20/5/24復活節第七主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書15章21-32節、詩編22篇1-9節 「自分を救わない救い主」

20/5/24復活節第七主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書15章21-32節、詩編22篇1-9節

「自分を救わない救い主」

キリストが十字架につけられます。その直前、兵士たちは一種の麻酔として、没薬を混ぜたぶどう酒をイエス様に飲ませようとします。くぎを打たれる痛みを少しでも和らげる作用があるのでしょうか。痛いのが怖い私なら、少しでも多く飲ませて欲しいと求めると思います。でも、イエス様は、少しもお受けになりません。天の父が、すべての人の罪の裁きとして与える身代わりの怒りの杯を、すべて飲み干すためにです。

来週のところ、39節で、十字架で死なれたイエス様を見た百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言う場面がありますが、この隊長は、麻酔の入ったお酒をイエス様が飲まれなかったのを見た時、え?と驚いたのじゃないかと思います。何で?と。少しでも痛みを和らげたいと願うのが人間なのに、どうして飲まないのか?他の兵士たちは、どう思ったのでしょう。くじを引いて、イエス様の着ていた服やサンダルを分け合った兵士たちもおりました。笑いながら、くじを引いたのでしょうか。あいつ何で飲まんろうねゃあ。そら王様やきいや、ほら、これは王の着ちょった服ぞと、分け合ったのかもしれません。そのことが記された24節は、段落をわざと下げています。それはこれが先に読みました旧約の詩編22篇の読み終えた先、左頁19節で、キリストが受ける受難として預言されていた御言葉の成就だったからです。

でもそんなこと、兵士たちは知りません。その自分たちの罪を負って苦しむことを選ばれた神様の、すぐ足もとに自分たちがいることも知らんまま、いつも自分たちが行ってきたことを普段通りに行っています。その兵士たちがいる十字架の景色をカシャッと撮った写真を想像してみて下さい。その景色は、私たちの生活を写す景色でもあるでしょうか。例えば今、私たちは十字架の立つ景色の中で、いつものように、十字架の主に礼拝を捧げています。礼拝が終わり各自いつものようにお昼を食べる時も、そこに十字架は立っています。立ってない時はありません。背負われてない時はありません。私たちが、私たちの罪と死を負われた主のもとで、でも、そのことを思わないままに暮らしている時も、主の十字架は常にそこに立って、私たちは私たちを背負われた主のもとに暮らしている。その十字架を、主の犠牲の愛を、私たちが意識していてもいなくても、私たちのもとには、常に主の十字架が立っているのです。その私たちを責めるためでも、ののしるためでもなく、背負うために!背負って、罪から救い出すために!主の十字架は立っています。それが私たちの生活をカシャッと写し撮った、十字架の立つ景色です。なら、その景色の中で営む毎日の生活を、私たちはどのように思い、どのように生きるのか。

救いのため私たちの犠牲となられた主を思って生きる生活、十字架の景色の中で暮らす生活は、犠牲を思わないで生きる生活とは、やはり違ってくると思います。前に特別伝道礼拝に来て頂いた加藤常昭牧師が、こんな話を書いておられます。先生は戦時中に洗礼を受けられまして、その後、広島と長崎に原子爆弾が落ちて大勢の方々が命を落とされて、戦争が終わった。その知らせを聞いた時、自分の命はその方々の犠牲によって助かった、その方々は私の身代わりに死なれたと思われた。当時同じように思われた方々は多くおられたのじゃないでしょうか。そしてこの犠牲によって救われた命は、自分勝手に生きてよい命ではない、という方向性が、生き方に生まれたのではないかと思います。

あるいは加藤先生のようには思わずに、あの死んだ人たちは運が悪かったと思う人も、おられるのかもしれません。どう思うかは人によって千差万別ですから、強制することもできんでしょう。けれど、どう思うか、どう考えるかによって、やはり生き方が違ってくるというのは否定できない、しかも重要なことだと思うのです。

29節では、十字架の立つ景色の中で、ある人々のことが「そこを通りかかった人々は」と言われています。まるでお店の前をふらっと通りかかったような書き方ですが、死刑囚が釘に打たれて吊るされている前をたまたま通りかかり決まってののしるということはありません。すっと通り過ぎていくということです。じっと十字架の前に立ち止まらなかったということです。どうしてイエス様が十字架から降りて自分を救わないのかを、立ち止まって考えないまま、思ったことを言うだけ言って、通り過ぎて行ってしまう。その人は、どこに行くのでしょう。

祭司長たちや律法学者たちも、同様に十字架の前に立ち止まって考えることをしないまま「他人は救ったのに、自分は救えない」と侮辱します。でも、いいじゃないですか。他人が救われたら。誰かが救われるなら報われるじゃないですか。そのために自分は犠牲になるということを、思いもしなかったのでしょうか。祭司の務めは、人々の救いのために、律法で定められた犠牲を捧げて、罪の赦しを執り成すことなのに。その意味を、赦しのためには犠牲が必要だということを、立ち止まって考えたことがなかったのか。律法学者たちも、どうして律法で犠牲が定められているのか、どうして救いには犠牲が必要なのかを教えておったはずです。でもそれがどうしてイエス様が十字架から降りて自分を救わないのかと、結びつかない。自分を救わないのは、救えないからだ、本当は人となられた神の子、キリストではないから、自分を救えないのだと、だから十字架から降りられないのだと、一緒になってののしるのです。十字架から降りて、自分を救ったら、信じてやろうと。

でもイエス様は十字架から降りられませんし、自分を救うこともなさいません。それでは私たちが救われんからです!罪が赦されないからです!それは神様ではないからです!彼らは神様のことも、自分の罪のことも、まったく思い違いをしているのです。自分を救おうと思うのは、いつも他人をも救えない人間が思い、そして実際にやろうとすることです。自分たちを救うために、他人の上に爆弾を落とし、他人を傷つけ、自分が傷つかないために愛する者さえ傷つけて、他人も自分をも救えない。そんな誰をも救えない私たち罪人を、無視されず、見捨てることをなさらないのが、身代わりに死なれて、犠牲となられる神様なのです。そのための痛みを、自分のために和らげようとはされないで、私たちの罪と裁きを薄めることなく飲み干される方。このイエス様を神様として信じることができるのは、この方が、私たちの犠牲となられて十字架にしがみつかれるほど、だからあなたの罪は赦されたと、命を捨てて人を救われる、自分を救わない神様だからです。

このイエス様を思う時、このイエス様を私たちの主として与えられた三位一体の神様に向き合う時、御言葉の冒頭で、主の十字架を担ぐことになったシモンが、どうしてそうなったかもわかります。二人の子供の名前まで知られているように、彼は後に主を信じ、教会で、あのシモンさんかと知られるほど主の弟子となった人です。でも兵士たちに十字架を担がされた時は、たまたま通りかかっただけやに、何で私がと思ったかもしれません。でも後でわかるのです。たまたま通りかかったのでもないし、運が悪かったからでもない。何故、十字架を担がされたのか。十字架の立つ景色のもと、神様の犠牲の一端を担うよう、深い憐れみの内に、選ばれたからです。人の思いでは納得できなくても、人の思いが届かない深い憐れみがあるのです。広島や長崎の人々も、運などという考えでは何もわからない深い憐れみの内に、主の十字架で担われているのです。キリストの犠牲が届かない人などいない。担われていない生活もない。だから十字架の景色の中で、主に従って歩んでいけるのです。