20/2/2主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書12章41-44節、詩編33篇 「自分の分をも捧げる愛」

20/2/2主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書12章41-44節、詩編33篇

「自分の分をも捧げる愛」

以前、この場面が描かれているイエス様の映画を見た時、夫を失ったこのやもめは、結構なおばあさん役で演じられていました。そして少し暗い顔をして、銅貨2枚を、献金を捧げるための台にカチャリと置いたのではなかったかと記憶しています。そして、映画の演出だと思いますが、それを見た周りの群衆から、何だそれっぽちしか出せないのかと、嘲笑していたのをイエス様が制して、待ちなさいと、お話をなさった。実際にはどうだったのか、誰か人の献金に対して何かを言うなんてことがあったかどうかというのは、わかりません。心では思っても、口にするのは、はばかれるというのが日本人でしょうか。その点、高知の人は日本人ばなれしているとこが多分にあるかもしれませんが(笑)、そもそも人がどう思うかではなくて、神様がどう思われるかです。神様が御言葉によっておっしゃっていることがあるのです。

私たちの捧げものも、神様はどう思っておられるでしょうか。そしてその捧げものが何であろうと、どれだけであろうと、人が神様に献げるということを、神様はどう思って、私たちを見ておられるのか。今朝の御言葉も、イエス様が座って人々の献金の様子を見ておられた場面から始まるのです。イエス様が私たちの捧げものを、また献げる態度、心を、どのように心に留めて、ご覧になっているのか。そのイエス様の眼差しを改めて思いたいのです。

43節以下でイエス様はこう言われました。

「はっきり言っておく。…全部入れたからである。」

金額の問題ではない。そのことは大体おわかりだと思うのです。では何の問題か。うわ、これは自分の自由になるお金がもうないじゃないかと思うほどの割合で捧げたら、よし、ずいぶん捧げたと満足してよいということなら、金額ではなくて、割合の問題になるのでしょうか。案外そういう考えは多いのではないかと思います。でもそれだとイエス様の言葉で言えば「有り余る中から」、もう有り余らんなって生活に必要な分以外は、0になる額を捧げて、自分の自由になる割合が0になったら、金額ではなく割合として沢山捧げたことになって、お金持ちじゃない人も、グッジョブ!と心から思えるのか。そういうのが人間の考えだというのは、お分かりになると思うのです。

ですので、どれだけ自分の自由になる分を割けるかという割合の問題でもないのです。言うなれば、募金の考えとは異なるのです。

もう一度、イエス様が44節で言われた御言葉に心を留めたいと思います。「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部いれたからである。」

「すべて」神様にお献げした。そのことにイエス様は目を留められ、やがて世界中にイエス様の救いを伝えに行く弟子たちに、この捧げものを目に焼き付けてほしかったのです。

ここで生活費と訳された言葉は「いのち」という言葉です。英語ではライフを、人生とか生活という意味でも用いるのと同じで、生活費と訳すことも間違いではないでしょう。でも、神様への捧げものを語る場面で、自分の持っているものを費用で考えてしまうと、色んな誤解が生じやすいと思います。一つは、じゃあ生活費を全部捧げなければならないと考える誤解です。この時は過越祭という特別な礼拝の時でしたので、教会で言えばイースター献金を、特別に献げるのに似ています。週ごとに捧げる礼拝献金とも、月ごとの月定献金とも違う特別な献金。神様の救いを覚え祝う大切な祭りだったから、おそらく収入のなかった姉妹がせめてと思って捧げたのが、その時に彼女が持っていた全額。それが、二枚の銅貨だったと御言葉は丁寧に描写します。そこに彼女の捧げものの姿勢が、目に見えて現れたからです。

額としては、本当に少額です。レプトン銅貨1枚は今の日本円で換算すると100円にも足らない額です。それが2枚。200円に足らない額が彼女の持っている全額です。言い方は悪いですが、いわゆる低所得層にあてがわれる低賃金の仕事を頑張って果たして得た200円なのか。祭りの時だからと与えられた施しから借金などを返済した残りなのか。内容が何かは分かりませんが、自分の自由になるお金です。パンや魚を買うもよし。祭りの時ですよ。少し華やいでもいいじゃないですか。なのに持っている銅貨を2枚とも捧げるのです。1枚だけ捧げて、後の1枚は自分にじゃない。これは私の生活を支えて下さっている神様に感謝して献げる、神様の分。後の1枚は私の生活の分と、自分の分と神様の分を2つに分けて考えんのです。一緒なんです。一つなんです。その一つである彼女の生活のすべて、一つの命を、彼女は、神様に捧げたのです。

イエス様は、その捧げられた命をご覧になって、全部、神様にお捧げして、ありがとうございますと救いの神様を礼拝している彼女を見て、黙っておれんかったのです。弟子たちに一緒に見てほしかったのです。これが神様を信じる礼拝だと。

というのは、この場面をもって、11章から始まった神殿での話が終るのです。神様が礼拝されるべき神殿が、けれど形式だけの宗教になっていた姿をイエス様は、ひっくり返された。そして、神様を信じなさい、どんな神様を信じるのか、神様を信じるとは、どういう姿になるのかをずっと説かれてきた。その最後に、それはこういう姿だと、弟子たちの目に焼き付けられたのでしょう。人の目から見たら、小さな、文字通り取るに足らない、本当に足りてないように見える捧げものです。でも、この女性は、自分の持っているものを、これは神様の、これは自分のと分けないで、全部お捧げして、その生活は、神様が満たして下さると、信じたのです。信じて、お献げしたのです。その礼拝を、その信仰を、人となられた神様は、人が見るようには見られないで、神様としてご覧になって、いや、まさしく人となられた神様としてご覧になって、この人は、自分のいのちを全部捧げたとおっしゃった。その時のイエス様の声のトーンは、かなり感情的なトーンではなかったかと思います。

このすぐ後、形だけの宗教の象徴となってしまった神殿は、崩壊するとイエス様は話をなさった後、十字架に向かって突き進まれます。ユダの裏切り、群衆の寝返り、弟子たちのつまずき、ペトロが「私だけはつまずきません」と言った口だけの信仰も含めて、人は本当に、見かけに騙されやすいのです。自分がやっている行いで自分をも騙して、自分は全部捧げているつもりで、自分の分は取っていることの何と多いことかと、私は自分のこととして思うのです。でもならばこそ、イエス様は、その私たちを背負って、十字架に向かわれるのです。そのいのちを全部捧げて、このいのちで、あなたを満たすからと、私たちを、やもめと同じ道に招かれるのです。乏しくていい、足りなくていいから、その乏しくて足りない、欠けだらけの生活を、全部捧げて、ついて来なさいと。

私たちは、頑張って足りるようになって、欠けが無くなり満たされてから全部捧げるのではありません。足りてから自分を献げるのではない。足りないのに献げる。貧しいまま用いてもらえばよいのです。伝道も、祈りも、奉仕も、何もかも。私たちは、十字架の主の前で共に立って、足りない欠けた捧げものを笑いはせんのです。イエス様が笑われんからです。むしろ、大いに喜んで笑顔になって、良かった、わたしを信じてくれてと一緒に笑って下さる。その神様に、この私をお救い下さって、ありがとうございますと、欠けたままの私たちのすべてを献げればよいのです。そこに十字架と復活の神様を信じる礼拝があるのです。