14/9/7朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章23-24節、エレミヤ書31章31-34節 「この愛は死なない」

14/9/7朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章23-24節、エレミヤ書31章31-34節

「この愛は死なない」

 

いよいよ2年3カ月聴き続けてまいりましたエフェソの信徒への手紙の説き明かしが終わります。その最後は祝福の挨拶、祝祷です。ですので、この説き明かしも挨拶になるのが相応しいでしょうか。としたら、どういう挨拶になるか。考えました。もしかすると、これが皆さんとの最後になるかもしれません。いつもその可能性はあるのです。その覚悟もあったほうが、心を込めた言葉を語り、心を込めて共に生きることもできるでしょう。ではそこで心を込めるとは、何を込めるのか。自分をでしょう。自分として、これだけはこの人に願いたい、この人に持って欲しい、この人に託したいという自分の命、心を、込める。

おそらく込めない挨拶を、社交辞令、外交辞令と呼ぶのです。もとはどういう挨拶をするのが相応しいかわからない人に、例えば、お変わりございませんかとか、素敵なお召しですねとか教えるための挨拶例文が社交辞令だったのが、いつの間にか心を込めない口先だけの挨拶という意味になったのでしょう。何で心を込めないか。楽だから、自分を相手に関わらせなくて済むからだと思います。ちょっと挨拶して、関わりを最小にする後ろめたさを感じることはないでしょうか。その時に、でも本当はどういう関わりを持てばよいのか。時間の制限があって尚、相手の幸せを願って短い時間でも心を尽くすにはどうすればよいか。そこで神様の前に心から祈れる言葉を探したらどうでしょう。私は仕事連絡で電子メールを使う時、仕事ですから用件のみ取り急ぎ失礼しますと書く社交辞令をしばらく使っていました。が少し前にやめました。本気でこの人にこの事を願うという祈りを一文記して、その場で祈ることにしました。牧師相手が多いので、よくこう記します。収穫の主の祝福を祈ります。イエス様が、収穫は多いが働き人が少ないから、働き人を送って下さるよう、収穫の主に願いなさいとおっしゃった。その願いを切実に思うので、いつも本気で記し祈ります。社交辞令ではない祈りを祈ります。癒しについても。祈りは本気です。本気というのは、そこに自分がいるのです。口だけじゃない自分を、苦労してでも関わらせるのです。あるいはだから、祈るのは大変なのです。

私が皆さんにそうした本気の挨拶をここでするとしたら何になるか。色々思い浮かびましたが、今日の御言葉に導かれて思いました。これがなるなら死んでもよいと思える挨拶はこれです。平和と、信仰を伴う愛が父なる神様と主イエス・キリストから皆さんにありますように。恵みが、変わらぬ愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する全ての人と共にあるように。確かにこれに尽きると思います。

平和と恵みがあるようにという挨拶は、実は手紙の冒頭2節での祝福と同じです。神様との平和があるように。罪を責められる関係が十字架で廃棄され、父との完全な平和、和らぎ、安心の関係が、恵みによってここに現実化し、また隣人とも互いに平和であるようにと願う。それは今ここに救いが体験されて生きられるようにとの祝福の願いです。

その平和と恵みの祝祷に、愛が加わるのです。しかも、信仰を伴う愛がです。平和も恵みも、社交辞令になりやすいからでしょうか。中身を伴わない口先の平和にならんよう、愛を。またそれが自分自分の愛にならんよう、それがキリストの愛になるよう信仰を本気で願う挨拶です。教会の現実が見えてきます。その教会を支える神様の恵みに、パウロが自分の全存在をかけて、本気で関わっておったのが見えるようです。

兄弟姉妹にパウロが本気で愛を願った。愛があるように。それは私の人生の具体的な場面が映し出されるような、具体的願いでもあります。皆それぞれにあると思います。私に浮かぶ場面は、結婚する時、自分は愛のない人間だから、主がそれを忘れんように、愛という名の人を与えられたのだと、私は本気で思いました。今も、あ、いかん、俺には愛があると勘違いしちょった、自己満足しちょったと頭を殴られる時があります。妻が手をくだすのじゃないですが(笑)、すぐ忘れるのです。何故平和が壊れているか。愛がないからだ。何故愛がないか。自分でできると、自分でやってみせると、自分を信じているからだと。キリストの愛を信じて頭を垂れて満足する心の貧しい者でなくなっているからだと。しかもそこで自分がそうでないことに嫌になって、ふて腐れたり、人を責めたりして、愛のない自分に閉じこもってしまいそうになる。

だから、この挨拶を、いや挨拶の形をとった神様の祝福の宣言をするのです。平和と恵みがあなたにある。あるから、それがなるようにと。自分では愛せない愛のない者が、それでも愛に生きられるよう、神様が永遠の愛を携え降られ、あなたはこの愛によって生きればよいと、釘で穿たれた赦しの御腕に私たちを抱きかかえ、赦しに入れてくださった。そして、この赦しの中にいつも立ちなさい、ここから離れたら倒れてしまうから、十字架の赦しに常に立ちなさいと、キリストを信じる信仰を伴う愛によって、赦しの愛に立てる救いへと、抱え召し入れて下さったのです。そしてそのことを、恵みと言うのだと、恵みが、あなたには常にあるのだと、神様は、わたしはあなたと共に在る神だと、祝福の宣言をくださった。それがこの祝福の挨拶、祝祷です。

だからこの愛は死にません。24節で変わらぬ愛と訳された愛、それは死なない愛、不死の愛と訳したほうが良い言葉でして、あるいは死んだように見える時だってあるのです。もしこれが、人間の愛のみであるなら死ぬでしょう。死ぬばかりか、すぐに変わるのが人間の愛だから宝石のCMでダイヤモンドは永遠の輝きとかって、炭素の塊で燃えてなくなる儚い物質を永遠と呼んだりもするのでしょう。想い出の中だけの永遠でしょうか。キリストもそういう偉い愛の人だと思われているのは、愛を本気で信じてないからでしょう。人間の愛なら、そうでしょう。けれど唯一死なない愛がある。その愛の不滅を信じられるから、私たちの愛が死にそうな時にも、死んでしまったと思っても尚、あきらめないで信じることのできる、すがりつくことのできる愛がある。愛なき人間を抱きかかえ全ての罪を償って死なれ、三日目に私たちを背負って立ち上がられた主イエス・キリストの死なない愛があるのです。そしてこの愛を主は、これはあなたがわたしと共に、恵みに立ち上がって愛する愛だと。愛は一方通行にはならんきと。わたしはあなたを永遠に愛し、あなたをわたしに結びつけ、あなたを捕え、だからあなたも、わたしを愛し、わたしの愛する者たちのために、自分を捨てて愛して生きる。わたしたちが共に愛する、そうだろうと、罪なき永遠の神の御子が、我らの罪を赦し給えと一つになって祈られたのです。人を自己責任にして見殺さない神様の愛で、主が私たちをご自身に結びつけられたから、だからこの愛は死にません。そしてこの愛を信じる教会の愛は、死んでいるようで、見よ、生きるのです。キリストを愛する愛が自分由来であるなら死にます。自分を信じているからです。しかし、キリストを信じる信仰を伴う愛、キリストの名を呼び、その愛にすがり、私も御心に生きたいのですと、神様を求めて信じる愛は、虚しい燃えカスにはなりません。主がこの愛の創始者であり、必ずゴールへと至らせて下さるからです。

ですから教会はあきらめません。世の中の事ならあきらめますけど、この愛だけはあきらめません。愛が死んだように見えて尚、いや、このままでは死にきれんと、キリストよ、憐れみ、愛をください!と、その名を愛と呼ばれる方の愛を信じて祈るのです。御前に捧げる私を聖め、家族隣人をお救い下さいと主の愛をこそ祈るのです。そして、この愛がなるなら死んでも良いねと、教会は今日も平和の挨拶を交わすのです。

14/8/31朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章21-22節、ヨシュア記22章10-14節 「愛のホウ・レン・ソウ」

14/8/31朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章21-22節、ヨシュア記22章10-14節

「愛のホウ・レン・ソウ」

 

変な説教題だと思われたかもしれません。これは報告・連絡・相談を短くまとめた、職場で用いる専門用語でして、バブルがはじけた80年代後半に巷を席巻したビジネス用語なんだそうです。背景を簡潔に言うと当時の職場で上司や部下のコミュニケーションがうまくいかないという問題が浮上した。私の一回り上の世代で新人類と呼ばれた先輩方が社会に登場した時代です。そうそう、と懐かしく思われる方々もおられるでしょうか。職場はチームで仕事しているのだから、報告・連絡・相談をするようにという言わば当然の話かもしれません。が、それ以来ずっと日本の職場の常識となっているのですから、当時の新人類の先輩方も、その後発見された新新人類とか新新新…とかに、ずっと手を焼きゆうということでしょうか(笑)。どうしたら意思の疎通ができるかと。

教会でも同じ問題は起こり得ます。ただそれは近年だけの問題ではなく、先に読みました旧約聖書のヨシュアの時代でもそうなのですから、コミュニケーションの問題は人間が生まれてこのかた、信仰者の間でもずっと起こり続けた。ヨシュア記の詳しい説き明かしをする暇はありませんが、要するに、何で律法で禁じられている別の祭壇をつくったか、連絡も相談もせんかった。残りのイスラエルの人々が、それをどう思うかを考えないで、自分たちのことだけ考えてやった。その結果、あわや流血の事態になりかねんかったという問題です。

いずれの問題も、突き詰めて考えると、隣人を自分のように愛さない問題から生じる問題のように思われます。人の気持ちがわからない。あるいは、わかろうとしない。心を通じ合わせるのがおっくうな、言わばコミュニケーション極道の自分の心に、手を焼いてない人が、果たして一人でもおるんでしょうか。でも心を通じ合わせたいと、本当は誰もが願っていると思います。愛を求めない人などおらんのです。

その愛のコミュニケーションのあるなしが、教会の文字通り生命線であると知っておった使徒パウロは、この御言葉において、私が今どんな状態か、何をしているか、知って欲しいと、彼の右腕であったティキコを遣わします。当時、監禁されていたパウロにとって、しかし彼が取り得る最善のコミュニケーションの努力をします。まことにパウロらしい牧会者としてのハートが伝わってくる御言葉です。単に正しい教えとか生き方だけを知っておればよいとは言わんのです。信仰があればよいとも言いません。それは次の23節で、信仰を伴う愛が、父である神様と主イエス・キリストから、兄弟姉妹たちにあるようにと、祝福を祈る通りです。愛があるように。それはまた来週説き明かしますが、この世に、キリストの体として立てられた教会に、愛の通わない部分があったら、具体的なコミュニケーションが断たれていたら、それではキリストの愛がコミュニケートされんから、世にキリストが伝わらないから、教会に愛があるようにと祈る。聖書には正しい教えの部分と多少の個人的話が載っているというのではありません。キリストを証しする福音の正しさが、教会で具体的に現れたら、こうなるというのがこの御言葉です。愛のコミュニケーションにベストを尽くす。どうしたら愛が伝わるか、私はあなたを大切に思っているという愛がコミュニケートされるか、最善を尽くす努力をする。これを正しい教えに留めないことが、教会形成、また教会成長の急所です。自ら最善を尽くす。そして愛を祈る。そうして隣人に仕えることで、教会は成長していきます。教会にお仕えしたいけど、どうしたら良いかと悩まれる方は、どうぞ兄弟姉妹とのコミュニケーションを大切にしてください。信仰を伴う愛が、そこに与えられるように祈りつつ、自分がどういう様子でいるか、また何をしているか、知って頂けるようなコミュニケーションをお取り下さい。それを証しと呼んでもよいでしょう。何かすごいことがなくてもよいのです。そうやって兄弟姉妹でコミュニケーションをとること自体が、キリストの愛の証しだからです。

また、この愛のコミュニケーションは、個人と個人の間だけでなく、個人の個に教会と書いて個教会と言いますが、一個の個教会、例えば、高知東教会の個教会の内部だけでコミュニケーションが取れておったら良いという問題でもありません。前の頁で、すべての聖なる者たちのため祈りなさいと、全てのキリスト者、キリストの教会全体のために祈りなさいと命じられておったように、キリストの愛のコミュニケーションは、個教会だけでなく全体教会、個でなく全体のために祈られ求められている愛の具体的証でもあります。高知東教会固有の課題問題だけに、じゃあ互いにきちんと報連相やってってなると、キリストの体として、いびつな部分に変形します。主の御体を、そうせんように、との御言葉が、ずっと語られてきたのが、この手紙です。およそ二年半エフェソの信徒への手紙から御言葉を聴き続けたのは、健やかなキリストの体として教会を建て上げていくためでもありました。教会がキリストの体であるとは、どういうことか。私たちは、ではどんな教会生活をし、教会に仕えればよいのか。無論まだ学び得ることは幾らでもあるでしょうが、必要なのは、その実践です。信仰を伴う愛のコミュニケーションを兄弟姉妹個人個人で、また個教会同士で、全体教会で重ね合い、祈り合い、ともにキリストの愛を証し、伝え、コミュニケートしていく。

その具体的なコミュニケーションとして、今回は日本基督教団として約半世紀ぶりの青年大会、教会中高生・青年大会2014の報告をすることも具体的実践として相応しいでしょう。371名の全体参加で、目標人数よりは少なかったですけど、蓋を開けて見たら、中高青年、男女という区切りで部屋を割ったら、もうこれ以上宿泊する部屋がない丁度の人数でした。実行委員会は立てた目標が傲慢だったと悔い改めました。が、改めて、この大会が神様の御業であったと、御名を褒めました。神様が丁度与えて下さるというのは、モーセに率いられ、奴隷の家エジプトを出たイスラエルの民が、神様から与えられ続けたマナを思わせました。荒野の40年の間も与えられ続けたマナを、神様が今回与えて下さった。教団も荒野の40年を経て、いよいよ新しいヨシュアの世代が到来することを今回強く思わされました。大会参加者だけでなく、この時代の若者たちを、神様が起こしてくださいます。イエス様の恵みを受け、洗礼を受け、更には牧師として召された若者たちを、神様が起こされる時代の到来を、私たちはこれから目の当たりにするでしょう。その新しい世代に、私たちは教会の何たるかを、コミュニケーションする務めを託されています。私たちがその生きた道標です。失敗も含めて、弱さも見てもらって、それでもキリストの恵みが私たちを立たせて下さって、恵みを示す道標として、私たちは、あなたがたのために立っているのですと、新しい世代のためにお仕えさせて頂ける。この召しを、キリストの愛の証人として今、この時代に、キリストの恵みをコミュニケーションする召命を私たちが受けていることを、改めて主の御前に立って、襟を正して、共に覚えたい。愛する隣人たちに、教会も個人主義でかまんがやと決して思われないように、十字架を負われたキリストに頼り信頼して、よろしくお願いいたしますと、主に依り頼み歩んでいきたい。

先に報連相という言葉を用いたのは、教会は個人を大切にするけど、それは個人主義とは異なって、愛のコミュニケーションを生命線とするということを言いたかったのです。が、ひょっと勘違いされるおそれもあるのです。個人主義が左の対極なら、右の対極は全体主義、あるいはファシズムです。今の日本はその両極で降り幅がカチカチ狭まる振り子状態にあるように思えますが、報連相システムをファシズムだと考える人も少なくないようですので、敢えて付け加えます。もし、そこに愛がないなら、そうなるでしょう。隣人を思うコミュニケーションでなく、面倒臭い業務になったり、あるいは教会での例えば月間予定や、週報の週間予定、諸報告で連絡・報告される教会の働きが、自分とは関係ないことになるのなら、またそのことに対して牧師と長老が、それを個々人の自己責任にして済ますなら、教会に導入された報連相はファシズムと本質的に変わりません。コリントの信徒への手紙一13章で、愛がなければ無意味だと言うのは、その通りだからです。むしろ、その前で語られる教会の姿は、体の一部が苦しめば全体が苦しむキリストの体、教会の愛の姿です。何故、報告するのか。祈ってもらうためでしょう。一緒に喜び、泣くためでしょう。連絡するのはチームだからです。祈っている兄弟姉妹がいるからです。信頼があるから相談できますし、また自分を信用できんから、傲慢にならんよう相談するのです。先の青年大会でも私にプログラム変更を相談してくれたスタッフがいました。なのに私はそれを一緒に本部で運営をしていた別のスタッフに相談せぬまま、それでいいんじゃないのと自らの浅はかさを省みず勝手にゴーを出して、後で、うんと迷惑をかけることになりました。何で私は相談せんかったろうか。傲慢だったからだと気付かされました。色々惨めな思いをしましたが、改めて主から教えられました。ほら、幸生、だからあなたのために祈ってくれている人がこんなにもいる。あなたには兄弟姉妹が必要だと。不安と失敗に囲まれて走り回った青年大会の三日間が終わり、ああ終わったと思ったとき、その私を圧倒的に囲んでいたのが教会の祈りであったことを、東京品川駅のスタバでコーヒー飲みながら思って、涙が出てきました。だから私は大丈夫だと。私は傲慢で惨めな罪人だけど、恵みによって変わることができると。キリストのお姿に似た者に聖霊様によって造り変えられて、こんな私も愛の人になれるのだと、コーヒー飲めんなるぐらい思わされて、主を讃えました。そして、この恵みは、報告せないかんなと。

コミュニケーションは業務ではありません。敢えて言うなら愛の義務です。義なる務めと書いて義務ですし、そもそも義とは愛の正義です。その名を愛と呼ばれる方の子供たち、神の家族に与えられている十戒の根底にある愛の正義です。その愛を証しして共に生きる家族。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことのできる家族を、神様がお望みです。その呼びかけに、あなたと私が、共に招かれて歩むのです。

14/8/17朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章20節、イザヤ書40章1-11節 「自由をくれる愛の勇気」

14/8/17朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章20節、イザヤ書40章1-11節

「自由をくれる愛の勇気」

 

この手紙を書いていた時、キリストの使徒パウロは鎖に繋がれておりました。ので、ひょっと手紙を書きながらも、鎖がジャラジャラと音をたてておったかもしれません。先週も申しましたが、おそらく一軒家に住んではおりましたが4時間毎に交代するローマ兵と手錠に繋がれて、ずっと監禁されている。その状態でパウロは自らをこう呼びます。私は福音の使者、大使として鎖に繋がれているのですと。大使というのは、辞書を引きましたら、特命全権大使と正式には言うそうです。遣わされた外国において、母国の全権を委ねられて働くという特命を与えられている人。ですから、一々これはどうしましょう、あれはどうしたらえいですか?と尋ねずに、あなたになら、その判断を任せられると、全権を託されている。自由な裁量で即座に判断を下して、責任ある行動と発言ができる。そんな務めは、誰にでも託せるものではないでしょう。ですので、ここで使者と訳された言葉は、もともと歳を重ねて経験を積んだ長老のことを指す言葉なんだそうです。その経験から、よし、ここではこういう発言をすべきだ、ここではこうした発言や行動は控えるべきだと、わきまえているので、国の代表として全権を委ねて、遣わすことができるということでしょう。

その意味での大使というのは、なるほど誰にでもできる役割ではないと思います。あるいは俺にならできる!という人にはやらせんのが賢い選択かもしれません。なら、誰に託すか。しかも福音の大使、イエス・キリストの救いの福音を証する神の国の大使です!だから誰に託すかという選択権は全部、神様にあります。神様に選ばれ、キリストから、あなたがそうだと任じられたら、その人が大使です。歳を重ねていようがいまいが、経験を積んでいようが浅かろうが、あなたはわたしの証人となる、あなたは世の光、地の塩だと、イエス様から委託された人々が、キリストの福音の大使です。おわかりでしょう。信仰告白の言葉で言えば、それが選ばれるということでもあります。「神は恵みをもって私たちを選び…この変わらない恵みのうちで、聖霊は私たちを潔めて義の実を結ばせ、その働きを完成されます。」その働き、聖霊様による恵みの働きの最たるものが伝道です。いや伝道に結びつかん働きはないでしょう。キリストの体の一肢として、キリストの体の実を結ぶのですから、救いと関係ない働きはない。別の手紙、コリントの手紙一の9章23節でこう言う通りです。私は全てのことを福音のためにしています。新共同訳はどんなことでもしますと訳しましたが、同じことです。どんなことでもしますけど、いや~うちのかみさんはちょっと(笑)というのはなし。全てが福音の証のためになされる生活。そのためには、どういう態度で生きればよいか。どう具体的な生活を営めばよいか。時間の使い方、心の使い方、お金の使い方、私の人生の使い方、主よ、あなたの福音のためにお捧げします、聖めて御用のためにお使い下さいと、キリストから託された福音の特命全権大使として生きて行く。そこに御国は来ます。主の祈りを祈る具体的な生活が、そこで義の実を結ぶのです。

私のところにも来た、という証をします。励まされる証をするつもりです。私に福音を伝えてくれた人は、え?お前がクリスチャン?という感じの若者で、たぶん毎週の礼拝も捧げられてなかったと思いますが、私に神様の愛の話をし、聖書読もうと誘ってくれ、私が聖書もらって持っていると言ったら、それは神様の導きだと超嬉しそうに言うもんで、私も、そうかもしれん(笑)と。そこだけ聴くと新興宗教みたいと思われてもいけませんが、何を言いたいかと言うと、彼は自分が福音の大使であるという自覚を持って、神様にそのことを祈っておったということです。自分を福音の大使として捧げ切れておったかと問うならば、私も同じことを神様から問われるでしょう。幸生、あなたは自分を捧げ切っているのかと。大事なのは信仰告白で「この変わらない恵みの内で」と信じて告白するように、捧げ切れない弱い私を、神様が!恵みによって用いて下さり、義の実を結ばせて下さる!と、キリストの恵みに自らを託すことです。自分ができるできんに囚われるのではなくて、こんなにキリスト者らしくない私を、キリストが捕えて下さって恵みによって用いて下さるから、だから捧げますと、自分を、宝を、時間を、全てをキリストにお捧げすれば良いのです。それが献身です。その恵みの献身者に、キリストは福音を託して下さいます。その人にしか託せません。恵みに生きる人が、キリストの福音の大使です。その大使の一人が私のもとにも、ある日恵みによって遣わされて来た。その献身が、私の人生と、永遠を変えたのです。

キリストの恵みに捕えられた僕が、他の人をキリストの恵みのうちに捕えるために用いられます。ここで恵みの使徒パウロが、私は鎖に繋がれていますがと言うておりますのを、ある聖書学者はこう言いました。パウロが福音の大使として鎖に繋がれ、その鎖のもう一方にローマ兵が繋がれているのをイメージして欲しい。さて、どっちの人のほうが自由だろうか。パウロじゃないかと言うのです。ひょっとキリスト者は逆に思われてしまうことがあります。キリストを信じたら束縛されてしまうんじゃないか、不自由になるんじゃないかと。もし仕事でクリスチャンやりゆうなら、そうかもしれません。おおの、日曜や、出勤せな(笑)。ブルーサンデー(笑)。そう思われているんでしょうか。あれもできん、これも…、それ、本当にしたいんでしょうか。鎖に繋がれているんじゃないでしょうか。恵みの福音の大使はそこで、確かに鎖が重く大変で、まるでそれに支配されているように見える毎日の只中で、けれど恵みをわきまえているのです。先に、大使というのは歳を重ねて経験を積んだ長老を指して言うと申しましたが、若くても恵みをわきまえている者は恵みの長老、恵みの大使です。キリストが、こんな私を恵みによって、救いに捕えて下さった。赦され、受け入れられ、愛され、共に歩まれ、それ全部、私の努力次第じゃなくて、私の自己責任ではなくて、自分がダメやったらもう全部ダメじゃなくて、全部キリストの恵みながや!とキリストの名を讃える恵みの長老は、苦しみの中で尚、主よ!と御名を呼んで、キリストと共に歩んで行こうとする自由を与えられています。不甲斐ない毎日かもしれません。キリスト者として証ができてないと、家族を導くこともできないと思うかもしれない只中で、なおキリスト者としてキリストの名を呼んで祈ることをやめんのです。自分で選んでやっているんだったら、やめるでしょう。そうでないなら、選ばれているから、恵みによってキリストに結ばれて、どう?ついてくる?ついてこん?自分で選びや、とは言われずに、わたしについてきなさい!と恵みによって招かれているから、恵みの道を歩めるのです。歩んでいること自体、恵みでしょう。違うでしょうか。独り子を死に渡してまでも、あなたを救うと愛のご決断された神様の恵みの選びに捕えられ、イエス様よろしくお願いしますと、あきらめないで、祈り、歩んで、主の日には共に恵みの礼拝をお捧げする。その人は福音の大使です。

そして福音の大使は、大胆に証できるよう、語るべきことを、大胆に語れるように、祈ってもらう必要があります。改めてですが、だから、18節には全ての聖徒たち、全てのキリスト者たちのために祈りなさいと命じられていました。世界の地の果てに至るまで、福音の大胆な大使で満ちるためです。私たちが遣わされて行く、その所その所が、地の果てです。キリストは、そこであなたがたは、わたしの証人となると約束をしてくださいました。なる!それが恵みの福音の大使の条件です。

ならそこで大胆に福音を証して、語るべきことを語るって、どういうことか。大きな声でガンガン攻めの態度で人の気持ちを配慮しないで…というのは土佐人のガイな大胆さかもしれませんが、福音の大胆さではないので、もし私がそうやって語っておったら、憐れんで祈ってあげてください(笑)。もともとの言葉は、まるで自分の家で気兼ねなく自由に何でも語り合えるように、自由に語れるという意味です。無論、家でも家族や訪ねてきた人への愛の配慮は求められますから、罪を犯す自由ではない。むしろ愛がその場を支配するが故に自由に語れるということでしょう。言い換えれば、この人に救いを、キリストの愛を知って欲しいと愛故に思うときには、相手のことを考えながら、心と思いと知性を尽くして、配慮して、具体的な愛をもって語るでしょう。そして、それは説教で聴いた例話とかを語ることもあるかもしれませんが、それは自分の言葉になるのです。説教でも、これだ!と自分事として響いたことが心に残りますから、それを語る時には、内容は同じでも、自分の言葉になっています。あるいは自分の経験を証しながら、自分事になっていることを、けれど言葉としてはどう紡ごうかと考えつつ、とつとつと語るということもあると思います。もう先々週になりますが、岩住神学生が説教されたとき、最後にロマ書の「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」という御言葉を、自分自身のこととして、自分がどうこの御言葉に向き合っているか重ねながら語られるのを聴いて、私はオッと思いました。神学生のプレッシャーにならんよう目を閉じて聴いておったのですが、目を開けてしまうほど、語りに心がこもるのを感じて、神学生の顔を見たら、原稿を見ないで目を閉じて一生懸命に語っておりました。神学生で初めて実習に来て、目を閉じて説教するというのは、ものすごく勇気がいると思います。つっかえたらどうしようとか、途中でわからんなったらどうしようとか、彼もきっと考えておったに違いないのに、目を閉じて、自由に、彼が自分事としてわきまえている、主に遣わされる恵みを、大胆に語っておったのを見て、心が共鳴しました。つっかえつっかえで、たどたどしい言葉でしたが、そこには本物の言葉があったと思います。自分を救い、今も自分を造り変えて下さっているキリストの恵みに言葉を委ね、自分を委ね、つっかえつっかえで、たどたどしくてよい、大胆に、私の救い主の恵みを語りたい!皆にキリストの恵みを伝えたい!その愛が福音を届けるのです。後は神様が御業をなさると、恵みを信じて、主の愛を信じて、その愛の大使になるのです。

14/8/10朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章19節、イザヤ書55章 「命に届くメッセージを」

14/8/10朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章19節、イザヤ書55章

「命に届くメッセージを」

 

今、皆さんに祈って頂いて、ここに立っていますことを改めて思い、福音の神秘を説き明かさせて頂きます。大胆に語らせて頂きます。ま、私の説教は大体そうですが(笑)、だって遠慮しよりけになりません。人の永遠がかかっているのです。いつもそのことを思っています。きっとイエス様もそうであったろうと思いながらです。

今日の御言葉を読みますと、適切な言葉を用いてと訳されておりますので、ひょっと、不適切表現でないという意味で取られたら、私の説教スタイルは、土佐弁も使うし、原稿に(笑)と書いていますし、不適切に思う人もおられるがやないかと案じます。が、ここで御言葉が語っているのは、そういうことではありませんで、戦後の口語訳は、こう訳していました。「私が口を開くときに語るべき言葉を賜り」こっちのほうが直訳に近い。あるいは英語の訳で、これは良いと思った訳を参考に直訳しますと、こうです。「私の口が開く時、メッセージが与えられ」。説教の題もメッセージという言葉を用いました。適切な言葉を用いるというのなら、これが適切かと思います。

もとの言葉は、ギリシャ語でロゴス、言葉という意味です。神の言葉としてのイエス様のこともロゴスという表現が用いられます。あるいはイエス様は神様の生きたメッセージであると言うこともできると思います。私たち自身そうです。神様のメッセンジャー、メッセージを伝える人として、私たちの存在自体が、神様の福音の神秘、キリストを証するメッセージである。ただ、メッセージと言うのは、言葉と言っても同じですが、聴き手によって、違って受け取られることもあるので難しい。説教後の献金のお祈りで、今日はこれこれというお話を伺って…、ん?そういう話はしてないけんど…ということがありますと、牧師の集まりで、自己反省として話し合うこともあります。わかりにくい不適切な説教をしてしまうからでしょうか。ひょっとこの手紙を訳した人も、そのコンプレックスがあったのかもしれません。祈って下さいと。

でも私たちの存在そのものがキリストを証するメッセージであるのなら、確かにその問題はあるのです。聴く人に、私たちが接する隣人に、キリストが適切に伝わるような生活をし、また言葉を語れるように、私のためにも祈って下さい。それは説教者だけの問題では無論ない。18節で、すべての聖徒たちのために、すべてのキリスト者、キリストの証人のために御霊によって祈りなさいと、命じられておった所以でしょう。

そもそも、この手紙を書きました使徒パウロは、この時、説教のため祈って下さいと願っておったのではありません。このときパウロは牢獄に捕えられておって、どこにも行けない。じゃあ、鎖に繋がれたパウロが、誰に福音を語れるよう祈れと命じるのか。考えられるのは、ローマ軍の屈強な兵士が交代で、刑事が手錠をかけるようにパウロと自分を鎖で繋いでおった。その兵士に語る。逃げれませんから(笑)。無論だからって横柄に語れば、殴られたかもしれませんし、そもそも心にキリストが届くはずがない。救いの知識だけ教えて、後はあなたの自己責任ね!そんな乱暴な伝道はないでしょう。心に神様の愛が届くように…でも、相手は屈強な兵士です。睨まれたかもしれません。勇気が要るのです。それでも!大胆にキリストの神秘を語ることができるように祈って下さいと命じた。その気持ちは、そしてその伝道の思いはよくわかります。あるいはそのパウロのもとに訪ねてくる人々に、福音を語ることができるようにということか。はたまた裁判の場に出されたときに、悪名高きローマ皇帝ネロの前で、キリストの神秘を語れるように、ということであったかもしれません。でも明らかに、礼拝説教をパウロは考えていたのではなく、それがどんな時であろうと、私の口を神様が開かれる時!その神様の時には、大胆に!福音の神秘を明らかにできるように。それを聴く人が一体誰であろうと、その人にキリストの神秘がズバリ伝わるメッセージが神様から与えられるように、祈りなさいと命じた。自分の知恵や考えで語るのでなく、神様からメッセージが与えられるように!これは説教だけのことでは決してあり得ません。違うでしょうか。私たちが、あ、今が福音を語る時だ!という時には、いつでも福音を語る備えを履物としていなさいと、既に15節で命じられていました。そして、その福音はいつでも、具体的メッセージとして、届く言葉として、人になられて私たちのもとに届けられた神様の言葉として、具体的な、生のメッセージとしての生きたキリストを、聴く人に届けるのです。

そんなメッセージは、神様から与えられる他ありません。たった一言かもしれない。あるいは続いて二言、三言と思ったより神様の証をすることができるかもしれない。その口数が少なかろうと多かろうと、そこで生きたキリストを証するメッセージは、神様から与えられる他ない。無論、口が勝手に開いて自動的に憑依されてというのではありません。考えて、あるいは考えながら語るのです。でもそれが福音の神秘を示す聖霊様によるメッセージであるかどうかは、これはもう与えられる他ない。だから、祈るしかない。祈れと御言葉が命じる所以です。説教でもそうです。毎回、与えられたと信じて語るのみです。イエス様が、求めなさい、そうすれば与えられると約束して下さった。求めるあなたがたに聖霊様を下さらないはずが、どうしてあろうかと念を押してさえくださいました。だから、その聖霊様によって祈るのでしょう。礼拝で神の言葉を聴かせて下さい。あなたからのメッセージを説教者の口が開かれる時に与えて下さいと。毎回です。神学生のためには祈ったけど、もうこの牧師はえいろう(笑)…あり得ません。使徒が!必要としておった祈りを、誰が一体、もういらんと言えるでしょうか。神学生であろうと牧師であろうと、信徒であろうと、私たちのこの口が神様によって開かれて、福音の神秘を大胆に語り輝かすには、皆さんの祈りが必要です。そして祈るなら、そこにはメッセージが与えられます。

その与えられるメッセージには、ただグッと来るとかでなく、確かにそこに神秘の急所もあるのですけど、どうしてその神秘がグッと来るかというと、神様から与えられるメッセージには言わばキリストの香りが詰まっているからです。キリストのエッセンス。ああ、その通りです、これがキリストの救いです、これが私たちの救い主キリストです、この方が神様です、と思えるから、聖霊様によってグッと来るのでしょう。心にキリストの恵みがわかると言っても良いと思います。

福音の神秘を大胆に、聖霊様によって示すことができるとき、聴く人の心を、同じ聖霊様が動かされます。そこはもう聖霊様の独壇場です。そこで聴く一人一人に示される事は、具体的には色々あります。不安な心に、キリストが共にいて下さる事実が押し寄せて、平安になったり。あるいは、ごめんなさいと罪を神様に悔い改める働きだったり。お捧げしますと、召された召しに献身する思いが新たにされたり。神様の愛の力にただただ感謝だったり。他にも一人一人色々ですが、そこに福音の神秘が示されるというのは、キリストが!そこでご自身の香りを放っておられるから以外ではありません。十字架で私たちの罪を担い切られたイエス様の、安心しなさいという香りが、人となられて救い主となられて、私たちのために死んで下さった神様の恵みが、福音の神秘として心に届く。心に触れる。心を包む。あるいは心を開放する。そのイメージもまた色々ですが、それが単に聖霊様抜きでの感情的な感動ではなく、聖霊様に動かされて起こる出来事であるなら、そこにはキリストがおられるのです。それを、キリストの出来事として頭で理解するかせんかはありますけれど、聖霊様によって動かされるなら、そこにはキリストが届いている。キリストがおられる。そのキリストが、福音の神秘です。そのキリストが、聴く人に示されますようにと祈るのです。

神様が、ということだけではない。それは言わば福音の前提で、神秘というのは、その神様を、ああ、神様ねえ、おると私も思いますよと、ひょっと思われているかもしれない方が、その神様は、私のために!他でもない私の死後の裁きを全部身にお引受けになられて死なれた、恵みの神様であると、そしてその大いなる愛の前に私をいま招いておられるのはキリストであると、キリストが私の救い主として示され、届いて、キリストを否定できない。この方を私は神様として礼拝しますとなるのが福音の神秘の力です。神様はおると信じながら、でも自分でやっていける、救いも自分の力でと、キリストを拒否する所には、人間あるいは宗教の常識はあるのですけど、福音の神秘、キリストの犠牲による恵みの救いは、心から遠い。遠いのが人間なのです。自分の力でやりたいのです。それで挫折して、苦しんで尚、それでも自分を否定したくない。その私たちをこそ神様は、あなたを否定したくない!わたしはあなたを受け入れるために、御子をあなたの身代わりに十字架で裁き死なせて、我が子を否定して、あなた!をその身代わりの裁き故に受け入れると、三位一体の永遠の御子を、私たちの代表責任者、主として人として生まれさせ、十字架で死なせて下さった。そして私たちの主として復活させられて、ならばあなたも復活すると、私たちの主イエス・キリストの故に救って下さる。この救い主の恵みが、福音の神秘です。

先に、神様から与えられるメッセージがグッと来るところに、確かに神秘の急所があると言いました。グッとという表現が適切か、響くかはありますが、言い換えれば、自分事になる。私の事だ、と思うから引き込まれる。いや、それがキリストの香りを放つメッセージであるなら、キリストの前に引き出される。そこで私を支えていて下さっている方の輪郭や全体像はハッキリしてなくっても、でもそこで心でわかっていることがある。頭はひょっと否定したくても、心でわかっていることは、いま私を支えて下さっているのはイエス様だと、私はイエス様の恵みと赦し、大きな憐れみに包まれ、支えられ、立つことができるのだと、心でわかる。神様は私を愛しておられるとキリストの故にわかるのです。

その福音を、パウロは、私の福音と呼ぶこともあります。私の、と言えるほど、福音が自分事となる。そしてこの福音の神秘、キリストは、また、あなたの事でもあるのですと、教会は祈って皆に伝えるのです。

14/7/27朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章18-19節、詩編126篇 「祈る教会は愛を届ける」

14/7/27朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章18-19節、詩編126篇

「祈る教会は愛を届ける」

 

私のためにも祈って下さい。と、この新共同訳は訳しました。明治の文語訳はこれを、我がためにも祈れ、と訳しました。祈れ。それが直訳です。ま、現代の日本語で、私のためにも祈りなさい、と言われると、何か偉そうと思う人がおったらいかんと配慮したんでしょう。それで、祈って下さいと訳したのかもしれませんが、そこに微妙なニュアンスが入り込む恐れがあるかもしれません。何故なら18節では、全ての聖なる者たちのために…祈り続けなさいと、命令形で訳されていたからです。そりゃあ教会が聖なる者たち、つまりキリストに結ばれ、神様に属する聖なる者とされ、神の家族とされた教会員、一人一人のために祈るのは当然だ。神の家族として皆で家族のために祈り合う。それが教会だから当たり前。けれどここでは、この手紙を書いた使徒パウロが、私個人のためにも、教会で祈って頂けると助かりますと、個人的要望をお願いしているのだと、もし間違って理解してしまうと、この頁の下の段全体、神の武具を身に着けなさい!と命じられてきた御言葉全体が、ボヤっとしてしまうのです。

改めて問います。何のために、神の武具を身に着けるのでしょうか。単に自分らの身を誘惑や試練から守るためか。そうではない。むしろ、自分の身を、キリストの体の一部として、人々の救いのために捧げることが、できるようになるためです。そのためにキリストの体の一部として、倒れてしまうのではなく、立つことができるようになるためです。私はキリストの体に結ばれて救われた、キリストの体の一肢であると、その掛け替えのない自分を守るため、キリストの体の一肢としての私が悪魔の策略に惑わされて倒れないために、キリストの愛による武装をするのです。何とか、教会がその愛から離れて、愛の闘いをあきらめて、救いのことらあ、もう考えん、ってなるように悪魔の策略と誘惑が襲ってくる。その只中で、しかし教会が、パウロのために祈れ、と命じられているのは何故か。パウロが、当時のキリストの体の、言わば口の部分として大胆に、しかし柔和なキリストの口として、キリストの救いを、神様の愛の福音を、皆に語るためです。

では、パウロが口なら、他の教会員たちは、どの部分か。一人一人が色んな部分でありながら、しかし、一心同体なるキリストの体として、福音を告げる口を支えるために、忍耐を尽くして祈る各部分部分です。一人としてキリストにとっては欠くべからざるご自身の体の大切な部分です。何故なら私たちは、キリストご自身の一部だからです。その故に御言葉は、私たちに、神の武具を身に着け、キリストの愛で武装して、キリストの愛に立つことを求めます。武具を身に着けたのは、このためでした。救いのヘルメットをかぶったのは、このためでした。その兜に燦然と輝く十字架の旗印の下、人々の救いのために、仕えるためです。

先週の水曜、木曜と、高知県西部の中芸地区で、夏期恒例の集中伝道を行ってきました。例年ですと、3500枚のトラクト、特伝案内を、猛暑の中、郵便受けに入れ回って家々を歩くのですが、今年は1000部だけ。というのは昨年のクリスマスに、今まで借家で会堂をかまえておった町の隣町、奈半利町の一等地に、以前歯医者やった建物を購入しまして、新しい伝道拠点とした。それで引越しの挨拶も兼ねて、近隣の町のみ、ピンポン、ごめんくださいと顔と顔を合わせて挨拶をして、特伝の案内を手渡しするという伝道、訪問伝道を、今年は行ったからです。

当然、と言うと、うんと悔しいのですけど、あんたらあ、エホバ?って言われましたし、実は家々を訪ねた伝道者たちも思っているのです。たぶん間違えられるろうねゃ(笑)と。それでも二人一組で訪問した。というのは、その計画を立てた牧師が言うのです。断られたら、しかも連続で厳しく断られたら、思ったよりショックで、次のドアを叩くのにひるんでしまう。その時に、後ろで祈ってくれている友がおるとおらんとでは違いますと。実際、私も、一軒目を訪ねて、よくわかりました。追い返される剣幕で怒鳴られて、肝が縮みました。が、一人じゃなかった。今思うと、神様!と祈られたのでしょう。腰はひけてるんですが、顔は一生懸命にその方を見て、耳を傾けました。そしたら、急にその方の表情が変わって、まあ、けんどあんたらあも折角もって来てくれたがやき、それ何?と、案内を受け取って下さいました。訪れた方々の皆がそうだったわけではありません。午前中二時間で、受け取って頂けたのは一組で大体30部。全体で延べ二日間、軽く千軒以上訪れて約380部。後の案内は結局ポスティングする他ありませんでしたが、終わった後、西村牧師が、満面の笑顔で言いました。380人以上の方々と顔と顔を合わせて、ひょっとしたら生まれて初めて見る生きたキリスト者と出会って頂けて、声を聴いて頂けて、手ずから案内を受け取って頂けました。380人以上もの方々に!それを聴いて私は思いました。ああ、もっと皆に、この中芸伝道のため祈って下さいとお願いすれば良かったと。

先週は教会婦人会連合の教会訪問や、青年大会の献金のお願い、教会幼稚園後援会の献金のお願いと、色々あったのも事実ですけど、それでももっと頼めば良かった。祈りの説教を語りながら、ここでパウロが求めたように、私のためにも祈って下さいと、どうして言えんかったのだろうか。祈りなさいと語りつつ、教会で祈ってもらわなくても、何とかなると思っていたのじゃないか。案外、そういうところに出るのです。祈ってもらっても結果に出にくい。なら献金のお願いしたほうが結果に出ると(笑)。前に教団の伝道委員の先生が、伝道委員会と言いながら、その内容はお金のことばっかりやっていると嘆いておられました。無論、パウロも献金を集めましたし、天に宝を積むことなしに伝道が進むこともないでしょう。献金は献身の徴であればこそです。献身なしには伝道にならない。けれど献金が伝道の代わりをするわけではありません。その献金によって具体的に支えられながら、伝道の最前線で、一人の人にキリストを手ずから伝える献身者が、しかしもし、祈りによって支えられてなかったら、伝道の一番重要な部分は自力でやるのか。献金が祈りの代役をするわけにはいかない。人に救いが手渡されるためには、祈りが求められるのです。

ですから改めて、皆さんにお願いをいたします。もはや私のために、という機会は逸してしまいましたが、本日午後二時、その案内を配った特別伝道礼拝が中芸教会で行われます。その伝道礼拝に、案内を手にした方々がいらっしゃるように、聖霊様によってお祈り下さい。人の心を動かすのは、しかも永遠の救いに向かって、見えない神様に向かって、救いを求めるように動かされるのは、三位一体の聖霊様のお力によってのみです。神様の愛の求めに背中を押されて、人はまことの神様を求めるからです。そして、そのように心を動かされるのが、聖霊様であればこそ、御言葉は私たちにこう命じるのです。御霊によって祈りなさい。教会の働き、伝道の働きが、どんなに尊い献身に支えられておっても、それが人間の業でなく、神様の救いの御業となって、人が神様を求め、イエス様を救い主として受け入れるには、聖霊様がそこでご介入下さる以外にはないからです。そのことをパウロは知っておったので、後ろで祈ってくれゆう人がおるとおらんとで、人が神様の救いの奥義に巻き込まれ、聖霊様のお力の只中で、救われるか救われんかが違ってくると、神様のご介入がなかったら、伝道が伝道にならんから、あなたがたは、教会のため、キリストの体に結ばれた全ての聖徒たちのため、そして、私のために祈りなさい。何故なら教会は、神様の救いの神秘の只中で、人が救われるために祈り、その祈りによって、聖霊様によって伝道するのが教会だから、あなたはその教会に属する欠くことのできない聖徒の一人、聖なる祈り手として祈りなさいと、一人一人に命じるのです。

今日は私たちの教会でも、同じく午後二時から、南国教会、安芸教会との教会学校キャンプが行われます。約50名!初めて参加する親御さんや、普段は教会に来てない子供たちも参加します。このキャンプが伝道キャンプになるように、キリストのご臨在を運ぶキリスト者によって、子供も親も、キリストの神秘的体に触れることができるように、お祈り下さい。十市では二時半から聖書を読む会を行います。まだ求道の方は誰も来ていません。聖霊様によってお祈り下さい。私が話をします。私のためにも祈って下さい。伝道する教会は皆さんを祈り手として必要としています。キリストの体の欠かせない部分として必要としています。そして福音の神秘が現実化して、キリストの救いがなるのです。

14/7/20朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章18節、イザヤ書63章7-19節 「あきらめないから祈る」

14/7/20朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章18節、イザヤ書63章7-19節

「あきらめないから祈る」

 

根気よく祈り続けなさい。直訳で言いますと、あらゆる忍耐と願いをもって祈りなさい。あらゆる忍耐。忍耐を尽くしてとも言える。尽くすのですから、もう尽き果てるまで、自分の手持ち全部差し出してということです。例えば、言葉を尽くして誰かを説得するという体験をされたことはないでしょうか。この言葉では届かんならと、持っている限りの言葉を尽くして、考えを尽くして、相手の気持ちを考え尽くして、一生懸命に考えて努力する。子供はボキャブラリーが少ないので、説得する切り札をいきなり出して来て、ねえ、一生のお願い!とかって言いますが、それはちょっと極道やろうと(笑)。極道というのは土佐弁で面倒くさがりという意味ですが、私は、その求めに応えてもよい、うん、その求めはいいんじゃないかと思うときでも、じゃあ何故それが欲しいか、それがどんな意味を持っているかを存在の重みをかけて考えてほしいと思うときには、うん、もうちょっと頑張って、どうしてそれが必要か言ってみてと、むしろ求めを促すことがあります。欲しいから、あるいは必要だからとただ与えるだけでは、人にとって大切なことを見失わせてしまうのではないかと危惧するからです。大切なのは欲しいモノが与えられたり、したいことができることでなく、そこで誰かと共に生きる、例えば与える人と、あるいは与えられたモノによって誰かと共に生きるという恵みの関係が生まれたり育てられていく事だと思うのです。またそこには言葉のやり取り、心のやり取りがお互いの間にある。それらが命をつくり、人生をつくり、人をつくると思うからです。その関係で何かが与えられるにしても、単に正しい求めのボタンを押したから、それが与えられたとかではない。そんな正解不正解の心の読み合いのような関係は、きっと誰もが嫌だと思われるでしょう。ただ、今の日本では、時間に追われ、誰かと顔を向き合わせ、相手の呼吸に合わせるようにして一息おいて、共に命を刻む恵みの言葉を交わすということは、容易ではないのだとも思います。はい、これ、と必要なモノを与えるほうが、そりゃ早く済むのです。でもそうやって相手に自分を与え損ねて、命の重なりが薄くなって、人生が希薄に、愛が軽くなる時代の形成に、いつの間にか加担しているということもあるのかもしれません。

そこで私たちが祈るというのは、その希薄な人生のただ中に、神様の聖なるご介入を呼び求め、神様から切れ目を入れて頂いて、ともするとこのまま流されて行きがちな人生を、その度その度、やり直させて頂くということでもあるでしょう。つい、だって仕方ないと思いがちな心にも、聖霊様による仕切り直しを入れて頂いて、その都度その都度、主に結ばれた聖なる者、新しい存在として、呼吸からして、仕切り直させて頂く。一呼吸おいて、父よ、と祈る。毎日祈る。一日何回も祈る。特に朝起きてからや、寝る前に時間を取って祈る。短くても祈る。とにかく祈る。祈る生活をあきらめない。神様の時間が自分の生活に流れ込んで神様と共に生きていける、信仰生活をあきらめない。この時代にあって神様の子供として祈るということ自体が、もう既に忍耐なしには不可能ではないかと思います。

祈ろうとしている。既にそれ自体、一つの忍耐です。祈ることをあきらめさせようとする邪悪な日、悪魔の策略に抗う忍耐が、もう既に一つそこにあります。その忍耐を、もう一つ増やしていこう、更に二つ三つと忍耐の手持ちを増やして、ここでも祈ろう、こんなときも祈ろうと、ここでも忍耐して祈る、こんなときにも忍耐して祈る、あらゆる忍耐をもって祈りの厚みを増していく。そうやってあらゆる忍耐をもって根気よく祈り続けて行くのです。

「あらゆる」というのがキーワードでして、一回忍耐して、あのとき頑張って祈ったき、というのではない。何回も再挑戦して、あ、と思いついた時にも、すぐ天を仰いで、神様の御前に出てと、あらゆる忍耐をもって祈る。祈りのイメージを、こういう祈り方じゃないと祈りじゃないと固定しないと言ったらよいでしょうか。そういう野球のピッチャーとかおるかもしれません。精神論で、速球ストレート以外は卑怯とか。いいんです。カーブもフォークも。あらゆる球種を用いたら。最後に、試合終了との審判の声の後、監督から、よくやった!と言って頂けたら良いのです。祈りは精神論ではありません。聖霊論です。その御霊の剣である御言葉が命じるのです。あらゆる忍耐と願いによって祈りなさいと。忍耐がいるのは弱いからでしょう。その弱さを神様はご存じです。だから聖霊様が、キリストを受け入れた一人一人に与えられ、聖霊様によって、神様に向かって、父よと、信頼して呼び掛けられるようにして下さっている。それが祈りです。弱いから、あらゆる時に、どのような時にも、生活の祈りの厚みを増していく。

この18節を直訳しますと、「あらゆる」という言葉が、繰り返し4回出てきます。こういう直訳です。

あらゆる祈りと願いとによって、あらゆる時の中で、御霊の中で祈り、またそのためには目覚めて、あらゆる忍耐と願いの中で、あらゆる聖徒たちのために、祈りなさい。(再読)

「あらゆる」がついてないのは、御霊の中でと、目覚めてだけです。そら聖霊様はお一人ですから、あらゆる御霊はないし、あらゆる目覚めてもありません。目覚めるとは、神様の御前にいる自分を自覚するということですから、神様の御前で目覚めているか、夢遊病のように自分がどこにいるかボンヤリしているか。でもそうならないように、聖霊様の中で祈りなさいと、あ、私は神様の御前にいるのだと、キリストに結ばれた私が神様から切り離されることはなく、私は常に神様の御前にいるのだと目覚めて、真実の自分、神様の子供として、また救いの僕として目覚めて祈ることができるのです。

その目覚めた祈りの具体的イメージはこうですと四つのあらゆるで示されます。まず、あらゆる祈りと願いとによって。祈りは、こういうイメージじゃないと!という自分なりの理想像は無くしてよいのです。理想で祈れるほど強いなら、聖霊様は与えられんかったでしょう。根気よくではなく、根性だ気合だと言われたでしょう。ただ、忍耐はいります。しかもあらゆる忍耐と願いがです。先に説き明かしましたように、その忍耐も、もし根性のイメージとか、まるでサウナに入って、よし、20分たった!とかなら、自己満足になってしまいます。そういう場合は私自身そうしますが、それも含めて祈るのです。自己満足する私の罪を清めて、キリストの似姿へと造り変えて下さい、憐れんで下さいと祈ればよい。自己満足になるから祈らんと、祈りをあきらめないで良いのです。一向に清く祈れない自分にこそ先ず忍耐がいるのかもしれません。その忍耐も含めて、あらゆる忍耐と願いの中で、御霊よ、私を造り変えてください、聖徒たちのために、伝道のために、人々の救いのために、そうしてくださいと、私が造り変えられることに対する忍耐と願いを、まさしく自分事として強く祈ればよいのです。そのために召されている私ですから、だから祈りますと、愛する者たちの執り成しを、あきらめないで祈る。家族の救い、友人たちの救い、癒し、解放、あらゆる祈りと願いとを、父よ、お願いします!と御前に捧げます。

これ祈ったらいかん、というのはありません。これはでも罪だから、という、自分の中で葛藤している罪の欲望があるのなら、御霊によって祈るのです。主よ御霊の剣によって勝利して下さい、私の中にこの欲望があるのです、これをしたいのです、でもしたくないのです、わからないのです、でも御心を行って下さい!と、ロマ書7章で使徒パウロが、私は自分がわからないと、うめきながら祈ったように、またイエス様がゲツセマネで、身代わりとしてではあるけれど、それはわかってはいるけれど、だけど呪われたくないです、しかし御心をなし給えと祈られたように、御霊によって祈ればよい。イエス様もそう祈られた。御霊によって祈られながら、悶絶して苦しみの血の汗を流してです。御霊によって祈るなら苦しまないというのは悪魔の嘘です。私は御霊によって祈れんと、祈りをあきらめさせようとするサタンの大嘘です。ゲツセマネで私たちのために祈られた主イエス・キリストの祈りに包まれながら、その祈りを祈らせて下さった同じ聖霊様の御力の中で、忍耐をして祈れるのです。イエス様のようには祈れませんと思うのなら、それでも良い。それが今の自分の真実なのでしょう。それも聖霊様がご存じですから、祈れませんと打ち明けながら、別の祈れる願いを祈ればよい。あらゆる忍耐によってですから、忍耐できる別の事柄を執り成せばよい。

とにかく、祈りをあきらめない。あきらめたら、祈らんなってしまいます。祈れない自分をもあきらめない。敢えて大胆に言いますが、自分の意志では祈れないのが聖なる者たちの実態だから、だからこそ祈れと御言葉は繰り返し命じるし、だから御霊によって祈りなさいと、自分の力を捨てて、しかしそんな私たちを決してあきらめることない三位一体の聖なる神様の、聖なるあきらめ悪さの中で、だからあなたは祈りなさい、あなたは祈れる、わたしがそう召したと、祈りへと召されているのです。だから、あきらめなくてよい!

答えられない祈りもあります。云十年祈っている祈りがあるかもしれません。時には、毎日祈っている課題に、言わばマンネリ感、倦怠感を覚えてしまうのも、誰もが知っている弱さでしょう。それでもあきらめないのです。願いが叶うことを、ではありません。その願いは、神様、あなたご自身の願いですよね、あなたが救って下さるのですよね、御心はなるのだと信じますと、キリストをくださった父の愛を信じるから、恵みを信じられるから、御心を、あきらめないのです。父の願いなら、祈れます。その時がいつになるかはわからなくても、思った形とは違っていても、御霊の剣によって示された、キリストの恵みを祈る祈りは、キリストの御名によって祈れます。御霊によって祈れます。これは、あなたの御心ですと、父への信頼を新たに告白して、だから私もあきらめませんと、時が良くても悪くても、父の御心に仕えるのです。

14/7/13朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章18節、ネヘミヤ記1章1-10節 「互いに見守り合う祈り」

14/7/13朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章18節、ネヘミヤ記1章1-10節

「互いに見守り合う祈り」

 

絶えず目を覚まして。あるいは、明確でハッキリした意識を持って、いま自分の周りがどういう状況であるかにも目を配り、よく注意して、とも言えるでしょうか。例えば以前、仲間数人で長距離運転をしましたとき、運転は別の人がしておって、私は助手席におったのですが、ついウトウトとしてしまい、気づいたらサービスエリアに入る道。運転手がちょっと休憩しようと言うので車外に出ました。ん~とか体を伸ばしておったら、その運転手が私に耳打ちするのです。実は、どうやってここまで来たか覚えてない。後残り、眠らんように見張っててくれ!その車がオートマチックでなくて、マニュアルだったもんですから、代わりに運転することもできん。その後の運転も彼に任す他ない。どうしたか。私は助手席で絶えず目を覚ましていました。無論、自分が眠らないためではなく、隣に座って運転をしゆう友人が、目覚めて、自分の務めを、全うできるために!目を配り、口を動かして、頭を使って笑わせようと努力しました。それは彼のためでもあり、私のためでもあり、後部座席に乗っている仲間のためでもありますし、その私たちの家族のためでもあった。またひょっと事故したら他の人を巻き込む恐れが十分にある。自分の知らない人々のためにも、絶えず目を覚まして、互いに任された務めを全うできるように、執り成し、努める。そしてそのことは私たち一人一人に託されている、祈りの働きでも同じなのです。

絶えず目を覚まして、友のために祈る。友が神様から託された働きを全うできるように。また友も、私が神様から託された働き、使命、召命を全うすることができるように、私のために祈るよう、神様から役割を託されている。言わば互いに見張りの役割を任されて祈る。それが教会です。「全ての聖なる者たちのために」祈りなさいと託されているのは、聖なるというのは、神様に属するという意味ですから、神の家族、教会のために祈りなさい、教会の一人一人の友のために祈りなさい、という招きです。あなたは一人ではない。だから一人で祈るのではなく、教会として、教会のために、家族のために祈りなさい。家族もまた、あなたのために祈っている。あなたには、その家族の祈りが必要なのだと。

先に車の運転の例で申しましたが、これは元来、戦場において戦友が互いに相手の後方を見守る、あるいは夜、友が寝ている間に自分は起きて見張りの役を担う。そして自分が寝る番になったら、友が自分のために起きて見張ってくれている。祈って守ってくれている。それがここで神の武具を身に着けて、共に神様の愛の闘いに立つ教会として、互いに祈り合うイメージです。

皆さんの祈りの経験の中で、こうした、戦友のために祈るという意識をもって、神様に向き合われた経験はおありでしょうか。私は、昔からアクション映画が好きなせいか、比較的早くから、祈りをこのイメージで捉えてきたように思います。以前、別の友人から、幸生、お前俺のために祈ってくれてるか。頼むぞ、俺ら一心同体なんやから、お前が倒れんように俺も祈ってるから、頼むぞと、えらい露骨に言われてタジタジとした記憶もあります。まあ、これには性格とかも関わってくるのだと思いますけど、聖書が闘いのイメージで祈りなさいと語るのですから、性格だけの問題でないのも確かでしょう。無論、この前に語られている御霊の剣を取りなさいというのも、ヤアッと人に切りつけるためではありませんので、戦友のための祈りと言っても、攻撃的に、眉間にしわ寄せて、っていうのではありません。積極的に、言わば力強く祈るというのはありますが、静かに祈るのでも良いのです。友のために、目覚めて祈ればよいのです。友も、また私も、隙あらば神様の愛から引き離そうとしてくる悪魔の策略にさらされています。それを自覚する。自覚するというのは、自分事として目覚め、ハッキリと覚めた意識で自覚して、父よ、あなたの召命から私たちが引き離されないように助けて下さい!私たちを試みに遭わせず、悪より救い出し給えと、自分事として、戦友のために祈る。それがここで求められている、祈りの自覚です。

先週の説き明かしにおいて、この事を祈って下さい、と人から頼まれても、自分事にならんと祈りからこぼれてしまうのではないかと申しました。大事な事だとは思っても、それより自分の事、自分事が大きくなる。その自分を造り変えられるのが、聖霊様であると。大事だと思ってはいても自分事になってなかった祈りの課題が、しかし自分事になって祈るのは、それは課題が変わったのではない。自分が聖霊様によって変えられたのだ。御霊によって祈るとは、そういうことだと説き明かしました。ではそこで聖霊様によって自分が変えられて、人ごとが自分事になるとは、どういう変化か。それは、わかりやすく言えば、自分が教会の、まさに欠かすことのできない、掛け替えのない一員であるのだと、私を必要としている友がいるのだと、言わば教会にドップリ浸かって、自分と教会が意識の中で、どうにも切り離せなくなっていく変化です。

これは私たち、実は聖餐式の感謝の祈りで毎回祈り求めている変化でもあります。「私たち、主の体の肢である自覚がいよいよ深くなり、ますます励んで主に仕えることができますように。」自覚が深くなる。教会が自分と切り離せなく一つであることの自覚が、自分事としてハッキリとしてくる。その自覚がいよいよ深くなりますようにと、キリストと一つにされている恵みを確かめた聖餐式において、共に祈る。その願いを、父が聴かれないはずはありません。

自分が造り変えられていくというのは、単に自分のことだけ考えない良い人になるというのではありません。それはまだ個人のイメージだけで終始しています。自分が造り変えられていくとは、自分が教会の掛け替えのない一肢として、キリストの体の一肢として、教会家族のために存在しているという自分になる変化です。そして、教会がキリストの体であるというのは、人々の救いのために存在しているということですから、そのキリストの体の一肢である私たちは、まだ神様の愛を知らない人々のためにこそ存在している。私は神様の愛する人々のために存在している。そういう自分、そういう存在に、造り変えられていく。それが聖霊様のお働きであり、その御働きの中で、私たち一人一人が、教会にドップリ浸かっていくという変化、聖化が起こされるのです。

先週の説教では、また、こうも申しました。祈りとは自分の存在をかけた言葉を、コラム・デオ、神様の前で、神様に捧げることだ。では、それは、どんな存在か。古い存在が相も変わらず古い自分を引きずって御前に出るのか。御霊によって祈るのでなければ、それもあるかもしれません。でもそんな私たちならばこそ、父は御霊をくださったのです。御霊によって祈りなさいと、新しい祈りをくださった。そこで御霊によって祈る私たちの存在は、もはや古い自分ではない。新しい存在です。聖霊様によって祈る存在は、自分事ばかり固執しておった古い人間が、その古い自分にはもう属さんなって、キリストに結ばれ、キリストに属した者として、聖なる者として、新しい存在として造り変えられて、その故に、他人事を自分事して段々祈れるように変えられていっている、キリストに結ばれた聖徒です。それがキリストの体の一肢、教会という存在です。難しい事を言うようですが、これは私たちが御霊による祈りをどうやって祈ればよいのか、どう求めたら良いのかをイメージするのに、助けとなると思うのです。

こう言ってもよい。私たちが御霊によって祈るとは、すべての聖なる者たちのために、私はその聖なる者の一人であると自覚して、しかも、コラム・デオ、神様の御前でこそ自覚して、祈るということです。週毎の礼拝で告白する使徒信条で、私は聖霊を信じますと告白します。その聖霊様信仰の具体的内容として、聖い公同の教会、聖徒の交わり、云々を信じますと告白する。その聖徒の交わりを信じられるのは、キリストを信じ、キリストに結ばれて、キリストに属する者、聖なる者とされた者でなかったら、その交わりは信じられんのに、でも信じられるから、私もその一人であるのだと、聖徒の交わりが聖霊様によって自分事になるから、聖徒のために祈れるのです。聖徒の一人として、聖徒に特有の悩みや困難も自分事として知っています。例えば、祈るのは大変だ。愛するのは大変だ。キリスト者なのに、どうして私はこうなんだ。あるいはその意識さえ流されて意識せんこともある。聖徒はこの困難を多かれ少なかれ抱えています。何故知っているか。聖徒だからです。キリストの体の一肢として、同じ闘いを闘っているからです。そしてその闘いが何であるのかを、御霊の剣、聖書の御言葉によって知ったからです。

だから、13節の御言葉で言えば、邪悪な日によく抵抗し、また悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けて、御霊によって祈るのです。一人一人、神様から、あなたは、この人の救いのために存在している、そのために教会の一員として存在している、その愛の闘いを、立派に闘い抜きなさいと、一人一人が召されている。その闘いの中にいて、自分の罪とも闘いながら、愛する人々の救いのために苦しみながら、何とか神様の召しに従おうと闘っている聖徒たちのために、その聖徒の一人として祈るのです。

自分の闘いだけではない。木を見て森を見ずと申します。自分が置かれている救いの闘いの森全体を、戦いの大局を見るのです。その大局を見る眼差しが、私たちの祈りと闘いを当てずっぽにならんよう助けます。また森を見て木を見ずということもあり得ます。人々を救うために主によって具体的に配置された、掛け替えのない一人一人の聖徒を見ずして漠然と祈るなら、祈りが抽象的になり、信仰が、そして愛が抽象的になってしまう。だから教会全体を、その救いの戦いの大局を見据えつつ、またその故に具体的に配置されている一人一人のため、教会の具体的で細々とした働きを覚えて、自分事として具体的に祈る。

これも神様の不思議な御業だと思いますけど、ちょうど「祈ろう四国教区の教会5」の祈りが今日から始まります。人数、会計状態、祈りの課題、具体的に記されている。これも一つの大局です。夏の青年大会もそう。それらに仕える全ての聖徒たちのため御霊によって祈るのです。

14/7/6朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章18節、イザヤ書11章1-10節 「自分の都合でない祈り」

14/7/6朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章18節、イザヤ書11章1-10節

「自分の都合でない祈り」

 

根気よく。大切やなあとつくづく思います。私が土佐人にありがちな熱しやすく冷めやすい気質だからでしょうか。自分のこだわりに関しては、ええ加減しつこいのに、もうやめや言われたちやめれんのに、根気よく誰かのために祈るということの、何と困難なことかと思います。

だから、でしょう。その弱さをよく知っておられる三位一体の神様が今日の御言葉でおっしゃるのです。霊に助けられて祈りなさい。御霊によって祈りなさい。三位一体の神様のご支配に身を委ねて、その御力に押し出されるようにして祈りなさい。そう言い換えてもよいでしょう。そう語る御言葉自体が、前の17節で言う御霊の剣ですから、イメージで言えば、聖霊様が、ご自身の剣によって私たちの心にスッと神様の御心に従う道を切り開いて下さって、その道を示されつつ、こうおっしゃるのです。わたしの力の中で祈りなさいと。祈りに促されるのも聖霊様であれば、その祈りを一緒に祈って下さるのも聖霊様である。この連続性が急所です。聖霊様繋がりと言ったら軽く聴こえるかもしれませんが、ここにキリスト者の生活の急所、クリスチャンライフのライフライン、生命線があるとも言えます。聖霊様による御言葉と祈りのライン。

御言葉と祈り。どちらも欠かせない生命線ですが、よく言われるのは、御言葉が日毎の糧であるならば、祈りは息をするのと同じだ。パンがなくてもしばらくは持つが、息をせざったら死んでしまうと。言い換えれば、神様に向き合ってなかったら、神様と会話することがなくなってしまったら、会話のない関係がどうなるか、敢えて聴くまでもないと思います。家族ではあり続けますが、悲しい。会話は大切です。言葉は愛のライフラインです。先週、言葉を軽んじるのは相手の存在を軽んじるのと同じだと申しましたが、自分という存在を神様に委ね、神様の御前、コラム・デオに立つ存在が、どこに現れるかというと、祈る時、自分の存在をかけた言葉を天の父に捧げる時です。祈りが神様の家族としての私たちの存在を確かにし、その関係を実体化するからです。

ただ、これは祈りの言わば原理的な説明です。そうか、これが祈りかと知って頂けたら幸いですが、それで、じゃあ実際に祈るかというと、やはり知識は知識でして、行くべき道を示しはしますが、祈りへと動かす力を持っているのは、知識ではない。私たちの存在に語りかけ、存在を駆り立てる生きた存在の重さが、私たちを祈りへと動かします。相手の存在の重さを感じる時と言ってもよいでしょうか。それを、相手のことが自分事になる時と言うのでしょう。具体的に当てはめて頂きたいのですが、人から、この事を祈って下さいと頼まれても、自分事にならんと祈りからこぼれてしまうのではないでしょうか。大事な事だとは思ってもです。大きな事と書いて大事と読みますが、それよりも自分の事、自分事が大きくなるのが人間なのでしょう。自分事は祈るのです。特に苦しい時、よく祈ります。自分事の最たる事ですから、車運転しながらでも、歩きながらでも、トイレでも祈る。根気よく祈る。

その自分を造り変えられるのが、聖霊様のお働きです。大事だと思ってはいても自分事になってなかった祈りの課題が、自分事になるのは、課題が変わったのではないのです。自分が聖霊様によって変えられたのです。御霊によって祈るとは、そういうことです。御霊の剣である神の言葉がなす働きも、私たちをキリストの形へと造り変えて行くお働きです。御言葉と祈り。どちらも聖霊様が私たちになさる救いの御業です。

改めて言いますが、救われるとは、罪の裁きから救われて天国に行けるだけではありません。裁きの原因であり神様を悲しませる存在の根本たる罪から救われることも、三位一体の神様の救いの願い、御心です。敢えて極端に言いますが、赦され天国行けるだけなら、キリストの御業だけで十分なのです。聖霊様は私たちとキリストを結ぶ原理的存在としてのみ存在しておればよいのであって、別に生きて働く必要はないし、そのように生きてない存在としての聖霊様をイメージすることも少なくないのではないかと危惧します。だが、三位一体の永遠の御霊は生きておられます!生きて私たちを罪から救い出して生かすため、キリストの形へと日々新しく造り変え、私たちの古い存在が新しい神様の子供たる存在として、全く新しい神の形が再創造されるために、生きて日々苦労しておられます。前の4章30節によれば私たちの軽い言葉、軽い存在に悲しみさえなさりながら、しかし根気よく忍耐され、私たちと一緒に、私たちのために、御霊なる主は、生きて執り成しておられます。

その救いに救われ生きることの具体的現れの一つが、祈りです。自分自身が罪から救われて行く中で、他の人が罪から救われていくための、執り成しの御業が起こるのです。教会を通して愛する者たちを救われるキリストの御業が起こるのです。教会がキリストの体として造り変えられ、建て上げられていくという救いの御業と切り離して、祈りの御業、伝道の御業、執り成しの御業を考えることはできません。

私が聖霊様によって造り変えられて、あのことも、またこのことも、自分事として祈れるようになる。それは御霊によって祈りなさいと命じられるように、自動的に起こるのではありません。愛の関係に自動的というのはありません。私が自分の存在をかけて、聖霊様、私を造り変えて下さい、自分自分の事でなく、父の御心を祈れるように、貧しい私の祈りを導いて下さいと、イエス様がおっしゃったように、自分を捨て、自分の十字架を負って祈るのです。自分の存在をかけて、しかし、その存在を父の御手に委ねて、コラム・デオ、神様の御前で祈る。

その祈りは、主が十字架に架かられる前に祈られた、あのゲツセマネに導かれる祈りとも言えるでしょう。全て祈りはゲツセマネに導くとも言えるのではないかと思います。キリストの名によって祈るのです。自分を失って執り成すのです。そこに聖霊様による祈りがあります。

祈りながら、祈りの貧しさを感じることもあります。言葉が出ない時もあります。でも貧しい者が幸いなのです。なら聖霊様から与えられた御言葉、御霊の剣によって示された御心が一つでもあれば、その御心を御霊の力にギュッと押し出されるようにして祈ればよい。一言に私たちの存在をかければよい。その一言を父は絶対に軽んじられません。言葉の貧しさ、私という存在の貧しさ、愛の貧しさを思いながらも、だから主よ、お願いしますと祈ればよい。貧しいから祈るのです。豊かな人は自分の力でやるのです。そして御業から離れてしまう。そんな弱さがあればこそ、聖霊様は御言葉によって、ただ御心を祈るよう導かれます。

そこにゲツセマネの祈りもあります。私の願いではなく、御心をなし給えと、主が祈られたように、そこでは私の力は関係ありません。私はもう父に委ねたのです。その代わり、そこには父が憐れみを注ぐため、キリストを、そしてその御体である教会を遣わされた、父の愛する人々がおられます。その人々のためにキリストが御心を求められたように、私たちも、その人々の事を自分事として、憐れみを求め、救いを願い、助けを父に求めるのです。そこで祈り求める私たちの祈りが、キリストの願い求めとなるように、聖霊様によって祈るのです。

その願いは、キリストの求めですから聴かれます。どう聴かれるかは委ねますけど、ゲツセマネの祈りですから委ねるのですけど、キリストをくださった父の御名をあがめる祈りですから、聴かれないはずはないのです。信じきれない自分をも捨てて、キリストの願いですと、御名によって祈る。キリストと私たちを結ばれた、御霊によって祈るのです。

14/6/29朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章17節、詩編119篇1-16節 「知識と生きた言葉の違い」

14/6/29朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章17節、詩編119篇1-16節

「知識と生きた言葉の違い」

 

神様の言葉を、ではどう取るのか。無論、ぞんざいには取りません。言葉の取り扱いは、それを語る方に対する取り扱いと同じだからです。先々週も申しましたように、人の言葉も同じです。言葉の取り扱いは、その人に対する態度と同じですから、軽んじられたら嫌な思いになる。皆さんも同様の体験があると思います。言葉を聴く、聴かん、あるいは理解する、せんというのは、言葉だけ、知識だけの問題ではありません。人の言葉であれ、神様の言葉であれ、すべからく言葉に向き合うということは、それを語る相手の人格に向き合うのと同じです。

人格というのが難しかったら、存在と言っても良い。それも難しいかもしれませんが、こう言えばわかるでしょうか。言葉を軽く聞かれるというのは、存在を軽く見られるということです。軽んじられる。フッと吹かれる煙のような存在…とまでは、軽んじた側は思ってないかもしれませんし、軽んじているとさえ気づいてないのだと思いますけど、人の言葉を、はいはい言うて聞くというのは、じゃあどうなのか。もし自分がされたらどう思うか。あるいは若い世代ではメール文化というのか、言葉が軽い時代にますます拍車がかかっておって、自分が大事だと思う言葉だけセレクトし、選択して、後は、返事する、せんも自由…ということになれば、やはり相手の存在に向き合う姿勢が、崩れている時代に私たち生きているのかもしれません。

でも、そんな時代であればこそ、じゃあどう生きるのか、どう生きていけばよいのかという問いと答えに、カラカラに渇いている人々もおられるに違いないのです。イエス様が、義に飢え渇く人々は幸いであると言われた。その人たちは満たされると約束して下さった。それは神様の答えに飢え渇く人々にも、もちろん与えられている幸いなのです。

先々週、私たちは聖書に答えを求めるのだ、御霊の剣によって、神様の祝福の道が切り開かれていくからだと説き明かしました。それを義の道と呼んでも良いのですけど、その道は、自分が聖書を利用して切り開いていくのではありません。それが義、正しい道ではないというのは、おわかりになると思います。神様の正しさは愛の正しさ、愛の正義ですから、自分で聖書を利用して、というのでは無論ない。むしろ私たちの前に道が切り開かれるのは、ま、そこに神の武具による闘いのイメージがありますから、そこでバッサバッサ切り倒される悪魔の策略があるのですけど、それは神様からの答えによってのみ倒れます。そしてここが急所ですけど、答えと言うなら、答えてくれる相手がおるのです。存在をかけて向きあう相手がおるのです。その相手に対して求めるのです。無論、その相手とは神様ですが、人間相手でもそうでしょう。何かを求めるときには、相手の気持ちを考えます。無表情で、金、いうて親に金を求めるような求め方ではない(笑)。親の思いを考えられたら、神様のお気持ちもわかってくると思います。求められるのは嬉しいものです。求めなさいと主も言われました。そこに愛の関係が実態を持つのです。単に金や知識としての答えという、モノが求められるのが嬉しいのではありません。それを与えてくれると信頼されていることが、自分の存在が求められているという、共に存在している実態が嬉しいのです。

聖書に答えを求めるというのは、謎解き迷路のように、あ、こんなところに人間関係のヒントが、あ、こんなところに結婚についての答えがという風に、妙に謎めいてあちこちに人生の答えが隠されているというのではありません。讃美歌の聖なる聖なるが歌うように、罪ある目には隠れて見えんということはあってもです。ゴミが落ちていて見えゆうのに、え、どこにあった?ということがある。金は別(笑)。関心がないと見えない。神様の関心って何だと思うでしょうか。そこに関心がないと見えていても見えない、読んでおっても心を通り抜けていくということは起こります。聖書が難しいというのは、時代背景とか専門用語とかの理由も多分にありますが、関心のズレという問題も大きいのです。よく勘違いと言いますが、それは関心違い、心の求めが違って、心が別々の所を見て求めておることに起因することが多いように思います。

神様の関心、それを御心と訳すことが多いのですが、直訳すれば神様が喜ばれること、お望みになること、神様の心がそこにあるってのが、御心です。御関心とか御求めとか言い難いですから、それでいいんですけど、御心とはじゃあ何か。神様の関心です。こだわりとさえ言える。御心は別に隠された計画とかじゃありません。今日のお昼は蕎麦が御心やったに、あ~あ、ラーメンらあ食べてとか(笑)そんなんじゃない。御心は、父との愛の関係の中で私たちの体も養われることです。神様とそこで関心が一つになるなら、何を食べてもよい。その御心は隠されてなんかはないのです。食べもののことでわずらわず、神の国を求めよ、父との愛の関係の実態を求めよと、例えばそこでマタイ6章の御霊の剣を取る。御霊の剣の取り方の、一具体例です。

更に具体的に踏み込んでいくと、神様の関心、御心が一番わかるのはキリストを知るときです。無論、知識としてのキリストではなく、存在を持っておられるキリスト、しかも人としての存在をさえ受けられた、永遠の三位一体の御子なる神様としてのキリストを、え、じゃあ何で、そんな面倒な存在を持ったが?と自分事として求める。そのとき、御子を私にくださった父の関心がわかりますし、私の存在もわかるのです。御子が人の存在を得られた理由は、私の救いのためなのだと。私と一つになるためだ。私の責任代表者として罪の裁きを十字架で引き受けて、身代わりに私が赦され救われ、神様の子供として生まれ変わるという新しい存在を得るためだと。そのようにキリストを知る。私の救い主として知るところで、私の存在もわかる。知識としてではない。知識は人を神様に向き合わせるきっかけにはなりますが、人をして神様に向き合わせ、しかも、神様、あなたは私の神様です、私はあなたの子供ですと、神様と結び合わせることができるのは、信仰、信頼という絆だけです。もっと正確に言えば、その信頼の絆は、私たちの関心とか思いという、それこそ煙のように不安定で吹けば飛ぶようなものでなく、その本体は三位一体の御霊なる神様、聖霊様のご存在です。その聖霊様が私たちと私たちの救い主キリストを家族の関係の帯で一つにギュッと結んで離さないから、どんなことがあってもあなたを離さないと、神様として離さないから、私たちは確実に救われるのです。キリストの100%の赦しと聖めが、100%保証されるのは、この聖霊様の結びによります。

そして、その結びが、単なる知識ではなく、信頼の関係、愛の関係という実態を持っていることがわかるのが、御霊の剣、聖書の御言葉を、私の神様の言葉として取るときなのです。キリストが、わたしはあなたと共に在る、あなたの存在と共に在る神だと、私たちと一つに結ばれてくださっている。その結びそのものであられる聖霊様が、私たちの心を照らして神様の関心を見させて下さるのです。ああ、私の神様は、ここに関心を持っておられる。裁きでなく救いを望んでおられる。罪でなく愛の道を望んでおられる。そのために具体的には、これをしなさい、これはいかんと言っておられる。それを私への愛から言っておられると、生きておられる神様の言葉として、心に聴かせて下さる。そこで今まで知識としては知っておった言葉が、これは神様の関心であり、こだわりであり、これが私たちへの愛なのだと、神様の言葉として向き合える。神様に、はい、と向き合わせて下さるのが、聖霊様の、御霊の剣による救いのお働きであるのです。

少し説明に過ぎたかもしれませんが、じゃあ、聖書に、また聖書の説き明かしである説教に、どう向き合えばよいのか。どう御霊の剣を取ればよいのか。神様に向き合ってです。しかも私たちの救いを一番の関心としておられ、そのために御子を死なせて罪赦すだけでは終わらずに、三位一体の神様が総動員で私たちの救いのために働いておられる。その救いの神様に向き合って、その全存在を、私たちの救いにかけておられる神様に向き合って、神様の言葉に向き合うのであれば、私たちも自らの存在をかけて、向きあう他はありません。そこで聴こえてくる言葉、見えてくる言葉は、軽い言葉になることはないでしょう。仮に何を言いゆうかわからなくてもです。存在をかけて聴く。ご自分の存在をかけて語られる神様の言葉に、襟を正して、存在をかけて向き合う。

そこで言わば、剣がスッと指し示す方向が新しく見える。神様に向き合う方向から、今度は、人々の救いの方向に、スッと剣が私たちの顔を上げさせて、あなたを遣わす、行きなさい、キリストの救いの使者としてと、そこで隣人のもとへとも遣わされます。もはや多くは語れませんが、それが次の18節以下、祈りと伝道へと展開する所以です。詳しくはそこで説き明かしますが、御霊の剣を取るキリストの救いの兵士として誰かのもとに遣わされる時も、やはり存在をかけて御言葉を取る。語ると言ってもよいでしょう。やはり、ぞんざいな態度では語り得ません。これは神の言葉だと強権的に、言い換えれば、虎の威を借る狐みたいなずるい態度で、これは神の言葉だと剣を振りかざすことはできません。そのときには、それは狐の剣になっている。御霊の剣は、言わば、中世の王様が兵士の肩に剣をそっと於いて、王の騎士にするように、まずそのように自ら剣を受けると言えば良いでしょうか。そこには王が王として敬われる権威があり、その権威に対して、王様、私の首をはねることさえ、あなたにはお出来になりますが、私はあなたを信頼し、あなたに忠誠を誓いますと、頭を垂れて剣を受ける。御言葉を読み、聴き、また特に語るとき、その態度があるかないかで、剣は御霊の剣にもなれば狐の剣にもなり得ます。

そして私たち一人一人は、存在をかけた言葉の使い方を習得していくとも言えるのです。あんた、あの時…何と言うかイエス様みたいやったでって言ってもらえたら、どんなに嬉しいことでしょう。聖書に自分の存在をかけて向き合う生活が、存在をかけて人に向き合う毎日を造ります。そこに遣わされているのです。そして一人ではないのです。神様の存在が共に在るから、その救いの言葉に生き抜くことができるのです。

14/6/15朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章17節、詩編1篇 「聖書は最大の防御なり」

14/6/15朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章17節、詩編1篇

「聖書は最大の防御なり」

 

聖書と出会う。その出会い方は人によって様々であろうかと思いますが、私にとって、その後の人生をある意味決定づける聖書との出会いをしたことがあります。それまでもギデオン協会でもらった聖書を持ってはいました。開いて読んだこともありました。が、まだ神の言葉として出会ってなかった、と言えばわかりよいでしょうか。ある宗教的知識が書かれた特別な本だと思っていました。それがあるキリスト者の青年と話をしておって、幸生、真理が存在すると思うかと問われた。時代が変わっても国が変わっても、幸生が変わっても、永遠に変わることのない神様の真理ってあると思うかと。私は、なかったら、全てが偶然で風の吹くままで、そんないい加減な世界なら俺は生きたくないと答えましたら、彼が大事にしておった聖書を手にとって、幸生、その真理がここにあると言った。私は不思議と、あ、ここにあったかと、私が探していた答えがここにあるのかと、妙にストンと心に落ちて、これが聖書かと、聖書に出会いました。それから早速、毎日読み始めました。新約聖書を一日三章読んだら一年で読み終わるとか言われて頑張りましたが、何せ極道なもんですから、三年かかりました(笑)。でも何で頑張れたか。おもには、その数ヶ月後イエス様を私の救い主として祈って受け入れたというもっと大いなる出会いがあったからですが、やはり先に申しました聖書との出会い、ここに真理がある、ここに全ての答えがある、という出会いが大きかったと思います。

色々な答えを求めていました。それを聖書に求めました。様々な人生の答え、また救いとは何かについて、救われて生きるとはどう生きるのか、ありとあらゆる悩みの答えを聖書に捜し求めて読みました。そして求める者には与えられるとのイエス様の約束通り、与えられ続けてきた二十数年でした。

皆さん、今更のように問いますが、求めていますか?何を求めておられますか。答えでしょうか。その答えは、ここにあります!もし、モノやお金を求めておられるなら、では、どのようにそれを求めればよいのかも、やはりその答えがここにあります。

聖書の言葉を、しかし神の言葉として語りかけて下さる御霊なる神様が、私たちの問いに答えてくださいます。それを御霊の剣と、御言葉は呼ぶのです。ですから、この剣は、取扱注意が必要です。何故ならモノではないからです。聖書の言葉をモノ扱い、言い換えれば知識扱いしていると、傷を負うかもしれません。あるいは神様に傷を負わせることもあります。生きておられる方の言葉ですから、例えば、今私が話している言葉の取り扱いも、モノ扱いされると傷つくと言えばわかりよいでしょうか。へ、それはおんしが言いゆうことや…という態度とまでは言わずとも、言葉の取り扱いは、その人に対する態度と同じですから、軽んじられたら嫌な気持ちになる。皆さんも同様の体験がないでしょうか。言葉を聴く、聴かん、あるいは理解する、せんというのは、言葉だけ、知識だけの問題ではない。言葉に向き合うというのは、それを語る相手の人格に向き合うことと同じです。詳しくは次週説き明かします。

さて、こういう話し方をしていますのは、先にも言いましたように、私自身の通ってきた体験を振り返りつつ、私自身、どうやって御霊の剣を手に取ってきたかをたどりながら、御霊の剣について説き明かしているからです。ですので、生々しい話もあると思います。御霊の剣をどう用いるかは、それが私たちの具体的で生々しい生活に直接関わってくるからです。直接で具体的な話をせざったら、言わば家電製品の取扱説明書みたいなもんで、別に読まいでも使えたらえいがやおう、大体わかっちゅうき大丈夫ちやと、結局自分なりのやり方で、人生をも取り扱うということがあるかも知れません。本当に困った時だけ取扱説明書を開くのは、極道な高知の人だけではないでしょう(笑)。でも、人生を自分のモノだと思っていると、あるいは思ってなくても、結果そういう人生を送ってしまっていると、人生とは神様と一緒に生きる愛の生活であるということが、頭だけの知識になりやすい。そしてその知識とは別のところで、具体的な生活が営まれ、本当に困った時だけ…という家電製品とその取扱説明書のような関係に陥ってしまうかもしれません。

神様と一緒に歩んでいく共同生活としての生活、信仰生活、愛の信頼関係を、自分なりにやってみるっていうのは、聖書によって語りかけ、導きを与えて下さっている神様に対して無礼なだけでなく、危険です。それが御霊のとしての聖書でもあります。仕事で刑務所に行きましたら、廊下にズラッと防災の安全ヘルメットが並んであります。どうして並んでいるか。言わずもがな。地震がくるからです。じゃあ、どうして御霊の剣が、ここにあるのか。闘う必要があるからです。大根切るわけではありません。愛する家族、知人、隣人を切るのでもない。むしろ、守るためです。聖書なんか取扱説明書みたいにどっか置いとけ、わかるろう、自分の人生の使い方ぐらい、お金の使い方も、時間の使い方も、言葉も使い方も、わかるのに読む必要らあない、困ったら読めえという悪魔の策略と、闘うための剣が、ここにある!そうして聖書が存在していること自体!が、私たちが危険であること、そしてそれを切り抜けるために聖書が与えられていることの雄弁な証拠です。その御言葉が命じるのです。御霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい!

今、人生の使い方、お金の使い方、時間の使い方、言葉の使い方、と敢えて言いました。神様と共に歩む人生において、本来それらは捧げると言ったほうが適切でしょう。人生を捧げ、お金を捧げ、時間を捧げ、言葉を捧げる。これらを、子供のために親が捧げているのを考えたら、納得できると思います。あるいはそれも、関係をどう見るか、どう大切にしているかによって生まれるニュアンスの違いかもしれません。子供にお金を使う。ん~まあ間違いではないかもしれませんが…捧げるのほうが、大切にしている感じが私はします。感性、センスの違いかもしれませんが、例えば献金のお祈りの時に、ただいま支払いました献金を、とは祈らんでしょう(笑)。会費じゃないんですから。でももし教会にはお世話になっちゅうき、というセンス、感覚で教会生活をしていると、そういう言葉になるかもしれません。捧げるというのは、自分を後回しにしても、犠牲にしてもよいから、あなたを大切にするという言葉だと思います。愛の言葉だと思います。教会は愛の言葉を語るのです。

そうした具体的な言葉の用い方を教えるのが聖書です。そしてそれは単なる言葉遣いのhow toではなく、神様の前で言葉を語るとは、どういうことかを教えるのです。言葉を「捧げる」と余り言い慣れない表現をしましたが、賛美は捧げるでしょう。語る言葉すべてを、賛美の言葉、神様を褒め称える言葉として、神様の御前で語り、捧げる。いつでも、どこでも、私たちと共におられる神様の御前で言葉を語るなら、それはやっぱり捧げるのです。神様の御前、ラテン語でコラム・デオでの言葉の用い方を聖書は教えます。そして、それが教会の言葉をつくります。私たちの言葉が福音に根ざした言葉、慰めの言葉になっているか。それとも自分勝手で自己責任で裁きの言葉になっていないか。生々しい話になりますが、人は言葉によって、あ、そうかって神様に導かれ、神様と出会ったり、逆に、言葉につまずいて教会から遠のき、神様から遠のくということが起こります。そんな恐ろしい程に大切な言葉を、自分なりに家電製品をいじくるように使えたらえいとは、やはり言えません。だから、自らも人をも守る御霊の剣、聖書の語り口を身に着けるのです。

またお金も、やはり捧げる。このことも御霊の剣によって身に着けるより他ないんじゃないでしょうか。具体的な話をしますが、税金だって神様に捧げるのです。イエス様ご自身、人をつまずかせんために税金を納めなさいとおっしゃった御言葉もあります。そうか、つまずかせんというのが御心かと、御霊の剣によって答えを得て、地にも御心がなりますようにと、御心のなるため、神様のため、神様を大切にするが故に、神様に捧げる。献金だけが捧げるお金で、後は自分のという考えもないでしょう。それだと感謝と献身の徴として献金をお捧げしますと祈れなくなります。御言葉が「あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」(コリント一4:7)と私たちの心に語りかける時、それは確かに私たちの信仰告白で「聖書は…信仰と生活との誤りのない基準であります」と告白する通りに、献金という信仰生活の基準だけでなく、お金に対する態度そのものの基準となるのです。無論、人のものを捧げることはできません。それしたら泥棒ですから(笑)、自分のものなんですが、それを自分の自分のって固執せんですむようになるのも、自分自分の鎖とかせに繋がれていた心に、御霊の剣が振り下ろされて、ジャキンと鎖から切り離されるとき、いただいた感謝のしるしとして、捧げます!って、献金が嬉しくなるのでしょう。

時間も捧げます。誰と時間を過ごすかと言い直したほうがわかりよいでしょうか。そら好きな人と過ごしたいのです。恋愛や結婚や子育てや仕事や、色んな事がそこで問われると言ってもよいのです。それを誰のためにしていますか、誰のための時間にしていますかと。その一つ一つに対し具体的な説明をする暇はありません。が、聖書はその全てに対して、具体的な答えを持っています。恋愛も結婚も子育ても仕事もって、何で挙げたかっていうと、私がその全てに対して聖書に答えを求めたのを列挙したからです。いずれも、喜びや悲しみや失望や裏切りや、自分なりにやって取り返しのつかないことをしてしまいやすいという、生々しい闘いがあればこそ、それらを悪魔の策略の犠牲にしないで、神様に祝福されたものとして受けたいと願えばこそ、御霊の剣を取るのです。聖書の答えに聴くのです。何であろうと、自分で持とうとすると失います。でも神様からいただいたものとして、これを受けるとき、その象徴が洗礼を受けるという態度表明、信仰表明ですが、神様から受けたものなら、捧げられます。神様の御前で、捧げられます。世がそれは損だと言っても、自分の中の肉の思いが失いたくないと叫んでも、御霊の剣を高くかざして、神様の答えを求めるところに道は切り開かれるのです。