14/7/13朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章18節、ネヘミヤ記1章1-10節 「互いに見守り合う祈り」

14/7/13朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章18節、ネヘミヤ記1章1-10節

「互いに見守り合う祈り」

 

絶えず目を覚まして。あるいは、明確でハッキリした意識を持って、いま自分の周りがどういう状況であるかにも目を配り、よく注意して、とも言えるでしょうか。例えば以前、仲間数人で長距離運転をしましたとき、運転は別の人がしておって、私は助手席におったのですが、ついウトウトとしてしまい、気づいたらサービスエリアに入る道。運転手がちょっと休憩しようと言うので車外に出ました。ん~とか体を伸ばしておったら、その運転手が私に耳打ちするのです。実は、どうやってここまで来たか覚えてない。後残り、眠らんように見張っててくれ!その車がオートマチックでなくて、マニュアルだったもんですから、代わりに運転することもできん。その後の運転も彼に任す他ない。どうしたか。私は助手席で絶えず目を覚ましていました。無論、自分が眠らないためではなく、隣に座って運転をしゆう友人が、目覚めて、自分の務めを、全うできるために!目を配り、口を動かして、頭を使って笑わせようと努力しました。それは彼のためでもあり、私のためでもあり、後部座席に乗っている仲間のためでもありますし、その私たちの家族のためでもあった。またひょっと事故したら他の人を巻き込む恐れが十分にある。自分の知らない人々のためにも、絶えず目を覚まして、互いに任された務めを全うできるように、執り成し、努める。そしてそのことは私たち一人一人に託されている、祈りの働きでも同じなのです。

絶えず目を覚まして、友のために祈る。友が神様から託された働きを全うできるように。また友も、私が神様から託された働き、使命、召命を全うすることができるように、私のために祈るよう、神様から役割を託されている。言わば互いに見張りの役割を任されて祈る。それが教会です。「全ての聖なる者たちのために」祈りなさいと託されているのは、聖なるというのは、神様に属するという意味ですから、神の家族、教会のために祈りなさい、教会の一人一人の友のために祈りなさい、という招きです。あなたは一人ではない。だから一人で祈るのではなく、教会として、教会のために、家族のために祈りなさい。家族もまた、あなたのために祈っている。あなたには、その家族の祈りが必要なのだと。

先に車の運転の例で申しましたが、これは元来、戦場において戦友が互いに相手の後方を見守る、あるいは夜、友が寝ている間に自分は起きて見張りの役を担う。そして自分が寝る番になったら、友が自分のために起きて見張ってくれている。祈って守ってくれている。それがここで神の武具を身に着けて、共に神様の愛の闘いに立つ教会として、互いに祈り合うイメージです。

皆さんの祈りの経験の中で、こうした、戦友のために祈るという意識をもって、神様に向き合われた経験はおありでしょうか。私は、昔からアクション映画が好きなせいか、比較的早くから、祈りをこのイメージで捉えてきたように思います。以前、別の友人から、幸生、お前俺のために祈ってくれてるか。頼むぞ、俺ら一心同体なんやから、お前が倒れんように俺も祈ってるから、頼むぞと、えらい露骨に言われてタジタジとした記憶もあります。まあ、これには性格とかも関わってくるのだと思いますけど、聖書が闘いのイメージで祈りなさいと語るのですから、性格だけの問題でないのも確かでしょう。無論、この前に語られている御霊の剣を取りなさいというのも、ヤアッと人に切りつけるためではありませんので、戦友のための祈りと言っても、攻撃的に、眉間にしわ寄せて、っていうのではありません。積極的に、言わば力強く祈るというのはありますが、静かに祈るのでも良いのです。友のために、目覚めて祈ればよいのです。友も、また私も、隙あらば神様の愛から引き離そうとしてくる悪魔の策略にさらされています。それを自覚する。自覚するというのは、自分事として目覚め、ハッキリと覚めた意識で自覚して、父よ、あなたの召命から私たちが引き離されないように助けて下さい!私たちを試みに遭わせず、悪より救い出し給えと、自分事として、戦友のために祈る。それがここで求められている、祈りの自覚です。

先週の説き明かしにおいて、この事を祈って下さい、と人から頼まれても、自分事にならんと祈りからこぼれてしまうのではないかと申しました。大事な事だとは思っても、それより自分の事、自分事が大きくなる。その自分を造り変えられるのが、聖霊様であると。大事だと思ってはいても自分事になってなかった祈りの課題が、しかし自分事になって祈るのは、それは課題が変わったのではない。自分が聖霊様によって変えられたのだ。御霊によって祈るとは、そういうことだと説き明かしました。ではそこで聖霊様によって自分が変えられて、人ごとが自分事になるとは、どういう変化か。それは、わかりやすく言えば、自分が教会の、まさに欠かすことのできない、掛け替えのない一員であるのだと、私を必要としている友がいるのだと、言わば教会にドップリ浸かって、自分と教会が意識の中で、どうにも切り離せなくなっていく変化です。

これは私たち、実は聖餐式の感謝の祈りで毎回祈り求めている変化でもあります。「私たち、主の体の肢である自覚がいよいよ深くなり、ますます励んで主に仕えることができますように。」自覚が深くなる。教会が自分と切り離せなく一つであることの自覚が、自分事としてハッキリとしてくる。その自覚がいよいよ深くなりますようにと、キリストと一つにされている恵みを確かめた聖餐式において、共に祈る。その願いを、父が聴かれないはずはありません。

自分が造り変えられていくというのは、単に自分のことだけ考えない良い人になるというのではありません。それはまだ個人のイメージだけで終始しています。自分が造り変えられていくとは、自分が教会の掛け替えのない一肢として、キリストの体の一肢として、教会家族のために存在しているという自分になる変化です。そして、教会がキリストの体であるというのは、人々の救いのために存在しているということですから、そのキリストの体の一肢である私たちは、まだ神様の愛を知らない人々のためにこそ存在している。私は神様の愛する人々のために存在している。そういう自分、そういう存在に、造り変えられていく。それが聖霊様のお働きであり、その御働きの中で、私たち一人一人が、教会にドップリ浸かっていくという変化、聖化が起こされるのです。

先週の説教では、また、こうも申しました。祈りとは自分の存在をかけた言葉を、コラム・デオ、神様の前で、神様に捧げることだ。では、それは、どんな存在か。古い存在が相も変わらず古い自分を引きずって御前に出るのか。御霊によって祈るのでなければ、それもあるかもしれません。でもそんな私たちならばこそ、父は御霊をくださったのです。御霊によって祈りなさいと、新しい祈りをくださった。そこで御霊によって祈る私たちの存在は、もはや古い自分ではない。新しい存在です。聖霊様によって祈る存在は、自分事ばかり固執しておった古い人間が、その古い自分にはもう属さんなって、キリストに結ばれ、キリストに属した者として、聖なる者として、新しい存在として造り変えられて、その故に、他人事を自分事して段々祈れるように変えられていっている、キリストに結ばれた聖徒です。それがキリストの体の一肢、教会という存在です。難しい事を言うようですが、これは私たちが御霊による祈りをどうやって祈ればよいのか、どう求めたら良いのかをイメージするのに、助けとなると思うのです。

こう言ってもよい。私たちが御霊によって祈るとは、すべての聖なる者たちのために、私はその聖なる者の一人であると自覚して、しかも、コラム・デオ、神様の御前でこそ自覚して、祈るということです。週毎の礼拝で告白する使徒信条で、私は聖霊を信じますと告白します。その聖霊様信仰の具体的内容として、聖い公同の教会、聖徒の交わり、云々を信じますと告白する。その聖徒の交わりを信じられるのは、キリストを信じ、キリストに結ばれて、キリストに属する者、聖なる者とされた者でなかったら、その交わりは信じられんのに、でも信じられるから、私もその一人であるのだと、聖徒の交わりが聖霊様によって自分事になるから、聖徒のために祈れるのです。聖徒の一人として、聖徒に特有の悩みや困難も自分事として知っています。例えば、祈るのは大変だ。愛するのは大変だ。キリスト者なのに、どうして私はこうなんだ。あるいはその意識さえ流されて意識せんこともある。聖徒はこの困難を多かれ少なかれ抱えています。何故知っているか。聖徒だからです。キリストの体の一肢として、同じ闘いを闘っているからです。そしてその闘いが何であるのかを、御霊の剣、聖書の御言葉によって知ったからです。

だから、13節の御言葉で言えば、邪悪な日によく抵抗し、また悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けて、御霊によって祈るのです。一人一人、神様から、あなたは、この人の救いのために存在している、そのために教会の一員として存在している、その愛の闘いを、立派に闘い抜きなさいと、一人一人が召されている。その闘いの中にいて、自分の罪とも闘いながら、愛する人々の救いのために苦しみながら、何とか神様の召しに従おうと闘っている聖徒たちのために、その聖徒の一人として祈るのです。

自分の闘いだけではない。木を見て森を見ずと申します。自分が置かれている救いの闘いの森全体を、戦いの大局を見るのです。その大局を見る眼差しが、私たちの祈りと闘いを当てずっぽにならんよう助けます。また森を見て木を見ずということもあり得ます。人々を救うために主によって具体的に配置された、掛け替えのない一人一人の聖徒を見ずして漠然と祈るなら、祈りが抽象的になり、信仰が、そして愛が抽象的になってしまう。だから教会全体を、その救いの戦いの大局を見据えつつ、またその故に具体的に配置されている一人一人のため、教会の具体的で細々とした働きを覚えて、自分事として具体的に祈る。

これも神様の不思議な御業だと思いますけど、ちょうど「祈ろう四国教区の教会5」の祈りが今日から始まります。人数、会計状態、祈りの課題、具体的に記されている。これも一つの大局です。夏の青年大会もそう。それらに仕える全ての聖徒たちのため御霊によって祈るのです。