10/5/16朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書7:11-17、列王記下4:32-37 「棺をとめたキリスト」

10/5/16朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書7:11-17、列王記下4:32-37

「棺をとめたキリスト」

 

教会で葬儀を行い、日本ですと、火葬をする直前に、御言葉を読んで祈りを捧げます。あるいは外国で、棺を土に埋め土葬をするとき、同じ言葉が祈られるのを、耳にされたことがあるかもしれません。私たちは今このなきがらを主の御手に委ねて、土を土に、灰を灰に、塵を塵に返します。忘れがたい言葉だと思います。人は土の塵から造られたから、そのなきがらは土に返る。しかし、その命は、土からできたものではありません。主が命の息を吹き入れて下さって、人は生きるものとなる。だから、その命の息がとられたら、体はもとの土に返る。

その葬りをこれから行おうと町から出てきた葬儀の行列、特にその棺に寄り添う母親に向かって、主イエス・キリストは「もう泣かなくても良い」と言って下さいました。泣き続けるのを止めてもよいという言葉です。泣くことを禁ずる言葉ではありません。泣く理由はあるのです。涙がこぼれてしまうのです。イエス様も、もしかしたら涙をこぼされたかもしれません。胸痛まれるほどに、心が突き動かされた、憐れまれたと言うのです。棺に寄り添っていた母親の側に、父親がいない。一目でわかったのかもしれません。この女性は、すべてを失ってしまったのだと。この女性が一人息子にかけた思いはどんなであったか。想像する他はありませんけど、自分は食事をしなくても、この子にはお腹一杯食べさせてあげたい、教育も受けさせてあげたい、父親がいないからと寂しい思いや恥ずかしい思いをすることがないように、文字通り自分の全てをこの子にかけて、両手がボロボロになるまで全て注いできたその一切が、その手からすり抜けて、失われてしまった。残されたのは、もう涙しかない。その涙に心突き動かされないで、泣くなと言われる神様ではないのです。泣く理由なら十分にある。でもそれ以上に、もう泣かなくても良い理由をキリストがお与えに来て下さった。勝ち誇る死の行軍を止めるため、神様が訪れてくださったのです。

人は色々と無力ですけど特に死の前に無力です。いつでも必ずそうであるように、私がいつか死ぬときもそうですけれど、他の人が私のなきがらを運ぶでしょう。誰がそうされるかはわかりませんけど、私はそれに対して何の力をも持ちえていません。そして誰もがそうなのです。私のなきがらを運ぶ人々も、やがて、他の誰かに運ばれていきます。何の手出しもできません。人は死に対して無力です。それでも何らかの安心が欲しくって、曖昧な慰めや作り話すら語られることもあるでしょう。でもその責任は、誰が取るのでしょう。誰も責任を取れないまま空中に放り出されるような慰めを、もし、そんな無責任な、泣かなくて良いという慰めなら、人は語ってはならんのです。愛する人を失って、もう泣かなくても良いという言葉は、もしそれが主から託された言葉でなかったら、人は語ってはならんと思います。それ以外に語りようのない慰めであると思うのです。死んで泣く以外にすべを持たない、霊的な命が欠乏していて死に抗えず土に返るしかない罪と死の縄目に縛られた人間は、その土なる人間を憐れまれ、再び息をお与えになる主から御言葉を受けない限り、確かな慰めは持ち得ない。その死にゆく人間の真正面に神様は立たれ、人類全体の葬列をとめるため人となられて立ちふさがって、だから、もう泣かなくても良いと言われるのです。葬列は十字架の主の前でとまるのです。土なる人間に命を与え、その人生の中で放出される言葉と態度と行いの罪の責任を人に問われる神様が、それ故に義なる神と呼ばれる聖なる神様が、しかしその憐れみに動かされ共に苦しんで下さって、全存在が痛みとなられて、わたしはあなたのために人となる、そしてあなたの責任を負うと、人の死を負われて責任を負われ、わたしが死ぬから、あなたは生きよ、全ての罪を赦されて、神の子として生きてよい、あなたに言う、起きなさいと言われた。だから死人は起きるのです。キリストが責任を取って下さったから、安心して起き上がることができるのです。

そのキリストの言葉を、信じて聴いたら良いのです。あなたに言う、起きなさい。十字架の主が言ってくださる。無責任な言葉ではありません。自分が死ぬことをすらとめられない無責任で当てのない人間の慰めではありません。私たちの全ての罪の責任を負われて、葬列をとめられた主の言葉です。主は、ナインの町の人々がこのやもめの悲しみに付き添ったように、私たちの死に付き添われるのではありません。私たちが主の復活に付き添えるように、主は来られました。私たちの全存在を背負われて、キリストの背中の上で、また腕の中で、やがて私たちもまた聴くのです。あなたに言う、起きなさいと、私たちがキリストに起こされて起きれるように、そのようにキリストが来て下さった。神様ご自身が訪れてくださった。死人がどうして起きれるでしょうか。土の塵から造られたものが、どうして自分の力で起きれるでしょうか。キリストが起こして下さるのです。いのちの息をくださるのです。

そのために人となられて来て下さった、クリスマスの主の憐れみが、改めて強調されているとも言えるでしょう。同じ福音書の1章の、ザカリアの預言の中で、このように言われていたのです。「これは我らの神の憐れみによる。この憐れみによって高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」これと同じ賛美を、今朝の御言葉で、この憐れみの奇跡を見ておった群集が、簡潔に繰り返しているのを聴きます。「神はその民を心にかけてくださった。」訳し直すと、神様は民を訪れて下さった。死にゆく人間の底辺に、神様は人となられて、十字架を負って訪れて下さった。高い所から、自業自得だ、自己責任だと、上からモノを言うのではないのです。わたしがあなたの責任をとると、人の死をわたしは喜ばないと憐れみに心を突き動かされて、死にゆく私たちのまっ只中に、復活の光を携えて訪れて下さる神様なのです。

神様は、憐れみ深い神様である。少し前にイエス様が、このように教えられたのを覚えておられると思います。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」どうして憐れみ深い者になりなさいと主が言われるか。それ以外に、私たちが救われる理由はないからです。憐れみ以外の一体何が、この人の罪を赦そうと思うでしょうか。憐れみ以外の一体何が、泣いている人の悲しみに寄り添ってこの人の側にいようと思うでしょうか。その他一体どんな理由で、他人の苦しみであるにもかかわらず、自分の胸が突き刺されるような痛みを共に覚えることができるでしょうか。主はこの母親を見て、憐れに思われた。もとの言葉は、腸が千切れるような痛みを覚えた、胸が締め付けられて痛み苦しんだという言葉です。福音書が神様だけに用いる、神様のお姿の何たるかを指し示す特別な言葉です。人は神様を勝手に色々言うでしょう。しかし聖書は神様を一言で、神は愛なり、神様は、死にゆく人間の悲しみを、文字通り全身で受け止められて憐れみに胸を焼かれる神様であると言うのです。私たちの葬列をとめるため、人となられた神様が、十字架で私たちを負われた神様が、私たちを見て、胸を痛めて下さって、耐えられない思いで憐れんでくださって、もう泣かなくても良い、わたしがあなたと共にいると、慰めを与えて下さるのです。

それ以外の理由で、私たちが救われることはないのです。先週の説教で、救いに資格はありません、キリストが私たちの資格です、と言いました。同じことが今朝の御言葉で、更に強調されているのです。この死の葬列に連なる者たちの、一体誰か一人でも、イエス様お救い下さいと言ったでしょうか。私たちのほうから主に働きかけて、救いを勝ち取ったものがおったでしょうか。死んでいた青年は当然のこと、生きていて葬列に連なっていた者たちも、あたかも死の前に屈したが如くに、うつむいて、一人として主に声をかける者はいなかった。その葬列をとめられたのは、その死をご自分のものとして受け入れられて、そのことで、私たちの主となってくださった、私たちと死の間に割り込んで来られる主イエス・キリストです。主がこの母親を見られたのです。母親は棺を見て泣いていました。参列者は、慰めの言葉を失っていました。死とあきらめが支配するこの葬列を、主が見られ、主が母親を見て憐れに思われ、主が「もう泣かなくても良い」と言って下さり、主から近づいて来て下さって、棺に手を触れ、死の葬列を止められて、あなたに言う、起きなさいと言って、葬列を賛美の行進に代えて下さったのは、この葬列の、新しい主となって下さった、憐れみの主である、イエス・キリストです。人間は何をし得たでしょうか。私たちが主の足をとめたでしょうか。死に向かう、自分の足すら止めることのできない私たちを、しかし主が憐れんでくださって、わたしがあなたの主であると、棺に触れてくださるのです。人間が触れたら汚れるとされる死の棺を、しかし、神様が触れてくださったら、それは救いの箱舟に変わるのです。

救いに資格はありません。キリストが私たちの救いです。憐れみ深い父なる神様が、御子イエス・キリストを下さって、救いを与えて下さいました。罪を赦されるキリストを、復活のいのちのキリストを、憐れみ深いキリストを、私たちの主としてくださいました。だから、私たちは救われるのです。憐れみの主によって救われます。その主を信じたら良いのです。起きよ、と言われる憐れみの主が、共にいてくださっているのです。