10/12/5朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書12:22-34、詩編145篇14-15節 「弱くても大丈夫」

10/12/5朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書12:22-34、詩編145篇14-15節

「弱くても大丈夫」

 

イエス様は、クリスマスの夜、天使たちを通して語られた御言葉を、ここでも語りかけて下さいます。恐れるな。小さな群れよ、恐れなくてよい。だって、あなたがたの天の父は喜んで、神の国をくださるから。だから神の国を求めなさい。神の国を求めて生きればよい。その求めで思い煩いからも救い出されよと言われるのです。

イエス様は、ご自分の教会を、小さな群れと呼ばれます。無論、烏合の集と言うのではありません。私たちの羊飼いとして来て下さった神の羊の群れ、わたしの群れと呼んで下さる。暖かな嬉しい言葉です。小さいというのは人数が少ないというのもあるでしょうけど、それも含めて弱小と言ったほうがよいでしょうか。大きなライオンに睨まれた小羊のように、弱肉強食の世界では、体が小さいだけで見下されることもありますし、肩身の狭い思いをすることがある。銀行口座の大きい小さいもあるでしょう。献金をするのも楽々としている人なんて、特に日本ではおるのでしょうか。でもイエス様は、それでも良いと言ってくださる。命について考え違いをしていなければ、命を生きるとは、つまりここだという一点を突き進んでおったら、あなたが弱くとも小さくとも、後は恐れることはない。神の国を求めて生きているあなたの命は大丈夫だと命の保証をされるのです。

神の国を求めて生きる。どう生きるのでしょう。一番わかりやすいのは、先週も言ったように献金で祈り求めるように生きるのです。感謝と献身のしるしとしてお捧げしました献金を聖めて御用のためにお用い下さいと祈る。献身のしるしですから、ここでイエス様が言われる、命と体のことです。つまり神様、私の命、人生を、あなたのもとにお捧げします。聖めて御用のためにお用い下さいと祈って生きる。イエス様が、あなたの持てるものを施しなさいと言われるのは、そのことです。モノやお金で勘弁して下さい、体は私のものです、だと思い煩ってしまうというのは皆知っていることではないでしょうか。体は衣服より大切だ。そう言われると、20代のとき頂いたお気に入りのジーンズを履くとき、まるで空手で瓦割をする人みたいに、ふ~、ハッとボタンを留めないかん状態になって、神様から、幸生、もうえいき、新しいがあ買いやと言われているのかと思ってしまいますが、むしろ、満腹するがをやめやということでしょう。命は食べ物よりも大切だというのは、そういうことです。友人からも、もう40にもなったら満腹するまで食われんと叱られます。が、満腹になるまで食べたい欲望を抑えられない。でもそれは、食べ物の話だけでなく、すべからく欲望について言えることだと思います。欲望を満腹させるため生きてしまう。神の国を求めるよりも、満足を求めて生きてしまう。満足するために命はあると、満足のほうを大切にしてしまう。そうなるたびに、イエス様から問われるのです。あなたの命を真実に満たす、あなたの宝はどこにあるのか。今あなたが求めているものは本当に命を満たすだろうか。何があなたの命を満たすのか、よく考えてごらんと言われるのです。

今年度から教会の婦人会で、求道の方々に歓迎プレゼントをお渡ししています。最近は『ちいろば』という小さな本が中に入っています。既に召された榎本保郎牧師が、自分がどのようにイエス様に命を満たして頂いてきたかを赤裸々に描いた、私も大好きな小さな本です。ネタバレになるかもしれませんが、敗戦後、戦地から引き上げてきた榎本青年は生きる目標を求めて悩みます。自分は何のため生きればよいのか。何に命を捧げて生きればよいか。悩み求めて、切支丹の本を読んだところ、これだ、ここにこそ自分の命を捧げるものがあると感動し、親戚一同に猛反対をされつつも、何もわからないのに神学校の聴講生になる。が、神学が学問過ぎて絶望し、一時、教会からもおさらばして、お寺の小僧にまでなってしまう。後は読んでのお楽しみですが、とにかく一途な方です。およそ器用に上手いことやってやろうという能力が欠如しているかのように、あっちこっちぶつかって色んな人のお世話を受けて、でも神様に祝福されて、神の国、神様のご支配に満たされる。この人の命はまこと満たされておったというのが、グッと伝わってくる本です。

命が満たされるというのは、これは理屈ではありませんので、説明しても、おそらく伝わり難いと思うのです。神の国によって満たされると頭でなんぼわかっても、帰り、お店の前にのぼりが立っちょって、伊勢海老丸々一匹刺身と鍋で1500円と書いちょったら、私なら絶対満足すると思ってしまいます。でも、もって一日。翌日また1500円は厳しい。ならもっとお金があったらよいか。しかしどうも自分の命を満足させようという発想自体が、命を飢えさせてしまうのです。榎本先生の生き様で見事に証されていたのは、自分を満足させようというところから出発せずに、むしろ、私はこの大切な命を、どこに捧げて生きれば良いかと、命の捧げどころを求めたから、だから命が満たされたという、命の真実です。満たそうと思って信仰を求めても、結局は自己中心、自己満足が命の中心にある限り、いつも不満があるだろうと思うのです。熱心に求めていれば良いというのでなく、何を求めるか、そこを思い違いしたらいかんぜよとイエス様はおっしゃるのです。神の国を求めなさい。神様のご支配に、はい、そうです、ここに私の生きる道が、既に用意されていたのです、感謝しますと、命を捧げ、聖めて御用のためにお用いくださいと生きていくとき、神様が命を満たして下さる。いや、あなたがたの父が、あなたの命をお造りになられた、あなたを愛する天の御父が、どうしてあなたを満たしてくれんことがあるろうと主は固く約束をされるのです。

信仰を大きくしたら良いと言われます。薄いと訳された言葉はオリゴという言葉で、最近はオリゴ糖とか言われますけど、小さいという言葉です。どうして信仰が小さくなるか。自分の命をどう満たそうかと自分の命を悩んでいると、鏡で自分を見て、あれも足らん、これも足らんと小さな範囲しか見ていない。その自分のための神を求める信仰は小さいと言われる。空の鳥を見てみいや、野原の百合を見てみいや、広い世界に働いておられる父なる神様の大きさに、あなたの命を委ねてごらんとイエス様は私たちの心を、大きな信仰へと開かれるのです。信仰は自己満足と反比例して、自分が大きいと信仰が小さくなる。けれど自己犠牲とは比例して、我が身を捧げれば捧げるほどに、信仰はどんどん大きくなる。それは私たちの内に父が与えられる、神の国が大きくなるからと言ったらわかりよいでしょうか。

ちいろばというのは、イエス様が十字架に架けられるためエルサレムに上られたとき、イエス様ご自身が求められ、その上に乗られた小さなロバのことだそうです。本の冒頭の紹介の部分で、ある人が、ちいろばの行進ということを言っています。イエス様をお乗せして神の国を運んでいく小さいロバが、何頭も何頭も次々に行進する、ちいろば大行進。私たちもまた、その大行進の中にいるのです。イエス様が私たちの背中の上で、よろしく頼むよと言われる。それに応えて小さな私たちが、こちらこそお願いしますと自らを捧げて、それぞれの家路に着くのです。うずくまってしまうときもある。そのときはイエス様が私たちを乗せて下さいます。もう既に肩に担がれ、十字架で担って頂いたのです。罪を赦され、命を担われ、復活の主と共に既に歩んでいる命の道を、今日も歩ませて頂いている。その道を歩めばよいのです。思い違いをも直される。神の国に命を捧げて生きればよい。命はここに満ちるのです。