10/5/30朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書7:36-50、イザヤ書38:17 「やっと安心できました」

10/5/30朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書7:36-50、イザヤ書38:17

「やっと安心できました」

 

先に読みました、旧約聖書の御言葉は、こう告げます。あなたは私の罪をすべて、あなたの後ろに投げ捨てて下さった。後ろに投げ捨てたらどうなるか。見えんなります。いや、もう見なくなる。決してもう見ないという断固たる意思表明です。じゃあ神様はどこを見ておられるか。すべての罪が赦された私を、見ておられると言うのです。

その優しさに、この女性は、どこで出会ったのでしょうか。この町で評判の良くない人であったようです。過去のある人であったのでしょうか。誰であっても生きているなら忘れたい過去があるものです。それが人よりも多かったのか。あるいは一目で分かるような、そういう言わば良識のある人が眉をひそめるような恰好をしておったのか。その人が、宴会におられたイエス様の後ろに歩み寄った。当時の宴会はカーペットを敷いた床に左肘をついて寝転がって、足を後ろに投げ出してゆっくり食事をするというスタイルであったので、その足下に近づくのは簡単でした。大きな宴会だったのでしょう。食事や飲み物の世話をする女中さんたちの出入りに紛れて入ってきて、イエス様の足下まで辿り着いた。家の主人であったシモンは、その招かれざる客に、アッといつ気づいたのでしょうか。眉をひそめたのではないかと思います。あるいは心の中で眉をひそめるということを、私たちもするかもしれません。そしたらこの女性がイエス様の足下に座り込み、足を洗えるほどに涙を流して、あるいはそれほどまでに涙が次々に溢れてきてイエス様の足にボタボタ落ちて、埃にまみれた足に色がついては流れ落ち、その足の涙を今度は自分の長い髪の毛で拭い取って綺麗にして、その足にまるで王様の足に口づけをするように最上の敬意を表し、あるいは親がお風呂上りの赤ちゃんのおなかに好き好きと口づけをするようにでしょうか。そして香油を塗った。いずれにせよ、はたから見ると、え?と驚くことをし始めた。このときはシモンばかりでなく他の客も本当に眉をひそめたのではないかと思います。そして心の中でこう言った。もし預言者なら、この人がどういう人か、わかるはずだ。この人は、だって、罪人だから。

それがどういう罪であったか、シモンや町の人々は知っておったのかも知れません。しかし御言葉は記しません。罪ということしか記しません。優しい配慮をしたのでしょうか。それ以上です。救いの中心に関わることとして、記さない配慮をしたというより、記す必要がなかったのです。その罪は、神様がこのために人として来て下さって、キリストが背負って下さったこの罪は、神様が後ろに投げ捨てた過去として、過ぎ去った罪でしかない。だから人はいつまでも覚えていても、神様がもう消し去って下さった罪であるから、もう書き留める必要はないのです。イエス様は、そのことをはっきり伝えて、あなたの罪は赦されたと言われました。それがこの罪の詳細です。それは赦された罪なのです。

だからシモンが心で言った、この人はだって罪人だ、預言者だったらわかるはずだというつぶやきに、イエス様は真正面から答えられます。この人が、どういう人か、わかってないのはあなたではないかと。人は誰かを見下すようにして何かを知っていると思うとき、目が見えなくなってしまいます。だからイエス様はシモンに、見なさいと招かれます。この人を見なさい。あなたはこの人を、正しく見てないと言われます。責めるようにしてでしょうか。いや愛ゆえにだと思います。シモンにも同席の人々にも、神様が求められる目で、あえて言うなら信仰の目で、この人を見て欲しいのです。信仰の目。例えば、どうしてこんな嫌なことが続くのかと思うとき、でもまてよ、ここにも神様の救いのご計画があるのだと、神様の愛を信じて状況を見直す。それを信仰の目と言うことがありますが、要するに神様が見られるように見るということなら、では神様が、私たちを見られるときに、神様がどのように私たちを見ておられると信じるか。自分は安全な高みにいて人を裁く神のイメージなのか。それとも、あなたの代わりにわたしが死んでもいいと十字架で罪を背負われた神様を信じるか。私に救い主を下さった神様を信じる目、それが信仰の目であれば、ならば、イエス様はシモンがどのように人を見ているかを問われつつ、そこでシモンの信仰を問われたのです。あなたはどんな神を見ているのかと。あなたはこの人を罪人と見ているが、見なさい、あなたが今見ている現場は罪の現場か。愛の現場ではないのかと問われるのです。この人を見なさい。この人は多く赦された人だ。それがこの人だろうと主は言われます。無論シモンだけやり玉にあげられているというのではないでしょう。まるで他人顔で同席していた人々も同じように、イエス様の言葉がわからんのです。赦しの神様がわからんのです。御言葉は、あなたはどうかと問うのです。責めるためではありません。あなたも赦されているだろう、あなたの神はどんな神かと、わたしはあなたにとって何者であるのかと、悲しみ問うておられるとも言えるのではないかと思います。

この問に答えるところから信仰は始まると、言ってよいのではないかとも思います。神様は私にとってどんな神様か。同席の人々も考え始めたと言われます。そこから始めたら良いのです。神様は私をどのように見ておられるか。そうしたら、人をとやかくあげつらったり、悪口を言ったり、人と比べたりすることも、なくなり始めるだろうと思います。また、この人は罪が多いから、神様の愛もよくわかって、それに比べて私は罪が少ないから、神様の愛もわからないのではないかという不毛な比較からも解放されていくでしょう。罪の多い少ないではないのです。多かろうと少なかろうと、だから私はキリストに対して負い目が少ないなどと、そんな大きさの問題ではないでしょう。イエス様は、罪の多い少ないを問題にされているのではなく、最初から、愛が多いか少ないか愛を問題にしておられるのです。罪は、後ろに投げ捨てられた。神様の前から過ぎ去り葬り去った罪に対して、大きいも小さいもないのです。キリストは、それらすべてを後ろに投げ捨て、背中に背負われ、たとえ後ろを振り返ったとしても、背負っているからもう見えない、わたしに見えないから、もうないんだと、それほどまでに投げ捨てて、ご自分の命さえ犠牲にして捨てられて、だから本当に、わたしはあなたを罪に定めない、あなたの罪は赦された、わたしがあなたの罪を赦した、この愛の大きさを見て欲しい、そしてあなたの愛も見させて欲しいと主は求められ、その愛を姉妹に見られたのです。不器用で不恰好かも知れないけれど、その愛を主は心から喜ばれ、だからシモンにも見てもらいたい。この愛を見よ、わたしはここに愛を見ている、罪人を救う大きな愛と、その愛を信じる信仰という愛を、主は見ているのだと言われるのです。

ある説教者は、これはハッピーエンドの物語だと言いましたが、またこれはハッピースタートだとも言えると思います。この人は、新しい人として、愛のスタートを切ったのです。シモンと名を残すこの人も、もしかすると、このイエス様の愛の招きにお応えして洗礼を受け、ああ、あのシモンさんかと、名前が残ったのかも知れません。もしそうなら、イエス様のもとに来た、招かれざる客に眉をひそめておったシモンも、自分の安心を乱す他人ではなく、ましてや罪人でもなくて、愛すべき主にある隣人を得ることで、新しい人となれたのです。キリストは、そのような教会の救いを携え、シモンのもとに来てくださった。一人の救いでエンドではない。赦しと愛の共同体をスタートさせるキリストの愛が私たちを、本当に安心させてくれるのです。そこに教会の交わりがあります。そこに教会の救いがあります。このキリストを伝えるのです。