10/10/24朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書11:14-28、出エジプト記8:12-15 「主に身を置く幸い」

10/10/24朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書11:14-28、出エジプト記8:12-15

「主に身を置く幸い」

 

幸せになって欲しい。あなたにも、ここで聞いている全員に、神の言葉を聞き、それを守って生きる確かな幸いを得て欲しいと、イエス様が望んでおっしゃった。その御言葉自体、私たちを確かな幸せに結びつける神の言葉です。この御言葉を聴いて、守る人は幸いです。イエス様が保証して下さいます。あなたは幸いな人であると。

幸いと訳された言葉は、人間が地上で感じる幸福感を超えた、言わば天国の幸いという意味の言葉です。その幸いを地上にいながらにして得られると言われます。この地上に神様が来られたからです。主が救い主として来て下さって、人が神様と共に生きる幸いを、死んでなお生きる幸い、神様と共にいるから生きられる幸いを、罪の赦しと復活によってキリストが保証して下さったからです。神様と共におらんけど幸いというのは、感覚としては幸いを感じても、本当に確かだとは言えんでしょう。感覚があったら幸いか。それが確かな幸いであるかは、やはり考えないかんでしょう。日本人作詞の讃美歌で、天国が幾ら楽しいところであっても、もしそこにイエス様がおられんかったら、私は行きませんという歌があって、オーバーな表現だなあと私はいつも思ってしまうのですけど、わからんではないのです。日本人一般の天国のイメージに照らしているのかもしれません。そこにはイエス様がいないし、天国があれば別に神様は必要ない。ま失礼に当たるからおってもえいけど、どうしてもおらないかんという必然性を感じるでしょうか。この国はそうした宗教感覚に支配されていて、神様に向き合って考えないかんときでも、スッとその場を済ましてしまうことが少なくないように思います。

でもそれは、人間全般についても言えることのようです。人間をがんじがらめに支配し不自由にする悪霊、特にここで言葉を支配する悪霊をイエス様が追い出したとき、人々はパッと適当なことを言ってその場を済ましてしまおうとしました。心して考えるまでもないと思ったのでしょうか。自分には関係ないと思ったのでしょうか。そうした人々の心をイエス様は見抜かれます。直訳は、考えを見抜かれたです。どんな考えをして、そんな言葉が出てきたのか。おかしな考え方をしていることを見抜かれた。そうした洞察力は、私たちも多少は持っているでしょう。どういてこの人はこんなことを言うろう、ああ、こういう考え方をしているから、こういう言葉が出るのだろうと。なら、どうしてこの人は、こうした考え方をするのかと問うなら、やはり、そういう心を持っているからとも言えます。そういう態度で生きているから、そういう考えになるのではないか。心、態度というのは、その人の言葉に反映します。言葉からその人がわかるのです。であれば、イエス様が心を見抜かれたというのも、間違いではありません。そこで見えてきた心のあり様を、イエス様は心配されて、あなたがた、そんなざっととした考えはないろう、その心は改めないかんろう、神の国は近づいたき、ほら、もう、ここに来ちゅうがやき、だから、私と一緒に、幸せを集めようじゃないかと、イエス様は改めて神の国の説教をなさいます。

先週も言いましたが、この神の国というのがイエス様の宣教の中心にあります。宣教されるメッセージの中心は神の国、神様のご支配です。神の国、いわゆる天国に行くための救いだから語られるのでしょうか。間違いではありませんが、言葉足らずです。先の讃美歌で言うならば、イエス様がおられるところが天国です。無論最終的に天国が来る、神の国が最終的に今の全世界を覆うようにやってくるというのは事実です。そこには苦しみがない。一切ないそれも事実です。またそれは私たちにとっての心からの慰めです。じゃあどうして苦しみがなくなるか。苦しみの直接また間接的な原因となっていた罪が、全部裁かれ滅ぼされ消え失せるからです。この体からも罪が消えます。身を焦がす憎しみも、自分が自分がという欲望も、私は絶対に正しいという頑なな心も、一切が裁かれ滅びます。自分も他人も罪の支配から自由にされて、神様の愛のご支配だけを満喫する世界、神の国の最終的な到来が、やがてキリストの再来と共にやってきます。

では一般に天国と呼ばれている、その最終的な神の国の到来がやって来るまで、私たちは幸いを得ないのか。あるいは死んでから幸いになるのでしょうか。でもどうも、そうやって問うこと自体、私が幸いであるかどうかを中心にしてしまい、神の国を神様の国として考えなくさせてしまうのではないでしょうか。イエス様の母となった人は幸いですねと言った人に対して、確かに母マリアは幸いだが、どうして幸いなのかを考えないといけない、いやむしろ、あなたはどうか。あなたはそのような幸いな人になれないのか、決してそうではない。あなたが幸いになるために、わたしは来たのだと、イエス様は神の言葉を語られるのです。神の国はもうここに来ているだろう、わからないだろうか、ここでは、神の言葉が語られていないだろうか、あなたには誰の言葉が語られているのか、あなたに語りかけているのは誰か、神の言葉を、あなたは注意して聴きなさいと主は言われます。幸いな目を開いて欲しいとも言えるでしょうか。守ると訳された言葉は、例えば羊飼いが羊を見守るというときの言葉です。ですから神の言葉を聴いて、忠実に実行しなければ、絶対にこれを守らなければという言葉ではありません。無論、御言葉の実行されることを主は願っておられるし、実行したら幸いですけど、聴いても実行できんから、背いて罪さえ犯すから、神様は私たちの身代りとして御子を十字架におかけになって罪を赦して下さったのです。神の言葉を守るというのは、そんなにも私たちのことを心にかけて、死んで罪を赦してでも、あなたに生きて欲しいのだと、死んでなお生きる命をわたしと共に生きて欲しいと願われる神様の言葉をじっと見つめ、注意して、心にかけて大切にするということです。

そのためには、神の言葉を、まず聴かなければならない。二週前に御言葉で聴いたマルタのように、あれもせないかん、これもせないかんというのではなく、まず御言葉を聴く。学ぶというよりは、聴くのです。守るというのは、その態度とも言えるでしょう。学ぶというのも態度があって、これは必要な知識、これは自分とは関係ないと、そういう態度で学ぶのであれば、神の言葉としては聴けんのです。ありがたい言葉としてではあっても、生きて語っておられる神様の言葉を聴く態度ではないでしょう。私は十代の頃、人の話を聴かんとよく怒られました。でもそれは聴く能力とかではなくて、やはり態度の問題なのです。話している人の話を聞いてないというのは、その人に人として向き合ってないということではないでしょうか。神の言葉を聴いて守るとは、神様に向き合って聴くということです。そこで語られる説教がわからんで寝てしまうということは私も何度もありましたし、ありうることだと思います。おっかない説教者の言葉としてでなく、安心できるイエス様が語っておられるという心で聴けばこそ、つい安心しすぎるということもあるかもしれません。毎週だとイエス様も案を講じられると思いますが、神様に向き合って聴くなら、そこに信仰が生まれんはずはないのです。神様が語っておられるからです。そして私たちと共に、死んでなお共に生きるために、神様が人として来て下さって、人の世界で一番確かである、私たちが皆死ぬという、絶対確かな死よりも確かな神の国の幸せを願ってくださる。私にとって何よりも確かな死を超えて、神様と共にある幸せを、あなたに得て欲しいと主は願われて、私たちを生かす神の言葉を、心して聴いて欲しいと語られるのです。

その神の言葉が語るのが、神の国です。それと対比してサタンの国も語られます。国とは何か、つまり支配とは何かが語られます。あなたは神様とサタンと、どちらの支配の側に身を寄せるのか、よく考えなければいけないと言われるのです。自分は中立だという人が一般には多いかもしれません。キリスト者であっても、私は不信仰で、自分の欲に負けて、でも悪霊の支配には…と思う人は案外少なくないかも知れません。でもそうでしょうか。イエス様は中立はないと言われるのです。わたしに味方しない者は、わたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしていると言われます。失われた羊たちを捜し求めて集めるために来られた羊飼いイエス様は、ご自分の命をかけて私たちを集められました。そして、あなたも一緒に集めなさいと言われます。だから、集められた私たちは伝道します。神様が来て下さって、救いが与えられたから、だからイエス様の前に行こう、礼拝しに行こう、洗礼も受けようと、一緒にイエス様のもとに集まろうと、イエス様と一緒に神の国の働きをするのです。それをせんのは、結局、羊たちを散らしているのではないか、どうして味方してくれんのか、やがて最終的にやってくる神の国に向かって一緒に集めながら行くのでなければ、ならばあなたはどこに向かっているというのかと嘆かれる。だからこそイエス様のもとで、神の言葉を聴くのです。私に向かって語られる、私の神様の言葉を聴くのです。他の誰かの神でも一般的な神でもない。私のために来て下さった、私の神様のご支配のもとに、私たちは共に身を置くのです。でないと汚れた霊が出て行った後で、苦しみから救われ、ああ嬉しい、ならこれからは自分の生活を整えようと、いわゆるきちんとした生活を整えて、人からも立派な人やねえと言われるような生き方、考え方、言葉遣いを整えたとしても、汚れた霊が帰宅して、おお整っちゅう、整っちゅう、神様の支配がない綺麗な住処が整っちゅうと、その人の後の状態は前より悪くなるとイエス様は注意なさるのです。

神様に対して中立はありません。御子を十字架にかけて与えて下さった神の国のご支配、赦しと希望のご支配に身を置くか、置かないかしかないのです。ベルゼブルとは屋敷の主(あるじ)という名前だそうです。私たちの屋敷の主がベルゼブルであって良いでしょうか。もっと強い者であるイエス・キリストが、サタンの頼みの武具である罪という武具をすべて十字架で奪い取り、葬り去って、あなたの罪をわたしは赦したと勝利を宣言されるのです。この方が私たちの主です。命を賭して救いを下さった主のもとに、私の主よと、この身を置けば良いのです。