をしてもらいたかったのは、神の国のこの空気、愛ではなかったと思います。

これに先立って、既にイエス様は弟子たちを伝道実習に遣わされています。私たちの教会でも、8月11日の礼拝で夏期伝道実習生が説教をします。失敗してもいい説教の練習ではありません。そんな礼拝はありえません。練習ではなく実習です。本気で神様の言葉を取り次ぐよう指導します。弟子たちもこのとき、本気でイエス様から遣わされます。あなたが伝道するのだと、神の国を宣べ伝え、病人を癒しなさいと派遣されます。緊張して伝道したと思います。イエス様がどのように神の国を説教し、苦しむ人々に接したか、思い出し、思い出し、一生懸命に真似をしたでしょう。そして結果が伴うのです。一生懸命に伝えた神の国を、受け入れてくれた人がおりました。そして、どうぞ私の家に泊まって下さい、食事もしていって下さい、他の人にも伝えてほしいのですと、その人の家を拠点として、その村での伝道がなされた。神の国が、そのようにして分かち合われたのです。弟子たちは、神の国の単なるお仕着せの説明をしたのではなかったでしょう。例えば、癒しの力を誰かに賞賛されたとき、パウロがコリント書で言うように、私の持っているもので頂かなかったものはありません。もし頂いたものなら、どうして頂かなかったかのように、高ぶることができるでしょうと、神の国の恵みを、自分の言葉で証したのではないかと思います。それを聞いた人もまた、私にも神様の恵みが与えられているではないかとわかった。そして私も神の国に身を置きたいと、神の国の住人としての、分かち合いに生きるようになったのです。そうやって伝道が進展しました。見えない神様のご支配、神の国が、分かち合いによって拡がっていくのです。

イエス様は、神の国の福音を伝えられました。神様のご支配が来ているのだと、これが一番大事なことだと伝えられました。後の14章では、ただ神の国を求めよと言われるほど、とにかく神様のご支配が来ていることを、ただただ信じ、そこに身を置いて生きてごらんと言われるのです。そしたら人生が変わるからです。一夜で180度グルッとはいかんでしょう。でも違う何者かに支配された生き方から自由にされて、神様のご支配の喜びを知るのです。例えば、モノの見方が自由にされます。これは私のモノと見なくなります。だから分かち合うことができますし、分かち合うのが楽しくなります。自分のモノという意識に束縛されん、分かち合う国民気質、神の国の国民性が強くなるとも言えるでしょう。

あるいは、聖別するとも言えます。これは神様のモノですと捧げる。献ずる。奉献する。そしたら神様のものになるのです。例えば献金のとき、聖めて御国の御用にお使い下さいと祈ります。あれは当て字で、聖なるものにすると書いて、聖めると言います。金は汚いから清めて浄化するというのではありません。浄財という考えは教会にはありません。神様のものとして下さいと、お献げするのです。お返しするという言い方も間違いではないと思いますけど、お返しする文化がある日本では、誤解され易いとも思います。全部自分のモノにしたら悪いから少しお返しするという礼儀の問題ではないからです。献ずる、献げると言ったほうが、今何をしているのかはっきりするし、集中できるでしょう。献身のしるしとして、私自身を献げるしるしとして、大切なお金を献げるのです。ならば献金のとき、献身の実習をしているとも言えるでしょう。献金は信仰のバロメーターだと言われますが、献身のバロメーターだと言ったほうがわかりやすいし、もっとはっきり、愛のバロメーターだと言っても良いと思います。愛のない献身はありえないし、献身のない愛も、それを愛とは呼べんからです。愛を語る御言葉で一度聴いたら忘れ難いのは、ヨハネの手紙一3章16節です。イエスは、私たちのために、命を捨てて下さいました。そのことによって私たちは愛を知りました。愛とは身を献げること、献身すること、それが愛だと言うのです。

例えば、誰かのために時間を献げることがあります。他にしたいことがあるのに、その自分のしたいことを犠牲にして、人に仕えることが皆あると思います。そこで祈りが奉げられるなら、それは聖別の祈りなのです。聖めて御国の御用にお使い下さいと、主から遣わされた弟子たちのように、自分を献げているのです。また、人の悩みを聞いたり、相談にのるとき、その人の身になって考えるには精神力がいるというのも、体験があるだろうと思います。長時間に渡ると、かなり疲れます。でもその人の苦しみを理解しようとしたら、上辺だけで、はいはいというわけにはいかない。他人事に、そんなことで悩むななどと、言えるはずもない。隣人にならないと気持ちは分からないし、隣人になるには時間も労力もかかります。何で?という自分の無理解な考えを捨てて、その人の苦しみを分かち合いたいと思ったら、献身がなければ到底無理です。けれど、そうやって時間を捨てて、自分を捨てて、この人は私のために命を投げ出してくれているとわかるとき、私たちは、愛されているのだと知りますし、私もまた、自分を献げたいと思わんでしょうか。

キリストは、そのように私たちをリードする献身者として、神の国を分かち合って下さいました。命を投げ出して下さいました。そんな遠くかけ離れた天の上にある国ではないのです。神様が共におられて、命を投げ出して下さっているところ、罪の赦しが与えられているところに、神の国はもう来ています。見えないかもしれません。だから信じるのかもしれません。でも罪は見えるでしょう。その罪が赦されているところに、神の国が来ていないと、誰が言えるでしょう。確かに、そこには、神の国の支配があるのです。また誰かが犯した罪を、死んで復活されたキリストの名によって赦すとき、そこには確かに神様のご支配があるのです。どうして毎週の礼拝で罪の赦しが説教されるか。ここに神の国が来ているでしょうと、キリストの愛のご支配を伝えるためです。無論、献身するのは、牧師だけでなく、皆、献身のため、キリストから遣わされているのです。私たちがここで生きている神の国を、隣人と分かち合うように、キリストから遣わされ、神様の愛に生きるのです。今週も、神の国の祝福を、隣人と分かち合う歩みが守られますようにと、献金のときに祈られます。相応しい祈りだと思います。御国に歩ませて下さいと、献身のしるしを祈るのです。

病人の癒しを祈るのも、そこで相応しい祈りだと思います。祈るだけでなく、そのために、私もお使い下さいと、献身の祈りを祈るのです。愛がなければ癒しを祈りはしないでしょう。愛故に癒しのために仕えるのは医療関係者だけではないでしょう。人間関係が病み、社会が病んだ罪の世界で、愛に献身する働き人として、また家庭人として、例えば、親として、愛の献身をするのです。神の国の、癒しの働きに仕えるのです。愛故でなく生きている人なんておりません。御国を来たらせたまえと、神様の愛のご支配を、どうか今ここに来たらせて下さいと祈りなさいと、イエス様も教えて下さいました。あれは献身の祈りです。赦しと愛のご支配を求める、キリストを求める祈りです。

この祈りが私たちを愛の消耗から守ります。これも覚えがないでしょうか。愛が消耗し、献身したくなくなる。体の疲れだけでなく、精神的に磨り減って、分かち合うことが嫌になるほど、愛が消耗することがある。祈ってないわけではないのだけれど、私が愛さなければ、私が献身しなければと、心がカラカラになってしまい、それなのに、なすべき愛が残っている。弟子たちがイエス様に合流した後、実習の最後で直面したように、自分たちは休み返上で献身してきて、疲れ切って、なのに、「このすべての人々のために、私たちが食べ物を買いに行かないかんのですか」と、ムスッとするのは、この弟子たちだけではないでしょう。

しかし、そこでイエス様が弟子たちに「あなたがたが与えなさい」と言われたとき、その「あなたがた」、弟子たちにとっての「私たち」は、キリスト抜きの私たちであるはずはないのです。キリストが命を投げ出して、私を見つけて下さって、こんな分からず屋を理解してくれ、受け入れるだけでも痛みを伴わんはずがない私を、それでも愛し受け入れ、私の罪を全部背負って下さった。ご自分の全てを犠牲にして下さって、私をキリストのものとされ、永遠の命と神の愛に結びつけて下さった、そのキリストが、私の救い主イエス・キリストが、あなたはわたしの愛を分かち合いなさいと言われるのです。私たちからしたら、これで一体何になるという、わずかなパンと魚です。それでも私たちが今持っているすべてです。それをキリストにお渡しする。そのとき私たちの持ち物も、それを皆に配る私たちの手も、私たちの存在のすべてを、キリストは、ご自分の愛として聖別くださり、さあ、皆で分かち合いなさいと、御国を来たらせて下さるのです。

休む間もなく人々に仕え、疲れ切っていたはずの弟子たちでしたが、イエス様から分かち合っていただいた神の国を、さらに人々に分かち合う中で、疲れは癒されたのではないかと思います。体の疲れはあったでしょう。でも愛は回復したでしょう。分かち合うのは嬉しいことです。持ち物を分かち合うのではないからです。キリストが分かち合ってくださった、神の国を分かち合うのが嬉しいのです。思わぬご褒美までありました。12弟子たちの数だけ丁度、12の籠に一杯のお弁当まで頂けました。イエス様もどうぞと、パンを分かち合う姿を想像するのも楽しいことです。神の国に生きる弟子たちを、主は笑顔で喜んで下さいます。