10/5/23朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書7:18-35、イザヤ書61:1 「それでも教会は建つ」

10/5/23朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書7:18-35、イザヤ書61:1

「それでも教会は建つ」

 

 

今日はペンテコステのお祝いを神様に捧げる、そういう礼拝を捧げています。日本語では聖霊降臨日のお祝いとも言います。そちらのほうが意味がわかりやすくて良いかなと最近は思っています。イエス様が復活の後、天に昇り、全能の父である神の右にある王座に着座なさる前、このように教会に言われた。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」そして約束どおりに、弟子たちの上に三位一体の神様の、聖霊なる神様が降られて、教会はキリストの証人となりました。爆発的な伝道の働きが始まりました。けれど、どうしてそのように神様が教会を祝福されておるのなら、こんなに苦しいことが起こるのかという出来事も多々ありました。一つはエルサレム教会きっての奉仕者であったステファノが熱心なユダヤ教信者たちから石を投げられて殺されたという事件です。その日の内に、勢いに乗って暴徒と化した人々が他のキリスト者にも迫害の手を伸ばしエルサレム教会の大勢が、家に帰る間もなく命からがらエルサレムから逃げ出して、ある人々はエルサレムの南西にあるユダヤ地方、ここから言えば、佐川あたりに逃げていき、また別の人々は北のサマリア地方、ここから言えば本山あたりに逃げていって、でも、そこで伝道をしたのです。人間的には闘いに破れて伝道に失敗して殉教を逃れ戦地を離れて私は逃げてしまったと、心破れて信仰も失いそうになるそのところで、神様は、その苦しみをさえキリストの慰めの証と変えられて、それに触れた人々が、イエス様を信じるようになっていった。イエス様が約束された、ユダヤとサマリアの全土で、あなたがたはわたしの証人となるという約束は、私たちが全く思いもよらぬ道を通って御言葉の実現を得るのです。教会はその最初から、私たちの思いを遥かに超えて、しかし、その私たちを主がお用いになって建ってきました。私たちの思い通りにならないところで、キリストにつまずかない人は幸いなのです。

イエス様を誰よりも良く知っていた、洗礼者ヨハネでさえも、もしかするとイエス様につまずきそうになっていた、イエス様を信じても良いのだろうかと、言わば信仰が苦しくなったと言うのです。イエス様こそ救い主であると、私たちを救うため人となられた神様であると、信じるのをやめたというのではないのです。むしろ信じておったからこそ、なのに、どうしてこんな苦しみに私は会うのか、どうして主は私を助けに来てくださらないのかと、苦しくなったのだと思います。この福音書を記したルカは、ヨハネの言葉を二回も繰り返し記します。来るべき方はあなたでしょうか。それとも他の方を待たなければなりませんかと。それだけ私たちが、この同じ問いを神様に苦しみの中で問うているということを代弁しているとも言えるでしょう。ルカ自身医者として、苦しみの中から祈る祈りが、どのような祈りになるのかを、痛いほど知っておったのではないかとも思います。神様を信じているのです。イエス様を救い主と信じてお従いして、その救いの業がなりますようにと、人生を費やしてきたのです。でもヨハネはその志半ばで捕らえられ、牢獄につながれて何もできない。無論、祈ったと思います。何日も祈り続けてきたのです。けれども状況は良くならない。まるでイエス様は私のことなど気にかけてないかのように、私のもとには来て下さらない。ここから救い出されなければ、イエス様が救い主だと信じないというのではないけれど、でも同じ思いがぐるぐる回る。どうして私はここにつながれ、まるで主に見捨てられたような思いでいなければならないのか。

そのヨハネのことを、イエス様は群集に向かって話されました。何だヨハネも大したことないと誤解されたら嫌だと思われお話されたのではないでしょうか。もしそんな傲慢な思いになったら、結局その傲慢さに自分でつまずくことになります。同じ傲慢さでイエス様のことも考えてつまずいてしまうかもしれんのです。群集も、またヨハネも持っておったそうした弱さを皆持っていると思います。人に対して勝手なイメージを作り上げ、それと違った面が出てくると、何だ、大したことないじゃないかと思ったり、何て酷い奴だと怒りさえする。神様に対しても同じ事をして、神様だったら、きっとこういうことをしてくれる。それで、もしもそうならんかったら、ならばそんな神など信じないとなってしまいやすい弱さを、持ってない人などおるのでしょうか。およそ女から生まれた者でヨハネより大いなる人間はいないのだと、人間の代表として賛辞を受けるヨハネでさえも、イエス様、どうかはっきりおっしゃってください。あなたを信じても良いのだと、自分の思いがならないときでも、思い通りにはならなくっても、祈りが叶えられなくっても、それでも、あなたを信じて良いと、あなたを待ち望んで良いのだと、あなたの御言葉を下さいと、これはものすごい信仰ですけど、それでも、不安で苦しくて、信仰が苦しんで耐えられなくて、主が御言葉を下さらないと私はやっていけませんと、そういう弱さを持ってない人が、一体どこにいるでしょう。主は、そのような私たちの信仰を、それで良いと言って下さるのです。言わば、ヨハネを証人として立てられて、その苦しみにあえぐ信仰も証とされて、見なさい、このヨハネをあなたがたは見たろうと、彼は単に神の言葉に生きる預言者ではない。神の言葉そのものである救い主キリストを直接に指し示し、私はこの方を信じていますと、私たちのために人として来られた神様はこの方ですと、救い主イエス・キリストを牢獄の中からも指し示す、最大の光栄に選ばれた証人であると、ヨハネを認められるのです。何だ、信仰が揺らぐのかとか、そういうのでは全然ない。苦しみ喘ぐその中で、あなたですよね、主よ、あなたを信じて良いのですよね、弱くて小さな私ですけど、あなたの御言葉を下さいと、キリストを求める信仰を、主は弁護して下さるのです。

これを聴いておった群集は、どんな思いをしたのでしょうか。その中に、これは私の想像ですが、何人かの徴税人がおったのをイエス様は見出されたのではないかと思います。ファリサイ派からも他の人々からも国を売ってローマに魂を売り渡した売国奴として嫌われておった人々です。でも神様に救われたくて、悪いことをしているという自覚がありつつも、それでも神様に未練があって、ヨハネの説教を聴きに行ったら、罪を悔い改めて洗礼を受けなさい、神様は罪を赦して下さると、福音が語られておったのです。こんな私でも赦されるのかと、信じて洗礼を受けたのです。神様は、罪を赦して下さるのだと、神様の赦しの正しさにすがったのです。その徴税人らを見つめつつ、イエス様は続きを語られたのではないかと思います。確かにヨハネほど大いなる人間はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼より大いなる者であるのだと。これはイエス様がよく用いられる神の国の譬え方です。後の者が先になります。最後にちょっとだけ働いた者が、最初に報いを受けるのです。ここで神の国の最も小さい者というのは、その前に、貧しい者は福音を告げ知らされていると言われていた人々であり、少し前に、貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである、と福音を告げられていた人々です。16章でのイエス様の譬えで、ラザロという貧しい人を主はお話されます。地上の生涯では何一つ良いことがなかったとすら言えそうな、この人が死んで神様の一番側にいくのです。何も持ってない、何一つ人からすごいねと褒められるようなことをしてない、最も小さく貧しい者が、けれど、一番大きいと主は言われるのです。この人は本当に何一つ持ってないから、その手も人生も空っぽだから、わたしが神の国の祝福で一杯に満たすと、この人が一番大きな憐れみを受けるから、この人が一番大きいのだと言われるのです。イエス様のお話を聴いて、神の国で最も小さな者はと聴いて、ああ、それはきっと、神の国の末席を汚すような私のことだと思って苦しんでいる人を、神様は、わたしはあなたを一番に愛していると言われるのです。

しかし、大きくて偉くて、罪を赦してもらう必要はないという尊大な人々は、罪の赦しの洗礼も、自分たちに対する神様の憐れみの御心をも拒んでいないか。小さい人々の勘違いとは、まったく逆方向の勘違いをしてはいないかと主は問われます。自己実現に生きている人々、死んで神様の裁きに目覚める時も自分を信じて大丈夫と、思い違いをしている人々は、こういう子供たちに似ていると譬えられます。ヨハネが贅沢をしないで節制した生活をしていたら、批判して、もっと楽しく生きたらえいじゃかと笛を吹く。逆にイエス様が、人々から蔑まれ罪人だと嫌われている人々を愛されて、仲良く笑顔で食事をしていると、そんな悪い人をそのまま愛し受け入れるなんてと、暗い顔をして文句を言う。結局自分の持っている宗教のイメージや神のイメージが絶対で、それと違うのを批判する。私はこんなにも信仰しゆうに、どうしてあの人はそうせんろうと、自分の思い通りにならない人を裁いて拒否し、神様に対してもそうしてしまう。どうしてこうしてくれんろう。笛を吹いても踊ってくれん。悲しみを共にもしてくれん。でも、どうしてそれがわかるでしょうか。神様が私たちのため涙を流されてはないと、神様は悲しまれてないと、何故に言うことができるのでしょうか。そうした傲慢さをこそ悲しむことのできない私たちのために、神様は人となられて涙を流され十字架で罪を赦して下さいました。私たちは自分の小ささを知るとき、神様の憐れみがなければ生きていけないと、キリストの憐れみがわかるとき、神の国の大きさに入るのです。ここに招かれているのだとわかるとき、この神様のもとでなら、生きていけると信じられるとき、神様の大きさが染みるのです。主の救いの大きさに魂が自由になるのです。

思い通りでなくても良いのです。自分の犯す罪でさえ、思い通りにならない者が、何を思い通りにできるでしょうか。でもその罪を、神様はキリストの死によって裁いて下さり、全部赦して下さって、貧しい者は幸いである、何もできない、何の力も持ってない者が幸いなのだと言われるのです。キリスト以外に何もない者、何もかも、もうキリストしかない者が一番大きな証をします。それが教会の証です。一番大きな伝道です。思い破れてもキリストがおられる。教会はそこに建つのです。