14/2/16朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章5-8節、申命記15章12-18節 「聖書の教える上下関係」

14/2/16朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章5-8節、申命記15章12-18節

「聖書の教える上下関係」

 

奴隷たち、という言葉は、ちょっとドギツク聴こえるかもしれませんが、手紙が書かれた当時の社会では普通におったのが奴隷たちでした。けれど、人として人格を尊重されないことも一般的であったようです。現代社会での差別にも該当するでしょうか。人種差別も民族差別も未だ世界からなくならず、日本でも差別は相変らずですから、奴隷なんてのは昔の話でなどと悠長なことは言えんでしょう。

ただ、ここで御言葉は差別や人格の話をおもにしておるのではありませんで、どうして奴隷と主人の話をするかいうと、それが教会員の多くにとって具体的な日常生活の場だったからです。無論、礼拝に集まったとき、どうお互いに接するかも、私たちにとって大切なことですから、それは右頁5章19節以下にある。三位一体の聖霊様に満たされて、主の御心が何であるかを知って生きるには、こうだと、まず礼拝するにあたっては、ここに心を留めなさい、ここに御心があると語られた。そして次に具体的な生活の場として夫婦関係が語られ、親子関係、続いて語られるのが奴隷と主人の主従関係、今の日本に当てはめて言うなら、様々な上下関係に該当するかと思います。夫婦に親子に上下関係。いずれもそれぞれ私たちが具体的に苦労するところでしょう。そうよ、まっこと大変ながやきと。その大変なところで、じゃあ神様の御心は何なのかと問うように導くのが、先の右頁5章17節以下の展開です。主の御心が何なのか。具体的な生活のそのところそのところで、主のお考えがあるのです。ここで、こう生きなさい。こう生きるところで、あなたは主から召されている召しに具体的に応えて生きられる。そしてあなたへの御心が満ち、あなたを通してなされる神様の救いのご計画が成就して、教会がキリストの体として具体的に現れ、世界に証を立てる。そのために、私たちの具体的な生活の部分を御言葉は語ります。その一つが日本ではこれに該当するだろうと言いました、様々な上下関係です。

学校での先輩後輩もそうでしょう。親戚づきあいでも色々あります。年齢の上下だけで、ものを頼まれたりする序列があり、ややこしいのは自分より上に立つ者が年若いとき。私みたいなのが先生とか呼ばれる。敬語の使い方、どういう態度をとるか。上下などなければ、どんなに楽かと思いますけど、あるならそこで、どう生きるのが主の御心か。ここで神様はどんな救いのご計画をなそうと、私たちの持っている上下関係において、どう具体的におっしゃるのか。

そこでまず、下の立場、上の人に従わないかん立場の人々に対して、こう語られる。キリストに従うように、恐れ戦き、真心をこめて、肉において、この世においては上に置かれておる者に従いなさい。

恐れ戦いてというのも、ちょっとドギツク聞こえる表現でしょうか。何かビクビクしゆうイメージを想像するかもしれませんが、これは使徒パウロが好む言い回しと言いますか、私であれば、キリストに襟を正すとか、ここが急所ですとか、よう言います。それに似て、恐れ戦いてというのは、ビクビクするんじゃなく、神様の御前にひれ伏す態度です。これは人間のことだけで済むような話じゃなく、神様の御前でなすことだから、その神様にどうお従いすればよいのか、どうしたら主の御名を汚さず、御心を敬い、御名を崇めることになるのか、真剣に、襟を正して、主に向き合っている姿勢のことを、御言葉は、恐れ戦いてと言う。

ですから、自分の上に立つ人の言うことを、はい言うて聞きながら、けれど何よりそこで意識しているのは、その人の後ろに、主がおられ、主に襟を正しているというイメージです。敢えて言うなら皆さんが説教を聴かれます時に、襟を正して聴くのは何故かと考えればすぐにおわかりになると思います。説教者である私の後ろに、主を見ておられるからでしょう。これもまた上下関係に含まれ得るのかもしれませんが、今日の御言葉が語るのは、礼拝後の具体的生き方です。嫌ないわゆるお説教を聞かされたり、上からものを言われたりするときに、これは礼拝説教じゃないがやき、黙って聞くことらあてできん、神様とこれとは関係がない!…とは言えんだろうと御言葉は語るのです。何故なら、そこにもキリストは私たちの主として共におられて、例えば、嫌な上司に、なお従うことで、わたしに従いなさい、わたしの心は、あなたがなおここで従うことによって、しかも良い態度で従うことで、わたしの証を立てることだとキリストがおっしゃる。そのキリストに対する畏れをもって、恐れ戦いて襟を正して、主が、そうおっしゃいますからと、キリストの故にその人に仕えることが、主の御心であると言われるのです。

とすると、この従いなさいという主の御心は、ひょっと従うと聞いてイメージされるような、消極的で、仕方ないから嫌々言うことを聞くというイメージとは、正反対な生き方だとおわかりになるかと思います。随分積極的な生き方です。言わば、自分は下に立つんだと、自ら下に立つ積極的な態度。無論、当時の奴隷にしても、今の上下関係にしても、自分で選んで下の立場におるということは少ないと思います。でもそこで御言葉は、そのものの見方は、神様を抜きにして見やせんかと問うのです。今ここに立っているのは、神様の救いのご計画のもとで立っているのだと、積極的にキリストと共に立ってよい。主がそこで共におられて、その立場を認め受け入れ、奴隷であろうと惨めであろうと、その働きには大切な意味があるのだと、それは神様の救いのご計画にお仕えする働きであるのだと、人の下に立って仕える立場は、言わば使徒たちが立っていた立場と同じほど聖なる立場だとされるのです。私が今立って皆さんに御言葉を取り次いでいるこの立場も、あるいは小言やお説教をされながら人の下で仕える立場も、聖なる神様の前では同じ、キリストにお仕えするという、救いに仕える立場だからです。

少し前、シスター渡辺が書かれた『置かれた場所で咲きなさい』という本がベストセラーになりました。あれも神様に召された場所のこと、一人一人の召命と生き方を問うたのでしょう。シスターの別の言葉で、この世に雑用などありません。全ては神様の前で心をこめてなすべき、聖なる御用です。でもどんな尊い御用であっても雑にやるなら雑用になりますと言われた。シスターもまた、恐れ戦きを知っている人であり、私たちも皆、この場所に、神様の御前に、召され置かれているのです。

こういう言い方もできるでしょう。奴隷と主人の立場は、御言葉で肉によると言われます。言い換えれば、それはこの世だけのことで、あなたは、この世だけで言えば奴隷だが、けれど、もうそういう見方はしなくてよいと言うのです。教会で馴染んだ言葉で言い換えれば、あなたは自ら神様にお仕えするとして、この世では上の立場にいる人に積極的にお仕えしなさいと。人によっては僕も奴隷も同じことじゃないかと思われるでしょうけど、教会では市民権を得た積極的な言葉です。私たちが人に従うとき、自分をどちらだと見るのでしょうか。奴隷の立場か、それとも僕の立場か。これは単なる積極的思考とは違います。キリストに従う僕として恐れ戦き、襟を正して自分を見るのと、自分だけ積極的に自分を見るのとでは、永遠の違いがそこにあります。

今日の御言葉で、恐れ戦きという態度に続いて、真心を込めてと言われます。定まった一つの心でとも言い直せる言葉です。私たちは、上の人の言うことを聞くのであっても、その人の前に立ちながら、一つの定まった心の場所をもっている。それがキリストの御前です。いつもそこに心が定まっている。ラテン語で言われる昔からの教会用語でコラム・デオ、神の御前でという言葉を身に着けても良いかと思います。どこにおっても、どんなときでも、コラム・デオ。神様の御前にいる。コラム・デオが身に着くとシスター渡辺のようになれます。雑な人でなくなり、雑な物言いをせんなり、雑な働きをせんなるのは、自己啓発なんかではなくて、コラム・デオ、神様の御前にいつも心を定め生きようとする、僕の態度が身に付くからです。

それが7節で言われます、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさいという御言葉の秘訣でもあります。シスターも、人に微笑みを忘れないようにと言いますが、そうだなあと思いながら、中々できん。つい、反感や敵対感情を抱く相手に、はい、喜んで、なんて言えないというのも、また共感できることじゃないかと思います。人に対しては、そうなのです。神様が人となられて死んで下さらんかったら救われん、赦される他に救われようのない私たちですから、無条件で人に喜んで仕えるというのは、どだい無理な話だというのが御言葉の前提でもあります。相手が悪いからというのもそうでしょうけど、仕えるほうにも愛がないからです。神様を抜きにして愛せると思うのが、コラム・デオから離れている態度であるとも言えるでしょう。だから、人にではなく主に仕えるように、です。無条件で私たちに仕えて下さり、いのちを捨てて愛して下さったキリストに対してなら、あなたも仕えられるだろうと、主は、私たちが、仕える僕になれるよう、あなたはわたしに仕えなさいと、召して、助けて下さるのです。そこで、主よ、イエス様とお仕えする態度のことを、喜んでと新共同訳は訳しましたが、これは良い意志、良い志を持ってとか、良い態度でとも言える言葉です。キリストに対する態度です。キリストに心の眼差しが向かっていって、キリストの召しを聴く態度がそこに生まれる。そこに祈りが再び始まる。主が十字架で始めて下さった執り成しの祈りが、私たちの心にも宿り、染み込んで、キリストが立たれるその人の前で、私たちがこの世で従うその人のために、キリストと一緒に祈るのです。この人をお救い下さいと。そのために用いて下さいと。キリストが始めて下さり、私たちがそこで継承する救いの執り成し、救いの奉仕は、決して雑用になりません。それは神様が心から喜ばれる聖なる救いの奉仕、聖なる僕の働きです。それが下に立つ立場です。キリストと共に立つのです。神様の御前で立つのです。コラム・デオの僕は報いられます。そこにこそ神様の御心があります。

14/2/9朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章1-4節、申命記4章39-40節 「福音が親子を救う」

14/2/9朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章1-4節、申命記4章39-40節

「福音が親子を救う」

 

子育てという言葉を私たちはよく使います。でも親育てとは、あまり言わんかもしれません。しれませんけど親が親として育てられなくて、どうして子供を育てられるかというのは、皆さん、アーメン、そうだと思われるのではないでしょうか。

別に、子供を育てる、子供を子供をって、育てる対象を子供に限定しなくてもよいのです。親も育てられることがなかったら、子供も育てられません。また逆に、親として親としていうて自意識過剰になっても、子供を親育ての道具にしてしまうことになるでしょう。そもそも子供あっての親であり、子供には親が必要ですから、どっちが先とか、どっち優先とかでなく、コインの両面のような相互関係です。一息で、親子を意識すればよいのです。親子育てをする、と考えたらよいと思います。

よく、子供が産まれ子供中心の生活になったという言い方もします。親になった人の気持ちとしたら、的を射た言葉だろうとも思います。それまで夫婦中心か、他の家族を含めての家族中心か、あるいは仕事中心とか、自分中心とかだったのが、子供中心になる。部屋にキャラクターグッズが幅を利かせ、大人っぽいジャズとか聴いていたのが、童謡や、アニメソングに席巻され、時計の針もカレンダーも子供中心にグルグル回るというのを子供中心と表現するのかと思いますけど、これも、親子中心と言い直したら、それだけでイメージが変わるのかもしれません。子供中心に思える生活イメージを、まず親子中心に置き換えてイメージしてみたらどうでしょう。子供中心というのは、子供が中心でなければならないという脅迫的なイメージに展開したり、親は子供のために自分を犠牲にしなければ親失格だというイメージにすらなるのかもしれませんが、それは、何と言いますか、聖書の教える自己犠牲の愛のイメージに似ているようで違うのです。むしろ今日の御言葉が教える通り、聖書の語る神様の教えは、主を中心とした親子育てであって、無論、主の愛が子育ての模範ですから、親は子供のために十字架を負い死ねる心構えが求められますが、それは子供中心だからではない。中心は、そうした親子関係を育んで下さる、主イエス・キリストです。救い主を中心に、しかし、親子がまるで時計の長針と短針のように、グルグル回っているイメージ。長針が頑張って一周回っている間に、短針はちょびっと進むだけですけれど、進みが遅いようですけれど、刻んでいる時間は同じです。あら、じゃあ私は秒針だわってお母さんもおられるかもしれませんけど、やはり刻むのは同じ時間。不公平だって思うかもしれない。その責任の、一部分は、家族にもあるかもしれませんけど、そこでまず意識すべきは、やはりここ。毎度お馴染みになってくれていると嬉しいですが、5章21節の御言葉です。キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。夫婦が、そして親子が互いに、キリストに襟を正して、まずキリストと向かい合って、キリストから、あなたはその人に仕えなさいと召されている召命を受け入れる。召されているから、互いに仕え合える。それがキリスト中心の家族関係、主にある家族の営みです。

その中心は子供ではない。親でもない。キリストです。しかも主と呼ばれます。こう問うてもよいでしょう。私たちの家族で、誰を主としていますか。問いを間違えませんように。誰が主となっていますか、ではありません。誰かを批判するのではなく、私は、誰を主としているか。誰中心に生活をしているか。いつでもこれが正しい質問です。こう問い直すこともできるでしょう。私はいつも、誰を意識しているか。人の目を意識したり、家族の表情や振る舞いを意識したり、多かれ少なかれ、私たちは誰かを意識して、あるいは自意識過剰になってしまう。そんな私たちがキリストに襟を正して向き合うところ、キリストを中心、主とするところで、歯車は正しく噛み合って、恵みの時間を刻み始めます。消費されて行く時間でなくて、永遠に実が残る確かな時間を、あなたも一緒に刻みなさいと、永遠の主が私たちを招かれるのです。

その永遠に価値ある時間を具体的に刻むところの一つが、子供たちとの時間です。そのために主は、親を育てられます。まず親として召してくださいました。よく子供をつくるという言葉を聴きますが、畏れ多い言葉です。子供は命の主から与えられるのであって、どうせ言うなら、親こそが造られます。そしてそのための愛の教育を、子供以上に必要としています。だって、子供から敬われなければならない存在として召されたのです。畏れ多い召しです。どうして敬われるか。その子の命の主である神様の代理として、子供を育てるよう召されたからです。命の主である神様の、愛の教育をするためでもあります。そうやって愛の社会をつくります。ハーモニーある平和の世界をつくります。イエス様が、平和をつくる人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれると山上の説教でおっしゃった。それはまことに真実です。その平和をつくるため、神様は親をつくられます。その子供たちを神の子として救い育て、主がしつけ諭されるように育て養い、家族で命の主を畏れ敬って生きることで、世界を祝福するためです。主を主とせずに狂ってしまった人間中心、自分中心の世界の時間を、そうやって正しく刻み直していく。それは右の頁で今日の御言葉が展開され始めた16節の具体的展開でもあります。時をよく用いなさい。直訳すると、時を買い戻しなさい、永遠に至る時としての今を買い戻し、今が全てだという悪い時代から、時を買い戻し刻み直しなさい。そのためには、17節、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。親として召された者に対する主の御心はこれです。主がしつけ諭されるように、育てなさい。そのことで三位一体の御霊なる神様、聖霊様に満たされて、永遠の時が、私たちのただ中で、失われ得ぬ時を刻むからです。

そのために神様は親を親として親になるようにつくられます。先週は子供たちに、どうぞ皆さんの親に、イエス様を見せてあげて下さいと、説き明かしをしましたが、その前に先ず、やはり順番としては親が先につくられ、教えられ、育てられる必要があります。やはりグルグルと、短針をリードするように先だって進むのは親です。皆さんも経験があると思いますが、アナログ時計に限りますけど、狂った時間を合わせるのに、短針をまわす人はおりません。長針をグルグル回すと短針もついてくる。神様も親子育てをそうなさいます。主がしつけ諭されるようにという親子育てを、まず知っているのは親です。主が私たちのために何をして下さったか。天の王座から降りられないとは考えず、身を低くして私たちと同じようになられて、仕えて下さった主を知っている。怒りも知っています。主の怒りです。しつけに伴うとも言える怒りです。でもそれを主は十字架で自らに向けて、怒りの責任を自分で引き取られた。自己責任にしてぶつけない怒り。それが主のしつけであることを知るように、そうやってしつけることができるように、主が先ずしつけられる対象は親です。そこで、主のしつけを知っている私たちは、自らにこう問うこともできるのです。私は子供のために死ねるか。幸生、あなたは自分に与えられた子供のため命を投げ出す準備があるか。いつも問われます。そこで以前かわら版でも紹介した八木重吉の詩を私は思い出します。「もも子よ おまえがぐずってしかたないとき わたしはおまえに げんこつをくれる だが 桃子 お父さんの命が要るときがあったら いつでもおまえにあげる」。

これが単なる精神論だけにならんためには、具体的な指針も必要だと思います。言わずもがなではありますが、まず子供のために祈る。その中に、我が子のために毎日自分に死ねますようにという親子育ての祈りも含まれるのだと思います。親の意気込みを高めるのが祈りではありませんので、祈りの中心から自分を退け、キリストに対する畏れをもって恵みの父にお願いをする。子供の信仰、洗礼、主の僕として育てる召しについてなど、子供の召しについて祈りつつ、子供をキリストの御前に置くのです。親の思いを押し付けたり、子のために死ぬ思いとかを押し付けなくてよくなるよう祈る。キリストがもう死んで下さったのです。主から召された子供のために、召された親として執り成すのです。

そして正義と憐れみの両方が成り立つしつけ、主の十字架のしつけを行うためには、イエス様がそうなさったように、感情的にでなく、明確な意思決定として、私は親として子のために死にますと、神様の召しに応えることです。親子はこうあるべきとかっていう自己実現とか、自分の意志が一番になると中心が狂って、色々狂います。だからイエス様が十字架に架かる前夜、ゲツセマネの園で、自分の思いではなく、自分の意志ではなくと、ただただ救い主としての召しに応えて立ち上がられたようにでないと、親としての十字架は負えんのじゃないでしょうか。主がしつけ諭されるように育てるために、主と共に祈り、主と共に立ち上がる。そこに親としての御心実現がなされます。自分に振り回されないように、あるいは感情的にならんよう、自制する、セルフコントロールすること。それが具体的に主のしつけを行うことに繋がります。カッとなるときや、つい声を荒げたとき、そこでこそキリストに襟を正して、祈って、罪深い自分を負って頂き、主から託された十字架を負って自分に死に、我が子に仕えられる主の弟子として用いて頂く。口では簡単に言いますが、実際は実践でやるしかありません。十字架の主のしつけは毎回が実地訓練であり本番です。親子育ては毎回がそう。今、御言葉にアーメンと思っても、礼拝後すぐカーンってゴングが鳴るかもしれない(笑)。でもそこで主が共におられて、育ててくださる。頼りない親子であればこそ、自分に頼ったりせんのです。主に信頼し、召しに応える。

最後に、しつけが訓練全般を言うなら、諭すというのは、言葉で論理立てて教える教育です。何が正しくて何が間違って叱られたのか。感情でなく言葉で諭し、わからせる必要があります。わからん子の自己責任にしない。自分がわかっているか親も主に諭されます。愛でないから、罪だからと。そしてキリストの赦しを諭すのです。親子共々、主の福音によって諭されるところで、御言葉の養いを共に受け、神の家族として成長します。世界はそうやって世の光、キリストの救いを知るのです。

14/2/2朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章1-4節、申命記5章16節 「正しい親子の育て方」

14/2/2朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章1-4節、申命記5章16節

「正しい親子の育て方」

 

子供たちに、そして父親たち、むしろ両親に対する、とても具体的な御言葉が語られました、すぐそのところで、子と親の両方が、共にこの御言葉のもとにあるという右の頁、5章21節の御言葉を改めて聴くのが良いと思います。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」互いに、とは、ここでは子が親に、そして親が子に対し、両者ともキリストに対する畏れをもって、キリストに向かって襟を正して、その御前で、子は親に、親は子に互いに仕え合う。そのそれぞれの立場での仕え方はこうですと、具体的に教えておりますのが今日の御言葉です。

でもともすると、子には、従いなさいと言われているのに、親に対しては怒らさんように育てなさいと言われておるのは、あるいは十代の子ではなくっても、何か不公平だと感じられるかもしれません。それは、従うという言葉で浮かぶイメージが、不公平なイメージしか浮かばんからじゃないでしょうか。もう少し丁寧に言います。どちらも相手に仕えるのです。しかもキリストに対する畏れをもって。ただ、子は子としての立場、親は親の立場が神様から与えられておって、それは放棄することのできん責任ですから、もし放棄しても責任は問われますから、子は子としての責任を、親は親の責任を果たすのです。が、不幸なことに、その責任を互いに果たす幸福な家庭のイメージを多くの人々は抱きにくいのも、事実ではないかと思うのです。だから不公平だと、つい思ってしまう。ある意味、無理もないのです。またそこには教会の責任もあるのです。御言葉に従う幸福なイメージを世界に見せる責任が、です。

私も十代の頃は思いました。なぜ親に従わないかんのかと。どうして例えば夜遊びはいかんとか、煙草吸うたらいかんとか。大学らあいかんと俺は俳優になる言うたら反対されて、で、私は高校卒業して家出したいう話を教会HPに載せておりますが、それはともかく、何で自分の思いに従いたいのに、親に従うのか、つまり親を優先するのか、私は家出して家を不幸にするまで、わかりませんでした。母を病気にして納得しました。親を不幸にさせて自分が幸せになるはずがないと。それが大学に行くことにした唯一の理由でしたが、そこには私も親も知らない理由があって、私は行った大学でキリストに出会い、私の救い主と信じ、洗礼を受けて、神の家族になりました。だから従ったほうがいいですよ、と言うよりは、ま、十代の頃の私がそんなん聴いたら、へ、誰が従うかと思いそうなので、そうは言いませんが、むしろ親の皆さんに申します。神様が、親に従うことは正しいと言われるのは、それが親にとって正しいからというような親の自己正当化や自己満足のためでは決してなく、そうやって子供が神様の救いを受けるから正しいのです。その他の幸福があるでしょうか。前にも言いましたが、どんなに地上で、この世ではプラスだ、マイナスじゃなくプラスだ!と思う人生を送っても、全ての人の人生の最後には、その全ての人生が括弧でくくられて、その前に死のマイナスが、グッと引かれる。だから、むしろ先に読みました申命記の約束として語られている幸福や長寿は、神様がくださる永遠の幸福、神様の家族とされて永遠に生きる救いの幸いを証する幸福です。これはこの世で幸せになりたきゃ親に従えというご利益マニュアルでは断じてありません。ついでに申しますと、いわゆるこの世での様々な幸福を得ているキリスト者がおられたら、それはおもに天の父がおられることの証のためです。無論幸いは喜んだらよいのですけど、喜ぶにも他者への配慮は必要ですし、幸せな喜び方というのもあるのです。愛がなければ喜びも虚しい。幸せも虚しい。その虚しさに本当の幸せを、永遠の幸せを吹き込み、注ぎこみ、満たして、溢れさせ、人々への恵みとして分け与えさせてくださるのが、キリストの十字架の愛、神様の愛です。ですから親に従って幸福になるのは、皆そうなってほしいと招いておられる天の父による、神の家族の幸せへの招きなのです。

どうして親に従うのか。そこにしかるべき正しい救いの道が、開かれ見えてくるからです。またその道を親は子供に見えるようにする、そういう責任を持っています。親に従うというイメージが嫌なイメージしか浮かばんというのは、あるいは嫌々従わせられたイメージの蓄積であるのかもしれません。きっと従って良かったっていう良いイメージや記憶だって探したらあるのでしょうけど、回数や印象で負けるのでしょう。じゃあ従って良かったっていう良いイメージを増やす。しかも印象深く増やすのが、主に従って子供を育てる責任の、具体的イメージだと思います。一つには、わかりやすく言えば、褒めるのはやはり大切だと思います。例えば大人の礼拝中、子供ができる範囲で礼拝できたら良いのですし、そのためには主の祈りの暗唱を一緒にするなど時間と労力が必要ですけど、主の祈りを一緒に祈れたら私はすごく嬉しいです。アーメン言うだけで嬉しいです。ましてや天の父が嬉しくないはずはない。幼子が大好きなイエス様なんて、あ、主の祈り祈った、あれわたしが教えた祈りですよと、父に自慢しているかもしれません。そういうイメージ。

そして、そこに天の父のイメージもあるのです。イエス様は弟子たちに、わたしを見たのは、天の父を見たのだと言われました。イエス様はファリサイ派などに見られた権威を押し付ける強権的な権威主義の態度に対してこそ怒られました。天の父の私たちの育て方は、上から目線の上から押し付けるやり方ではありません。むしろイエス様に見られる父の愛は、当時いわゆる罪人と呼ばれた人々への憐れみに現れています。また人々がまるで幼子のように、私に関わって~、癒して~、助けて~いうて怒涛の如く押し寄せて来た、その人々を深く憐れまれ、自ら積極的に関わられた主のイメージに、父の姿はハッキリ現れています。そしてもちろん幼子をわたしのもとに来させなさいと言われた主のイメージも、父のイメージそのものでしょう。私たちが天の父の幼子として生まれ変わって生きるために、キリストは父のもとから遣わされたのです。その父のイメージに親が従い、子供がまるでイエス様や天の父にお従いするような喜びを我が子に教え育てて、嘘~従うって幸せやいかって、何度も何度も喜びが増えたら、イメージは自ずから変わります。無論、それには親が先ず、天の父に従う喜びを御言葉に従うことで養われ、いや~ほんと父に従うって喜びや。自分を捨てたら不幸やと思いよったけど、それ嘘や。父よ、ありがとうございますと、天の父との関係の喜びが増えたら、それを子育てに、そのまま当てはめたら良いのです。

また子供たちも、機会がなくてまだ洗礼を受けてなくても、天の父に愛されていることは間違いない!言われるまでもないですね(笑)。なら自分の親に、お父さん、お母さん、従うって自然なことでねえって、親に見せてあげたら良い。まあ!親の顔が見てみたいってなる(笑)。でも冗談じゃなくて、それが三位一体の神様の救いのご計画であるのです。そこに教えや理論だけでなく、現実に父に従う幸せ、子を育て愛する天の父の喜びが、一番証されるからです。三位一体の神様の計画と言ったのは、そのことで御霊の満たしが教会に与えられ、教会がキリストの体としての栄光を放ち、そこで救いがなることを、この御言葉は5章6章と具体的に語っているからです。この御言葉には、子供たち、あなたたちの出番が、ここに用意されているのです。イエス様に従って親に従って、こう言ったら良い。私を見たのは、イエス様を見たのですと。親にイエス様を見せて下さい。最も小さい者たち、あなたがたの出番です!そして大人も、私たちの出番を精一杯努めます。お互いそうやって仕え合います。そして天の父の愛、キリストの救いを、皆に証するのです。

14/1/26教会設立記念朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章21-33節、創世記2章18-24節 「キリストの体の一肢として」

14/1/26教会設立記念朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章21-33節、創世記2章18-24節

「キリストの体の一肢として」

 

私たちはキリストの体の一部なのです。それは、うんとわかりやすく考えればこういうことです。キリストの体の一部をなしている私たち、高知東教会が、例えばキリストの小指の先に血液を流す血管の部分であったとしたら、これは責任重大な部分として大変重んじられています。だって、私たちが機能不全に陥って、本来なすべき働きができんかったら、その先にある小指は、血が流れて行かんなって死んでしまいます。私たちのせいで、死にかけている他の教会があったら、責任重大です。

さて私たちがキリストの体の実際どの部分かということは、それほど重要ではありません。あるいはその血管の部分が働かんかったら死んでしまう小指こそ、私たちであるかもしれないと考えるなら、途端に近くの教会の働きが気になるかもしれませんし、逆に私たちの働きが近くの教会に多大な影響を及ぼしているのだということを、もっと敏感に感じ取れるようになるかもしれません。例えば名前を出すのは何ですけど、南国教会や高知中央教会に対して、私たちはどういう役割を果たすようキリストから託されているのか。教団に対してはどうか。この役割をどう高知東教会として特に長老会が自覚して、どんな働きを担ってきて、教会員全体に呼びかけ、現在、高知東教会全体として担っているのか。月次長老会報告や4月の教会総会での報告を思い出して頂いたら、あ、そういうことかと、よくおわかりになるのではないかと思います。

私たちがキリストの体の一部、全体に対する一部だというのは、そういうことです。この体には他の部分もあって、その部分とつながっておって、しかも互いに責任を負っているというつながりで、互いにつながっている。そこで何より大切なのは、そのつながりを、では誰が決めたかということです。長老会で決めた覚えはありません。キリストの体のどの部分になろうか、どの部分とつながろうかなどと、私たちが決めることはできません。この体の頭であられるキリストが決められました。私たちがではない。キリストに対する畏れをもって互いに仕え合いなさいという御言葉は、ならばそれぞれの教会が、自分のなりたい自己実現に走っているのか。それともキリストが望まれ、それ故に命じられる、キリストの体実現に向かって献身しているのか。これを自覚させ、自分の正体をハッキリ見させる、鏡のような御言葉だとも言えるでしょう。

今日、私たちは高知東教会設立記念礼拝を捧げております。私たちをご自分のお体の部分として、召し入れ、組み立て、教会として立たせて下さっている頭なるキリストに、改めて襟を正し、私たちは互いに仕え合いますと、キリストに対する畏れをもって礼拝する。それが教会設立記念礼拝に相応しい礼拝態度です。高知東教会に与えられている教会としての責任を、どう自覚するか。やはり明確な自覚は必要です。それは単に感情的に盛り上がるとか、もっと主体的に自覚を持って頑張らねばというのではありません。単に、いかん世の中に流されよった、自分を見失ってぼんやり生きよったと我に返るのが、自覚するということではありません。そこでは自意識は強くなっているでしょうけど、自覚するというのは、単に、ようし私は頑張るぞ、自分を見失わないぞというのでなくて、そこで見い出す自分とは、どういう自分であるのかを御言葉から明確にわきまえ覚えるということです。自分は誰であるのかを明確にわきまえるなら、主体的に自己実現に走っていってしまう教会のおかしさを、御言葉から自覚して避けられるからです。キリストが語られる自分を覚えれば、自分が、ではどう流されて、どれだけ本来の自分の姿から離れて、歪んで、おかしくなって、汚れてしまっているのかをも、覚えわきまえることができます。そして、その自分が、ではどうやって本来の自分の姿へと回復され、立ち返り、悔い改めて戻れるのかをも、本来の自分が誰であるかを、わきまえ直すところで、知るのです。

そこでわきまえる自分とは、キリストと一体とされている自分です。キリスト抜きで考えて自分を見失っていた嘘の自分に、キリストご自身が、違うろう、あなたはわたしと一体じゃか。わたしを無視してのあなたはあなたではない。わたしにとっても、あなた抜きのわたしはわたしではないように。だってわたしたちは一体だと、キリストが言われるのが私たちの自分です。夫が妻を無視して自分はというのがおかしくて、その自分は、じゃあ独身の自分ですか?妻と一体でない自分は嘘の自分だと言われているように、私たちにとっても、キリストを抜きにして、けんど自分としてはなどと言うのは、全くおかしい嘘の自分なのです。結婚して夫と妻が一体となり、一人の人となってしまい、自分とは即ち一体となった相手を含む自分であるように、キリストを救い主と信じて教会で洗礼を受けたら、キリストと一体となる。その体の一部となって一人の人となってしまい、自分とは即ちキリストに結ばれたキリスト者、キリストの体なる教会の教会員である自分以外ではなくなるのです。

無論、私を例に言えば、私がまるで独身のように妻を無視して自分を考え自分の好きなことをし自己実現ばかり求めることは可能でしょう。しませんけど。何故か。それは嘘の自分だからです。あるいはこう考えたほうがわかりよいでしょう。そこで自己実現に走りゆう自分が気づいてない自分の一部、つまり妻が自分の中で傷ついている。自分がです。また相手がどう傷ついて、どう思い、じゃあこのことに対して何をするだろうか、ということをわきまえるなら、嘘の自分は、ごめんなさいと悔い改めて、本当の自分になるために、夫として生きる他ない。同じく教会も嘘の自分を悔い改めて、本当の教会となるために、キリストの体の一部として、自分をわきまえ直して生きる他はありません。でないと相手がいますから、キリストは生きておられますから、聖書が厳粛に語るとおり、自己実現を求める教会は、その結果としての裁きを刈り取ることになります。そして私たちは、そんな実現は求めません。キリストに対する畏れを、御言葉から聴いているからです。キリストは生きておられます。その御体の一部こそ、私たちであるという自覚に、私たちは改めて、今日の教会設立記念礼拝で立ち返るのです。キリストの体の一部でありながら、もっとイメージしやすく言えば、キリストの一部でありながら、もし、キリストの思いを考えず、それ以外の何者かになろうとしておったなら、どうか、お赦しくださいと、キリストに襟を正せばよい。キリストはご自分の一部を無情に切り捨てたりはなさいません。今日の29節で言われるように、かえってキリストが教会になさるのは、我が身を養い、いたわることです。御言葉によって罪から清め救い出されます。私たちがキリストの一部だからです。自分の体をいたわるのは当たり前じゃないか、そうだろうと、キリストがそれほどに教会を自分自身とされ、あなたがたはわたしから切り離せないわたしの一部だ、わたしたちは一体だと言われますから、だから教会は自分が誰であるのかを自覚して、その自分として生きればよいのです。キリストの一部としての真実の自己実現を熱心に求めればよいのです。

そこに、体の他の部分に対して仕えるという私たちの責任も、自分のこととして自覚されます。こう言い換えてもよいのです。例えば他教会への祈りや献金、会の出席、奉仕に関して、何で私がと考えるときに、何でキリストがと考えたら良い。何でキリストがあの教会のため、また何でキリストがこの人のため、自分を犠牲にせないかんのかと考えるなら、何でキリストが私のためにと、問いは自ずから生まれ変わります。そこにキリストの答えだけ残ります。救われて生きて欲しいからです。永遠に神の家族となるために、今の全てがあるからです。

14/1/19朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章25-29節、創世記3章8-9節 「妻のため命を捨てる愛」

14/1/19朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章25-29節、創世記3章8-9節

「妻のため命を捨てる愛」

 

キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように。これが夫たちに神様が要求される自分の妻の愛し方です。そして直ちに申しますけど、この御言葉を私たちは、21節で命じられているように、キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合う態度で聴く必要があります。でないと自己中心に聴きやすい。その愛がないことへの不満や、逆にひょっと自己満足の態度で聴くこともあるかもしれませんが、いずれにしても、キリストに襟を正して向き合って聴くのでなければ、自己中心の態度で、今の状況に御言葉を当てはめて、キリストに対する畏れなき結論になってしまうというのはよくあるでしょう。無論それは独身の人にも当てはまります。先週の妻に対する御言葉と同じで、今日の夫に対する御言葉も、自分には関係ないという人は一人もいません。夫が妻を愛する愛し方は、どんな態度で、どこに向かって、何をゴールに愛するのか。それは、キリストの教会に対する愛によって示されているというのですから、私たちは今ここで何よりもキリストの愛をこそ聴くのです。私たちとキリストのゴールを聴くのです。私たちのためにご自分をお与えになられたキリストの愛を聴きながら、私は関係ないという人はおらんでしょう。まずキリストの愛に、襟を正して向き合うのです。そのときに、すぐ自己中心になりやすい、しかし死んでも自分は自分というこの自分を、じゃあキリストは、どう受けとめて下さっており、それをどうしたらよいとおっしゃっているのかも、よくわかるでしょう。自分とは何かが、十字架のキリストの御前で、わかるのです。

今日の御言葉には、自分という言葉が随分出てきます。のっけから、キリストがご自分をお与えになられたと、キリストの自分からスタートして、じゃあ、あなたの自分はどうなっている?と問われる。そういう問い方だとも言えます。キリストももちろん自分を持っておられます。自分がないわけじゃない。あるから、それを与えることができるし、そのために自分を捨てることもできる。そしてそれは、教会のためにだと言われます。教会のために、ためにと訳された言葉は新約聖書に何回も登場するヒューペルというギリシャ語で、うんちくとしてではなく信仰の大事なキーワードとして覚えて欲しいのですが、~に代わって、~の身代わりとして、という意味の言葉です。十字架のヒューペルと言っても良いかと思います。キリストが私たちのためにご自分を与えられたのは、単なる模範としてとか自分の愛の証明としてではなく、私たちの身代わりに私たちの罪を背負って、身代わりに裁かれ死んで下さったから私たちはその身代わりに罪赦されるという、私たちのため、教会のためです。言い換えれば、キリストが私たちのためにご自分を与えられたというのは、私たちの代表としてのご自分を死に与えられたのであって、他人として個人としてのキリストが立派なことをなさったというのでは断じてありません。有名なコリントの信徒への手紙一13章の愛の讃歌にはこうある。「自分の全財産を人に施しても、また自分の体を焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、一切は無益である」(口語訳)。そこでの施したり渡したりする自分が、身代わりの自分でなかったら、別の御言葉で言えば、その隣人を自分のように、自分として、その人が自分になって、自分がその人になって、自分のように愛するのでなければ、そこには愛したいと思いながらも自分独りでいる自分がいるだけで、それは虚しいというのです。隣人に対する愛のルールがそうであるなら、ましてや妻に対する夫の愛のルール、妻を自分として愛しなさいというのは、本当に自分として愛するのです。二人は一体だからです。むしろ隣人たちとの関係を社会と表現して、全ての社会が生まれる基礎単位が夫婦であることに思いをはせるなら、どうして夫婦が一体であるのか、わかりやすくなると思います。少なくとも神様が世界をスタートされたときの創造の秩序ではそうであり、神様の秩序における夫婦関係の秩序が崩壊するとき、社会が崩壊してきたというのも歴史の証明する事実です。その社会の根源である夫婦たちが、人間関係とは自分自分で歩むのではなく、人と私が一つになって、それが自分となって歩む愛の歩みだと、自分とは、その人と一つになった自分なのだと子供たちに証しし、家族、友人、知人、隣人、社会に仕え証しするとき、キリストの救いの神秘もわかるでしょう。頭より先に心でわかるんじゃないでしょうか。神は愛です。愛がわからんと、神様はわからんし、どうやって生きていけばよいかもわからなくって、苦しい生き方を強いられている私たちのために、しかし、キリストが来て下さって、私たちとなって死んで下さって、あなたは、だからわたしとなって生きなさい、神の子の命に生きればよいと、一つになるために来て下さった。そして、夫に命ずるのです。この愛以外に、妻を救えるか。家族を救えるか。この愛を証しして生きて死ぬため、わたしについて来なさいと、キリストは命じて下さるのです。

夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。そして、それにはゴールがあるのだと、こう続きます。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやその類のものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体として妻を愛するのですから、この愛にはゴールがあることを意識して、自分の妻を見る。妻も自分の夫を見る。また教会は、自分たちを栄光に輝く教会としてご自分の前に立たせて下さるキリストを見るのです。教会生活で考えるのがわかりやすいでしょうか。頓挫しそうになるのです。理由は幾らでもつけられるのですけど、結論としてもう自分としては続けることが困難だと結論づけたくなるときがある。夫婦関係も同じでしょう。結婚の愛の眼差しはロマンティックに相手を見るときも、あるいは穏やかに見るのが困難なときも、なら尚のこと、この愛のゴールを見るのでなければ、今の状況を自分に引き寄せて判断し、自分で結論を出したくなる。何を見るにもゴールを見ることが必要ですけど、こと教会と夫婦に関してはそうだと御言葉は強調する。ゴールを見ない近視眼で幾ら目の前の相手や状況を見ようとしても、相手の真実が見えてない。そもそも自分が見えてないから、状況も見誤ってしまうのだと。あなたが、これが自分だと思って見ている自分は、焦点が合ってない目で見ているから、嘘の自分を見ている。しかし焦点をゴールに合わせるなら、あなたは自分も、相手も、正しく見える。キリストがご覧になっておられるように、正しく相手を見ることができると言う。それは既に二週続けて紹介した最後の審判におけるキリストの御言葉とも重なる真理です。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。キリストの御前に立つゴールに焦点が合っておれば、兄弟姉妹が見えるのです。キリストが、その人と一つになって下さって、この人はわたしだとおっしゃる。命がけでおっしゃる。そして夫に対しても、あなたも自分の妻と一つじゃなかったか。そうだろう。あなたの妻であるこの姉妹にしたのは、自分にしたのだ。そしてそれはまたあなたがたの頭となった、わたしにしたのだと主は言われます。ゴールに焦点を合わせる時に、妻が見えるし、自分が見える。自分は妻と一体で自分です。一体の自分でない自分を考え、自分は自分はと思うのは、自分を見損ねているのです。自分とは誰か。キリストが教会を愛し、教会のために、教会の身代わりとなって、教会をご自分と一つとされて、その愛に、ご自分をお与えになった。教会の身代わり、頭、代表として、教会と一つであるのが、わたしキリストだと言われるように、夫は妻を愛し、自分を与える。何故なら、その自分は妻と一つの自分だからです。妻は自分と別の存在ではありません。教会がキリストとは別の存在ではないように、その御体であるように、キリストの体であるように、妻は夫と一体ですから、夫も妻も、自分と言うとき、もはや自分中心の自分ということは、おかしくなってしまう。自分という言葉の持つ意味が、まったく変わってしまうのです。それがゴールに焦点を合わせる時に、見えてくる結婚の神秘です。それは自分という存在が救われる神秘でもあるのです。

昔好きだった歌で、急に俗っぽい話になりますが、関白宣言という歌の最後、夫婦で歳をとって死ぬ時は、こうありたいという歌詞がある。お前のお陰でいい人生だったと俺が言うから、必ず言うから。別にお涙頂戴しようというのじゃなく、ゴールを見ることの大切さを私たち本当は知っているはずだと訴えたいのです。この歌もまた結婚とは一つとなって生きることだと歌い、そこでグッとくる。そうだと思う。無論何もかも宣言通りいくはずもなく、さださん自身、結婚後、関白失脚という歌を作ります。キリストが身代わりになって下さらんかったら、救われない罪人たちであるのですから、思い通りにはいかんのです。お互いに腹が立つこともあれば落ち込むこともある。でもそこで、ゴールを見上げられるのです。心を高くキリストにあげて、だからこそあなたは愛の欠けた私たちのため、その私たちとこそ一つになるために、天から身を投げ出して、また私たちを引き上げても下さるのですと、栄光のゴールに目を留めて、そこから今を見られるのです。教会生活も夫婦生活も、ゴールから今を見る時に、むしろ解決方法が見えてきます。清められる必要が見えてきます。聖なるもの、神様のものとして、聖別されている自分として生きる必要が、自分事として見えてきます。またそこでそう生きてない嘘の自分も見える。教会も夫婦も自分自身も自分のものとして見ている汚れを、だからキリストが御言葉によって清められ、御言葉の語る自分、御言葉の語る夫婦、御言葉の語る教会を見せて下さって、このゴールにわたしが連れて行くから、わたしについてきなさいとおっしゃる、何度も何度でもそうやって召されるキリストに襟を正して向き合うのです。キリストに襟を正して仕え合うところで、聖なる教会また夫婦として歩める。神様の思いを自分たちの生きる目的、ゴールとする聖なる教会また夫婦として、自分を捨てるところで自分を得て生きられるキリストと一つとされた聖なる自分として共に歩んでいけるのです。

14/1/12朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章22-24節、創世記1章27節 「キリストに仕える夫婦」

14/1/12朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章22-24節、創世記1章27節

「キリストに仕える夫婦」

 

主に仕えるように、教会がキリストに仕えるように、と言われるのですから、まず考えないかんのは、これでしょう。私たちは、実際どのように主にお仕えしゆうだろうか。教会がキリストに仕えるようにというのなら、私たちはキリストに実際どのようにお仕えしているだろうか。ここが具体的にイメージできんかったら、妻として、どうしたらよいのか、イメージできなくて困るのじゃないでしょうか。まずここで具体的にしなければなりません。四の五の言わんと仕えよ、というのではないからです。まっこと、そうではありません。まずここで、具体的に自らに問いたいと願います。私たちが、教会としてキリストに仕えている、その仕え方は、どんな仕え方でしょうか。それが妻として召され神様の前に立っている姉妹たちへの模範になるのですから、具体的にイメージする必要がある。態度や嬉しいこと辛いことを含むキリストへの仕え方が自分たちの中で具体的になるときに、これを妻たちの自己責任にしてしまうことはできんなり、むしろ思いを重ねるようになると思います。仕えるって、そんなに簡単なことじゃないもねえと、姉妹たちへの慰めや励まし、感謝の言葉をも語り得るのではないでしょうか。

けんど私は洗礼を受けてないき、主に仕えるイメージができんとか、あるいは洗礼は受けたけど、まだまだ未熟でと恐縮されるなら、信仰の先輩として先に歩んでいる兄弟姉妹たちが、既に教会としてキリストにお仕えしている姿を思い浮かべればよいのです。この教会がキリストにお仕えしゆう具体的姿が一つも浮かばんということはないでしょう。この教会の兄弟姉妹がキリストにお仕えしゆう姿、それが妻たちに対する奉仕になっちゅうとも言えるのです。私は妻じゃないから今日の御言葉は関係ないという人は一人もいません。今日の御言葉が流れ出た21節の御言葉にも、それは含まれています。キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさいと命じられるところで、私たちは妻として召された姉妹たちに仕えます。それ抜きで仕えなさいと言うのは論外です。

あるいはキリストは見えないから、キリストに仕えると言われても、ピンとこないというのであれば、先週もお伝えしたキリストの御言葉を聴くのが良いと思います。終りの日、全ての人が裁きの座の前に集められる時、キリストが私たちにこうおっしゃる。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。キリストは見えなくても、キリストにお仕えをする、その愛は見える。そのことは、どうかしっかり見ておって欲しいと語られた御言葉です。最も小さい人とは、社会的に弱くされ見下されている人々であるとよく言われますし、それも間違いではないでしょうけど、それと共にもし誰か私たちが何でこの人に仕えないかんのかと思う誰かがいるなら、その人も十分小さく、軽く扱われていないでしょうか。でもキリストがおっしゃいますには、その小さい人はわたしだ、そしてこの人に仕えてくれたのは、わたしに仕えてくれたのだ、よく仕えてくれたとおっしゃるのです。誤解されぬよう申しておきますが、私は妻から軽く扱われているということは一切申しておりません(笑)。また同時に、自分は小さい人ではないとも申しません。自分から見たら、どうしようもない罪人で、ちっぽけな男だと思います。でもそれは自分で決めることではないし、人から決められることでもありません。誰かが仕えるに価するかしないかを、人間が決めることはできません。価しないと思われる人にこそ、キリストはご自身を重ねられ、その人にしてくれたのはわたしにしてくれたのだと喜ばれる。その人のためにキリストがまずご自分の命を捧げられ、罪の償いとして身代わりに死んで下さったほどに、キリストが、その人に仕えられたからです。わたしはこの人にいのちを捧げたから、その人にしてくれるのは、わたしにしてくれるのだ、わかるだろうと、キリストは愛の論理で私たちに向き合われます。だから私たちも救われ得るし、この愛の理屈に説得されて、仕える僕にも変えられるのです。

主に仕えるように、教会がキリストに仕えるようにというのは、実にこのキリストの愛の業、救いの御業を仰ぎつつ、そのあなたの御業が、あなたの御心がなりますように、そのために私はあなたにお仕えいたします、あなたの愛される人々にお仕えしますと、救い主なるキリストにお仕えすることです。それが23節で具体的に説明されています、教会がキリストにお仕えする理由でもあります。ただ漠然とキリストにというのでなく、私たちを救って下さる方としてのキリストに、救い主であるキリストにお仕えしますと、教会はキリストにお仕えしているのですから、例えば、この後トラクトを配りに行って、近くの隣人にキリストの救いの知らせを届けに行く。そこにキリストの御心に仕え、そのことでキリストにお仕えする具体的姿が見える。またご自分のボックスや受付にあるトラクトを、各自お家に帰られて家族や知人にお渡しするとき、そこに主にお仕えする具体的姿があるのです。無論、この礼拝もそう。毎回の礼拝が伝道礼拝です。毎回の礼拝に新しい人が与えられますようにと祈り、そのために準備するのは当日の礼拝奉仕者だけではないはずです。ここでキリストにお仕えしている。キリストの体として、頭なるキリストの御心をなさせたまえ、あなたの体の一肢とされた私を聖めて御用のために用いて下さいと、献金と一緒に我が身をキリストに献げ、キリストにお仕えし、襟を正して拝むのです。

キリストを自分よりも優先すると言えばわかりよいでしょうか。はたからすれば、何で貴重な日曜日に礼拝に行くろうということかもしれません。無論、暇だから来ているわけじゃないし、カルトのように、礼拝せんと救いを失うとかって強制されているわけでもない。敢えて言うなら好きで来ているのですけど、自分を優先してではない。自分の好きが礼拝に来る理由の頭ではなく、キリストが、わたしのもとに来なさいと私たちを召され求められる、その愛が優先して、その愛に頭を垂れて、はい、あなたが私の頭ですと襟を正して礼拝することが好きなのです。これが自分だって、しっくり来ている。キリストを頭としている私が私であって私はそのように神様に召されているからと、屁理屈ではなく、キリストを頭とし優先するから、礼拝し仕えているのでしょう。

そして、やっとここで、妻たちよと、妻として召された姉妹たちが、キリストに対する畏れをもって、どのように夫に仕えなさいと言われているのか、共に聴くことができると思います。フェミニズム台頭以来のこの50年評判が悪くなった御言葉「夫は妻の頭だから」という理由も、人のことを思わず、神様のことを思い、キリストに対する畏れをもって理解することができるでしょう。また更にはそれがしっくり来て、ここに私は召されましたと、妻としての召しを、ますます理解し納得して、この召しにおいてキリストにお仕えする。そのことで救いの御心がなされ成就し、キリストの救いが起こる。それがこの御言葉のゴールです。

キリストが教会の頭であるように、夫は妻の頭だと言うのですから、夫は25節で命じられるように、妻のため自分を与えて死ななければなりません。キリストが教会にそうなさったようにです。キリストを根拠とする頭ですから、俺を優先しろと偉そうにすることは論外です。無論その夫に向かって、私のために死ねと言うのも論外ですが(笑)、キリストに対する畏れを忘れ、神様のことを思わずに人のことを思ってやる時、そういう態度になりやすいのも事実でしょう。

先週、夫婦関係、人間関係の中で具体的に主に従うためには、21節が具体的にならんといかんと申しました。キリストに対する畏れをもって互いに仕え合う時に、頭である夫は死を覚悟しますし、それに仕える妻もまた、夫がキリストのように死ねるよう、キリストの頭に葬りの香油を注いだ姉妹マリアのように、夫の死の召しに仕えることで、キリストにお仕えするのです。

随分なことを言うと思われるかもしれませんけど、愛とは自分の命をあげてしまうことです。少なくとも、キリストによって私たちが知った愛は、全てに優先されるべき神様が、ご自分よりも私たちの救いを優先されて、私たちの代表として死んでくださって、この私をそのまま受け入れて下さった愛です。無論、だから、そのままで何も変わらなくて、罪深いままでいいということでなく、だから、わたしに従いなさいと、神様の子供として歩む聖なる命に生きるよう、具体的に生き方も態度も考えも、復活の命に変えて下さるのがキリストの愛です。ですから妻が夫を、また夫が妻をそのまま受け入れるのに、自分が死ななければ自分が勝つ他はないでしょうけど、それは相手の言いなりになるということでもありません。夫を教育すると言う上から目線でもありません。教会がキリストを自分の頭とするように、妻が夫を自分の頭として仕えるとは、夫を自分の代表として立てるという意味で優先すると言えばわかりよいでしょうか。私たちの代表として死なれ復活させられたキリストが頭であるように、です。代表には代表としての責任があり、また代表に仕え、支える務めにも、やはり責任があるのです。キリストがキリストとしての責任を全うされるように、教会は教会の責任を全うする。夫は夫の、妻は妻の、神様から召され、与えられている責任を、その責任の内容は違えども、責任全うに互いに務める。どの務めも責任も容易ではないですし、また容易ではないことを主がご存じであればこそ、互いに仕え合いなさい、キリストに対する畏れをもってだ、そのことでわたしは救いの業を行うと、主は、夫婦がそのように仕え合うことで、教会をご自身の体として建て上げて、救いを完成されるのです。

妻も夫も、互いに責任は違えども、キリストと教会がそうであるように、一つとなって、御業に仕えます。頭と体は別々ではない。一体です。先に言いましたように、いやいや私はまだ未熟ですからと思う教会員もキリストと一つに結ばれた、キリストの体の一肢です。成熟をしていくのです。夫婦も。その道は、キリストに対する畏れをもって互いに仕え合うことで、キリストにお仕えすることです。相手がまだ救われてないのなら、尚のことキリストの御心は、そこで救いをなされることです。その御心を信じ、お仕えして、教会は救い主の体として歩むのです。

14/1/5朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章21節、詩編33篇 「キリストに仕える新年」

14/1/5朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章21節、詩編33篇

「キリストに仕える新年」

 

クリスマスの期間しばらく離れておりましたエフェソ書に再び戻って御言葉を聴いてまいります。間が開いたので少し記憶を呼び起こしますと、今読みました御言葉は、その前の18節の途中「むしろ霊に、聖霊様に満たされなさい」を具体化したものです。19節以下①語り合い②主に向かって心からほめ歌い③神様に感謝しなさいとあるのも聖霊様に満たされるとは、こうやって満たされるのだと具体化した指針で、最後に④キリストに対する畏れをもって互いに仕え合いなさいと続きます。なら互いに仕えるとはどういうことか、誰に仕えるのかとキョロキョロせんように、丸々一頁に渡る身近な人間関係に目を向けさせ、ここで互いに仕え合いなさいと言うのです。キリスト者の生活が、キリスト者らしく営まれるための急所が、ここにあるとも言えます。聖霊様に満たされるとは、わかりやすく言えば、キリスト者らしく生きるということです。それは無論、礼拝から、神様との関係また教会との関係から始まって、夫婦、親子、また現代で言えば様々な上下関係を伴う身近な人間関係においてキリストの僕として仕える。それが聖霊様に満たされ、導かれ、指導され、成長させられて生きるキリスト者、またキリストの体としての教会の毎日の歩みです。この一年も、ここでわたしについてきなさいと導かれる主に応えて、私たちは歩みを進めていきます。

その私たちを導かれる主のお姿が、仕える姿、僕の姿、私たちの救いのために仕える僕の姿です。そこにキリスト者らしさもあります。主がご自分を捨てて、仕えて下さったように、私たちも自分を捨てるところで、互いに仕え合うのですけど、自分を捨てることの何と難しことかと思い知るところで、襟を正す。キリストに対する畏れをもって互いに仕え合いなさいとは、何よりもまず、キリストに対して襟を正すことから始まります。畏れの態度が求められます。キリストに襟を正していないところで、よし仕えるぞ!と意気込んでも、自己実現で終わりやすい。自分の目指すキリスト者らしさや奉仕のイメージを満たすことが目的になると、自己満足にズレますから、ああ満たされたと感じても、それは聖霊様に満たされてはないのです。聖霊様に満たされている態度というのがあるのです。それがキリストに対する畏れです。無論それは、自分は駄目だ駄目だと常に落ち込んでいる自己不満の態度でもありません。自分のイメージどおりであろうとなかろうと、キリストが、これをして仕えて欲しいと求められる生活に、はい主よと襟を正して応える態度。それがキリストに対する畏れです。自分が駄目か満足するかは二の次でキリストに、はい主よと応えるかどうか。応えられたかどうかの判断もキリストに委ねて、私は主ではなく僕ですと、主に対して襟を正す。

え、じゃあ自分は?という自意識から自由にされた態度、あるいはそれが問題になってない時の態度が畏れとも言えるでしょうか。私がそれを特に襟を正して思うのは、私が親として、また夫として、また牧師として、子供を、妻を、そして皆さんを、私は自分の願うようには守れないのだと自覚するときです。いつ失うかわかりません。決して失いたくはなくてもです。皆さんもご存じかも知れません岩淵まことさんというクリスチャンシンガーの曲で父の涙という歌があります。ご自身の小学一年生の長女を病で失ったとき作られた歌ですが、ご長女が検査のため太い注射を打たれてギャーと泣いている声を聴かれたとき、岩淵さんはイエス様が十字架で、ご自分の罪の身代わりとなって受けてくださった苦しみや痛みを初めて実感されたそうです。私はその証を改めて読んで私事として感じました。仮にお父さんが守っちゃうきと約束したところで、守れんのです。意気込みはわかります。ベストを尽くすのは当然です。でもそのベストをさえ毎日の生活で尽くしているのか。尽くして、これかというのなら、正しい言い方は守る努力をするでしょう。映画や漫画の世界の自分を信じる強い言葉よりずっと頼りない言葉です。なぜ頼りないかと言うと、頼れないからです。私たちは守り神や救い主にはなれんからです。愛する家族に対してさえも。だからこう言うのです。イエス様が救って下さるから、一緒に信じようと。そこには無論、自分の強い思いもあります。でも自分はそこで中心にいません。襟を正してすがっています。イエス様、お救い下さいと、すがっています。畏れがあります。イエス様じゃなかったら救えんがですと、イエス様に対して畏れをもって向き合いながら、家族に、愛する人々に、主の愛を自分事として証しする主の僕として、謙遜に、しかし信じて仕えるだけです。そこでは自分の満足や不満より、キリストに対する畏れがあります。そしてその態度が自分にとって、しっくりくる時、仕える態度は成長し、僕として成長するのです。

このキリストへの畏れは、私たちが互いに仕え合うとき、どうしても欠かせない急所です。これを欠いたら僕になり損ねて逆に人を傷つけ、キリスト者らしく生きられないから、ここだ、ここに生きる時、あなたは聖霊様に満たされてキリスト者らしく生きられる。またキリストらしいキリストの体、教会を具体的に建て上げられるからと、実は、うんと具体的に語られた御言葉です。次の22節から具体化するのでなく、ここが具体化してないと、後の生活がキリスト者らしくなれない。キリストへの畏れが具体化すると、自分も自分の生活も、全て具体化し、リアルになるとさえ言える程の具体化です。聖書には主を畏れる、神を畏れるという表現が多くありますが、ここだけキリストを畏れると具体化されるのです。それは19節20節で主に向かってと言ったすぐ後で、私たちの主イエス・キリストと、どんどん具体化する流れから続くのですが、それがここで、キリストを畏れと具体化の頂点を迎えます。まだ聖書を手書きで写しておった時代、ここだけキリストを畏れと言っているのは変だと思って書き換えたか、つい主を畏れと慣れた表現で写し間違えたか、間違った写しが残っているぐらい、ここでキリストを具体的に畏れることが求められています。それは十字架のキリストに対する畏れがなかったら、自分を捨ててキリストの愛を証しして仕え合うことが不可能だからというのが、キリスト者の具体的現実だからでしょう。十字架を負われて、ご自分を捨てられたキリストが、私たちのただ中で現実化、具体化されるのは、その唯一のお方、キリストを畏れる時だからです。

キリストへの畏れが具体化し、その十字架の苦しみと死による償いが自分事になって、それ故に、私たちの愛する者たちの救いもまた、この十字架のキリストにかかっていると、キリストがご自分を捨てて下さったから、私たちは救われるのだと、キリストに襟を正しておすがりし、十字架の主よ、キリストよ、あなたの救いを現わして下さい、あなたの十字架の愛に生かしめて下さいと、襟を正して、主の愛に生きる。そこにはキリストがおられるのです。全ての人がキリストの裁きの座の前に集められる時、キリストがおっしゃる言葉があります。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。キリストが私たちの愛の業の中心におられると告げる御言葉です。キリストは生きておられます。聖霊様が注がれた私たちの只中で、キリストは十字架の救い主として生きておられます。だからキリストを畏れて仕え合う時、聖霊様に満たされて、キリストの救いが起こるのです。私たちの自分の思いや願いを超えた、自分自分を超えたところで、聖霊様がそうされます。キリストが救って下さいます。そのキリストを畏れ敬い、この一年も、互いに仕え合いながら歩むのです。

14/1/1元旦礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書2章21節 「この名で生きる」

14/1/1元旦礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書2章21節

「この名で生きる」

 

教会の暦では、古くから12月25日をイエス様の降誕日として祝い、その25日を1日目と数えて8日目の1月1日を、主イエスの命名日として祝ってきました。今年はその御言葉を聴くことから始めて、イエス様の恵みに共に生かされたいと願います。

天地を造られた神様が人になられてイエスという名前で呼ばれる。人となられた神様の名前にしては、実は地味な名前だとも言える名です。イエスというのはギリシャ語読みの呼び名で、もとのヘブル語で言えばヨシュア。あのモーセの弟子の名でもあり、ユダヤ人の名前としてはポピュラーな名前です。例えばイエス様のお名前によって祈りますと皆が祈る時、そこにイエスという名の人がきっとおったに違いないのです。それは現在もそうで、米国留学中に南米からの留学生が多かったのですが、ヘスウスという名前の男性がおりました。英語読みだとジーザス。イエスだと聴いて、びっくりしました。結構おるのです。日本人の感覚からすると、お名前はと聞いて、空海です、え、俺も俺も(笑)という感じで、人によってはありがたみが薄れる感じでしょうか。

でもそれが神様の、強い強い思いの現れでもありまして、人となられた神様はそのお名前からして普通の人と同じ、え、あなたが神様?私と名前もけんど同じやかというぐらい、私たちと一つになって生きて死ぬために来られたのです。それがイエスという言わば普通の名前を神様が選ばれた理由でもある。ひょっとイエス様の青年時代に、え、あなたもイエス?えい名前でねえ、イエスって、ということだってあったかもしれません。普通の名前でしたが意味は深いのです。イエスという名は、ヤー・ホセア、主が救ってくださる、主こそ救い、または救い主という意味のお名前です。なら、どんな救いか。そこが急所です。主は救いと言われる救いとは、どんな救いか。それは、人となられた神様が完全に私たちと一つになって、完全に言わば一体化、一心同体となることで、神様が人の身代わりになって罪を負って死ぬから、人はその身代わりによって赦されるという救いです。クリスマスに引き続いて教会が命名日を祝うのは、そういう人となられた神様の救いを祝うのです。それは天の上からの上から目線で罪ある人間を救っちゃおうというのではない。それはイエスという名前によって来られた神様ではない。イエス様は、同じ目線で私たちを慈しみ、愛し抜かれる人となられた方、主は私たちの兄弟となられたとさえ呼ばれる救い主です。苦しみも悲しみも痛みも喜びも、共有し、共感され、涙を流し、一緒に笑って、心から怒ってもくださり、なおその怒りを、ご自分の身に引き受けて下さった救い主がヤー・ホセア、イエス様です。救い主は私たちになられた。

数年前になりますが、清和学園の運動会でしたか、先生が仮装をするという競技があるのですけど、今は定年退職された女性教職がAKB48の仮装をして振付を完全に覚えて踊って生徒から超受けたというのを聴きました。度肝を抜かれると同時に、私は襟を正しました。生徒の目線になるというのは、それを恥だとは思わずに、48じゃなくて、58歳だから58だと、笑いながら生徒のために踊るのか!心を動かされました。愛とは自分を捨てることだと言いますが、それは嫌々しているのではなく、根性でやるというのでもなく、愛とはその人と一つになることなのだと私は襟を正しました。そこに、人となられた神様の愛を思いましたし、そんな素敵な58歳に私もなりたいと思いました。

清和学園の始まりそのものが、自分を捨ててやってきた女性宣教師によるのも、そこで思い出して良いと思います。イエス様の愛に生きる、また生かされるイメージとして、宣教師を思えばわかりよいかとも思います。教師も学生の世界にやってきた宣教師です。私の感動した映画で30年近く前の、ミッションという、やはり自分を捨てる宣教師の映画があります。先に言いましたヘスウスさんが今はようけいらっしゃる南米にイエズス会の宣教師が遣わされるのですが、ジャングルに住む文化も世界も全く違う人々と同じ目線で生きる。当時はまだいわゆる未開人は奴隷にして支配して当然だと主張する奴隷商人や政治家たちに対して、いやこの人たちは神様に愛されている同じ人間ですと、イエス様の愛によって彼らと一緒に生きて、一緒にイエス様を礼拝して、そして一緒に血を流しさえした。やはりイエス様を思い、襟を正しました。

イエス様がその名を受けられたのは、産まれて八日目の割礼を受ける日だったと語られます。割礼は、イエス様が来られて後、洗礼の儀式にとって代わられた救いの儀式ですが、洗礼も割礼も共に罪から救われるという意味を象徴する儀式です。洗礼は罪から自分を洗います。割礼は罪と汚れを自分から切り離す意味で男性の包皮の一部を切除する。血が流れる。人となられた神様も、そうなさったと言うのです。罪なき神の子が、どうして割礼を受けて血を流すのか。私たちがそうするというのならわかります。それで罪がなくなるなら、やらんでしょうか。私の罪で愛する人を傷つけることがなくなるのなら、この罪が切除され、人を傷つけたり憎んだり、愚かな欲望にとりつかれたり嘘をついたり隠したり、もうせんですむようになるのなら。先のミッションという映画にもそうやって自分を傷つけて、罪による心の痛みを取り去りたい、救われたいと願う人が登場しますが、自分を傷つけても、罪から救われはせんのです。赦しは自分では産めんからです。ならばこそ、赦されなければ救われない私たちを救うために、神様が人となられた。ご自分は受ける必要のない割礼を受け、流す必要のない血を流されて、この血はあなたを償うため、あなたを十字架で背負って流す償いの血、罪の赦しの血であると、主はずっと私たちを背負い続けておられたのです。その血も命も死も悲しみも苦しみも喜びも祈りも絶望も信仰も、すべてが私たちのためでした。すべてが人と一つになるため、私たちと完全に一つになられて身代わりとなり、私たちの償いとなるために、神様は人となられて血を流されました。それで人間は救われるのです。神様が私たちの全てを身に負って、この身に一切を背負うから、これであなたは生きられると私たちを救う割礼を受けられて、このお名前を受けられたからです。主が救われる、わたしはイエスだと。

人は皆、この名によって救われます。この名によって生きられます。頂いた赦しと愛と命に、また神様の愛される人々と生きるため、学校に遣わされる宣教師として、家族に遣わされる宣教師として、神様から、あなたはここで生きなさいと、イエス様の名によって遣わされた、そのところ、そのところで、イエス様のお名前を呼んで生きるのです。主は救い、あなたが救って下さいます、イエス様、と、神様の赦し、救い主を信じる信仰に生きられます。この年も主と共に生きていけるのです。