10/6/6朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書8:1-3、詩編107:1-9
「お仕えしたいのです」
教会にはその初めからご婦人たちが多くいました。先日の聖霊降臨祭ペンテコステを教会の誕生日とするなら、今読みました時点では、まだ教会として世に生まれ出る前の胎児の頃から、教会にはとにかくご婦人たちが多くいて、そして奉仕をされていました。
自発的な奉仕です。誰かから強制されてではありません。自発的に、どうかイエス様に仕えさせて下さい、と頼んで、まあ、色々とお手伝いしてもらうことはあったので、じゃあ、これこれをお願いしますと言われて、嬉々として喜んで奉仕をなさったのだと思います。中心メンバーとして名前が載っていますのは、主が墓から甦られたとき復活の最初の証人として神様から選ばれた、マグダラのマリアとヨハンナたちです。男の弟子たちは、そのときユダヤ人からの迫害を恐れ隠れていました。恐れに勝って、イエス様にお仕えしたいと、ただただイエス様にお仕えしたいと、死体に塗る香料を持って出かけた、主を愛する姉妹たちが、復活の最初の証人となる光栄に与ったのです。それもまた、姉妹たちの自発的な愛から溢れ出た、キリストに仕えたい、何らかのお手伝いをさせて頂きたいという、自由な愛の形でした。愛はいつでも自由です。
新約聖書で奉仕すると訳される言葉は幾つかあって、一つは以前エフェソの信徒の手紙から御言葉を聴いたときに説き明かしました、奴隷あるいは僕として仕えるという言葉です。おもに人が嫌がる仕事をしました。強制的にさせられるのです。けれども、イエス様が来られてから、その言葉の意味を、教会が変えてしまった。イエス様は、神様なのに、私たちに仕えるために人となられて、言わば私たちの一番汚いお世話を十字架でされました。一番汚い、人には見せられない罪の汚れを一身に引き受けられて、泥をかぶって、罪をかぶって死んで下さった。汚れを清めて下さった。だから教会は、そのイエス様の僕としての奉仕の業を尊んで、これは愛の業なのだと、人の嫌がる、しかし誰かがやらねばならない、愛の奉仕であるのだと、自発的に引き受けてやるようになったのです。教会で、奉仕をすると言われるときには、一つにはその意味があるのです。
ただ、今朝の御言葉で姉妹たちが、自分の持ち物を出し合って一行に奉仕していたと訳された言葉は、最初から誰からも強制をされてない、そういう奉仕の働きです。ですから、ここで姉妹たちは自発的に奉仕をされたということが、ことさらに強調されているとも言えます。
想像しますに、最初はペトロたちが自炊をして、お洗濯もして、と言っても、あまり繊細な方々には見受けられませんので、滅多に洗濯もせんかったでしょう。イエス様も、町や村を巡って旅を続けられた、直訳に近づけると、一つの村も小さな集落も行き過ぎることなく、ぜんぶ立ち寄られて神の国の福音を説かれた。休む間もなく伝道の旅に全力投球したというのですから、ご婦人たちから見られたら、これは放ってはおけないと思われたのかもしれません。でも最初に切り出して、私が食事や身の回りのお世話をしたら、皆さんも伝道に全力投球できるでしょうから、どうか私も旅について行かせて下さいと頼むのは、相当に勇気のいることだったろうとも思うのです。誰もしてないことを最初にやるというのは、どんなことでも勇気がいる。でも、その勇気を、感謝が後押ししたのでしょう。悪霊つきと言われるほどの重い病を癒してもらったイエス様への愛と感謝が、言葉を押し出すようにして、私にも何かお手伝いをさせて下さいと、言わしめたのではないかと思います。マグダラのマリア、ヨハンナ、スサンナが、そのようにして弟子たちに加わった。ヨハンナはおそらく裕福な家庭で家の世話をする方々も雇っておったのでしょうか。夫も妻が癒されて、イエス様にだったら託してもよいと思ったのかもしれません。そして、あら、じゃあ私もイエス様にお仕えしたいと、ずうっとじゃなかったかもしれませんけど、多くのご婦人たちがイエス様の伝道のお手伝いをするようになった。
そしてこれはおそらく、いつの時代の教会においても、教会が成長をする、基本的形ではなかったかと思うのです。先週も合同礼拝の後で、沢山のカレーをご婦人たちが作って、よそって片づけ、奉仕され、またパンやジャムを作って、収益を教会のために献金されましたが、今回に限ったことではありません。教会学校での昼食の奉仕も、第三主日にある昼食会の奉仕も、私でよければイエス様の伝道のお役に立ちたいと、自発的に捧げられる奉仕です。高知中央教会でも教区の教会婦人会連合の修養会会場で売るのだと、ご婦人の教会員たちがこぞって帽子を編んだり、クッキーを焼いたり、とにかく自分にできることを自発的に喜んで、教会のため、伝道のためにと熱心に捧げられました。私は牧師として、教会のためにこれをして下さいと、何も頼んではないのです。恥ずかしい話、教会の他のことに一杯で、そこまで気が回らずに、バザーをされることは知っていましたが、詳しくは何も知らないで、しかし着々と奉仕の業が行われていった。見えないところでです。誰も見てない疲れた夜中に、イエス様のためにとクッキーを焼き、編物をし、皆、伝道のために、教会のためにと自分にできる精一杯をされていた。イエス様もおそらく何も詳しい指示はなさらなかったのではないかと思います。それ程までに姉妹らに、ご自分の身の回りの世話を全部お任せになられるほど姉妹らを信頼し、とにかく神の国の福音説教に全力投球をなさった。そして私たちも、教会が成長していくという道筋を、そのように精一杯追っているのだと、牧師として、とても励まされているのです。
伝道の前進、また伝道する教会の成長には、この二つ、福音の説教と奉仕の二つが、常にセットで働きます。そもそも最初の奉仕者たちも、イエス様が説教なさり、また身をもって示された神の国の福音の力に、縛り付けられていた束縛から解放されて、それで奉仕者となりました。自発的な奉仕に喜んで生きる自由な僕へと解放された。それは私もまたそうですし、皆多かれ少なかれ体験されていることではないかとも思います。牧会カウンセリングをしている中で、今の苦しい状態から癒されたら、私も同じ苦しみを負う人々を助けたいという証を、本当に多く聞きます。苦しみの中から、奉仕の思いが生まれるとすら言えるのではないかと思います。奉仕の思い、愛が生まれる。またその自発的な奉仕の思いは、自然な愛だとも言えるでしょう。けれどその自然な愛を、私たちがいつも持っているか、感じているかと言われたら、そうではない。自分が自分がという罪の思いに縛られている心の状態、まるで強制的に自分に仕えて生きているという、罪の奴隷の状態に、はたと陥っている自分に気づかない人はいないでしょう。あるいは人の目を気にして自由になれないということもあるかもしれない。本当は愛に生きたいのに、またイエス様を愛して生きたいのだけど、自由になれない束縛がある。その束縛から、私たちが、じゃあどこで解放されるかというと、神の国の福音に触れるときに、ああ、自由なのだと知るのです。人の国、人の支配ではないのです。誰かが決めた嘘のルールに、人生はこうでなければならないという、特に神様を抜きにした、キリストの愛、赦しの愛を抜きにした、人間に支配された幸せというルールに、もう縛られなくても良いのです。神様が私たちを見ておられる。赦しと愛の眼差しで見ておられる。遠くで見ているというのではない。天の遥か向こうから悠々と見ておられるというのではなく、私たちの罪に染まった不自由な世界に、神様が飛び込んで来て下さって、だから、ここに神の国がやってきたと、わたしがあなたを神の国に包み込むと、人となられて、キリストとなられて、私たちを赦しに包み込んで抱きしめ背負われて、ほらここに、神の国がもうやってきている、わたしはあなたと共にいると、神の国の福音を告げられるのです。人の目は人間を不自由にします。私たちを不自由な生き方に縛り付けます。神の子として生きる自由を、神様の愛に生き、人に仕えて、神様に仕えて生きていく自由を、そんなことしたら自分を失う、人生を損するとうそぶきます。そうでしょうか。神の国の福音は、いや逆だ、得をするのだと告げるのです。死んで神様の前に立つときにも、いよいよ神の国が完全な形で訪れるときにも、あなたは恐れなくてもよくなるから、安心して神様の前に立てるから、だから安心して、キリストの救いを信じたら良いと言われるのです。
マグダラのマリアもヨハンナもスサンナも、一緒に仕えていた多くのご婦人たちも、そのような安心を頂いて、自由に仕えておったのです。彼女らが、そして私たちと共にいる姉妹らが、そのようにして祝福されて、神の国の証人となっているのです。
そしてこの旅は続いていきます。イエス・キリストが私たちを通してすべての人々に神の国の福音を知らされるまで、伝道の旅は続いていきます。そしてその旅を支えるご婦人たちも、イエス様と一緒に旅を続けていくのです。だから教会は前進し続けます。目立たず、見えない尊い奉仕に支えられ、やがて神の国の完全な到来がやってくるまで、教会は伝道の旅を続けるのです。