10/5/9朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書7:1-10、列王記下5:9-10 「愛と謙遜と信仰と」

10/5/9朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書7:1-10、列王記下5:9-10

「愛と謙遜と信仰と」

 

白黒映画のカサブランカという名画に有名な台詞があります。強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。言い得て妙だと思いますが、特にこのことは、ここでも登場します権威を持つ指導者、あるいは支配者に該当しなければならないでしょう。例えば親もそうですし、職場でも指導的立場に立つというのは大変な務めです。指導力がないと導けませんし、上から押し付けるような力では指導する資格がありません。強くなければ権威ではない。優しくなければ権威を持つ資格がない。それがよくわかってくるのは、大人になって、子供や他の人を任される立場に立ったときです。今日は母の日ですから自然と母親の苦労を思います。当時はそれが愛だとは思わなかった恐い怒った顔や、幸生というひせくった声、そして涙を思います。無論、母親だけではありえません。私を育てて下さった親や先生たちは随分苦労をなさったのだと、恩を覚えずにはおれません。

そのような恩を、この百人隊長は神様に抱いておりました。出来事が起こったカファルナウムの町があるガリラヤを支配するヘロデの部隊で百人の兵をまとめる百人隊長。おそらくユダヤ人ではない外国人です。お給料が良かったので、この職についたのでしょうか。安息日毎に礼拝するユダヤ人会堂を建てるため、多額の献金をしたようです。お金があるから献金できるというものでもありません。外国人ではありましたけど、聖書の神様に出会っていました。この神様が、世界を造られた神様で、私をお造りになられた創り主なのだと信じておった、あるいは信じ始めておった、ということかもしれません。例えば清和学園の生徒さんたちで、親はキリスト者ではないけれど、学校でイエス様の話を聴いて信じ始めているという方は結構おると思うのです。ただ洗礼を受けるとなると、ちょっと後ろに引いてしまうということも、私自身そうでしたから良くわかります。百人隊長も、当時、洗礼を受けて割礼を受けたら正式にユダヤ教徒として認められるという手はずは知っておったと思います。でもそこまで踏み切れなかった。でも信じていた。その思いを、会堂を司る長老たちも知っておったのでしょう。良い交わりがあったのだと嬉しくなります。私たちも、いわゆる求道の方々と、こんな暖かな交わりを持てれば、どんなにイエス様が喜ばれるかと思います。

この隊長の言わば人柄というのも見えてきます。いわゆるユダヤ教徒ではないけれど、彼は主を信じているユダヤ人たちを愛していました。当時のユダヤ人たちは、外国人たちと親しくすると、もしかしたら律法で言う汚れた食物を食べた手で握手をしたりして汚れがうつるかもしれないと、外国人とは距離を置いていました。そういう人々との距離をなくすのは、相当に困難だろうと想像がつくと思います。譬えれば、初めて教会に行ったら白い目で見られて、そこまでではなくとも優しくされないで、それでも次の週また礼拝に行こうと思えるでしょうか。愛が必ずそこで問われます。この人が礼拝に来続けて本当に良かったと思うのです。お互いに完全ではありえません。だからと言って相手のせいにして愛の責任放棄をすることも神様の前にはできません。神様が、愛しなさい、それが律法だ、わたしはそこで裁くと言われる。その神様が愛の権威をもって導いて下さる。その権威の何たるかを、この隊長も、どこかの時点で、ハッとわかったのかもしれません。教会を愛するようになった。そして隊長として、権威を与えられた者として、人の命を預かることがどんなに重たいことであるのかも主から学ばされたのではないかと思います。それは親でも同じですし、全ての人に当てはまることだと思います。愛がなければ責任を全うすることはできんのです。部下が逃げ出したくなるところで、闘いの先陣を切って模範を示さなければならない。自分は闘わずして、お前行けとはよう言わない。またどうしても闘わねばならないときがあるのです。いのちを投げ出さねばならないときもあるのです。その命の重さを知っておればこそ、それが愛に支えられた命であることを、神様の愛の下にある命であると信じている。そのような信仰に生きておればこそ、一人の部下が死にそうになったとき、どうかイエス様お救い下さいと、自分の命のように部下を思いやれたのだと思います。また、この人に重んじられてなかった人など、おらんかったのではないかとも思うのです。

そんな信仰者、あるいは人から見たら、または自分でもそう思っておったかも知れません。この愛の主を信じ始めた求道者は、長老たちに、この方はイエス様に来て頂くのに相応しい方です、あるいはその値打ちがある方ですと言われます。けれどイエス様がその家に近づかれた所で彼は友人を介して、私はイスラエルの国に属してない外国人で、割礼も受けておりませんから、主にお会いする資格も値打ちもありません、と言うのです。日本人も謙遜を重んじる文化がありますから、少し通じるところはあると思います。しかし、この隊長の謙遜は、この後の言葉で明らかにされる、神様の権威を信じる謙遜なのです。単に、私は本当に弱くて力がなくてと、ともすると、こんな私が洗礼などとてもとてもという謙遜ではありません。この謙遜は、神様の権威に畏れを抱きつつ、怖気づくことがあったとしても、神様が権威をもって近づかれたら、主よ、御言葉を下さい、と言う謙遜なのです。自分の弱さを認めるよりも神様の力を認める謙遜です。無論、この隊長も、自分の弱さは知っています。知っているから、イエス様に来て下さいと願ったのです。私もまた権威の下に置かれていますから、権威の力は知っています。行けと言ったら行きますし、来いと言ったら来るのです。けれど私が部下の生きることを、どんなに強く願っても、部下を生かすことができんのです。逝くなと言っても、ダメなのです。生きろと言っても、無力なのです。神様、あなた以外に、人を生かす権威は持ってないのです。天地を造られたあなたの権威で、あなたが生きろと言われなければ、人は生きてはいけんのです。しかし私は信じています。あなたの力を信じています。一言おっしゃって下さったら、愛する者は生きるのです。そして私は信じています。あなたは、生きろと言ってくださる。あなたの権威が、私たち、死んでいく他ない者たちに、救い主をお与えになられた、救いの権威であることを、愛の権威であることを信じています。憐れみ深い、愛の主よ、生けるいのちの御言葉を、あなたは生きよ、とおっしゃって下さい。

イエス様は、そのために人となられた神様は、これが信仰だとおっしゃるのです。神様の愛を疑わない。その権威をも侮らない。主の前に、私は何も持ってない。あれをしたとか、これをしたとか、人は勝手に言うけれど、天地を造られた主の前に、愛により裁かれる主の前に、私にどんな相応しさがあるか、どんな値打ちが私にあろうかと、神様の権威を健全に畏れ、しかし、それ故に言うのです。ためらわず、キリストに願うのです。主よ、生けるいのちの御言葉を下さい。私たちを憐れみ、お救い下さい。何の資格もないけれど、キリストの愛の権威に、全てをかける。そこに全てをかけて良い。キリストは、私たちの命の重みを、ご自分に逆らう者でも、救い主なんかいるか、神に頼るのは弱虫だと、うそぶく者でも、その命の重みを全部負われて、罪の赦しを告げられたのです。わたしが背負うと言われたのです。救いに資格はありません。キリストが私たちの資格です。イエス・キリストの名によって、私たちは祈り、また、救われます。キリストよ、お救いください。イエス様、御言葉をください。神様の胸を打つ信仰が、ここに響いているのです。