14/4/6受難節第五主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章14節、詩編51篇 「ごめんが言えるほど真実」

14/4/6受難節第五主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章14節、詩編51篇

「ごめんが言えるほど真実」

 

真理を腰にギュッと締めて立つ。言い換えれば、神様の真理によって立たせて頂く、しかも、真理によって立たせて頂くというのは、もっとわかりやすく言えば、私の生き方が、嘘の生き方にならんように、立つことができるようになるのです。嘘の生き方じゃなくて、偽って生きるのではなくって、真実に生きられる生き方になるように、神様の真理に支えられ立たせて頂く。

聖書の語る真理とは、生きる真理です。冷たいほどに絶対的な数学的真理とかではない。道と同じです。道が眺めて楽しむものでなく歩んでこその道であるように、真理とは真実に生きてこその真理です。それを「真理する」という言い方で、既に4章15節の説教で説き明かしたのを記憶されている方もおられるでしょう。聖書が証する、神様がお造りになられた世界の在り方、しかも生きておられる神様と愛の交わりを持つために造られた私たちが、そこで生き、またそれ故に知る真理は、神様抜きにしての真理ではあり得ません。それが数学的真理であってなお、おお、これが神様の、この世界の法則はこうあれかしとお決めになられた数学的真理なのだなあと、神様との人格的交わり故、心が嬉しくなり神様への賛美が湧き出る。そういう心が神様に動く真理ですから、本来動詞として生きる真理。神様と共に生きるための真理。ならば行いだけでなく心の真実もそこにある真理。それが私たちを神様の前に、神様の愛の真理に包まれた者として、立たせることのできる真理です。

その神様の前にあって立たせてもらって立つのですから、嘘や偽りの自分を飾り立てて、私はちゃんとやってますので、ではこれで、他の用がありますので、では、言うても通用しません。そもそも全部お見通しですから。むしろ世界の中で唯一ここでだけ、人前で嘘の仮面らあ着けいでもかまん本当の私として、何も隠さず、何も偽らないで生きられるのがコラム・デオ、神様の御前なのです。真理を腰に締めて立つというのは、その帯の下に何もつけてない、裸の自分、本当の自分が真理の帯を締めるのです。真理の下に嘘の肌着なんか着けない。人類の初めに、アダムとエバが恥ずかしい自分を隠そうとして自分でいちじくの葉を腰に巻きますが、神様は、それよりも、あなたはこれを身に着けなさいと皮の衣を着せられました。それこそが彼らの罪を覆うために、神様が、人間の罪を覆うために最初に屠られた生け贄の犠牲だとも言われます。神様が人間の罪を覆うために、犠牲の衣を着させて下さる。後に御子が全人類の代表として人となられて、犠牲として自らを与えられた、その徴としての犠牲の衣。赦しの衣。神様の愛の衣。救いの衣。それが神様の真理の帯という言葉と重ねられて現れる、ここで私たちの腰に救いの帯として、神様の前に立ち、サタンの偽りに対抗できる武具として再度現れると言ってもよいと思います。

神様の真理の帯を腰に締めて、神様の前に、本当の私として立つときに、そこに立っているのは、その救いの真理がなかったら、とてもじゃないけど立っていられない、まことに弱くて罪深い自分だと言うこともできるでしょう。自分だけのこととして言えば、それが真実、真理だとも言えるのです。神様に言い訳をする私。神様が私に求められる生き方よりも、けんど私はこれでえい、あるいはそれは無理と、最初から神様の道が言わばオプションになっている。教会学校で玉ねぎスープが出たら、無理!そんな失礼な言い方はないはずですが、案外大人も神様に、無理!言ってるかもしれない。でも大人は幼子と違って真実を人に見せません。いちじくの葉を自分で腰に巻いて、そんなもん何の意味もないのに、いや、これができるのが私だと言わば善い自分を見せたりする。いわゆる偽善、偽りの善い私の姿を、いちじくの葉で作るのですけど、神様は、それはいらんと。少なくともわたしの前ではそれはのけなさいと、救いの真理で迫って来られます。あなたには赦されなければならない罪があるだろう。わたしの真理をこそ締めて、わたしの前に立ちなさい。わたしは真理である。そしてあなたに真理を望むと、神様は私たち一人一人に向き合っておられるのです。

アダムとエバは、それが神様であることを知っておったと思います。知ってはおっても、その神様の真理を覆い隠してわからんようにさせる嘘の毒が心に回ると、自分は神様に言い訳ができると思い込まされる。神様がアダムに「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問われたとき、アダムは何と答えたか。「あなたがわたしと共にいるようにした女が、木から取って与えたので食べました。」これ、真理でしょうか。もし相手が心のないロボットなら、ソレハ先ノ状況ニ照シテ真理ヲ言イ表シテイマスと言うかもしれませんし、心でなくお金で動く悪徳弁護士ならそれは事実ですと言うかもしれません。けれど神様の御前で、あなたがこれをしたのかと真理を問われたら、そう答えるのが真理でしょうか。大人ならわかるはずです。アダムは言い訳をしたのです。しかも、神様と妻のせいにしてです。神様は次にエバに問いました。「何ということをしたのか。」エバは答えた。「蛇がだましたので食べてしまいました。」人が神様に罪を犯して、その罪を問われたとき、誰一人、ごめんなさいとは答えませんでした。でも本当は、ごめんなさいと言うべきでした。赦して下さいと謝るべきでした。それが神様の御前での真理でしょう。自分の罪を心から認めて、自分の受けるべき罪の裁きの真理を認めて、ごめんなさいと、どうして言えんのか。それが、罪だからです。その罪を、キリストは背負って死んで下さったのです。

そのキリストが教えて下さった祈りを、先に祈りました。私たちの天の父よと呼びかける主の祈りを、ならば、本心で祈るのが、真理を腰に締めて立つ、一つの具体的な立ち方です。主の祈りも真理ですから、私たちの罪を赦して下さいと祈るとき、本心で、真実な心で祈るのです。自分の本心などわからないと思うときもあるでしょう。それが弱い私たちの真実でもあるからです。主の祈りを祈れない言い訳もしたくなるのです。わけがわからんほど弱くて罪に太刀打ちできん、その私たちを、キリストは、わたしが一緒に祈るから、一緒に祈ろうと祈らせて下さいます。真理を腰に締めて、キリストを身にまとって、私の罪を全部引き受け責任を取られて死んで下さり、また私の代表として復活することを選ばれた私たちの主が、我らの罪を赦し給えと祈られる。この祈りを、だから私たちも本心で祈るのです。ごめんなさい、と天の父に謝って、私を執り成して一緒に頭を下げてくださる主と一緒に、赦して下さい、ごめんなさいと祈る姿を、父は、それがあなたの真理だ、それがわたしの子であるあなたの本心だと喜んで下さいます。

人前では、嘘もつけば、えい恰好もつけて、偽善に生きてしまうのが罪人の真実であればこそ、その真実を十字架で受けとめ、それを赦して造り変えるのが、わたしがあなたを救う真理だと、神様は、この救いの真理を、あなたは腰にギュッと締めて、わたしの前に立ちなさいと、腕を拡げて下さっている。それが神様の真理なのです。その神様に言い訳はもうせんでよいのです。人には、すみませんが、と言い訳をしても、すみませんがと神様には言わない。むしろ、ごめんなさい、こんな私を造り変えてください!と願うのが、私たちが腰に締める真理なのです。そうやって段々と人前でも言い訳せんでかまん生き方に、段々造り変えられます。神様の御前に真実に立つ人は、必ず新しくされるからです。改めて4章22節以下を読みます。「…」。この救いの真理、この新しい人の新しくされる本心が私の真理ですと、キリストの真理に立つのです。