20/4/12イースター召天者記念礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書14章32-42節、詩編22篇28-32節 「償いを終えた朝の光」

20/4/12イースター召天者記念礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書14章32-42節、詩編22篇28-32節

「償いを終えた朝の光」

キリストの復活を祝う礼拝の御言葉が、どうして悲しみもだえられたイエス様のところなのかと、違和感を覚えられたかもしれません。私もここでイースター説教するのはどうかと選ぶとき一瞬思いました。でもこれこそ私たちが主によって復活させられる根拠じゃないかと、御言葉から励ましを受けたので、そのままにしました。このように現実的に、人間的に、私たち弱い人間の身代わりとなられて苦しまれたキリストの償いの故に、身代わりの故に、死の門は、復活へと向かって通り抜け、栄光の主と対面するためにそこにある門となったからです。

今朝は召天者記念のイースター礼拝を捧げています。天に召されると書いて召天ですが、このお写真に写っている、天に召された兄弟姉妹たちは、ただ天に召されたのでない。天におられる主と対面するために召されたのです。もうお会いしているのか、復活の時に一緒に目覚めてお会いするのか、天の時間がどうなっているのかわからんので、どうながやろうといつも思うのですが、既にであろうと、一緒にであろうと、主とお会いすることは決まっちゅうのです。そうイエス様が決めて下さって、そのために私たちの罪を償って、それでどんなに苦しんでも、それで完全に罪と死から救い出すと、主が決めて下さったからです。だからもう決まっています。私たちは、私たちのために死んで下さった復活の主とお会いするのです。

復活の恵みは、自然の摂理でも、超自然の摂理でもありません。つまり、そうなっているから、そうなるというものではない。例えば交通違反を犯して、点数が引かれて、ゴールド免許も失っても、無違反で時間が経てば回復して、ゴールドも回復するように復活はしない。

譬えるなら、違反を犯して免許取り上げになったばかりか、その罰金を払うことができない、また牢獄にも入らなければならない罪を犯した人のために、代わりに牢獄に入って罰金も支払い切って、償いを完全に終わらせてくださったイエス様が、わたしが与えるこの免許は決して失われることがないと、永遠の命の免許を手渡してくれる。それが復活の恵みです。自然にそうなるのではなくて、誰かが代わりに苦しむ決断をして、苦しみ悲しんで償いを果たし終えてくれたおかげで、ありがとうございます、ごめんなさい、罪を犯してと、悔い改め、また信じて感謝して、イエス様から受け取ることができる。それが復活の恵みです。

一番大切なことは、神様が代わりに人となって死んで償いを終えなかったら、復活はなかった。でもだからこそ主が、わたしが死ないで誰が死ぬのか、だから死ぬと、死んで下さることを選んで下さった。悲しみもだえながら。それが今朝の御言葉です。

今回この御言葉を読んで、心にズシンときたのは、十字架で天の父に見捨てられる裁きを目前とされた主が、わたしは死ぬばかりに悲しい、ここにおってくれと弟子たちに言われたことです。こういうことは誰にでも言えるわけではないと思います。このペトロ・ヤコブ・ヨハネにはこの苦しみを理解してもらいたいと思われたのでしょうか。

でも理解してくれたらいいというのでもないでしょう。私は人には言わないことを妻に言います。人には言わないというよりは、言えない。重荷になるからと遠慮してしまう。その重荷を、まあ妻には負わしていいのかという話ですけど、負ってくれることを誓った仲だからというのもありますが、ならばこそ自分が苦しくて仕方ないことを、妻には知ってほしい、理解してほしいという思いがあって、話をする。でも、理解してくれたらいいかというと、やはりそうではない。苦しいことを知ってもらった後で、もう一回苦しくて言いに行った時、もし、むしろこれ私が妻に言いそうですが、もし!え、さっき聞いたき、わかっちゅう、もう言わんでかまんき、理解しちゅうきと言われたら、あるいは、こっちも苦しくなるき、わかっちゅうき、もう言わんとってと言われたら、わかってくれてないと思うんじゃないでしょうか。

だから、苦しみを理解してほしいという思いは、この私を受け止めてほしい、苦しんで死にそうな私を支えてほしい、一人ではもう折れてしまいそうだという弱さの訴えだと言えるのではないかと思います。肉は弱いと主が言われたのは、ご自分のことでもあったと思うのです。一人で苦しみを担うことが悲しい弱さの訴えをしながら、人として悲しみを抱えて一人死に向かわれる。結局、理解されず、裏切られ、逃げられ、十字架の上で、天の父からも罪人として捨てられて、父に無視されて、たった一人で罪を抱えて死んでいかれたのが、身代わりの、キリストの死による償いであったからです。完全に見捨てられたから、だからその代わりに、神様は決してあなたを見捨てない。それが、身代わりの救いだからです。

少し前、イタリアのある医師の話を先輩牧師から知りました。もはや命の選択をするしかない病院で、同僚も感染して死んでいく中、人間ができることがもうなくなった病院に、75歳の牧師が感染して運ばれてきた。深刻な呼吸困難があったのに、周囲の死んでいく人たちの手を握って励ましたり、彼らに聖書を読んであげたりしているのを見て、今まで神などいるかと思っていたその医師は、神様を求め、そして今は信じて平安があると、おそらく医師がブログに書いた文章を読みました。その牧師はきっと人々の手を取って、こう言ってたんじゃないでしょうか。大丈夫、イエス様が全部償ってくれたから、復活の恵みを約束して下さったから、見捨てられてないよ、主が共にいる、信じましょうと、一緒に祈って回ったのだと思います。主がいつも共におられて、死ぬ時も、死ぬ時こそ、そして死んだ後こそ共におられて、永遠の命の慰めと平安を与えて下さる赦しの神様。その神様が十字架で罪ゆえの裁きを受けられて、見捨てられて、私たちを赦し、だから見捨てないでいて下さる。

先に牢獄の譬えを話しましたが、私が教誨師で働く刑務所には自分は見捨てられていると思っている人々がおられます。出ても誰も待ってないのです。出ても一人で、苦しくて、悲しくて、だから軽犯罪を犯して帰って来る。ここなら飯が食えて仲間がいると。

でも、償いを終えて出た時に、待ってくれている人がいて、これからずっと一緒に住んで、一緒に生きて、すべて受け止めてくれて、すべてわかちあってくれて、もう絶対に離れない、決して自分を離さない人が笑顔で門のところで待ってくれていたら、救われるのです。

それが復活の主イエス様です。私たちが捨てられることがないようにと捨てられて、裁かれて、償いきって死に切って、刑期を終えて三日目に死人の中から復活させられたイエス様は、天の父にお会いしてきっと大喜びされたろうことを私は思います。きっと父から、我が子よ、よくやったと言われて、イエス様が、はい、これで全て償いは完了しましたから、今度はわたしが、死の門をくぐりぬけてきた子たちに向かって、これがあなたの信じたわたしだと、笑顔で迎える番ですと、言われたんじゃないかと想像します。私たちの罪の償いを、激しい悲しみと共に、すべて償い終えられた救い主として、栄光に満ち満ちられた笑顔で言われたんじゃないかと思うのです。わたしが迎えますと。それが私たちに与えられた救い主です。この救い主のもとに、私たちの将来はあるのです。