10/10/17朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書11:1-13、イザヤ書63:16 「父と呼び祈ればよい」

10/10/17朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書11:1-13、イザヤ書63:16

「父と呼び祈ればよい」

 

イエス様からここで祈りを教わった弟子達は、じゃあすぐにイエス様のように、あるいは自分たちが望んでいたように祈れるようになったと思われるでしょうか。どうでしょう。おそらく私たちもまたそうであったように、何度も祈りに挫折をしたのではないかと思います。でもそうやって祈りを体得していったとも思うのです。そのような祈りを、主は私たちに教えられました。私たちもまたここで欲しているのは、どうやって祈ればよいか、どう祈ったら、言わば継続する霊的な祈り、聖霊様を感じるような祈りの生活を得ることができるか。そして祈り終わって神様の力を信じて、未だ状況は変わってなくても、自分の思い通りではなくっても、御心が実現するのを信じて過ごせるようになりたいということでしょう。何よりも愛する人々の救いを祈るし、また様々な試練、苦しみから救い出して下さい、連れ出し解放して下さいと祈らない人がおるでしょうか。けれど試練から解放されたら、祈らない生活、神様との距離が遠くなる誘惑も、知らない人がおられるでしょうか。

これらの祈りの悩みは、そのまま信仰の悩みと同じだとも言えます。悩みがあるから祈り、悩みがなくなったら自分勝手になる。それは私たちが何に悩んでいるか、あるいは悩むべきことに対して悩んでいるか、私たちが隣人の悩みをも共に負いながら、人として人らしく生きているかという問いとも、そのまま重なってくるものです。祈りと愛とは重なります。何を祈り求めているか、何を願っているのかで、その人の愛がわかります。その人そのものが見えるのです。

主から与えられた祈りの教えは、人が人として生きる、しかも神様と共に生きるには、何を心に留めればよいか、それを教えているとも言えます。古来、教会は主の教えを説き明かしつつ、信仰生活の急所を説いてきました。中でも今日、共に集中したいのは、ルカが集中した急所です。私たちが日々祈る主の祈り、マタイによる福音書に記された祈りと比べてわかるのは、ルカが幾分か省略をしていることです。そのことで強調点をスッキリさせます。天におられる、という言葉が既にありません。父よ。それで良い。そこに集中すればよいと言うのです。御心が、という祈りもありません。神の国、神様のご支配が来ているところでは御心が既になされているからです。ルカがずっと強調してきた点の一つです。神の国が近づいた。これが教会の語るメッセージです。神の国の強調。祈りはここに集中します。でないと祈りが私の支配、自分の思い通りになることを願って、祈りにならなくなるからです。世界は自分の思い通りにはなりません。そして神様も、自分の思い通りにはできません。それは祈りにはなりません。イエス様は、誰でも、父に求める者は受けると言われました。何でも、ではなくて、誰でもです。父よと祈るなら、私たちが一体誰に祈っているのか、そこに集中していけば、祈りの内容も、祈りの態度も、スーッと集中するのです。

主の祈りは、父への祈りです。誰かよくわからんけど、いわゆる神様に向かって願い事をするというのから脱却しないと、神様と共に生きることができなくて、自分勝手な信仰になってしまいます。よく耳にする祈りで、主イエス・キリストの父なる神様という呼びかけがあります。正しい祈りです。でもルカの強調点で言い換えるなら、キリストがこう呼んで良いと保証して下さった父よ。父は、うんと近いのです。それは決して馴れ馴れしい近さではありませんけど、うんと近いのです。神の国が近づいたとイエス様が言われてから、神様はうんと近くなって下さった。キリストの父は、御子を私たちの主として与えられ、私たちの父となられたのです。その近さにスッと入り込めるのは、幼子のように、わきまえのない者だとも言えるかもしれません。父はそのような幼子の父です。試練のとき、人はわきまえのない無遠慮な幼子として祈らんでしょうか。それでよいと父はおっしゃってくださるのです。幼子をわたしのところに来させなさいと主も言われました。父の御心に適うのは、そのようなわきまえのない幼子のような者が、自らの貧しさの故にこそ父を知ることができるという救いの実現でした。祈りの急所とも言えるでしょう。主の祈りはその意味で、幼子の祈りだと言った人もあるのです。それがルカの強調する、幼子の父の祈りなのです。

続く友達の譬えでも、願っている人は貧しい人です。夜中に無遠慮にわきまえもなく、しかし旅の途中の友人のために、何とかパンを欲しいと願う。わきまえはないかもしれません。けれど我がままではありません。疲れた友にパンを食べさせてあげたいのです。憐れみ深い、優しい人です。けれど貧しくてパンがない。それで近所の友人の家に行きますが、そんなにも親しくはないのでしょう。知人くらいか、近所ですから隣人でしょうか。私たちも親しい友ならご飯をあげるでしょうけれど、近所のしかもあまり親しくない人が突然、しかも非常識な時間に来て、いぶかりはせんでしょうか。あげても渋々ではないでしょうか。それが人間の現実でしょう。親しくなければ、願いにも応えてもらえない。

けれど当時、旅人のもてなしをするのは人として当然のことでした。前回マルタが旅の途中のイエス様をもてなしたのと同じです。人として当然なすべきことがある。私たちにもわかる話でしょう。人として当然のことを、けれどできんのが人間なのです。パンはあるのに愛が貧しく面倒をかけんで欲しいとすら思ってしまう。そういう私たちの愛の貧困を、イエス様は、あなたがたは悪い者でありながらも、けんど自分の子には良い物を与えるろうと言われます。親しくなければ愛さないのは、それは悪ではないのかと、憐れみ深いサマリア人として、イエス様が問うておられるとも言えるでしょう。じゃあ、そんな愛の貧しい人間の心が、どうしたら動いてパンを与えるようになるのか。譬えの急所はそこにあります。イエス様の答えはこれです。執拗に頼めばよい。

ただ、この言葉は翻訳が難しく、二つの解釈に分かれます。一つは、新共同訳のとおり、執拗に頼めばよいという理解です。幼子のように、ちょうだい、ちょうだいと食い下がればよい。隣人になるよりも、楽を求める人間ですら、幼子の如き、あきらめない願いによって心は動く。ならばキリストをくださった憐れみ深いあなたの父が、どうして聴いて下さらんことがあろうか。だから父を信じて求めたら良い、父を信じて待ち望み、祈り続けて良いのだというのが一つの理解です。

もう一つの解釈は、執拗さによってという言葉を、恥知らずの故に、と翻訳する解釈です。困っている人を憐れんで助ける。人として当然のことなのに、それをしないというのは、これでは自分を恥知らずにしてしまう、あるいは良心が痛むということがあるでしょう。だから自分の名誉、自分の名前を守るために聞いてくれるのだとするならば、どうして父がその御名のために、聴いて下さらないことがあろうかという理解です。主の教えられた祈りの最初の願いが、御名をあがめさせたまえ、直訳すれば、父よ、あなたのお名前が聖なるものとされますようにという願いです。ならばこの譬えは、それがどういう意味であるのかを教える譬えだとも言えるのです。イエス様が、神様は父である。ここにあなたは祈りの全神経を集中して良い、父よと呼んで祈ったらよい。父は、その父としての御名によって、祈りを聴いてくださる。もしそうでなかったら、父の名が廃るから、わきまえのない幼子のようでかまんから、父よ、父としてお聴きください、父の御名が聖なるもの、あがめられるもの、ああ、本当に神様は父なのだ、こんな私の父となられたのだと、父よ、父よと、ただただ幼子のように、そこに全神経を集中して祈ればよい。父として以外の誰でもなく、ただあなたの父として聴いて下さるあなたの父を信頼して祈ればよいと言われるのです。

いずれの理解も正しい祈りの姿勢です。イエス様が父に持っておられた信頼の姿勢です。その姿勢を、弟子達はなぞりつつ祈るのです。神様を友人や知人のように思っておったら、そら祈りに答えてもらうなら、親しくならないかんと思うのが人間の常識かもしれません。気分を害したら、仲良くしてくれんのが友人でしょう。だから気分を害さんよう、心を遣うこともある。逆に言えば、その程度の関係さえ保っておれば、こちらの言うことも聞いてくれるのが当然で、聞いてくれんかったら、人でなしということになる。存外、祈りが応えられないとき、神様を、そうやって人でなし、どうして聞いてくれんと、単なる友人扱いすることは少なくないのかもしれません。あるいはだからこそ、憐れみ薄く、扱い難い友人の心をまるで揺り動かすかの如く、執拗に一生懸命に祈りなさい、天の御座を揺り動かして、神様の心を動かしなさいということを皆さんも耳にしたことがあるかもしれません。でもそうでしょうか。罪ある人間同士の友人関係ならそうでしょう。けれど親なら、悪い人間の親であっても、子供には憐れみを抱くだろうと主は言われるのです。ましてや御子を、愛のない悪い私たちのため十字架につけられることで天から父として現され、しかもわきまえのない幼子を憐れんで憐れんで御子をすら惜しまずに死に渡される、それこそ常識外れでわきまえのない父としてキリストが現して下さった天の父は、必ずや、父よ、と呼ぶ祈りに応えて下さると主は言われます。友人ではない、人間の父でもない、天の父だから、あなたの父であるのだから、父よと、信じて祈ればよい。そうしたら、その幼子に、聖霊様を与えて下さると。

それは神様の憐れみのご支配がそこに与えられる、神様がすぐ傍らにいて下さるという約束です。ルカがこの福音書で語る聖霊様が与えられた人は、預言を語る人々です。聖霊様に満たされたら、神の言葉を語り始める。それは神の国がこんなにも近くに来ていることの、神様が共におられるということの、そして祈りに対する答えなのです。物質的な答えでなくても、願い通りにはならなくても、聖霊様による神の国の支配は、神様がいて下さるなら大丈夫だと、命が満たされる答えなのです。人が人として生きるとは、私たちが、悪より救い出されて生きる、真実求める人生とは、この霊的な神の国の実現以外にはないでしょう。父はその神の国を必ず下さる。だから求めていくのです。何度倒れても挫折しても、ただ父に集中する幼子となって、父の御国を求めるのです。