14/7/20朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章18節、イザヤ書63章7-19節 「あきらめないから祈る」

14/7/20朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章18節、イザヤ書63章7-19節

「あきらめないから祈る」

 

根気よく祈り続けなさい。直訳で言いますと、あらゆる忍耐と願いをもって祈りなさい。あらゆる忍耐。忍耐を尽くしてとも言える。尽くすのですから、もう尽き果てるまで、自分の手持ち全部差し出してということです。例えば、言葉を尽くして誰かを説得するという体験をされたことはないでしょうか。この言葉では届かんならと、持っている限りの言葉を尽くして、考えを尽くして、相手の気持ちを考え尽くして、一生懸命に考えて努力する。子供はボキャブラリーが少ないので、説得する切り札をいきなり出して来て、ねえ、一生のお願い!とかって言いますが、それはちょっと極道やろうと(笑)。極道というのは土佐弁で面倒くさがりという意味ですが、私は、その求めに応えてもよい、うん、その求めはいいんじゃないかと思うときでも、じゃあ何故それが欲しいか、それがどんな意味を持っているかを存在の重みをかけて考えてほしいと思うときには、うん、もうちょっと頑張って、どうしてそれが必要か言ってみてと、むしろ求めを促すことがあります。欲しいから、あるいは必要だからとただ与えるだけでは、人にとって大切なことを見失わせてしまうのではないかと危惧するからです。大切なのは欲しいモノが与えられたり、したいことができることでなく、そこで誰かと共に生きる、例えば与える人と、あるいは与えられたモノによって誰かと共に生きるという恵みの関係が生まれたり育てられていく事だと思うのです。またそこには言葉のやり取り、心のやり取りがお互いの間にある。それらが命をつくり、人生をつくり、人をつくると思うからです。その関係で何かが与えられるにしても、単に正しい求めのボタンを押したから、それが与えられたとかではない。そんな正解不正解の心の読み合いのような関係は、きっと誰もが嫌だと思われるでしょう。ただ、今の日本では、時間に追われ、誰かと顔を向き合わせ、相手の呼吸に合わせるようにして一息おいて、共に命を刻む恵みの言葉を交わすということは、容易ではないのだとも思います。はい、これ、と必要なモノを与えるほうが、そりゃ早く済むのです。でもそうやって相手に自分を与え損ねて、命の重なりが薄くなって、人生が希薄に、愛が軽くなる時代の形成に、いつの間にか加担しているということもあるのかもしれません。

そこで私たちが祈るというのは、その希薄な人生のただ中に、神様の聖なるご介入を呼び求め、神様から切れ目を入れて頂いて、ともするとこのまま流されて行きがちな人生を、その度その度、やり直させて頂くということでもあるでしょう。つい、だって仕方ないと思いがちな心にも、聖霊様による仕切り直しを入れて頂いて、その都度その都度、主に結ばれた聖なる者、新しい存在として、呼吸からして、仕切り直させて頂く。一呼吸おいて、父よ、と祈る。毎日祈る。一日何回も祈る。特に朝起きてからや、寝る前に時間を取って祈る。短くても祈る。とにかく祈る。祈る生活をあきらめない。神様の時間が自分の生活に流れ込んで神様と共に生きていける、信仰生活をあきらめない。この時代にあって神様の子供として祈るということ自体が、もう既に忍耐なしには不可能ではないかと思います。

祈ろうとしている。既にそれ自体、一つの忍耐です。祈ることをあきらめさせようとする邪悪な日、悪魔の策略に抗う忍耐が、もう既に一つそこにあります。その忍耐を、もう一つ増やしていこう、更に二つ三つと忍耐の手持ちを増やして、ここでも祈ろう、こんなときも祈ろうと、ここでも忍耐して祈る、こんなときにも忍耐して祈る、あらゆる忍耐をもって祈りの厚みを増していく。そうやってあらゆる忍耐をもって根気よく祈り続けて行くのです。

「あらゆる」というのがキーワードでして、一回忍耐して、あのとき頑張って祈ったき、というのではない。何回も再挑戦して、あ、と思いついた時にも、すぐ天を仰いで、神様の御前に出てと、あらゆる忍耐をもって祈る。祈りのイメージを、こういう祈り方じゃないと祈りじゃないと固定しないと言ったらよいでしょうか。そういう野球のピッチャーとかおるかもしれません。精神論で、速球ストレート以外は卑怯とか。いいんです。カーブもフォークも。あらゆる球種を用いたら。最後に、試合終了との審判の声の後、監督から、よくやった!と言って頂けたら良いのです。祈りは精神論ではありません。聖霊論です。その御霊の剣である御言葉が命じるのです。あらゆる忍耐と願いによって祈りなさいと。忍耐がいるのは弱いからでしょう。その弱さを神様はご存じです。だから聖霊様が、キリストを受け入れた一人一人に与えられ、聖霊様によって、神様に向かって、父よと、信頼して呼び掛けられるようにして下さっている。それが祈りです。弱いから、あらゆる時に、どのような時にも、生活の祈りの厚みを増していく。

この18節を直訳しますと、「あらゆる」という言葉が、繰り返し4回出てきます。こういう直訳です。

あらゆる祈りと願いとによって、あらゆる時の中で、御霊の中で祈り、またそのためには目覚めて、あらゆる忍耐と願いの中で、あらゆる聖徒たちのために、祈りなさい。(再読)

「あらゆる」がついてないのは、御霊の中でと、目覚めてだけです。そら聖霊様はお一人ですから、あらゆる御霊はないし、あらゆる目覚めてもありません。目覚めるとは、神様の御前にいる自分を自覚するということですから、神様の御前で目覚めているか、夢遊病のように自分がどこにいるかボンヤリしているか。でもそうならないように、聖霊様の中で祈りなさいと、あ、私は神様の御前にいるのだと、キリストに結ばれた私が神様から切り離されることはなく、私は常に神様の御前にいるのだと目覚めて、真実の自分、神様の子供として、また救いの僕として目覚めて祈ることができるのです。

その目覚めた祈りの具体的イメージはこうですと四つのあらゆるで示されます。まず、あらゆる祈りと願いとによって。祈りは、こういうイメージじゃないと!という自分なりの理想像は無くしてよいのです。理想で祈れるほど強いなら、聖霊様は与えられんかったでしょう。根気よくではなく、根性だ気合だと言われたでしょう。ただ、忍耐はいります。しかもあらゆる忍耐と願いがです。先に説き明かしましたように、その忍耐も、もし根性のイメージとか、まるでサウナに入って、よし、20分たった!とかなら、自己満足になってしまいます。そういう場合は私自身そうしますが、それも含めて祈るのです。自己満足する私の罪を清めて、キリストの似姿へと造り変えて下さい、憐れんで下さいと祈ればよい。自己満足になるから祈らんと、祈りをあきらめないで良いのです。一向に清く祈れない自分にこそ先ず忍耐がいるのかもしれません。その忍耐も含めて、あらゆる忍耐と願いの中で、御霊よ、私を造り変えてください、聖徒たちのために、伝道のために、人々の救いのために、そうしてくださいと、私が造り変えられることに対する忍耐と願いを、まさしく自分事として強く祈ればよいのです。そのために召されている私ですから、だから祈りますと、愛する者たちの執り成しを、あきらめないで祈る。家族の救い、友人たちの救い、癒し、解放、あらゆる祈りと願いとを、父よ、お願いします!と御前に捧げます。

これ祈ったらいかん、というのはありません。これはでも罪だから、という、自分の中で葛藤している罪の欲望があるのなら、御霊によって祈るのです。主よ御霊の剣によって勝利して下さい、私の中にこの欲望があるのです、これをしたいのです、でもしたくないのです、わからないのです、でも御心を行って下さい!と、ロマ書7章で使徒パウロが、私は自分がわからないと、うめきながら祈ったように、またイエス様がゲツセマネで、身代わりとしてではあるけれど、それはわかってはいるけれど、だけど呪われたくないです、しかし御心をなし給えと祈られたように、御霊によって祈ればよい。イエス様もそう祈られた。御霊によって祈られながら、悶絶して苦しみの血の汗を流してです。御霊によって祈るなら苦しまないというのは悪魔の嘘です。私は御霊によって祈れんと、祈りをあきらめさせようとするサタンの大嘘です。ゲツセマネで私たちのために祈られた主イエス・キリストの祈りに包まれながら、その祈りを祈らせて下さった同じ聖霊様の御力の中で、忍耐をして祈れるのです。イエス様のようには祈れませんと思うのなら、それでも良い。それが今の自分の真実なのでしょう。それも聖霊様がご存じですから、祈れませんと打ち明けながら、別の祈れる願いを祈ればよい。あらゆる忍耐によってですから、忍耐できる別の事柄を執り成せばよい。

とにかく、祈りをあきらめない。あきらめたら、祈らんなってしまいます。祈れない自分をもあきらめない。敢えて大胆に言いますが、自分の意志では祈れないのが聖なる者たちの実態だから、だからこそ祈れと御言葉は繰り返し命じるし、だから御霊によって祈りなさいと、自分の力を捨てて、しかしそんな私たちを決してあきらめることない三位一体の聖なる神様の、聖なるあきらめ悪さの中で、だからあなたは祈りなさい、あなたは祈れる、わたしがそう召したと、祈りへと召されているのです。だから、あきらめなくてよい!

答えられない祈りもあります。云十年祈っている祈りがあるかもしれません。時には、毎日祈っている課題に、言わばマンネリ感、倦怠感を覚えてしまうのも、誰もが知っている弱さでしょう。それでもあきらめないのです。願いが叶うことを、ではありません。その願いは、神様、あなたご自身の願いですよね、あなたが救って下さるのですよね、御心はなるのだと信じますと、キリストをくださった父の愛を信じるから、恵みを信じられるから、御心を、あきらめないのです。父の願いなら、祈れます。その時がいつになるかはわからなくても、思った形とは違っていても、御霊の剣によって示された、キリストの恵みを祈る祈りは、キリストの御名によって祈れます。御霊によって祈れます。これは、あなたの御心ですと、父への信頼を新たに告白して、だから私もあきらめませんと、時が良くても悪くても、父の御心に仕えるのです。