20/4/26復活節第三主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書14章53-65節、ダニエル書7章13-14節 「自ら有罪になった神様」

20/4/26復活節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書14章53-65節、ダニエル書7章13-14節

「自ら有罪になった神様」

ひどい裁きの場面です。しかもどうやら正式に開かれた裁きではありません。臨時、あるいは非常事態という名目でよくなされる、どさくさに紛れて独断を押し通す、内々の裁きとも言えるでしょうか。

しかも死刑判決を下したからと言って、裁かれている人に唾を吐き、暴力が容認されるような、ひどい裁き。到底、まともな正義の裁きではありません。

私たちも今、そうした自分勝手な裁きを犯しやすい状況に、それぞれ置かれているのかもしれません。報道では感染者の多い地域から来た人への、ほとんど迫害と呼べる内々の裁きが起こっていると言われます。ややもすると、当然だ、この非常事態にと、裁きの感染拡大が起こりやしないか。イエス様への裁きのように、裁く自分は正しいという態度に列島全体が感染しやせんろうかと胃が痛みます。

最初から、相手が悪いと決められている裁き。ひどい裁きですけど、どうしてそんなことになってしまうのか。イエス様が、罪を犯しているように、思えたから。少なくともそう思う自分は正しいと信じて疑わない人には、そう見えたからでしょう。聖書がいくらイエス様は、罪を犯すことのない方、人となられた神様だと言っても、見えている人には、そう見える。だってそうやかと。もし!そう見えている自分のほうが、間違っているのではないかと、自分を疑わない限りは。聖書が証しする神様を疑わず信じることと、信じている自分を疑わないことは全く違います。それは態度からわかるのです。

ここで指導者の立場にあった人たちは、特にイエス様からその指導の仕方も、指導内容も、神様を自己中心に曲解して間違っていると、明確に批判されていました。でも、それで、そうか私が間違っていたとは、ならず、根に持ってしまった。ごめんなさいと自分を悔い改めるより、暴力的に自分を守る。誰もが知る人間の現実を、まるで拡大コピーして貼り付けたような場面で、聖書は、人の行う裁きを映し出します。

まあ、そんな裁きですから、正しいかたを裁くのですが、そのことでむしろ自分のボロが出てくる。これも人間の裁きのコピーでしょう。罪を立証するためには二人ないし三人の証人の証言によって立証されねばならない(申命記19:15)。また「隣人に関して偽証してはならない」と律法で厳しく命じられています。なのに、危うく自分たちが偽証の罪になるような食い違いばかり出る。だから自白させるしかないと思ったのでしょうか。証拠はないけど、相手が間違っているのは確かだと信じていたから。最近も好意をもった刑事さんから自白を求められ、嘘の自白をして有罪となっておった看護助手が、17年も経って再審無罪となったという痛ましい裁きがありました。証拠がないから控訴もない。だから自白を強要したのでしょうけど、自分は正しいと信じて疑わん裁きが、どれだけ人を踏みつけるか、痛みと共にわかる話です。

そんな大祭司の誘導に、まるで自ら引っかかるようにして、自白するようにして、イエス様は自らが神の子メシア、ギリシャ語でキリストであられることを、自ら告白されます。

誘導尋問した大祭司に、好意を持っちょったからか。それ以上です。そこにいたすべての人を、また自分の正しさを信じては罪を犯す私たちすべての人間を、愛されたからです。その罪をまるで奪い取るように、身代わりに十字架で裁かれて死ぬほど。イエス様、誰を愛しているか、わかっていますか、おかしいんじゃないですかと思えるほど、私たちを愛される神様。その神様が、それがわたしだと告白されたのです。

大祭司から「お前はほむべき方の子、キリストなのか」と問われて、そうですと訳された言葉の直訳は「わたしだ」または「わたしはある」という言葉です。旧約で主がモーセに応えて「わたしはある。わたしはあるという者だ」と告白された、聖なるお名前をもって、それがわたしだと言われたのです。わたしはある。あなたと永遠に共にあるために、あなたのために死ぬ神がわたしだと、その神様が来られた世界に、そのまま滅んではならない世界に、ほむべき方の子が言われるのです。

でもその愛も、自白の意味も、お気持ちも、何もかもわからないまま、人々は、救い主に有罪判決を下すだけでなく、唾を吐き、目隠しをして殴りつけ、「言い当てて見ろ」と言い始めた。お前が本当に人として来られた神様、神の子なら、言い当てられるはずだという、勝手なイメージで言うのです。神様なら何でもおわかりだろう。言い当てて、その者を裁くはずだ、復讐するはずだというイメージでしょうか。あるいは人間がやるように、そうやって自分を守り、自分は傷つかないのが神だろうという理解なんでしょうか。こんなにも傷つきに来られた神様に、人は自分を守ろうとする自分のイメージを押し付けて、ほら自分を守れないのは神じゃないと言うのか。

でもそれは聖書が教える、人は神の形に造られたという、その名を愛と呼ばれる神様の形に造られたことを、違うと引っくり返して、自分に合う形に作った情けない神を、つまり自分を信じるだけじゃないのか。本当の親であられる神様も、その世界も、その正しさもぜんぶ引っくり返して、アダムとエバが自分を偽って神のようになったように、神様も愛する人をも裁いては、自分を守ろうとする。それが神様に逆らう人間のずっと繰り返してきたことではなかったのか。

そんな私たちが、もし、本当に神様のように、イエス様をぶっ叩いた人が、間違った神のイメージではあっても、確かに神様なら言い当てることがおできになる、神様はすべてをご存じであるという、本当の神様のように、もし自分に何が起こるのかを言い当てることができたなら、私たち、どうするでしょうか。私ならどうするか、考えました。そして自分が遭いたくない危機を避けると思いました。これ感染する、これは大丈夫と、賢くやるんじゃないか。それは過去に、こんなことになるとわかっちょったら選ばんかったにということが山ほどあったからです。もし、それを予め知っちょったら、やはりその道は避けたと思います。自分を守ったと思います。

でもそんな私たちでも、皆を勝手に私の仲間にしてますが(笑)、でももしそこで自分を守ったら、愛する者を守れなくなる場合には、悩むんじゃないですか。そこで代わりに愛する者を守ったら、自分がとんでもない目に遭うと分かっていても、その杯は飲みたくないと苦しむほどのことに遭うことを、すべてを知っていることの故に、分かっていても、それで愛する者たちを守れるのならと、悩むんじゃないでしょうか。

そして、ほむべき方の子、キリストは選ばれたのです。最後の最後で悩み苦しんで、この杯を取り除けて下さいと、父なる神様に泣きながら祈られて、それでも御心を行なって下さい、父よ、愛する者たちのために、わたしを身代わりに捨てて下さいと立ち上がられて、自分が代わりに裁かれるために、誤解されたまま有罪とされて、有罪である私たちが無罪とされて救われるために、そのために有罪となって死ぬのがわたしだと言われたのです。今も、私たちに向かって、全世界に向かって宣言され続けているのです。わたしは主、あなたの神。十字架の死によってわたしはあなたたちを愛する神だと。そのキリストを信じて、その愛のもとに、十字架のもとに我が身を置いて、だから、私たちも告白するのです。あなたこそ、我が主、我が神ですと。この愛から、私たちを引き離すことは、どんなものにも許されてないから。この方こそが私たちを救われる、その名を愛と呼ばれる全知全能の神様だからです。