20/3/8受難節第二主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書13章32-37節、イザヤ書60章1-3節 「わかるより大事なのは」

20/3/8受難節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書13章32-37節、イザヤ書60章1-3節

「わかるより大事なのは」

ここしばらく、この先の予定が立てにくいなあと思っている方は結構おられると思います。あるいは既に立てていた予定を変更せざるを得ないということが、もう幾つも起こっていると思います。週報にも西日本教会青年同盟の献身修養会の予定変更をお知らせしましたが、もし状況が予想以上に悪化したら、ここに集まることもできんと思います。本当に分からない。もし、この問題がいつ終わるかが分かっていたら、自分たちの立てたい予定を立てられるのに、自分たちの好きにできない。

そしてそれは私たちの人生も同じだというのが今朝の御言葉です。あるいは人の死も同じでしょうか。自分が、また別の人が、いつ死ぬかが分かっていれば、今思っている予定や生き方とは違う行動をきっと取ると思います。分かっていれば。でも、分からなくて、まだ大丈夫だと、行動を先送りにする態度でいることが多いのじゃないでしょうか。それは先の使徒信条の通り、この世界の終わりに、生きている者と死んだ者とが裁かれるため、キリストが帰ってくる時も同じなのです。

ただ、その日その時は、キリストご自身も、分からないとおっしゃいます。それは私たちの代表として人となられた三位一体の御子が、主の僕として徹底して父なる神様に従順であられることの徴です。父の御子であるイエス様さえ分からない。でもだからこそ、あなたがたは、目を覚ましていなさいと命じられます。私たち、皆に。

目を覚まして自分の生き方を見たら、今の考え方や、やりたいことの予定は変更しなければいけないと示されることが、あるのではないかと思います。目を覚ましているとは、その意味で、自分はどう生きるべきかが、態度と生活で分かって、行動するということです。

キリストが帰って来られて、最後の審判で、一人一人、隠れた行いも含めて、全ての行いが裁かれることが、もし分かってなかったら、好きに生きても良いのだという話に、どうしてもなってしまうのでしょう。また、どうせ赦されるからと、キリストの救いを勘違いして、分かってなかったら、取り返しのつかんことになる。その時やっと命の用い方、主から与えられた賜物の使い方が分かっても、もう遅い。34節で、主が「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ」と譬えられたのは、そのことです。私たちには果たすべき責任と、なすべき行いが、めいめい与えられていて、主が帰られた時に、全員それが問われます。最後の37節で言われたように、目覚めていなければならないのは、門番だけでなく、なすべき行いと責任が与えられた全ての僕です。私たちの生き方は必ず問われる。時も宝も人生も、すべては主から頂いた賜物です。主から、わたしが与えた賜物はどうなったと問われる時が来る。その日その時がいつかは分からなくても、その時は来る!と分かって、目覚めて生きる僕となってほしいと、主は心から心配しておっしゃるのです。

その日その時が、いつかは分からなくても、人は皆、命に関わる真実を知る必要がある。デマでも噂でもない真実を。それは今回のことで、皆さんよくお分かりになったと思います。

でも、もっと大事なのは、何故、真実を知りたいかの態度です。態度がおかしいと、知りたいという思いに振り回されて、真実を知っても、その真実に従って果たすべき生き方とは、違う生き方になるからです。

例えば感染者が増えたという報道が連日なされます。真実を知るようにとのことでしょう。でもその数や情報が、何を意味するのか、それによってどんな行動を人が取るかは、人それぞれです。え?と思う行動に走る人もいる。そうした人の弱さ、世の終わりや災害の噂によって人がどう動くかを主はご存じで、この13章が記されたとも言えます。先週の御言葉で言えば、こういうことです。主の御言葉を信頼して生きる者にとって、連日の報道が意味することは、慌てるな、でも自分は大丈夫と油断するな。そして主を信じる者として証しになる行動に徹しなさいということでしょう。人を責めたり悪く言うのではなく、その人のために祈り、愛すること、十字架の主の憐みに生きることに、今こそ集中するということです。特に受難節を迎えた私たちにとって、十字架の憐みを思いつつ今を過ごせること自体に、深い主の憐みを思うのです。

十字架を負われた主の態度、その弟子である僕の態度を失ったら振り回される、ということは本当によくわかる。ウィルスより不安や恐れの感染力の速度が圧倒的に速いのです。デマや噂こそ、あっと言う間に広まって、世界を感染させてしまいます。自己中心、自己防衛、自己欺瞞、自己正当化、自分のためには何でもござれの恐ろしい行動力が、そこで発揮されてしまう。それはその背後に神様より人より自分という罪の力が働いているからだ、と教える御言葉の真実に対しても、私たちは目を覚まして、気を付けている必要があります。私たち自身の内にも、罪という獣が、神様に従いたくない自分が身を潜めていて、隙あらば噛みつかれてしまうということは、きっと誰もが知っているのです。例えば、人は責めるべきでなく、赦すべきであり、愛すべきだということなど、キリスト者なら誰でも分かっていることです。なのに人を責めて、愛に生きられないのは、どうしてなのか。どうしたら十字架の主にお従いし続けることが、できるのか。

だから、主は言われます。あなたがたが、決して分かり得ないことがある。だから、まだ大丈夫と自惚れないで、分かりませんと、謙遜に身を引き締めて、目を覚ましていなさい。分からないのだからと。

裁きの日が来ると分かっているだけでは足らんのです。分かっていて誰もが罪を犯すのです。だからその罪を神様ご自身が償うために、御子が人となられて身代わりに裁かれて死んで下さった。あなたは、これがあなたを救うに足ると信じるかと、説教からであろうと、一人で聖書を読んでいてであろうと、そこで誰もが、主ご自身から問われるのです。あなたはわたしを信じるかと。わたしがあなたを救うに足る裁きと死を負った救い主だと信じるかと。頭で分かるだけではなく、心で、つまり私たちの態度が、そこで神様に向いて、はいと信じるのです。

そのイエス様が「主人が突然帰ってきて、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない」とおっしゃったのです。他の主人など私たち知りません。私が自分の人生の主人だと自分に嘘をついて、だから私の人生は好きに予定を立てて生きるのだとうそぶいても、私たちの主人はこう言われるのです。「主人が突然帰ってきて、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない」。十字架の主は、それを見つけても、責める主人ではありません。けれど、だから好きにせよとおっしゃる嘘の主人でもない。「だから、目を覚ましていなさい」と、私たちのためなら命を捨てても惜しくないほどに、真実に私たちを愛される主人として言って下さるのです。分かったつもりになって罪に陥りやすい弱い私たちが、それでも目を覚ましていることができるように。私たちの主として心を配られて、一人一人に与えて下さった御言葉に、だから私たちは、はいと、この主人の僕としてお応えして礼拝するのです。あなたが主ですと信じ、悔い改め、賛美して、私たちを罪から救う力を求めて祈る心も、十字架の主がくださいます。十字架の愛を信じて、求めてよいのです。眠っていたら、起きたらよい。もし眠っている人がいたら、その隣人の僕となって、祈って愛の声をかけたらよい。一緒に目を覚まし続けていられるように、僕の態度でいられるように、十字架で世界の罪を担うために僕となられた、イエス様の名によって、祈り求めればよいのです。その私たちのために、主は執り成して下さっているからです。