20/5/17復活節第六主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書15章16-20節、イザヤ書42章1-9節 「からかう愚かさの中で」

20/5/17復活節第六主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書15章16-20節、イザヤ書42章1-9節

「からかう愚かさの中で」

この御言葉の前に立って、今回説教の準備をする中で、心に浮かんで離れなかった言葉があります。裸の王様という言葉です。アンデルセンが発表した寓話、言わば譬え話で、人の目を気にする大人たちが、本当は存在しない服を、皆で見えているふりをする。その見えているふり、自分は大丈夫というふりをする愚かさを描いた物語が、ここでイエス様を王様、王様と呼んで、拝むふりをして侮辱する兵士たちと重なって、それが自分とも重なって、思いから離れませんでした。

兵士たちはこう思っていたに違いありません。あれは、本当は王じゃないと。そう思っておったからこそ、侮辱するという言葉が当てはまります。ふりをするのです。ふりをするというのは、それは本当のことをやっているのではない、単にふりをしているだけという、言わば子供の遊びのようなことをやっているのを、ふりと言うのでしょう。それは、わかってやっているのです。これは本当じゃないぞと。でも楽しいからやる。あれは、本当は王じゃないから、王として扱うなんてことは全く意味のないことだけれども、ユダヤ人の王として十字架刑、死刑判決を受けた男を、王としてからかうのは楽しいと思ったようです。そこで、皆じゃなかったかもしれませんけど、そこにいた者たちが、イエス様をバカにして、演じて、ふりをする自分もまた言わばバカになって、他の兵士たちの前で、ふりをして、ユダヤ人の王、万歳!あるいはこの言葉は、クリスマス物語で、天使がマリアを訪れて、おめでとう、マリアと言ったのと同じ言葉です。だから、おめでとう、ユダヤ人の王!とひれ伏し拝むふりをして、いばらの冠をかぶせられた頭を葦の棒でガツンと叩いて、ゲラゲラと笑う。どれだけの兵士たちが一緒になって笑ったのでしょう。俺もやる俺もやると、次々順番にやったのか。おめでとう、ガツン、おめでとう、ガツン、じゃあ俺はと唾を吐きかけ、おめでとう王様と笑う。狂気の沙汰だと思いますけど、人がそうした狂気に容易に飲み込まれやすいのは、先に、イエス様を十字架につけろと叫ぶようになった群衆の狂気にも見られたものです。群集心理とも言われる、飲み込まれてしまいやすい弱さを、どうしても人は持っている。

私自身、弱いなと思います。まあ土佐の男なので、かなり反骨やとも思うのですけど、それが仇となってと言うか、例えば新聞である政治家が叩かれまくっていて、そりゃそうやろう、そんなやり方ではと思えるもんですから、その記事を読みながら、つい上から目線になって悪口を言う時の態度になっていたことに、この御言葉から思わされたのです。どうして私はこの人のために祈ろうと思わんで、一緒になって批判して終わったがやろうと。私はそこで何様になっちょったがやろうと。それこそ裸の王様になっているから、人の上に立つ態度になって批判したりバカにしたりするのじゃないか。本当は、自分が何様でもないと知っているのに。自分は正しいという服なんか着てないことを、本当は知っているのに。自分で自分に、ふりをしているのです。

裸の王様の群衆も、本当は自分がふりをしていることを、服が見えているふりをしゆうことを知っちゅうのです。皆。皆、本当は自分が嘘をついていることを知っている。王様さえ。皆嘘つき。皆、何に飲み込まれてしまって、こんなことになってしまったのか。単なる寓話だ、では終われない話だと思うのです。本当は違うのに、ふりをする話は。この御言葉は、それは侮辱だと告げるのです。

人に対して、ふりをする侮辱。侮辱という漢字は、あなどり、はずかしめるという文字から成ります。ふりをして、でも、それがバレたとき恥ずかしくなるのが自分であることは、おそらく誰もが知っているのではないかと思います。それで、ふりをし続けるということもあるでしょう。今更、取り返しがつかんきと。

私はこの御言葉を読んで、私も、この兵士たちのようにではないとしても、でもどこかイエス様を拝むふり、ひれ伏すふりをしているところはないかという問いが、心をぐるぐる回っていました。形としては礼拝の形を取っていても、人からはちゃんとした先生だと思われていても、でも本当は裸で、まあ皆にも見えているのかもしれませんが(笑)、問題はイエス様です。イエス様に何と思われるのか。あるいは兵士たちから侮辱されても、何も言われなかったように、私たちにも何も言われないのか。何でイエス様はここで黙って侮辱を受け続けられたのか。御言葉を黙想していて、一つの言葉に心が留まりました。兵士たちが、何度もイエス様の頭を叩いた「葦の棒」という言葉。成長すると数メートルにまっすぐ伸びる葦は当時、杖としても用いられていたようです。怪我をした兵士を支える杖として用意されてあったのか。それを王が持つ杖、笏としてイエス様に持たせ、また取り上げて、その葦の棒で頭を叩いたとマタイの福音書では言われます。

そして先に読みました旧約聖書イザヤ書42章の御言葉を思い出しました。それで先週の予告とは違う旧約朗読になりましたが、そこで描かれる主の僕が、預言されていたメシア=キリストです。キリストは傷ついた葦を折ることのない方だと預言されます。傷があったら使えない、杖として役に立たないからと折らない優しさ。役に立つか立たないかで判断しない方だとも言えるでしょう。このキリストが王としての裁き、あるいは正義を与えられることが、同時に強調されるのです。それは見せかけの人間の正しさや、正しいふりなどでなく、そうやって嘘の正義で嘘の神になって人を裁き、生き方を決める裸の王たちを、その裸の王たちの真実の王としてキリストが正しく裁かれるという預言です。

そのキリストを、兵士たちは「王様、万歳」と侮辱し、その優しさを預言した葦の棒で何度も叩きます。本当は王様だと思ってなくて、侮辱しているからです。その侮辱にイエス様が黙って耐えられたのは、虫も殺せないような優しい方だからではありません。その優しさは、彼らと私たち、全ての人間が神様に対して犯す侮辱と罪の暴力を、身代わりに引き受けて、その罪の責任と正義の裁きから私たちを救い出す優しさ、恵みの優しさだからです。そのキリストの裁きが、十字架の恵みによる裁き、罪人を救うための王の裁きであるからです。

どうして、この真実に王であられる方が、嘘の王として侮辱を受けられ、それを黙って受けられたのか。それはここでまさしく、裸の王たちを裁かれる正義の裁きが、十字架の身代わりの裁きが起こっているからです。本当は自分が裸の王であることを知っていながら、正しいふりをして、何様かになって、神様を侮辱するような言葉と思いと行いによって、勝手に王になっている人間こそが聴くべき裁きの言葉を、キリストが代わりに聴かれるのです。お前はふりをしているに過ぎない罪人ではないか、自分を何様だと思っているのかと、最後の審判のとき、本来、誰しもが聴かねばならない裁きの言葉をキリストご自身がお引き受けになった。それはこの方が人間に与えられた唯一の救いの王だからです。傷ついた葦を折ることをなされない、救いの正義の王だからです。

だから私たちが、自分の捧げる礼拝はふりではないのかと思い悩む、傷ついた礼拝、傷だらけの私たちの信仰生活も、それが受け入れられるために私たちに与えられ、私たちを王として導き、救い、治めて下さるキリストの名によって、神様は受け入れてくださるのです。それが神様を神様として信じる傷のない信仰だからです。どんなに傷だらけでも、その傷を負われたキリストを信じて、キリストの名によって献げる礼拝が、十字架の恵みの主の前から、退けられることはないからです。