14/6/8聖霊降臨主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章17節、ヨナ書3章 「受けよ、救いの言葉を」

14/6/8聖霊降臨主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章17節、ヨナ書3章

「受けよ、救いの言葉を」

 

先に読みました旧約の御言葉は、老人は夢を見、若者は幻を見る、と預言します。どんな夢、どんな幻でしょうか。聖霊様によって見る夢。聖霊様によって見る幻です。その三位一体の御霊なる神様が見させて下さる夢と幻は、その御霊の剣である聖書の御言葉、神の言葉が描き出す救いの夢であり、幻です。何と幸いな人でしょう。すべて聖書の通りに実現すると信じる人は。その人は、聖霊様によって夢を見る。いやもう既に見ているのです。神様が、わたしは世界をこのように救うと、既に御言葉に語られた。その神様の救いが実現するのは、ああ、あの御言葉に、この御言葉に、教会が、はいと言ってお従いするところで、神様の救いがなるのだと、救いの夢を見ているのです。またそんな夢物語をと人が言おうと、救いの夢を見、救いの幻を語る教会は幸いです。そこに三位一体の神様の、御心が実現するからです。

その一つがこれです。救いの兜をかぶり、御霊の剣を取りなさい。言い換えれば、救い主キリストとの生活を一番にし、その救いが具体的に実現するために与えられた聖書の言葉によって生活しなさい。聖書が、こう生きなさいと言われる通りに、救い主との実生活を営みなさい。

先週申しましたように、救いの兜をかぶるのは、兜が救いの条件だというのではありません。キリストを救い主として信じ受け入れたら救いは保証されています。キリストが100%の保証だからです。キリストを失うことはできない。神様との関係、救い主との関係は、頼りない人間関係とは違うからです。キリストに、あなたが私の救い主です!と信仰告白しキリストと結ばれた人を、キリストが捨てることはありません。ならその関係を、生きよ、その絆を愛の絆とし、心を通わせ合う生きた愛の絆とせよ、救い主との愛の関係を生きよ、というのは、人間関係と同じでしょう。関係は生きてこその関係ですし、愛の関係は尚更です。救いの兜をかぶるというのは、救い主との愛の関係を、ならば救い主の愛に従って生きなさい、そうすればあなたが誘惑に陥らないよう、その愛があなたを守ると。救い主の100%の兜に守られて、安心して、その救いの関係を、生きて、生きて、生き抜きなさいということです。

具体的には、愛の関係を汚す一切の誘惑を避け、捨てる。夫婦関係と同じです。両方大切にすることはできません。愛を大切にするなら捨てる他ない。神様との関係も同じです。そして、汚れを捨てるためには、何が関係を傷つけるかを、え、こういう考え方もいかんかったが?この生き方も神様を傷つけるが?本当や、ごめんなさいと、知っていく必要がある。そして、その汚れ、過ち、罪を捨てるために、捨てるべき態度や生き方、考え方は何か、また神様に喜んで頂くために身に着けるべき生き方、考え方、態度は何かを教えてくれるのが、御霊の剣、神の言葉です。救いの兜による100%の保証のもと、安心できる神様との関係のもとで、その愛を実際に生きていくために、その生き方を具体的に切り開く御霊の剣を、この手にギュッと握るのです。

だから、この二つの武具はセットです。100%の防御だから、安心して剣を振るって、関係をおかしくする罪また悪魔と闘える。

そこで、この剣の使い方を身に着ける必要があります。剣ですから、間違って使うと、人も自分も傷つけます。ないでしょうか。聖書の言葉で人を傷つける。あるいは自分勝手に聖書を読んで反感を持つ。

また、この剣は闘いのための剣ですから、誰と闘うのか、どんな闘いを行うのかもわきまえる必要があります。人をやっつける剣ではありません。私たちに御霊の剣が与えられているのは11節で言われるように、悪魔の策略と闘うためです。人の人生を神様が傷つき悲しまれる人生にしようとする、嘘と闘うための剣です。

その闘いの場は、おもに二つあると考えるとわかりやすいでしょう。一つ目は、自分自身が嘘による攻撃を受けている場です。なあ、人生は自分の好きに生きろよ、自己実現しろよと悪魔の誘惑、世の誘惑、自分の心の内にある罪の誘惑が攻めてくる。それらに真っ向から抗って剣を構える。嘘や!と。私に命が与えられ、人生を営むことができるのは、自己実現のためではない。自分のしたいことより何よりも大切な、一番大切なのは救いだ!と救いの兜をかぶって、迫りくる誘惑に対して剣を取って、敵の攻撃を真っ向からガキーン!と受け止めて防御する。そうやって自分への攻撃に対して剣を取る。これが一つ目の闘いの場です。

もう一つは、攻撃を受けているのは、無論、私たちだけではありません。だから、その人たちも同じく受けている誘惑の矢面に立って、人のためにも剣を構えて、ガキーン!この嘘に騙されたらいかんでぇと攻撃を跳ね返す。人を守るための愛の闘いをする。この二つです。

悪魔の誘惑は、とにかく何でもえいから、人を神様から遠のけようとします。神様と具体的に関わらんように、言わば、この部分は大事だけど、この生活の部分は神様と関係ないだろうと、例えば恋愛は自由だろうとか、これぐらいはいいだろうと、御言葉と反対の生活をさせるように、悪魔も言わば導きます。キリスト者はその嘘の導きと闘うために、御霊の剣、神の言葉を取れと言われるのです。その剣によって切り開かれる愛の道、神様が喜ばれる具体的な生活を歩むためです。曖昧な信仰生活というのはありません。裁きが具体的なのと同じです。信仰告白で聖書は信仰と生活との誤りのない基準でありますと告白する通りです。生活はいつでも具体的です。その具体的生活に、具体的に御言葉を当てはめて生きる。それが御言葉による闘いの内実です。

そしてこの闘いは、今申しましたように、神様の愛の闘いでもありますから、この闘いを、自分のためにだけ闘うという霊的な自己実現にしない。人のために生きる。具体的には人の救いのために生きる。それがキリストに結ばれたキリスト者たち、教会の具体的な闘いです。霊的な自己実現って如何にも怪しげですけれど、自己実現に導く霊は聖霊様ではありません。何でも聖霊、聖霊って思わせる誘惑もありますが、それも悪魔の策略です。自分の信仰とか、自分の救いに終始させようとする導きに、しかし三位一体の聖霊様は真っ向から対立されて、違うろう!と、神の言葉によって私たちを導かれます。自分自分で救いなき世に、しかし恵みによって実現される救いは、あなたがたの内に、キリストが実現されていく救いだと、聖書の証するキリストの救いを宣言します。救いとは、キリストに結ばれて与えられた救いが具体的に現れて実現するのだと、私たちの心に絡みついている罪の鎖、態度、考え、生き方という罪の鎖に、御霊の剣、神の言葉が、ガキーン!と振り下ろされて、心と人生を、罪から解放して下さる。それが剣の用いられ方です。

そして自分自分の誘惑から救われていくと、具体的にどういう生活になっていくか。そこにキリストの思いが具体的に実現して、その人生にキリストの生き方が実現していく。あるいはキリストの生き方が成長していく。教会がキリストの体と呼ばれる所以の一つでもあります。私たちの生活、態度、生き方の中に、キリストの愛が立ち現れてくる。人の救いのために生きようという心が育まれるのは、キリストによる救いの必然なのです。聖書に具体的に証されているキリストの愛、その聖さ、また憐れみが、御霊によって、私たちの心と生活の中で具体化される。イメージで言えば、心の中で、聖書の言葉が単なる知識や言葉でなく、神様の言葉として、生きて存在の重みを持った剣として、私たちの歪んだ部分にザクっと当たって、その刃先から聖霊様が、罪の歪みや腐食に対して、そこはお前たちの住処ではない!そこはキリストの王座が据えられている、キリストの聖なるお住まいである!退けサタン!と、罪の生き方、態度、考え方を退けられる。私たち自身の力ではどうしようもない、自分自分の罪の腐れと、神様が闘って下さるのです。

人の心は、そうそう変わるものでもないでしょう。考え方も、生き方も、歳を取ったら尚のこと、今更変わらんと思うかもしれません。でもそれが変えられるとしたら、聖霊様のお働きです。優れた説得によるのではない。あるいは逆に、聖霊様聖霊様言うだけで何か神秘的なことが起こるだろうと、自分は何ちゃあせんのでもない。むしろ、例えば一人座って聖書の御言葉を読むという、実直過ぎるほど地味に神様の御言葉を信じるところで、御霊の剣を抜くのです。また礼拝で語りかけられる説教と愚直に向き合って神様を求めるところで、心と思いがキリストの思いへと、変格されていくのです。

その変格、罪から救われていくキリストの恵みのご支配を、御言葉はまっこと真実やと、喜びながら知っていく時、ああ、この解放の喜びを皆にも持って欲しいと、言わば自然に思うようになる。それもキリストの思いの実現です。無論、まだ自分としては多くの歪みがあり罪があるけれど、全部取り除かれるまで待ちよったら文字通り死ぬまでかかります(笑)。それよりも救いの兜をかぶって、キリストに救われた100%の安心を味わったら、自分に罪があろうと何だろうと、自意識過剰だろうと解放されていようと、救い主を伝えたいと思う。キリストを伝えなければと思う。それがキリスト実現です。キリストの心が、人に救われてほしいと願う神様の愛が、そのように私たちの内に実現しているのを、全く知らんキリスト者はおらんでしょう。誰かの救いのために祈ったことが一度もないということもないと思います。ただその思いを、具体的に、どうしたら良いのかがわからいで、自分自分が先に立って伝道した結果、失敗したりもしますから、御霊の剣があるのです。自分の力で、素手で闘えというのではない。100%の救いをかぶり、御霊の剣を取ってキリストの救いを証せよ。救い主は生きておられると、救い主を一番にする実生活を御言葉によって営むところで、キリストの救いは実現すると、御霊が導いて下さるのです。

この救いが必要でない人はおりません。キリストが救い主として必要でない人はおりません。ならばその救いをもたらすための神の言葉を、必要とせん人もおらんのです。そのために与えられている御霊の剣を、ギュッとこの手に取るのです。手に取って、具体的な愛の闘い、救いの闘いをするところで、キリストの救いがなるのです。

14/6/1復活節第七主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章17節、詩編51篇12-14節 「人生で一番大切なこと」

14/6/1復活節第七主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章17節、詩編51篇12-14節

「人生で一番大切なこと」

 

もう20年前になりますが、大学の最終学年になって具体的に就職を考えておった頃、牧師から話があるというので牧師室を訪ねました。進路選択、また将来について話をしたその冒頭で、牧師がこう言いました。幸生、人生で人は色んな道を選ぶけど、その中で一番大切なことは神様の救い、イエス・キリストの恵みによる救いを選ぶことだ。幸生はそれを選んだ。それを一番大切にしなさい。いつもそれを一番に大切にして道を選んだら、その他の道も守られると言われました。その通りだと思いました。今はもっとそう思っています。どんな思いで牧師がそのことを伝えてくれたか、その気持ちもわかる気がします。人生で、救い以上に大切なことはないのです。

優先順位の問題だとも言えるでしょう。何を一番にしているか。難しい言葉では主導原理と言ったりもします。おもに導く、主導する、他の一切を導く道筋のような考えのパターン、生き方のパターンが皆さんの内にあると思います。何を結局選んで生きているか。それがどんな生き方を形成し、今の自分になっているか。人生を導く何かがある。もっと積極的に言えば、これを一番にしちょったら後は自ずと導かれるという、人生で一番大切にすべきもの。

例えば1600年程前の教会にアウグスティヌスという神学者がおって、こう言っています。愛しなさい、そして思うことをしなさい。愛という根っこから生じてくる思いは、いつでも善い。その通りだと思います。もし善くない思いが生じるのなら、それは根っこが愛でなく、愛のつもりだったのかもしれません。だから悪い思いを導いてしまった。

では私たちは人生の根っこに、何を実際に置いているのか。私たちの人生の地面の下に隠されて見えない部分。けれどもそこから人生の実がなる大切な首根っこ。私たちの人生の首根っこを守るのは何か。それが救いの兜です。ちょっとややこしかったかもしれませんが、要するに、人生を導く一番大切な、急所を守る救いの兜を、意識的に身に着けることで、人生を守るのです。アウグスティヌス風に御言葉を言い直せば、救いを一番にしなさい、そして思うことをしなさい。救いの根っこから生じる思いは、神様と同じゴールを見ていますから、自ずと御心に沿う思いが生じます。だからまず、何をするにせよ、救いを一番にする。

大事なのは、救いを兜、ヘルメットとして身に着けること。すね当てじゃない。肩当てでもない。急所を守るヘルメット。ヘルメットがどれだけ大切か。オートバイ乗りが唯一着用を義務付けられている防御用具がヘルメットです。もしこの急所をやられたら、人生全体を失う急所中の急所を、だから救いのヘルメットによって守れと言われる。

イエス様の言葉を思い出します。人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(マルコ8:36f)もし全世界つまり欲しいもの全てを手に入れて、あるいは満足して死にさえしても、死後の裁きで、滅びの宣告、死後の命の損失を神様から告げられるなら、どうして私は救いを手に入れなかったのか、手に入れたもの全部なくってもいいから救われたいと悔やむほど、すべて損失になるとおっしゃった。それほどまでに私たちは、救われなければならないとおっしゃって、その私たちを救うために犠牲となってくださったイエス様が、これが一番大切だ、救いを一番にしなさいと言われるのです。

改めて聖書の教える救いのおさらいをします。救いとは何かから解放されるという意味です。では何から解放され救われるのか。おもに二つあります。今言いましたように、私たちが犯してきた罪ゆえの裁きから救われなければならない。そしてその裁きを引き起こす罪が、現在既に引き起こしている汚れ、悪、汚染から、救い出されなければならない。この二つです。それらを簡単に、赦しと清めと言い直し区別することもできます。区別はできますが、赦しも清めも、私たちを救おうとされる三位一体の神様の愛であり熱情です。なら別にそこまで大切にせんでもと思う時には、ヘルメットのひもは緩んでいます。もしそう思うなら、改めて、私には赦しと清めが必要です!とヘルメットをかぶり直すことが、とても大切です。それを聖書は、悔い改めと呼ぶのです。

ただし、悔い改めないで、ヘルメットをかぶってないと、救いを失うから救いの兜をかぶれと言っているのではありません。それは間違ってはなりません。ヘルメットをかぶるのは、そうやって救いを人間の力によるものだと嘘をつく悪魔の策略と闘うために必要な武具だからです。救われるための条件ではない。それは再確認させて頂きます。裁きからの救いも、汚れからの救いも、キリストを救い主として受け入れたら100%保証済みです。キリストが100%の保証だからです。実際には将来、裁きの座また復活の時に体験する、赦しの宣言と罪からの解放ですが、保証は既に100%です。100%の救い主、イエス・キリストの故にです。

そのキリストを信頼しているから、そのキリストによって救われたのだから、救いのヘルメットを安心してかぶって、救いらあ後回しでえいわえという思いと闘えます。悪魔の誘惑、世の誘惑、そして自分の内にある罪の思いと闘えるのです。そのためのヘルメットであるからです。私には救いが必要ですと。そのために主が私の救い主となって下さったから、そら全世界を手に入れたいなんて思わなくても、でも欲しいものを手に入れることが、救いより大切なんて人生にならんように、私には救い主がいて下さる。だから救い主の御名によって、憐れんで下さい、助けて下さい、そして私の故に人が救われなくなるのでなく、私を憐れみ、聖め用いて、愛する者たちをお救い下さいと、救いの兜をかぶって祈れるのです。祈るでしょう。伝道することさえできるのです。何をするにせよ考えるにせよ、愛する者の救いのためにそれをするし、お金を遣うし、時間を捧げるのは、どうしてか。救いがどうしても必要だからです。だから神様が、わたしが十字架で死に、全ての裁きを引き受けてしまうと100%の救いを差し出された。その神様のお気持ちが迫るからです。その名を愛と呼ばれる十字架の神様への信頼の絆を通して、その愛が迫ってくるから、何をしても誰を見ても、そこに神様が救いを差し出され、救いを求めておられると知るから、救いを一番にするのです。

それはまた御霊の剣、御言葉から伝わってくる思いでもありますが、詳しくは次週説き明かします。この神様の救いの熱情を、そのまま放っておかないのです。むしろ神様のお気持ちに応えて、私も救いを一番にしますと、神様の前に告白する。それが神様を救いの神様と信じる信仰告白でもありますし、愛の告白と言っても良いのです。神様が私たちの救いを求められ、その神様の愛を私もまた求めています、神様を大切にしたいのですと告白する。愛とは大切にすることだからです。

ザビエルたちがキリストの救いを日本に伝えた時、愛を神様の御大切と訳しました。まさしくキリシタンたちはこの愛を大切にし、殉教の時も、パライソ(パラダイス、天国)、パライソと言って天の父を仰いだと言われます。何を大切にしているか。具体的に現れた一例です。

救いのヘルメットを日々身に着ける。それは言うなれば戦国武将の兜のように、自分が何を大切にしているかの、宣言であるとも言えます。十字架を掲げた兜です。この十字架で私は赦され、神様の子供とされて救われましたと、赦された生活をする兜です。裁きと汚れからの救いを下さった神様を大切にして歩む。救いを一番に歩むところで、十字架の救い主は生きておられると、救い主の生きた証がなされるのです。

14/5/25復活節第六主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章16節、詩編37篇1-29節 「この盾に身を委ねます」

14/5/25復活節第六主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章16節、詩編37篇1-29節

「この盾に身を委ねます」

 

信仰を盾として取る。この盾は体全体をスッポリ覆い隠す大きな盾、大盾です。軍隊が敵の軍隊と向き合う時、最前線の歩兵たちに向けて、矢が、雨のようにビュンビュン降ってくる。弓矢って、あれ戦争の時は前向いてじゃなくて、上向いて撃つんですね。前に映画で見ましたら、空から真っ黒な豪雨のように矢が降り注いでくる。恐ろしい光景です。すると歩兵たちは一斉に身を屈めて大盾を上にかざす。そしたら巨大な一枚の盾になる。そして前に進んでいく。また第二陣の矢が降り注ぐ。盾で身を守って、前進する。皆で一緒に、前進していく。

そこで必要不可欠なのが、この信仰の盾だと御言葉は告げます。大盾の中にスッポリ身を委ねて、攻撃から守るように、私たちは信仰の中にスッポリ身を委ねて、降り注ぐ攻撃から身を守る。全身をです。誰もが一日24時間生きています、その24時間の生活全部、朝起きて、礼拝に行く時も行かん時も、友達と遊びに行く時も、家でテレビを見る時も、全部をスッポリと信仰の盾の中に入れて、結婚生活も、あるいは恋愛も将来の夢も、過去の痛みも、全部スッポリと包み込んで守る盾の中で、ここでのみ我が身は守られると、頭を低くして身を守る。

でなかったら、盾からはみ出ちゅう生活に、ザクッと、悪魔の誘惑の火の矢が刺さります。いきなり倒れるかもしれんし、強い人は、こんなのへっちゃらと、弁慶のように仁王立ちしちゅうかもしれません。が、問題は、その矢には火がついちょって、引火する。ひょっとその弁慶のような強さがプライドから来ちゅう強さだったら、この火はプライドに引火しますから、下手したら自分が倒れるよりもひどい結果、つまり、人を巻き込むかもしれません。いずれにせよ、この火の矢は厄介です。しかも雨のように降り注いでいる。

何で、降り注ぐイメージで御言葉が語るのか。おそらくは、私たちの24時間の生活を取り巻く、ありとあらゆる誘惑の故でしょう。神様との親密な関係をダメにして、引き離し、こっちの虜にしてやろうという、悪魔の誘惑が、もう逃げ道のない雨みたいじゃないかえ?ん~本当やと納得して、信仰の盾を取ってもらうためでしょう。それがもし、信仰は大事ですね、以上。で終わったら、例えば盾なしでテレビ見て、盾なしで恋愛して、盾なしで生きて、罪の傷を負って、立てんなる。

立てんなるというのは、具体的には、いつも神様の前に立っている、あるいは先週の言い方で言えば、イエス様に自分の方からもくっついていくという正しい愛の関係から、離れて、距離を置いてしまう。段々と距離を置くか。いきなり離れるか。色々あると思いますが、倦怠期だろうと、気まずさだろうと、要するに、神様を慕う思いが、冷たくなる。そりゃあ私には神様が必要だと思ってはいるけど、心がついて行かんと言うか、行動と態度がついていかんなって神様との関係が疎遠になる。距離ができる。それが火の矢が狙い撃つ攻撃プランです。11節の御言葉では「悪魔の策略」と言われていました。巧妙なプランです。人間の弱さを、よく知っています。同時に、神様の強さも知っておりますから、キリストによって結ばれた救いの関係が、たとえ疎遠になっても切れることはないことも知っています。だから、悪魔が何をするか言うたら、壊すことのできん関係を、けんど、疎遠にさせて、距離を置かせて、要するに、神様の御心より自分の思いを優先させることができたら、教会は平和の福音を告げる力を失ってしまう。救いの関係は壊れなくても、教会は救い主の御心に従わなくなる。それが狙いです。

改めて申しますが、救いとは神様との揺るぎない愛の関係、神の家族の関係が神様の方から差し伸べられて、その関係にこちらもまた入らせて頂いて、関係が結ばれること。しかも揺るぎない、決して壊れてなくなってしまわない、神の家族の関係が、三位一体の神様と私たちとの間で永遠に結ばれてしまうことです。そのための100%の赦しを保証する完全な犠牲として人となられたキリストであり、そのキリストと100%結びつけて決して離さない家族の絆として、聖霊様が私たちとキリストとを結びつけておられる。三位一体の神様が総動員、全力で結び、保証されている救いの関係、家族の関係ですから、これは壊れません。が、家族の関係は、いつでも愛の関係ですから、その愛が一方通行でよしとされることも決してありません。その愛の責任を、神様は私たちに問われますし、それ以上に、求められます。神は愛です。

いつでもそうだと思いますけど、その愛の神様に対して、どこか後ろめたい気持ちを持ってないキリスト者はおらんのじゃないでしょうか。だから神様に従って、神様を愛そうと思うのですけど、弱くって、愛が弱くって、自分が嫌になったりするか。自分が強すぎて、自分はできているのに、何でできない人がいるのかと人を裁くか。そのミックスか。そこに火の矢が降ってくる。プライドに引火させたり、傷を負わせて、とにかく愛から、神様の愛の関係から引き離そうと試みる。

それに対して私自身、どうやって闘っているか、どうやって信仰の盾を取っているかと言ったら、具体的にこの御言葉の陰に身を隠すことが私の盾です。共にお開き頂ける方は、新約の285頁、ローマの信徒への手紙8章31節以下の御言葉です。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか。私たち全てのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さるのです。誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「私たちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてある通りです。しかし、これら全てのことにおいて、私たちは、私たちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています。 私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。」

私はこの御言葉をお語り下さる神様を信じます。この神様の愛を信じます。この愛で、私と永遠に結ばれることを望んで下さり、求めて下さり、そのために御子を十字架にお付け下さった神様を、愛と恵みの神様を信じます。この神様を信頼するという盾のもとに身を隠すとき、自分の罪もわかります。それまで頭ではわかっていても、心がついていかなかった罪のひどさが、神様の愛によって示されます。この光の下でしか見えない汚れが罪なのです。罪は本来、関係の破れですから、関係に対する感覚が鈍ると、罪の痛みも鈍くなる。まるで脳血栓のように、愛の関係の絆に自分自分が詰まってしまって、それで破れて傷を負っている関係に、でもキリストの愛の御言葉が染み込む時、神様との愛の関係を詰まらせ、また心を詰まらせていた罪の自分を、ごめんなさいと捨てられるのです。これが正しいって心でわかるのも、その時でしょう。

そのためにも、この順番は本当に大切だと思いますけど、平和の福音を告げるためにも、まずは自分に語るのです。46時中自分に語りかけ、自分自分で心を詰まらせ、神様との信頼関係の絆を詰まらせてないか。主よ、憐れんで下さい、キリストよ、憐れんで下さいと、ただ十字架にすがるのです。すがるという信仰の大盾、我が身を主の愛に委ねるという信頼の大盾に、頭を低くしてスッポリ入って、恵みによってのみ立つのです。自分で立たん。自分は、むしろ捨てなさいとイエス様は言われました。でないと、弟子としてついては来れないとおっしゃいました。本当にそうなのです。神様との信頼関係を詰まらせてしまう自分自分という罪は、キリストに日毎に執り成して頂く他ない。主の祈りを本当に毎日祈るのは、そのためでもあると思います。赦しによってのみ立つのです。天にまします我らの父よ、赦して下さいと祈る時、父を信頼して祈る時、その手には信仰の大盾があります。その盾にはキリストの血が塗ってあります。その血が火の矢を消すのです。自分だろ、自分の思いが優先だろとゴーゴー燃える罪の火を、あるいはお前はダメだダメだと自分を責めて自意識過剰に燃やす火を、消すのはキリストの血潮です。ご自分を捨てられて、赦しを下さり、新しい生き方を下さった救い主の血が、自分自分の火を消して、その名を愛と呼ばれる神様の子供として私たちの命と心を守ります。主の愛が、自分自分の火を消します。真実の愛があるところ、自分は息をできんからです。

ですから信仰とは、自分が信じている!という手柄ではありません。そんなもの掲げても、火の矢で燃え盛ってしまうだけです。信仰はまず何よりも、神様の方から与えられた信頼関係の絆に対して、はい、私もその関係に入りたいです、あなたは私の神様ですと、神様にくっついていく信頼です。恵みによって始まって、信頼によって心が通い合う関係の絆、関係のパイプ。決して切れることのない神様との関係を、ならば自分で詰まらせないように、自分を捨てて、愛の関係に生きていこうとキリストが招いて下さった。そのキリストに、はいと答えて、身を低くして、洗礼を受けて、聖餐を受ける。恵みはいつでも受けるものです。そこに身を置いて生きることを、恵み恵みで生きて行くことを、聖書は信仰と呼ぶのです。

具体的には、その関係に招かれる主の御言葉を信頼します。詳しくは17節、霊の剣で説き明かしますけど、自分を信じさせようとする残酷な知恵や自分の考えに従うのでなく、神様の知恵のほうが正しいと、神様を信頼するのです。御言葉に生きる。そしたら多くの過ちから身を守れます。自分から火に飛び込まんで済むばかりか、火に悩む人を自己責任で放置せず、むしろ自分を捨てて、その人のためにも信仰の盾を、救いの屋根として広げて生きられる。教会は、そうした救いの家なのです。

14/5/18復活節第五主日朝・合同礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章16節、詩編40篇1-12節 「安心して信頼できます」

14/5/18復活節第五主日朝・合同礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章16節、詩編40篇1-12節

「安心して信頼できます」

 

「なお、その上に」。直訳は、全ての上に。すぐ前で、真理の帯とか、正義の胸当てとか、平和の福音を告げる準備のブーツとか、この後にも続く色んな神の武具がありますが、その全ての上に、全身をスッポリと覆う信仰者を守る大きな盾、信仰の大盾を取りなさいと御言葉は命じます。これが、どのように具体的に全身を守るかというのは次の礼拝で説き明かしまして、今日は、じゃあどうして信仰が全身を守るのか。ここに集中します。頭とか足とかの一部だけじゃなく全身を守る。あるいは直訳の「全ての上に」とは、言い換えれば、これはオプションではないということです。勇気があれば信仰の大盾はいらんとか、ヘルメットと胸当てあったらえいろうとかはダメ。信仰は、車につけてもつけんでもかまんナビとかエアコンとかのオプションではありません。エアコンは普通ついちゅうろうとか、そんな話でもなくて、ガソリンレベルです。信仰を入れてないと、どんなに正しい知識が入っても、どんなに能力に秀でておって奉仕を沢山して皆から重宝がられ、人柄も良く愛されて、素晴らしい人やねえと慕われたとしても。信仰、つまり神様との生きた信頼関係によって心が神様と行き来してなければ、残りのバッテリーで暮らす、動かんキャンピングカー生活のようなものです。

じゃあ、その信仰って何か。いまガソリンに譬えましたが、そこ走りゆう電車に譬えたほうがえいかもしれません。エネルギーは電気です。そして、ここが急所ですけど、ガソリンと違って、電気は切れることがない。何故か。常に電線とつながっているからです。信仰も同じです。イエス様を私の救い主として信じ受け入れ洗礼を受けるということは、生きておられる救い主キリストと常につながっているということだからです。もう一度言います。イエス様を、私のために人となられ十字架で私の罪を赦して死んで下さった私の神様、私の救い主ですと信じる全ての人は、その時以来、常にキリストとつながっています。もし、信じた相手が生きてない電線と同じで、あれにつながれば自動的に永遠の命が流れてくるがやろうと思いゆうのなら、この譬えは破滅的です。だって救い主が生きてない電線なら、自分から頑張ってくっついて行かんかったら、もし試練に遭って、何かにつまずいて、脱線らあして、電線から離れたら、自分の力でくっついてないとダメなんだったら、もう終わりでしょう。そんな救いがキリストの救いでしょうか。それは一つの救いについての考え、しかもよくある自己責任の救いの考えかもしれませんが、しかし、キリストは生きておられます。聖書に証される唯一の神様の救いとは、生きておられる救い主によって救われる救いです。電線ではなく、永遠のバッテリーがずっと一緒にいてくださっているイメージに近いでしょう。キリストが、わたしは命であるとおっしゃった。わたしは常にあなたと共にいると言って下さった。救い主イエス・キリストが共にくっついてくださっているので、私たちは永遠の命を得て救われます。そして、信仰とは、このくっついてくださって命をくださっている救い主、イエス・キリストを救い主と信頼して、イエス様に我が身を委ねくっつけることです。洗礼を受けるとき、キリストの前にひざまずくのは、私はこれからイエス様と一つになりますと身を委ね、くっつくことです。そして、ここが急所ですけど、その私たちに、キリストが、生きておられるキリストが、ご自身の身をくっつけてくださって、一生あなたから離れない、いや永遠に、わたしはあなたのもの、あなたはわたしのもの、キリスト者だと、キリストが私たちと、救う者と救われる者という関係を持ってくださり、保ってくださる。だから私たちは救われるのです。救われた!とすら、言うのです。それは私たちの救いが、生きておられるキリストによるからです。100%よるからです。キリストがくっついてくださっている。それが救いです。キリストと結んだ関係による救いです。

そして信仰とは、この救いの関係を結んでいる、キリストと私たちとの間にある信頼関係のきずな。これが信仰です。前にも言いましたが、この信仰のきずなは、私たちが自分の主体的決断によって信じることを選びとったが故に自分の手柄のように誇れるものではありません。断じてありません。そういうイメージが多いのですが、そして壊滅的打撃を教会に与えることもあるのですけど、信仰は手柄ではなく、間柄です。手柄というなら、全部キリストの手柄です。キリストが十字架で勝ちとって下さった赦しという手柄のお陰で、私たちは神様の赦しを信じられるのです。そしてその根拠も、キリストに由来します。本当にキリストが私を愛して、死ぬほど愛して、本当に死なれて、その愛が時間と共に薄まることも変わることもない。その愛を信じられるのは、キリストがその信頼に足るお方だからです。キリストに、あなたを信頼します、あなたの愛を信頼しますと言えるのは、キリストのお陰。何の手柄が私たちにあるでしょう。信仰は、このキリストのお陰で与えられた信頼関係という間柄。信頼関係という絆です。

だからもし、試練に遭って、神様の愛を信じれんなって、あるいは罪を犯し、神様は赦してくれんろう、どの顔さげて私はキリスト者やとか言えるろう、教会にもよう行けんと思うような時にも、生きておられる救い主、キリストが共におられてこう言って下さる。わたしはあなたとくっついている。この愛の絆を切り離した覚えはわたしにはない。あなたはもし脱線したとしても、わたしとくっついている。わたしは主。あなたの神。あなたを救う、あなたの救い主だと宣言してくださる。

このキリストへの信頼こそが、だから私たちを守るのです。試練の中にあっても、でも、キリストが共におられると信頼できるから、何とかやっていけるのです。思い込みじゃないかと疑うようなことがあって、なお、それが私たちの弱さであればこそ、聖書には復活されたイエス様が、疑うトマスとも共におられて、信じない者でなく、信じる者になりなさいと信頼を求めてくださった、その愛の証が刻まれています。

神は愛です。キリストは愛です。救いはこの神様の愛によって100%守られている関係という救いであればこそ、キリストを信頼しなさい、その愛によって身を守りなさいと、御言葉は語っているのです。

14/5/11復活節第四主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章15節、イザヤ書57章14-21節 「柔和に平和をつくる人」

14/5/11復活節第四主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章15節、イザヤ書57章14-21節

「柔和に平和をつくる人」

 

「平和の福音」と御言葉は語ります。他にも語りようはあるのです。喜びの福音とか、慰めの福音とか、救いの良き知らせを形容するのに、色んな言い方があり得ると思いますが、ここで強調されるのは「平和」です。それがまた、じゃあキリストの救いの知らせを、どう人に伝えればよいのか、その伝え方、伝道の在り方をも、教えていると言えます。もし喜びの福音を告げると言われていたら、やはり喜んで伝えるというイメージがあるでしょう。じゃあ平和の福音を告げるというのは、どういう告げ方をするのでしょうか。

既にこの手紙の2章で「キリストが私たちの平和です」と、キリストの下さった救いが、平和として語られていました。救いとは何かと語るとき、それはキリストの下さった平和だと語る。

平和と言えば、争いがない状態を日本人はイメージするでしょうか。領土とか、君が代斉唱起立とか、そういうキナ臭いのがないのが平和。それも間違いではないでしょう。2章でもキリストが敵意という隔ての壁を取り壊して下さったと語ります。韓国と朝鮮を互いに緊張関係に置かせるような壁、あるいは見えない壁、見えない国境があると、平和でない。国境なんて何であるのでしょう。前にちびまる子ちゃんで、姉と同じ部屋にいるのが嫌で、こっから私の陣地だからお姉ちゃんのモノは置かないでねとかって争っている話がありましたが、あれ、国家間だけのことではないでしょう。神様との間にも、そうした見えない国境を、目には見えんのに、でも確かに存在する国境を、ガリガリガリと人間は引いて、神様はこっから私の生活に越境してきたらいかんと壁を置く。そして神様との関係を壊し、関係を切り離し、神様の心を引き裂いて、私は私、私は自分の人生を自分の力で、救いも自分で、自分の力でと、神様の愛と正しさと聖さから一線を引いた。そしてアダムとエバが永遠の一線を超えたように、人は罪の国家支配の中に飛び込み、身を隠し、溶け込んで、神様から離れ、神様との関係が断たれてしまっている状態にいる。神様との間で、平和が断たれている。これが何故、聖書が救いを語る時に、平和を語るかという理由です。神様との関係が断たれている状態。またそれに甘んじる状態と、無関心であることの結果。それが聖書の語る罪です。

注意頂きたいのは、この神様との関係がキリストによって回復された状態を、聖書が平和と呼んで、平安と呼ばなかったことです。もし平安と言ってしまったら、大きな誤解を与えることになります。平安が個人の心の状態を言うのに対して、平和は個人だけで終わりはしません。わかりやすく言えばこうです。人間関係で問題を抱え、ストレスがあり、平安がないとき、例えばモルヒネ打てば関係はそのままで平安になる。マルクスが、宗教は阿片であると言ったのは、うまいこと言うたと思うのです。あの人、社会主義者ですから、社会に、人と人の関係に関心がありますから、個人主義的な自己満足、自己実現に堕し、人との関係に無関心に見えた教会に我慢できんかったんでしょう。壊れた関係を変えなければならないと考えた。それもよくわかります。でもそれを、力で変えようとしても、間違った平安は粉砕し、ゲバできても(笑)、平和をつくりだすことはできんのです。

平和とは、愛の関係がそこにあり、両者が一つであることです。単に争いがないのではない。個人と個人が互いに愛などはないのだけれど、利害関係が一致して、愛しはしないが争いはしない。そんな嘘の結婚のような仮面関係を与えるために、神様が十字架で死なれたわけではありません。聖書がシャロームと呼ぶ平和。神様との間に国境がない、壁がない関係は、生きておられるキリストに支え続けられている関係です。罪を犯して、もし神様をうざいと思って、背を向けて、わかっているのに敢えて罪を犯すようなことをして、ガリガリガリと国境を引いても、そのガリガリをキリストが背中に受けて下さって、全部キリストが身に負われ、父と私たちとの間に立たれたキリストが、私たちを背中にくっつけて、父よ、この罪はわたしが負いましたから、ここに溝などないのです。わたしがその溝に橋をかけて永遠の道となったのですから、この道をこの子は自由に行き来できるのです。この子はあなたの子だからですと、キリストがいま生きて執り成して下さっている。そして私たちに向いて言われるのです。あなたの罪は赦された。生まれ変わって生きて行こう。あなたも父の子供だ、一緒に歩もうと。

これがキリストによって神様と回復された関係、平和と呼ばれる救いです。そしてこの平和の関係は、心に平安がないときでも壊れん平和です。私たちの罪によってさえ、粉砕できない平和の関係です。何故ならそのためにキリストが、十字架で私たちの罪そのものとなって粉砕されて陰府にまで降られて、変わり果てられたお姿になって下さったから、だから私たちは、このキリストの身代わりの変わり果てのお陰で、ただ恵みによって生まれ変わり、神様との壊れない家族関係に生きられる。ならば平安とは、この揺るぎないキリストの恵みの平和に、アーメン、この平和は、変わることのない永遠の平和ですと、キリストを100%の救いの根拠とするところで、心に生まれる平和の実りです。

ですから、平安がないときでも、悩みや不安があって心が安んじてないときでも、伝道はできるのです。辛いけど、しんどいけど、キリストの平和があるから、揺らぐことのない確かな私の場所が、私には神様の前にいつもあるから、辛くても、私はそこに立って慰めを受けているのですと言える。嵐の只中にあっても、でもこの場所はなくならないと。言わば落ち着いて不安な状況を受けとめて、何とかやっていますと、別にそれを口にせずとも、他の人が見て、ああ、あの人、何か胃が痛そうな顔しちゅうけど、落ち着いた顔しちゅうねえという、物腰と言うか、安定感と言いますか、それが十字架と復活を映し出すキリストの香りというものじゃないかと思います。

その平和に立つこと。これが私の平和ですと立つこと。それが平和の福音を告げる準備を履物にして立つ立ち方です。この平和を自らの平和としてそこに立つ時、私たちは平和の使者、神様から差し出された和平のために家族や友人や地域の方々のもとに主から遣わされた平和の大使として、ここに立っているのだと、自分の立ち位置がわかります。どこに立っているか。キリスト故の揺るがない関係の平和にです。伝道とは自分がいま立たされているこの関係に、あなたも一緒に立ちましょう、神様がそれをお望みですと人々と一緒に立つことです。キリストが一緒に立って下さる、あなたの場所、恵みの場所が、神様の前に用意されています。どんな嵐に遭っても吹き飛ばん場所ですと、そこに立ちながら証しながら、ああ、この人の言いゆうことは少なくともこの人にとっては嘘やないんやろなって思って頂けたら、イエス様も、うん、そっからスタートやと言って下さるのではないでしょうか。

伝道は、自分の力で人を変えることではありません。あなたは神様についての考えが間違っているから変えろとやっても人は変わりません。何にしたって、そうでしょう。人に変わってもらいたかったら、自分が先ず変わる必要があります。福音伝道も同じです。

自分自身どうやって救われたか。自分の力でしょうか?自分の主体的決断によってと思ってたら、信じない人を、それはその人の自己責任だと裁き、あきらめて、その人との平和を求めるべき私たちの責任逃れをしがちになるかもしれません。それをも伝道と言うのなら、それは何の道を伝えるのか。自己責任の道か。ヨハネ3章で「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言われた。また同じヨハネの14章でキリストが、わたしが道であるとおっしゃった道。それは恵みの道です。憐れみの道です。何でも自己責任にしたい私たちの自我、プライドの罪を、キリストが私たちの代表責任者となって引き受けて、代わりに裁かれて下さった赦しの道。この十字架の道をこそ、私たちは、私たちの救いの道、平和の道として伝える他に、まっこと、伝道の道はないのです。

その十字架にいよいよイエス様が向かわれてエルサレムが見えた時、そこに住む人々のためボタボタ泣かれて、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたら」とおっしゃった(ルカ19章41節以下)。平和への道がわからない人々のために、主が涙を流された。その涙のわけをわきまえるところでこそ、救われる平和がここにありますと、憐れみの道を伝える、伝道する準備が、なされていくのだと思います。

その機会が、毎日あるかはわかりません。でもキリストの平和の福音をわきまえた生活を、毎日することで、伝道の機会は訪れます。ずっと前、旅の途中で道がわからんなって人に聞きました。そしたら、ああ、あの茶色いビルわかる?あのビルを左に曲がって、二つ目の信号また左行って、まっすぐ行ったら交番あるから。がくっ(笑)。え、知らんが!でも賢くもあるのです。この人は、道を伝える備えが、できていた人を知っていた!その人が私たちだと、人々に知ってもらえたら、どんなに素晴らしいことでしょう。悩みを相談された人が、どうしたらえいかはわからんけど、でも、あの人に言うたら、あの人クリスチャンで優しい人やき、きっと助けてくれるで、と言ってもらえたら。そうやって救いに導かれた方々も決して少なくないのです。本当は、そうやって紹介してくれる人も、教会に来てくれたらと思います。でも、そのためにも、まずは私たちが平和をわきまえて生活をしておれば、神様が導いて下さいます。私たち以上に、その人の救いを望まれて、本当に命を捧げられたのが神様です。その憐れみをわきまえて、頭だけでなく心と態度で、生き方で平和をわきまえる。恵みによって与えられた揺るぎなき関係の平和をわきまえ、福音伝道の備えを毎日歩む。ほとんどが備えの日々でも良いのです。平和の道具として下さいと、備えて備えて、人々の救いを執り成し、平和を自らわきまえて、準備して、毎日、主と共に立つのです。その忠実な僕を、主は蔑ろにはされません。いつ主からお呼びがかかっても、キリストの救いを証できるよう、毎日備えて歩むのです。

14/5/4復活節第三主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章15節、イザヤ書52章7-10節 「100%の救いの根拠」

14/5/4復活節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章15節、イザヤ書52章7-10節

「100%の救いの根拠」

 

これは言い換えると、伝道の準備をしなさい。どうやったら人に福音を告げることができるか。そもそも人々に手渡すべき福音とは、何か。わかりやすく言うと、こういうことですと、何を人に伝えたらよいか。それが自分自身よ~くわかって、ズバリ福音を伝えられるように、伝道する訓練を受けなさい、とも言えるでしょう。

ペトロの手紙一3章15節に、教会に対するこういう命令があります。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」

いつでも弁明できる、つまり言葉で明らかにできるように、準備していなさい。今日の御言葉と同じ。準備しているかいないかが分水嶺だと御言葉は語ります。抜き打ちテストと同じ。私みたいな一夜漬けタイプは、もう40過ぎてもテストの夢見ます。しかも進級がかかったテストの夢で、物理の法則とか、微分積分の数式とか、全く覚えてなくてドッと冷や汗をかく悪夢を見ます。あと、別の夢で、突然この説教壇に立っていて、え?礼拝説教するが?聖書のどこで?あ~何の準備もしてない!と、これは結構の牧師が見るようですが、私は、そんときパジャマだったりして、とりあえずしゃがんだりしているのですが、頼りない牧師ですね。パジャマだろうと、堂々と説教すればよいのに。できんのです。準備してないと、できんのです。

それは私たちキリスト者一人一人に託されている、いわゆる個人伝道の準備でも同じです。伝道のチャンスが突然来たとき、例えば、幸生、何でおんしゃあキリスト教になったがな、キリスト教の何を信じちゅうがか教えてくれと、私もキリスト者に成り立ての頃、突然チャンスが来た。そんとき私は、いやキリスト教を信じちゅうがやのうて、キリストを信じてちゅうがよと、宗教への信仰じゃなくキリストを信じたということの説明に終始して、うまく弁明することができずに、悔しい思いをしたことがあります。チャンスは突然来るのです。まるで自分は補欠で試合にはたぶん出んろうと思いよった補欠の選手が、突然、監督から、次、代打でスクイズバントを決めてくれと言われるように!突然来る。ホームラン打たんでもよいのです。でもバントは、準備をしてないと、できん。一回のバントの背後に、数えきれないバントの準備があることは、皆さんもご存じだろうと思います。

バントの譬えで言えば、私たちは大監督であるキリストから、この人の心の一塁線上に、福音を、ポトンと優しく落としてほしい、よろしく頼むと、平和の福音のバントを任されています。イエス様の十字架も、言わば犠牲バントです。私たちを生かすために、ご自分は犠牲になられたのです。同じように私たちも自己犠牲の覚悟から、よし、と始めて、福音を伝える準備を始めます。恥ずかしいとか、ようせんとか、色々な思いがあるのですけど、伝道の急所は一つだけです。私たちの犠牲になることを選ばれた救い主が、私たち一人一人に向き合って、この群れにまだ入っていないわたしの羊をよろしく頼むと言われる。そのイエス様に襟を正して、我が主、我が神よと、主に向き合って、自己犠牲という伝道のバッターボックスに入る。あとは聖霊様が助けて下さいます。

そしてその心の準備、覚悟の準備がなされるところで、では実際に、何を伝えるのか。告げるべき平和の福音とは何か。最大の急所はそこにあります。どれほど大きな自己犠牲の覚悟があっても、自分の福音理解が間違っておったら、例えば、頑張ったら天国に入れてもらえるという自己責任の救いを語るなら、それはキリストの福音ではない。

もし病院にお見舞いに行って、実は私もう長うないって言われたがやけど、私、天国に行きたい、どうしたら天国に行ける?って涙ながらに尋ねられたら、皆さん、何と答えられますか?もう次はないかもしれなくて、今がキリストの平和の福音を伝えるべきだというとき、何と言えばよいのか。何を信じたら、ああ、これで私は100%救われて神様のもとに行けると、平安の内に、魂を神様に委ねられるのか。

これが説教題に、100%の救いの根拠とつけた理由ですが、これは私の伝道体験からパッと心に浮かんだ言葉でもありました。私がイエス様を信じて数年後、休みで実家に帰っておったとき、いわゆるものみの塔、エホバの証人の方々が訪ねて来た。これ、前にも話したことがあるかもしれませんが、その時私は、友人から勧められた本で、その名もズバリ『エホバの証人への伝道ハンドブック』という本を読んでおって、知識の面でもある程度準備できていました。質問するとよいと書いてあったので、あなたがたのグループは、要するに行いによる救いを信じてるんですよねとか質問したら、こりゃ厄介なのに当たったと、支部長クラスの人と、その見習いが来ました。色々話したと思いますが、印象に残っているのは、私が、ではもし今夜お二人が死んだとして、何%の確率で自分は救いに入れると思いますかと、おもに見習いさんを見ながら尋ねたら、ちょっとうつむいて、深刻な顔で50%ぐらいと言う。ボスは少し怒った顔で100%だと言うので、その根拠は何ですかと問うと、正しく頑張りゆうからだとボスが言う。見習いさんは、頑張ってはいるけど、でもまだ私は正しくなくて、罪を犯して…と誠実に言われた。そこで、じゃあ100%の根拠を聖書から読みませんか。こうあります。「あなたがたは恵みにより信仰によって救われました。このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは誰も誇ることがないためなのです。」エフェソ2章8-9節。また「罪が支払う報酬は死です。しかし神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命です。」ローマ6章23節。つまり聖書は永遠の命の救いが神様の賜物、プレゼントだと告げています。私は正しいからプレゼントもらえるというのは、プレゼントではなくて報酬、お給料です。それはプレゼントを感謝して受ける態度じゃないでしょう。むしろそうやって家族の正しい愛の関係をさえ破壊する人間のプライドという罪が、恵みを拒否し、神様を悲しませるのではないでしょうか。その私たちの罪を神様はキリストに負わせキリストを人間の代表として裁かれたのです。キリストが代表責任を取ることによって、恵みによる救いを用意されたのです。そして、その恵みのプレゼント、罪の赦しと永遠の命が、いまあなたの前に神様から差し出されています。このプレゼント、賜物を、ありがとうございますと、代表責任者となられたキリストを、私の救い主と信頼して、イエス様、ありがとうございますと信頼して受けとる。これが100%の救いの根拠です。根拠は自分にはないのです。キリストの恵みが根拠です、どうですか、今このプレゼント、お受けになりませんかと、見習いさんの目をまっすぐに見て言いました。戸惑っておられましたが、そんな恵みの神様を本当に信じて良いのかという眼差しでもありました。残念ながらボスが連れ帰ってしまいましたが、あなたにもこのプレゼントがあるのですと伝えました。この人たちを救いたいと、天の父が願われて、ここに連れて来られたのだと、神様の愛を思いました。帰りゆく彼らの後ろ姿を見ながら、主よ、どうかこの福音を虚しくしないでくださいと祈りました。

この100%の福音を抱く人は、今夜もし死んでも安心できるのです。100%救われます。この100%の恵みの神様を信じて伝えていくのです。

14/4/27復活節第二主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章15節、イザヤ書40章9-11節 「伝道のため心を備える」

14/4/27復活節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章15節、イザヤ書40章9-11節

「伝道のため心を備える」

 

どんな履物でしょうか。2000年前の地中海近辺の服装を想像したら、足首まで革紐でグルグル巻いたサンダルを想像されるかもしれません。あるいは、この御言葉が前のところから続く、神の武具の教えだと思いかえすなら、足の指が出ちゅうサンダルというよりは、ローマ兵が履く先の尖ったブーツではないかと言う学者もいます。神の武具ということで言えば、ブーツのほうが、神様の救い、福音を告げる教会の長い長い行軍にも耐えうるのではないかと、牧師として思います。

皆さん、この御言葉を聴いて、ん?と思ったかもしれません。御言葉を具体的にイメージして聴くと、ん?と思うのです。福音を履くのではなく、福音を告げる準備を履物とする。準備を履く?ちょっと耳慣れん表現じゃないでしょうか。もっとも福音を履くのも、何か踏みつけるみたいですから、その意味では福音を告げる準備を履くほうが、もっともな表現だとも思います。

平和の福音を告げる準備を足に履く。どういうことでしょう。

先週も申しましたが、私は中学時代、陸上をやっていました。最初の大会で1500メートルを走ったのですが、陸上部に入ったばっかりで準備ができてない。走り込みと気合は準備万端でした。が、トラックを走るスパイクの準備がなかった。たぶんお金がなくて最初から誰かに借りようと思うておったんでしょう。で、試合当日、足のサイズが同じ友達に貸してと頼んだら、えいけど、俺短距離やきスパイクの針が長いぞ、と言われて、え?長い針だと、トラックに深く刺さって1500メートルだと疲れるのです。背に腹は代えられず、借りましたが、全然勝手が違う。選手として、スパイクで走る準備をしてなかった。ボロボロでした。

キリスト者の足にも、やる気や大丈夫大丈夫という類の、自分なりの信仰ではなく、御言葉が教える通りの、具体的な準備がいるのです。

「平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」

先に申しましたように、教会の歩み、キリスト者一人一人の歩みは、皆で、天国への行軍をしているというイメージで描き得ます。長い行軍です。死ぬまでの…言うたらしんどくなるので、復活するまでの(笑)、こっちが真実ですね、復活するまでの長い行軍を皆で行軍していくのが教会の日々の歩みです。その長い行軍に私たちの足が耐えるためには、裸足じゃ無理。ただ長いだけじゃなく、そこには格闘もありますから、アベベでも裸足じゃ無理。若い人は裸足のアベベで検索して下さい(笑)。長い行軍と闘いに備えさせる履物がいる。そしてその準備をしちょったら、自分たちの足に平和の福音を告げる準備をしちょったら、わたしについてきなさいと、福音の勝利の旗を掲げて招かれるキリストの救いの進軍に、はいと言って、ついていけるのです。

具体的に言うと、福音を頭で知っちょりさえしたら、もう知識として知っちゅうがやき、はい、じゃあ伝道頑張って…ではない。知識だけでキリストを伝えられるわけではない。トラクト一つ渡すにしても、ほい読みや、言うて、ぞんざいに渡すのは、平和の福音の告げ方ではないでしょう。平和の福音に相応しく告げる備え、愛の闘いに耐えうる準備を心に履くと言っても良いでしょう。トラクトを手渡す前に、ふ~言うて一呼吸、間をおいて、祈って、平和の福音を告げる備えを心の足に履いて、キリストの僕の足取りで、その人のもとに行って、天国が約束された人の、安心して平和な笑顔でトラクトを渡す。業務的、義務的にズカズカ行って、ほい。え、読まんが。ほいたらえいわ。それじゃ読むものも読まんなりますから、福音を告げる「準備」が、確かにいる。

拒絶されることも多いのです。吉永長老はギデオンで学校の前で聖書を配られておりますけど、よう心が折れんと思います。ギデオンの方々は準備を履いておられるから、拒絶に耐え得るのだと思います。行軍に険しい道はつきものです。特別伝道礼拝に家族友人を誘っても、一緒に来てくれんで求道者なしの特伝になるので、昨年には教会伝道懇談会を行って、リースつくり教室と、着物リフォーム教室の教室伝道が始まりました。それぞれに神様が求道の方々を一人ずつ連れて来て下さいましたが、私たちの心が折れんようにとの父の配慮であろうと感謝します。一人が一人を連れてくる、との伝道方針を今年も掲げます。教室は年に数回かもしれませんが、礼拝は一年に52回あります。入門講座も希望に応じて随時行っておりますし、家庭集会の希望も喜んで受け付けているのですけど、発破をかけたら来てくれるわけでもないという厳しさも、皆さん、よくご存じであろうと思います。もとより、伝道の行軍は長いのです。そのことをわきまえるためにも、伝道の備えを身に着ける必要があると御言葉は励まします。心が折れない備えとも言えるでしょう。すぐに結果が出なくても、そこに神様との平和があって、平安の内に、福音伝道の歩みを続けられるのです。心折れても、あきらめない。伝道にそれでも向かう準備が、私たちのキリスト者としての足を守ります。

もし最初から、伝道はしないという心備えだと、裸足で逆に危ないのです。敵は容赦なくその足を踏みに来るでしょうし、いつ足元にガラスを撒き散らしちゅうかわかりません。怪我をするのも危ないですが、敵の策略は、だったらもう歩まんと、教会と共に伝道に歩むことをやめさせることです。そうそう、伝道せんがまし、キリストに従うとガラスを踏むぞというのが策略で、それに対して神様がおっしゃるのが、だから平和の福音を履く準備を履きなさい。そしたら、あなたはキリストの愛の進軍についていけると言われるのです。

平和の福音を告げる準備を履いちゅう教会は、心折れるような試練にあっても、なお教会として立ち続けます。失敗しても結果が出んでも、伝道する備えをやめん教会がキリストの体なる教会です。以前、手術を失敗して、どうのこうのと叩く新聞の記事が続きましたが、仮にどこかの医大が、関係者がおるので大胆に言いますが、そこではなくて(笑)、架空の医大病院で手術が全然うまくいかず、もう手術はやめよう、で、今おる患者たちで励まし合って、医大やき勉強は続けるけど、手術も、外来も、もうやめよう、色々学んで励まし合って、ま、それでも来る人は受け入れるけど、それでえいやか…となったら、もうそれは病院じゃない。他にも薬くれん薬剤師とか、法律は学ぶけど正義は守らん弁護士とか、色々お笑いのネタとしてはありますが、伝道せん教会は笑えんでしょう。ならばこそ神様は、御子の血によって贖い、ご自分の宝とした教会が、そうなることのないように、今日の御言葉をくださいました。平和の福音を告げる準備を履きなさい。その準備が、あなたの足を守るから、そして、あなたの愛する者たちの命を守るからと。

先に言ったように、裸足だと色々とつまずきやすい。何があっても、もうやめるってならんためには、私たちが信じたキリストの福音を、それを信じて、洗礼を受けた、あの平和の福音から離れんことです。またこれを手放さず、この福音を、この神様との平和を、この人に手渡したいけど、どうしたらえいろうと、祈ること。御言葉に聴くこと。そして福音伝道を手放さんこと。信じた福音を、信じてもらえるよう、自らをキリストの証人として訓練することです。そしたら裸足じゃなくなります。ガラスの試練に遭って血が出ても、十字架の主の血に癒され、福音によって乗り越えていけます。主は私たちに、この福音によって強くなれとおっしゃる。あなたに平安があるようにと弟子たちにおっしゃった復活の主が、私たちにも言われるのです。平和の内に行きなさい。全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。教会はそのために立つのです。

14/4/20イースター召天者記念礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章14節、ヨブ記19章23-27節 「復活があるから立てる」

14/4/20イースター召天者記念礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章14節、ヨブ記19章23-27節

「復活があるから立てる」

 

今日はキリストの復活による救いをお祝いしながら、その復活の希望に包まれて先に天に召された家族を記念する、礼拝を捧げております。いいですね、懐かしいお顔を思い出しながら礼拝していると、また天国で再び一緒に礼拝をする日が本当に来るんだなあと、実感されるのではないかと思います。

また今年はこの日が清和の礼拝出席日となりました。あの写真何やろと思っておったかもしれません。ま、まだ存命の者も写っていますが、この方々は言わば復活に一番近い人たちです。今読んだ御言葉に、正義を胸当てとして着けと言われます。言い換えれば、こんなにも正しい愛の救い主キリストに、この人たちみたいにギュッと包まれて、そのまま復活しなさいと、そうイメージしてもよいのではないかと思います。

私は21歳で洗礼を受けたのですが、その時に、この正義、と言うよりは、正しさと訳したほうがわかりよいのですが、この正しさとは「神様との正しい関係」のことだと教わりました。救われる正しさとは関係の正しさだと。それから22年経ちました。牧師になるため神学校で神学を学んで、ここで12年間、聖書を説き明かし続けてきて、ますます、その通りだと思うようになりました。私たちがその正しさに包まれて、その正しさを胸に着けて、復活の日まで、ずっと守られる正しさとは、神様との関係の正しさのことである。

関係が正しいって、どんなイメージでしょう。例えば、正しい親子の関係があるから、私は親として正しいとか、子として正しいとか。また正しい友達関係があるから、真実な友だと言える。同じように、正しい神様との関係があるから、私は神様の子供として正しいと、その正しさに包まれて毎日生きられて、また安心して死にさえできる。だって復活に包まれて眠りにつくのです。この皆さんも本当にそうでした。

逆に言ったら、神様との関係が正しくないと、人が自分ではどんなに自分は正しいと思っていても、それは自分だけなのです。例えば私は夫として、自分では正しいつもりの夫では、いたくないです。そういう妻でいて欲しくもないですが、続きは二人で話し合います(笑)。神様との関係もそうです。ぜひ聖書を読んで、祈って、神様と二人で沢山話して下さい。会話がない関係も、やはりどこかがおかしいですから。

じゃあ関係が正しかったら、罪が重い人でも救われるのか。人は罪の重い軽いを、そうやって考えるかもしれません。誰かと比べて自分より重い罪を犯して、あるいは多くの罪を重ねている人と自分を比べて、私も罪はあるだろうけど、軽いほうだ。だから私はまだ正しいと。そうやって、罪の多さとか大きさという、数で、人の価値、自分の価値を測り計算し、人と比べて、私は正しいとか、平均値より低いから正しくないとか。そういう数で計算できる正しさは、でも神様の正しさではないのです。神様は、正しい関係によって私たちを受け入れて下さる。

正しい関係。ズバリ言うと、正しい信頼関係のことです。正しい友達関係でもそうでしょう。皆さん、友達との約束は必ず守りますか?もし破ったらもう終わりでしょうか?それとも、ごめんねと謝れる関係が、正しい友達関係じゃないでしょうか。ごめんと謝ったら赦してくれる、受け入れてくれる、仲良くしてくれると相手を信頼できるから、ごめんねと言える関係。それが正しい関係でしょう。関係を保つためにメールの返信を絶対忘れたらいかんとか、誕生日メールを絶対忘れたらいかんとか、息が詰まるような関係は、正しくないでしょう。最近私は親として子供に厳し過ぎやせんか、息が詰まるような関係の空気を、また作り出してないかと、しょっちゅう反省するのです。牧師としても教会員に厳し過ぎやせんか、夫として…もうそれはいいでしょう。この前、子供が、お母さんが怖いもんてあるが?って尋ねたら、お父さん。怒るきと面前で言ってました。そう言っても私が怒らんろうという信頼のしるしなんでしょう、多分(笑)。でも、ありがたいもんです。

関係が正しいって、信頼の正しさでしょう。それは正しく信頼しているかではありません。自分は正しく信頼してるか自分は自分は…そんな自分蟻地獄の正しさではない。自分がどうとかを超えて、むしろこんな私でごめんなさい、でも受け入れてほしいのです、受け入れてくれますよねと相手を信頼する、信頼によって成り立つ愛の関係という正しさ。こんな自分だけれども受け入れてくれると信頼できるからこそ、ごめんなさいって言えるんでしょう。その関係は正しいのです。

先に言ったように、神様は数で私たちの正しさを計測しませんし、それによって受け入れるかどうかを決めたりもされません。例えば正義と悪のリストアップをして、これをしたからプラス一点、あ、あれをしたきマイナズ一点…で、それを集計して、正義と罪が何点対何点で、白組の勝利、じゃあ天国に…そんなんじゃない。私たちが胸に着ける正しさは、数字で測れない正しさです。神様の愛の正しさは数値化できない。私は中学で陸上やってた時、自分が正しく練習してきたかどうかは数字で出ると思っていました。一位二位という数字の正しさ。言い換えれば人と比べて順番という数字で測られてしまう正しさ。順位が低かったら努力したのに信じてもらえず、責められたことってないでしょうか。

確かに数字は私たちが怠惰にならんよう、開き直らんよう、傲慢にならんよう、私たちが自分の心の弱さや罪に気付くために役に立つということはあります。自分でこりゃいかんと気付かんと、本当に変わりたいと思いませんから、人間は。そういう時に数が役に立つというのは確かにあると思います。が、それは、その人を受け入れるかどうかとは関係ないことです。数によって関係が悪くなるとか、相手の態度がガラリと変わって、結局は求められている数を満たさなかったら優しくしてくれないというのは、救い主をくださった神様じゃない。そんな数の要求を十字架の神様は要求されない。神様が求められるのは、私たちを造られた神様との愛の信頼関係です。その信頼を、一般に信仰と呼ぶのです。神様を信じるとは、神様を信頼することです。神様おると思うでっていうのじゃなく、私に信頼の関係を求められる神様を信頼することです。神は愛ですと呼ばれる神様。その名を愛と呼ばれる神様を、信頼する。それが信仰です。

だから神様に、ごめんなさい、私の罪を赦して下さいと、素直に悔い改めて言えるのです。信頼があるから言えるのです。違うでしょうか。だから、私は罪人ですと言える。罪人の頭ですとさえ言える。言えるほど信頼できる。神様は、こんな私をさえ受け入れて下さる、まことに私の天の父ですと、父よと呼べる。何故なら、父がくださったイエス様、神様が人となられて、救い主となられたイエス様が、あなたは神様を、天の父と呼びなさい、信頼によって、その胸に飛び込んでいきなさいと恵みと祈りをくださったからです。そして赦しをくださいました。救いの鍵、ただその愛を信頼するだけで罪赦される信頼という鍵を、さあと差し伸べて下さいました。私たちがそのままで神様の子供として受け入れられるために、神様との関係を破壊する私たちの罪を、全部十字架で引き受けて裁いて終わらせるため、天の父はキリストを私たちの救い主として与えて下さったからです。そして十字架で全部の罪の赦しを背負って死なれた救い主を、私たち人間の代表として復活させられました。あなたも同じように、復活の命に歩みなさい、さあ立ちなさいと、信頼による救いの正しさへと、私たちを子として招いてくださいました。

そうやって私たちは、誰でも神様を天の父と呼んで、その信頼の正しさを胸に着けて、父のみもとに進み出られます。またそれを邪魔しようとする数の悪魔に、退けサタン!と立ち向かえるのです。

性格的に、いや~その態度はちょっとって人もおるかもしれません。でもこれは傲慢な態度ではありません。自分に信頼しているのを傲慢と言い、神様を信頼しているのは、むしろ謙遜と言うからです。注意する点は、謙遜を計算せんことです。私これだけ謙遜だから…、その時点で謙遜じゃない。謙遜は計算できるもんではない。いや、計算しようとしたら人を見て、また自分の手を見て、神様を見なくなってしまいます。そしたら神様を信頼するより、自分を計算して傲慢になるか、あるいは計算して落ち込むのも、もっと自分のレベルは高いはずなのにという、傷ついた傲慢であるかもしれません。だから計算はせんのです。

そもそも正しい愛の信頼関係が謙遜です。私が子供の父なのは、父としてのリストを標準値以上満たしているからか?逆に子供は子供としてすべきことのリストをこなして、しかも親の満足に足る基準値を満たしているから子供なのか?そんなのおかしいって知っているのです。でもそのイメージを天の父に当てはめて傷つけてしまうのです。でも天の父はあれをせんと愛しちゃらんとか、キリストをくれてやったのにとか言われません。キリストも死んでやったとか言わない。私たちもこれだけやっているのに神様はとか、神様を信じてやっているのにと言うのが、どれだけおかしいか知っているはずです。

全部、自分が何かしたからではないのです。何かをこれからするからでもありません。神様が全部もうしてくださったからです。キリストが罪を背負って下さって、私の裁きを引き受けて、身代わりに裁かれ死んで下さったから。私たちの代表責任者として人となられて、死なれて、復活させられて、私たちの救い主となってくださったから、だから私たちは救われます。その神様を信頼して、私の罪を赦して下さい、赦して下さり、私を受け入れて下さってありがとうございますと、キリストのお名前によって祈れるのです。私は罪人です、ごめんなさいと信頼して言える。それが正しい謙遜です。

そして、復活の希望に抱かれて、今もう包まれて立てるのです。もう立つことがキリストに約束されているから。先に天の父のもとに行かれた写真の先達たちが復活のキリストに保証されて、今主に抱かれて休んでおられるように、私たちも同じ主の恵みのお陰で、やがて復活に立たせて頂ける。その神様の愛の正しさを胸当てとして、キリストの救いの正しさを信頼して、だから今、その愛と信頼に立つのです。

14/4/13棕櫚の主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章14節、イザヤ書53章 「わたしを守るキリストの義」

14/4/13棕櫚の主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章14節、イザヤ書53章

「わたしを守るキリストの義」

 

今共にイザヤ書53章を聴きました。それは一つには今週が教会の暦で受難週、キリストが十字架で苦しみ死んで下さったことを、改めて私のための苦しみとして覚える週だからです。もう一つの理由はキリストによる救いの何たるかを預言したこの御言葉が、私たちの身に着けるべき正義の胸当てを、的確に言い表しているからです。特に11-12節でこう言われる。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。」正しい者とされるためにと訳された言葉、これを正義の義、義とされるためと訳し直したほうが、しっくりくるという方も多いでしょう。どの訳であれ、わかりやすく言うなら、私たちが神様の御前にあって、わたしに罪を犯す者よ、わたしの前から永遠に退けと言われ倒されてしまうのか、それとも、あなたはわたしにとって正しい者であると受け入れられ、聖なる神様の御前に立つことができるのか。それが問題です。ハムレットならこう言うのでしょうか。正しいか、正しくないか。義か、義でないか。それが問題だ。

そこで御言葉が告げるのは、あなたが正しい者とされるために、神様があなたの罪を負って死なれたのだから、あなたはそのキリストの救いの正義を胸当てとして、神様の御前に立ちなさい。そのために神様は人となられた、あなたを正しい者、義とするために!これが福音です。

更に丁寧に説きますと、私たちが自分で自分は正しいと言い張りゆう間は、キリストの十字架がわかりません。例えば、けんかして、あっちが先にやった、いや、お前が先に嫌なことした、いや、その前に…ってことばっかりですが、アダムも神様に、あなたが与えたこの女が…って言い訳をして、ずっと人類はそれを繰り返している。それを責任転嫁と言います。罪を犯した責任を、自分以外に着せて、自分は言い訳の衣を正義の衣として、罪の責任は誰かに着せる。そりゃ私も悪いけど…言うときは大体、けどの後のほうに責任があると思っている。で、お互い、あっちの責任だと責任転嫁して、その自分の判断は正しいと、自分を義と認めるのを、自己義認と言いますが、それは自分の義を胸当てとしているのです。その胸当て、しかし、自分を守れるでしょうか。そもそも何から守るのでしょうか。ごめんなさいと頭を下げて、自分の罪と非を認めることからか。どっちが正しい、いやどっちが上かの、権力闘争の負けを認めることから、自分を守ろうとする時に、私たちは自分の義の胸当てを着けるようにも思います。争いが裁判沙汰になると、法に照らして、どっちの義の胸当てが正義だったかを、他者が判断します。でも所詮、他者の判断ですから、法廷で負けても、あの裁判官は間違っていると、ずっと自分の義の胸当てを着けている。で、それを神様にも当てはめて考えるのでしょうか。所詮、他者の判断だと。そして死後、神様の御前で目が覚めて、自分がそこにいるのを見い出す神様の法廷でも、今まで着けていた自分の義の胸当てを…あれ?どこにあるろう、あれ?あれ?と、裸の自分を隠し守るために捜すのでしょうか。

私たちが生きている間、自分を義とするかどうするかを決断し裁く、こうした言わば小さな自分の法廷が続くのだと思います。それを闘いと言っても良いのです。神の武具を身につけよと命じるこの御言葉も闘いを前提とするのです。ただそれは自分で自分を義とする自分の法廷での闘いではなく、そこで私たちが神様の法廷に常に立ち続ける闘いです。この二つの法廷が、今日の御言葉を聴く私たちが、じゃあ私はどこに身を置いて生きているだろうかと自問する状況です。特に自分の正しさが問われる、イラッとするときやカチンとくるとき、人を裁いて、自分の法廷を開いて、自分が神の座にすら立っているとき、あるいは、そんなこと人から言われたくないと、責任逃れや責任転嫁をしたくなるとき、どの法廷に私たちは立つのか。

死後の裁きに引き出されるまで、神様の御前には立たないというのを神様は望まれません。わたしのもとに来なさい、いつもわたしのもとにいなさいと望まれ招かれるのが、私たちの父なる神様ですから、私たちは自分の小さな法廷なんか開かなくても良いのです。そして責任転嫁を自分で行う必要もありません。責任転嫁という言葉は、辞書で引いても悪い意味、責任逃れの意味でしか出ないと思いますが、それは先に読みましたイザヤ書の預言、キリストの負われた責任に向き合うなら、その意味は180度変わるのです。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。」責任転嫁をしてまでも自分を守ろうとする私たちが、しかし神様の法廷で守られるため、私たちの心の内までも見ておられる聖なる神様の法廷で、私たちの罪を心の底からご存じの神様から、それにもかかわらず正しい者と認められるために、受け入れられて生きられるために、キリストは私たちの罪の責任を自ら負われて、父よ、これらの罪の責任を、わたしに転嫁して、彼らを罰から逃れさせて下さい、その代わりに、わたしが逃げないで、十字架に張り付いて、全部の責任を負いますから、父よ、彼らを赦してください!と、全ての罪の責任転嫁を十字架で引き受けられた。それが聖なる三位一体の神様が選ばれた、真実の責任転嫁による救いです。

永遠の御子なる神様が人となられて、罪なき神の独り子が、罪人のひとりに数えられ、聖なる裁きと怒りと罰とを引き受け死んで下さった。だから、その責任転嫁は私のためです、キリストは私の救い主ですと、十字架の赦しに身を寄せる全ての者は、十字架で御子を裁かれた聖なる父から、あなたをキリストの故に正しい者と宣言すると、神様の法廷で保証されるのです。その義、自分で勝手に保証する義でなく、キリストが転嫁してくださったキリストの義を、私たちは義の胸当てとして身に着けて、神様の御前に出るのです。

ですから私たちは自分勝手な責任転嫁を今後する必要がありません。私がこれをしたのはあの人のせいだとか、神様が私に望まれる正しいことを私がしてないのは、それは…と間違った責任転嫁をしなくてよい。むしろこの私の罪を、キリストがご自分のせいにして父に裁かれ見捨てられ死んで下さった。私が受けるべき裁きを受けて苦しんで下さった。それで十分と、神様の御前に出て生きるのです。私にとっての責任転嫁は、キリストの十字架、それしかないのだと。三位一体の神様が、これで私たちを救おうと選んで下さった、十字架の上での喜ばしい交換を、神様、私も選びます、キリストよ、憐れみたまえ、自分の小さな法廷にすぐに引きこもろうとする弱い私を守ってくださいと、キリストの義をこそ胸当てとして、神様の御前で生きていく。そして死んだら、神様と顔と顔を合わせて、我が子よ、あなたとわたしは正しい関係を持っている、あなたはわたしの正しい子であると、顔と顔を合わせて父から宣言して頂ける。その日まで、キリストの義を私の義として、今日も明日も歩むのです。生涯365日、いつもいつまでもキリストの義を胸当てとして、ついにその日が来るまでの毎日を、神様の御前で歩むのです。

このキリストの義を、宗教改革者ルターは、外の義と呼びました。私の外にある義。だから私は確実に救われるし、それ故に平安を持てるのだと。言い換えれば、自分の内に救われる根拠を捜さんのです。私は正しいことをしゆうと、例えば礼拝出席して献金して祈って…そこに自分の救いの確かさを見い出そうとしない。それやりゆううちは大変です。言わば信仰的に満足した気分の時は、救いの平安があると思っているのですけど、罪の意識がのしかかる時、試練の時、神様が私に不満を持っていると感じる時、私はもっと正しくせないかん、私は正しく…これが外の義ではなく、自分が自分の内に捜す自分の義による不安です。もし神様が、キリストの責任転嫁らあ関係ないと、私の内に、私が天国行けるほど正しいかどうかを求められるなら、神様はずっと不満でしょう。確かに神様は、的確に確実にしかも真実に、私の内に罪を見い出され、それ故に私に対して不満なことは、いくらでもある。にもかかわらず!キリストの故に!キリストの恵みの責任転嫁の十字架に身を寄せて、赦しの洗礼を受けたキリストのものたちに対して父は満足されています。何故か。私の裁きが、キリストの十字架で完全に裁かれたことに、満足されているからです。キリストが全部背負われて飲み干して下さって、残っている正義の裁きがもはや一滴も残ってはないからです。そのことに父は、満足をされている。そこまで確かで完全な裁きをキリストが受け終えて下さり、そこで私の罪とキリストの義が十字架で交換されて、キリストが罪の裁きを受けて死なれ、私が義と認められて生きられる。この十字架の上での罪と義の交換、罪と義の転嫁に、父が満足されている。この決断を感謝し満足する心には、キリストの平安が宿るのです。

また、そこが私たちを誘惑する悪魔との闘いの場でもあります。その神様の満足に満足しないで、自分の正しさに満足したいと、自己満足を求めさせるのが悪魔の策略です。お前は自分の力でよくやっていると、おだてては、キリストの義の胸当てを外させようとし、あるいはお前は不信仰で罪深いと、人と比べたり、自意識過剰にさせようと、自分だろ自分だろ、所詮キリストより自分だろと、おだて責めたて、あらゆる手を尽くして私たちの心を、自分の義で支配しようと攻撃をやめない。

その私たちに主の御言葉は、嘘の言葉に振り回されないで、キリストの真理を腰に締め、キリストの義の胸当てを着けて立ちなさいと、神の武具、イエス・キリストの救いを身にまとい、キリストの恵みによって身を守ることを教えるのです。キリストの義に常に守られ、父が満足されるキリストの義に満足する者たちを、また父は満足されます。そこで父の子としての成長もするのです。闘いは死ぬまで続きますけど、死ぬまで守られ続けられます。死んだときにこそ、守られていることを確信するでしょう。いや、もう確信なんて必要ない。その時、目の前に仰ぎ見る主を、私の義よ!と褒め称えつつ、人は復活に立ち上がるのです。

14/4/6受難節第五主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章14節、詩編51篇 「ごめんが言えるほど真実」

14/4/6受難節第五主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章14節、詩編51篇

「ごめんが言えるほど真実」

 

真理を腰にギュッと締めて立つ。言い換えれば、神様の真理によって立たせて頂く、しかも、真理によって立たせて頂くというのは、もっとわかりやすく言えば、私の生き方が、嘘の生き方にならんように、立つことができるようになるのです。嘘の生き方じゃなくて、偽って生きるのではなくって、真実に生きられる生き方になるように、神様の真理に支えられ立たせて頂く。

聖書の語る真理とは、生きる真理です。冷たいほどに絶対的な数学的真理とかではない。道と同じです。道が眺めて楽しむものでなく歩んでこその道であるように、真理とは真実に生きてこその真理です。それを「真理する」という言い方で、既に4章15節の説教で説き明かしたのを記憶されている方もおられるでしょう。聖書が証する、神様がお造りになられた世界の在り方、しかも生きておられる神様と愛の交わりを持つために造られた私たちが、そこで生き、またそれ故に知る真理は、神様抜きにしての真理ではあり得ません。それが数学的真理であってなお、おお、これが神様の、この世界の法則はこうあれかしとお決めになられた数学的真理なのだなあと、神様との人格的交わり故、心が嬉しくなり神様への賛美が湧き出る。そういう心が神様に動く真理ですから、本来動詞として生きる真理。神様と共に生きるための真理。ならば行いだけでなく心の真実もそこにある真理。それが私たちを神様の前に、神様の愛の真理に包まれた者として、立たせることのできる真理です。

その神様の前にあって立たせてもらって立つのですから、嘘や偽りの自分を飾り立てて、私はちゃんとやってますので、ではこれで、他の用がありますので、では、言うても通用しません。そもそも全部お見通しですから。むしろ世界の中で唯一ここでだけ、人前で嘘の仮面らあ着けいでもかまん本当の私として、何も隠さず、何も偽らないで生きられるのがコラム・デオ、神様の御前なのです。真理を腰に締めて立つというのは、その帯の下に何もつけてない、裸の自分、本当の自分が真理の帯を締めるのです。真理の下に嘘の肌着なんか着けない。人類の初めに、アダムとエバが恥ずかしい自分を隠そうとして自分でいちじくの葉を腰に巻きますが、神様は、それよりも、あなたはこれを身に着けなさいと皮の衣を着せられました。それこそが彼らの罪を覆うために、神様が、人間の罪を覆うために最初に屠られた生け贄の犠牲だとも言われます。神様が人間の罪を覆うために、犠牲の衣を着させて下さる。後に御子が全人類の代表として人となられて、犠牲として自らを与えられた、その徴としての犠牲の衣。赦しの衣。神様の愛の衣。救いの衣。それが神様の真理の帯という言葉と重ねられて現れる、ここで私たちの腰に救いの帯として、神様の前に立ち、サタンの偽りに対抗できる武具として再度現れると言ってもよいと思います。

神様の真理の帯を腰に締めて、神様の前に、本当の私として立つときに、そこに立っているのは、その救いの真理がなかったら、とてもじゃないけど立っていられない、まことに弱くて罪深い自分だと言うこともできるでしょう。自分だけのこととして言えば、それが真実、真理だとも言えるのです。神様に言い訳をする私。神様が私に求められる生き方よりも、けんど私はこれでえい、あるいはそれは無理と、最初から神様の道が言わばオプションになっている。教会学校で玉ねぎスープが出たら、無理!そんな失礼な言い方はないはずですが、案外大人も神様に、無理!言ってるかもしれない。でも大人は幼子と違って真実を人に見せません。いちじくの葉を自分で腰に巻いて、そんなもん何の意味もないのに、いや、これができるのが私だと言わば善い自分を見せたりする。いわゆる偽善、偽りの善い私の姿を、いちじくの葉で作るのですけど、神様は、それはいらんと。少なくともわたしの前ではそれはのけなさいと、救いの真理で迫って来られます。あなたには赦されなければならない罪があるだろう。わたしの真理をこそ締めて、わたしの前に立ちなさい。わたしは真理である。そしてあなたに真理を望むと、神様は私たち一人一人に向き合っておられるのです。

アダムとエバは、それが神様であることを知っておったと思います。知ってはおっても、その神様の真理を覆い隠してわからんようにさせる嘘の毒が心に回ると、自分は神様に言い訳ができると思い込まされる。神様がアダムに「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問われたとき、アダムは何と答えたか。「あなたがわたしと共にいるようにした女が、木から取って与えたので食べました。」これ、真理でしょうか。もし相手が心のないロボットなら、ソレハ先ノ状況ニ照シテ真理ヲ言イ表シテイマスと言うかもしれませんし、心でなくお金で動く悪徳弁護士ならそれは事実ですと言うかもしれません。けれど神様の御前で、あなたがこれをしたのかと真理を問われたら、そう答えるのが真理でしょうか。大人ならわかるはずです。アダムは言い訳をしたのです。しかも、神様と妻のせいにしてです。神様は次にエバに問いました。「何ということをしたのか。」エバは答えた。「蛇がだましたので食べてしまいました。」人が神様に罪を犯して、その罪を問われたとき、誰一人、ごめんなさいとは答えませんでした。でも本当は、ごめんなさいと言うべきでした。赦して下さいと謝るべきでした。それが神様の御前での真理でしょう。自分の罪を心から認めて、自分の受けるべき罪の裁きの真理を認めて、ごめんなさいと、どうして言えんのか。それが、罪だからです。その罪を、キリストは背負って死んで下さったのです。

そのキリストが教えて下さった祈りを、先に祈りました。私たちの天の父よと呼びかける主の祈りを、ならば、本心で祈るのが、真理を腰に締めて立つ、一つの具体的な立ち方です。主の祈りも真理ですから、私たちの罪を赦して下さいと祈るとき、本心で、真実な心で祈るのです。自分の本心などわからないと思うときもあるでしょう。それが弱い私たちの真実でもあるからです。主の祈りを祈れない言い訳もしたくなるのです。わけがわからんほど弱くて罪に太刀打ちできん、その私たちを、キリストは、わたしが一緒に祈るから、一緒に祈ろうと祈らせて下さいます。真理を腰に締めて、キリストを身にまとって、私の罪を全部引き受け責任を取られて死んで下さり、また私の代表として復活することを選ばれた私たちの主が、我らの罪を赦し給えと祈られる。この祈りを、だから私たちも本心で祈るのです。ごめんなさい、と天の父に謝って、私を執り成して一緒に頭を下げてくださる主と一緒に、赦して下さい、ごめんなさいと祈る姿を、父は、それがあなたの真理だ、それがわたしの子であるあなたの本心だと喜んで下さいます。

人前では、嘘もつけば、えい恰好もつけて、偽善に生きてしまうのが罪人の真実であればこそ、その真実を十字架で受けとめ、それを赦して造り変えるのが、わたしがあなたを救う真理だと、神様は、この救いの真理を、あなたは腰にギュッと締めて、わたしの前に立ちなさいと、腕を拡げて下さっている。それが神様の真理なのです。その神様に言い訳はもうせんでよいのです。人には、すみませんが、と言い訳をしても、すみませんがと神様には言わない。むしろ、ごめんなさい、こんな私を造り変えてください!と願うのが、私たちが腰に締める真理なのです。そうやって段々と人前でも言い訳せんでかまん生き方に、段々造り変えられます。神様の御前に真実に立つ人は、必ず新しくされるからです。改めて4章22節以下を読みます。「…」。この救いの真理、この新しい人の新しくされる本心が私の真理ですと、キリストの真理に立つのです。