14/5/18復活節第五主日朝・合同礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章16節、詩編40篇1-12節 「安心して信頼できます」

14/5/18復活節第五主日朝・合同礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章16節、詩編40篇1-12節

「安心して信頼できます」

 

「なお、その上に」。直訳は、全ての上に。すぐ前で、真理の帯とか、正義の胸当てとか、平和の福音を告げる準備のブーツとか、この後にも続く色んな神の武具がありますが、その全ての上に、全身をスッポリと覆う信仰者を守る大きな盾、信仰の大盾を取りなさいと御言葉は命じます。これが、どのように具体的に全身を守るかというのは次の礼拝で説き明かしまして、今日は、じゃあどうして信仰が全身を守るのか。ここに集中します。頭とか足とかの一部だけじゃなく全身を守る。あるいは直訳の「全ての上に」とは、言い換えれば、これはオプションではないということです。勇気があれば信仰の大盾はいらんとか、ヘルメットと胸当てあったらえいろうとかはダメ。信仰は、車につけてもつけんでもかまんナビとかエアコンとかのオプションではありません。エアコンは普通ついちゅうろうとか、そんな話でもなくて、ガソリンレベルです。信仰を入れてないと、どんなに正しい知識が入っても、どんなに能力に秀でておって奉仕を沢山して皆から重宝がられ、人柄も良く愛されて、素晴らしい人やねえと慕われたとしても。信仰、つまり神様との生きた信頼関係によって心が神様と行き来してなければ、残りのバッテリーで暮らす、動かんキャンピングカー生活のようなものです。

じゃあ、その信仰って何か。いまガソリンに譬えましたが、そこ走りゆう電車に譬えたほうがえいかもしれません。エネルギーは電気です。そして、ここが急所ですけど、ガソリンと違って、電気は切れることがない。何故か。常に電線とつながっているからです。信仰も同じです。イエス様を私の救い主として信じ受け入れ洗礼を受けるということは、生きておられる救い主キリストと常につながっているということだからです。もう一度言います。イエス様を、私のために人となられ十字架で私の罪を赦して死んで下さった私の神様、私の救い主ですと信じる全ての人は、その時以来、常にキリストとつながっています。もし、信じた相手が生きてない電線と同じで、あれにつながれば自動的に永遠の命が流れてくるがやろうと思いゆうのなら、この譬えは破滅的です。だって救い主が生きてない電線なら、自分から頑張ってくっついて行かんかったら、もし試練に遭って、何かにつまずいて、脱線らあして、電線から離れたら、自分の力でくっついてないとダメなんだったら、もう終わりでしょう。そんな救いがキリストの救いでしょうか。それは一つの救いについての考え、しかもよくある自己責任の救いの考えかもしれませんが、しかし、キリストは生きておられます。聖書に証される唯一の神様の救いとは、生きておられる救い主によって救われる救いです。電線ではなく、永遠のバッテリーがずっと一緒にいてくださっているイメージに近いでしょう。キリストが、わたしは命であるとおっしゃった。わたしは常にあなたと共にいると言って下さった。救い主イエス・キリストが共にくっついてくださっているので、私たちは永遠の命を得て救われます。そして、信仰とは、このくっついてくださって命をくださっている救い主、イエス・キリストを救い主と信頼して、イエス様に我が身を委ねくっつけることです。洗礼を受けるとき、キリストの前にひざまずくのは、私はこれからイエス様と一つになりますと身を委ね、くっつくことです。そして、ここが急所ですけど、その私たちに、キリストが、生きておられるキリストが、ご自身の身をくっつけてくださって、一生あなたから離れない、いや永遠に、わたしはあなたのもの、あなたはわたしのもの、キリスト者だと、キリストが私たちと、救う者と救われる者という関係を持ってくださり、保ってくださる。だから私たちは救われるのです。救われた!とすら、言うのです。それは私たちの救いが、生きておられるキリストによるからです。100%よるからです。キリストがくっついてくださっている。それが救いです。キリストと結んだ関係による救いです。

そして信仰とは、この救いの関係を結んでいる、キリストと私たちとの間にある信頼関係のきずな。これが信仰です。前にも言いましたが、この信仰のきずなは、私たちが自分の主体的決断によって信じることを選びとったが故に自分の手柄のように誇れるものではありません。断じてありません。そういうイメージが多いのですが、そして壊滅的打撃を教会に与えることもあるのですけど、信仰は手柄ではなく、間柄です。手柄というなら、全部キリストの手柄です。キリストが十字架で勝ちとって下さった赦しという手柄のお陰で、私たちは神様の赦しを信じられるのです。そしてその根拠も、キリストに由来します。本当にキリストが私を愛して、死ぬほど愛して、本当に死なれて、その愛が時間と共に薄まることも変わることもない。その愛を信じられるのは、キリストがその信頼に足るお方だからです。キリストに、あなたを信頼します、あなたの愛を信頼しますと言えるのは、キリストのお陰。何の手柄が私たちにあるでしょう。信仰は、このキリストのお陰で与えられた信頼関係という間柄。信頼関係という絆です。

だからもし、試練に遭って、神様の愛を信じれんなって、あるいは罪を犯し、神様は赦してくれんろう、どの顔さげて私はキリスト者やとか言えるろう、教会にもよう行けんと思うような時にも、生きておられる救い主、キリストが共におられてこう言って下さる。わたしはあなたとくっついている。この愛の絆を切り離した覚えはわたしにはない。あなたはもし脱線したとしても、わたしとくっついている。わたしは主。あなたの神。あなたを救う、あなたの救い主だと宣言してくださる。

このキリストへの信頼こそが、だから私たちを守るのです。試練の中にあっても、でも、キリストが共におられると信頼できるから、何とかやっていけるのです。思い込みじゃないかと疑うようなことがあって、なお、それが私たちの弱さであればこそ、聖書には復活されたイエス様が、疑うトマスとも共におられて、信じない者でなく、信じる者になりなさいと信頼を求めてくださった、その愛の証が刻まれています。

神は愛です。キリストは愛です。救いはこの神様の愛によって100%守られている関係という救いであればこそ、キリストを信頼しなさい、その愛によって身を守りなさいと、御言葉は語っているのです。