14/5/4復活節第三主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章15節、イザヤ書52章7-10節 「100%の救いの根拠」

14/5/4復活節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章15節、イザヤ書52章7-10節

「100%の救いの根拠」

 

これは言い換えると、伝道の準備をしなさい。どうやったら人に福音を告げることができるか。そもそも人々に手渡すべき福音とは、何か。わかりやすく言うと、こういうことですと、何を人に伝えたらよいか。それが自分自身よ~くわかって、ズバリ福音を伝えられるように、伝道する訓練を受けなさい、とも言えるでしょう。

ペトロの手紙一3章15節に、教会に対するこういう命令があります。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」

いつでも弁明できる、つまり言葉で明らかにできるように、準備していなさい。今日の御言葉と同じ。準備しているかいないかが分水嶺だと御言葉は語ります。抜き打ちテストと同じ。私みたいな一夜漬けタイプは、もう40過ぎてもテストの夢見ます。しかも進級がかかったテストの夢で、物理の法則とか、微分積分の数式とか、全く覚えてなくてドッと冷や汗をかく悪夢を見ます。あと、別の夢で、突然この説教壇に立っていて、え?礼拝説教するが?聖書のどこで?あ~何の準備もしてない!と、これは結構の牧師が見るようですが、私は、そんときパジャマだったりして、とりあえずしゃがんだりしているのですが、頼りない牧師ですね。パジャマだろうと、堂々と説教すればよいのに。できんのです。準備してないと、できんのです。

それは私たちキリスト者一人一人に託されている、いわゆる個人伝道の準備でも同じです。伝道のチャンスが突然来たとき、例えば、幸生、何でおんしゃあキリスト教になったがな、キリスト教の何を信じちゅうがか教えてくれと、私もキリスト者に成り立ての頃、突然チャンスが来た。そんとき私は、いやキリスト教を信じちゅうがやのうて、キリストを信じてちゅうがよと、宗教への信仰じゃなくキリストを信じたということの説明に終始して、うまく弁明することができずに、悔しい思いをしたことがあります。チャンスは突然来るのです。まるで自分は補欠で試合にはたぶん出んろうと思いよった補欠の選手が、突然、監督から、次、代打でスクイズバントを決めてくれと言われるように!突然来る。ホームラン打たんでもよいのです。でもバントは、準備をしてないと、できん。一回のバントの背後に、数えきれないバントの準備があることは、皆さんもご存じだろうと思います。

バントの譬えで言えば、私たちは大監督であるキリストから、この人の心の一塁線上に、福音を、ポトンと優しく落としてほしい、よろしく頼むと、平和の福音のバントを任されています。イエス様の十字架も、言わば犠牲バントです。私たちを生かすために、ご自分は犠牲になられたのです。同じように私たちも自己犠牲の覚悟から、よし、と始めて、福音を伝える準備を始めます。恥ずかしいとか、ようせんとか、色々な思いがあるのですけど、伝道の急所は一つだけです。私たちの犠牲になることを選ばれた救い主が、私たち一人一人に向き合って、この群れにまだ入っていないわたしの羊をよろしく頼むと言われる。そのイエス様に襟を正して、我が主、我が神よと、主に向き合って、自己犠牲という伝道のバッターボックスに入る。あとは聖霊様が助けて下さいます。

そしてその心の準備、覚悟の準備がなされるところで、では実際に、何を伝えるのか。告げるべき平和の福音とは何か。最大の急所はそこにあります。どれほど大きな自己犠牲の覚悟があっても、自分の福音理解が間違っておったら、例えば、頑張ったら天国に入れてもらえるという自己責任の救いを語るなら、それはキリストの福音ではない。

もし病院にお見舞いに行って、実は私もう長うないって言われたがやけど、私、天国に行きたい、どうしたら天国に行ける?って涙ながらに尋ねられたら、皆さん、何と答えられますか?もう次はないかもしれなくて、今がキリストの平和の福音を伝えるべきだというとき、何と言えばよいのか。何を信じたら、ああ、これで私は100%救われて神様のもとに行けると、平安の内に、魂を神様に委ねられるのか。

これが説教題に、100%の救いの根拠とつけた理由ですが、これは私の伝道体験からパッと心に浮かんだ言葉でもありました。私がイエス様を信じて数年後、休みで実家に帰っておったとき、いわゆるものみの塔、エホバの証人の方々が訪ねて来た。これ、前にも話したことがあるかもしれませんが、その時私は、友人から勧められた本で、その名もズバリ『エホバの証人への伝道ハンドブック』という本を読んでおって、知識の面でもある程度準備できていました。質問するとよいと書いてあったので、あなたがたのグループは、要するに行いによる救いを信じてるんですよねとか質問したら、こりゃ厄介なのに当たったと、支部長クラスの人と、その見習いが来ました。色々話したと思いますが、印象に残っているのは、私が、ではもし今夜お二人が死んだとして、何%の確率で自分は救いに入れると思いますかと、おもに見習いさんを見ながら尋ねたら、ちょっとうつむいて、深刻な顔で50%ぐらいと言う。ボスは少し怒った顔で100%だと言うので、その根拠は何ですかと問うと、正しく頑張りゆうからだとボスが言う。見習いさんは、頑張ってはいるけど、でもまだ私は正しくなくて、罪を犯して…と誠実に言われた。そこで、じゃあ100%の根拠を聖書から読みませんか。こうあります。「あなたがたは恵みにより信仰によって救われました。このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは誰も誇ることがないためなのです。」エフェソ2章8-9節。また「罪が支払う報酬は死です。しかし神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命です。」ローマ6章23節。つまり聖書は永遠の命の救いが神様の賜物、プレゼントだと告げています。私は正しいからプレゼントもらえるというのは、プレゼントではなくて報酬、お給料です。それはプレゼントを感謝して受ける態度じゃないでしょう。むしろそうやって家族の正しい愛の関係をさえ破壊する人間のプライドという罪が、恵みを拒否し、神様を悲しませるのではないでしょうか。その私たちの罪を神様はキリストに負わせキリストを人間の代表として裁かれたのです。キリストが代表責任を取ることによって、恵みによる救いを用意されたのです。そして、その恵みのプレゼント、罪の赦しと永遠の命が、いまあなたの前に神様から差し出されています。このプレゼント、賜物を、ありがとうございますと、代表責任者となられたキリストを、私の救い主と信頼して、イエス様、ありがとうございますと信頼して受けとる。これが100%の救いの根拠です。根拠は自分にはないのです。キリストの恵みが根拠です、どうですか、今このプレゼント、お受けになりませんかと、見習いさんの目をまっすぐに見て言いました。戸惑っておられましたが、そんな恵みの神様を本当に信じて良いのかという眼差しでもありました。残念ながらボスが連れ帰ってしまいましたが、あなたにもこのプレゼントがあるのですと伝えました。この人たちを救いたいと、天の父が願われて、ここに連れて来られたのだと、神様の愛を思いました。帰りゆく彼らの後ろ姿を見ながら、主よ、どうかこの福音を虚しくしないでくださいと祈りました。

この100%の福音を抱く人は、今夜もし死んでも安心できるのです。100%救われます。この100%の恵みの神様を信じて伝えていくのです。