14/3/30受難節第四主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章14節、イザヤ書11章1-10節「人を支える暖かな真理」

14/3/30受難節第四主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章14節、イザヤ書11章1-10節

「人を支える暖かな真理」

 

真理を腰にギュッと締める。するとどうなるか。しっかり立つことができるようになる。ぎっくり腰を経験された方はおわかりかと思いますが、腰をやられると、上半身を支えれんなって、しっかり立てません。私もぎっくりをしょっちゅうやります。以前には説教中、ここに立っていることさえ辛くて、この後ろの壁に腰をくっつけて、この講壇と壁に支えられながら説教したこともあります。それで最近は腹筋運動をして腰に負担をかけんように予防に努めていますが、それでも忙しくすると何故か疲れが腰に蓄積してきて、腰の筋肉が張って、おかしな前かがみの姿勢になる。そういうときは、ぎっくりになる前に、予防のため腰にコルセットを締めます。去年、ちょっと良いのを買いました。出張先の宿でぎっくりになって、這うようにして店に行ったらそれしかのうて、背に腹は換えられんと、渋々買うたのです。が、これが優れ物で、店の中で早速服の上から腰に締めただけで、帰りはほぼ普通に歩けました。もし、このコルセットを腰に締めてなかったら、まともに動けんかったのが、腰にギュッと締めたら立って動ける。

これが真理の腰帯です。これを巻くと、油断して攻撃にやられて負傷をしたとしても、尚、神様の子供として神様の子供らしく立って動けるようになります。色んな攻撃があることを既に説き明かしてきましたけど、代表的なのは嘘。嘘の攻撃。キリスト者らしくなくても別にかまんわえとか、これをやったち別に何ちゃあならんわえとか、どうせ赦されちゅうがやきとか。確かに赦しはありますけれど、その罪を犯した影響も結果も報いもないと考えさせるのが嘘です。影響を及ぼさず悪い結果ももたらさない罪はありません。自分が蒔いた種は刈り取ることになります。それを、いやいや大丈夫と思わせる嘘攻撃。嘘にやられると神様の子供であるにもかかわらず、神様の子供らしく歩めなくなる。更には嘘というのは真理の反対ですから、偽りと言ってもよいのです。そして嘘とは偽りを真理と見せかけることです。偽物顔で近づいてはこない。これであなたの目が開かれるとか、こういう風に生きていないあなたはおかしいとか、これを信じてないなんて間違っているとか。少し際どい言い方をすると、嘘の伝道をしてくる。これが真理だと大上段に構えて嘘の剣を振り下ろしてくるときに、ハッ!あれは嘘やと瞬時に身をひるがえしてよけることができるためには、それを嘘と見抜ける心構えがいる。神様の真理を、知識としての真理と言うより、むしろ心構えとして腰にギュッと締めていると、パッと動ける。知識として正しいか正しくないかじっくり考えてなんて余裕は実戦ではほぼありません。特に疲れちゅう時とか、考える力がない時に、嘘や誘惑に襲われんでしょうか。そこでパッと反射的に偽りに抗う、神様の子供としての身のこなしをするためには、神様の真理をギュッと腰に締めちゅう構えた心、心構えが常にあること。これが神の武具のトップバッターだと言うのです。

ここから、これまで語られてきた神の武具とは何であるかが、極めて具体的に語られます。そのトップバッターが真理です。真理とは何か。これはポンテオ・ピラトがイエス様に問うた問いでもありますが、真理が単なる知識でないことは、説教題でも予告していました。この真理は頭に巻いて知識を詰め込む、鉢巻きではありません。神様の真理は腰に巻いて、しっかりと立つための真理です。既に11節で「立つことができるように」13節でも「しっかりと立つことができるように」と、立つことの重要さが強調されて実に三度目の「立って」です。前に、私たちは一人一人キリストの体の一肢として、キリストの体なる教会を建て上げる大工であるから、立ってなかったら仕事にならんというイメージも紹介しました。この立つ。神様の子供として立ち、キリストの体を建て上げる神の宮大工として立ち、またキリストの救いを人々に伝えるために各自召されたキリストの一証人として立つために、真理を腰に締めよと先ず言われる。この立つは、真理そのものであられる神様の前に立つのです。単なる知識ではない。繰返し言い続けてきました神様の御前、ラテン語でコラム・デオ、神様の御前に出で立つ、心の姿勢、心構え、心の出で立ちが、真理を腰に締めて立つ出で立ちです。

その出で立ちは、病や障害で床にふしていても、神様の御前に立っている出で立ちには変わりありません。教会で、かわら版と一緒に近隣に配布しています「よろこびの泉」に、水野源三さんの詩が載っているのを皆さんも励まされながらお読みのことじゃないかと思います。障害を負われ自分で立つことはできんのですけど、聖書に導かれてイエス様を信じ、家族も救いに導かれ、言語障害で発話ができんので、あかさた…たちつて…て、と目で瞬きをすることで信仰の詩を沢山つくられた。この水野さんの姿は、寝ながらにして神様の前に立っておられる出で立ちそのものだと思います。ふして尚立つ。神様の御前に立つのです。御前から、さ迷い出たら、立ちながら倒されていることもある。体の姿勢も大切ですけど、全ての基本姿勢は、いつも神様の御前に立つ心の姿勢、それが真理を腰に締める心構え、神様の御前での出で立ちです。

そこに立ってないと、真理が頭だけの知識になる。すると神様の御前に襟を正してはない態度で、真理を大上段に振りかざして、それは間違いだ、何ちゃあわかってないと人を裁いたりしやすい。それは真理を腰に締めてはないのです。むしろそういう態度の時は、イメージが際どいかもしれませんが、腰帯がゆるんで自分の恥ずかしい中身が丸見えで、敵からの攻撃も受け放題、ひょっとしたら真理の代わりに嘘偽りを腰帯にしているということもあり得ます。知識としての真理をねじり鉢巻き頭に巻いて、ネクタイ頭に巻いてええ気分になっているお父さんみたいなイメージでしょうか。で、おんしは、これが、わかっちゃあせん、と自分にとっての真理か何かを主張する酔たんぼを見たら、どうか祈ってあげて下さい(笑)。また自分の腰を見て、福音の真理を締めちゅうか、恥ずかしい姿を自分もしてないか確かめて下さい。

神様の真理を腰に締めちゅう時に、それを大上段に振りかざすことはできません。真理はイエス様の別名です。イエス様が、わたしは道であり真理であり命であるとおっしゃったとき、それはご自分の命を犠牲にしてでも私たちを天の父のもとに連れて行かれる十字架の救いの道をこそ言われたのです。十字架を前にされたイエス様に向かって、真理とは何かとピラトが問うた問いを、私たちも何度も繰返すかもしれません。頭に巻いても真理はわからない。真理は、心して腰に締めるものです。神様の御前に立つために、真理であられるイエス様に、私を支えて下さい、立たせて下さいとしがみつくようにして頼るところで、イエス様と共に、神様の御前に立つのです。何度も何度でも、ごめんなさい、罪人の私を憐れんで下さいと悔い改めて、父よ、あなたが御子を下さった、その恵みをこそ信じます、あなたがイエス様を下さって救いをお与えて下さった、その恵みのほうが私の気持より真理ですと、自分の気持ちがどうであれ、神様の御前に立つ気分であろうとなかろうと、イエス様、私を憐れんで下さいと、常にいつでも神様の御前に出で立つ。三位一体の神様が、その僕の出で立ち、僕が求めた立つための真理を、武具としての真理たらしめて下さいます。神様の御前で襟を正して、キリストが立たせて下さると信じて立てる、暖かな真理として下さいます。

そこでこそ真理とは何かもわかります。およそ真理とは、この救いの神様を、生きておられる私の神様として知ることです。罪を犯して裁きを受ける私たちを自己責任のまま放置せず、赦して新しく生まれ変わらせ、復活させて救い出すために、永遠の御子を罪人の代表として十字架につけられた三位一体の神様を、全人格的に知ることです。全人格的に知るというのは、神様のお気持ちを考えるのが当然なほどに一つに結ばれた関係になると言えばわかりよいでしょうか。これまた際どい譬えになるかもしれませんが、私が妻を全人格的に知らないと、妻の気持ちを考えることが重荷になり、愛でなく義務になり、あるいはうまくやるための手段として気持ちを考える…となると、もはや相手を自分のために利用する道具扱いと変わらんでしょう。およそ一般的に言っても真理とは、相手との全人格的な関わりであり、それ故に真実とか誠とか誠実という言葉でも言い換えられるのが真理です。人格とか気持ちとか考えない数学的な正しい答えというイメージで真理を考えるなら、今日の御言葉はわからんでしょう。イエス様が、わたしは真理であるとおっしゃったのも、俺が正しいと言ったように思うかもしれません。でもその神様は、お前が神の子なら自分を救えと自分は正しいつもりで嘲笑う人の、身代わりに死ぬことを選ばれた神様です。そしてその犠牲は、実に私のためだったとの真理に包まれるとき、それは、単にその内容を心で受け入れるだけには留まりません。そこで心に受け入れるのは名前を持たれ人格を持たれて生きておられる救い主イエス・キリストです。キリストを我が救い主と信じ心に受け入れて、洗礼を受けた真理の子供たちに、キリストは、ではあなたがたは真理を腰に締めて、神様の救いで自らを武装して、わたしに従いなさいと呼ばれるのです。

そのイエス様に従う者たちの腰もまた低いのです。大上段から真理をかざして裁いたりはせず、わたしに倣いなさいとおっしゃったイエス様に倣って神様の愛の僕の出で立ちをして、神様の御前に立つからです。自分で勝ち得た救いではないから、十字架でキリストが代わりに裁かれて得られた正しさだから、十字架の憐れみの正しさだから、真理の腰帯をギュッと締め、神様の御前に立つ僕からは、十字架の憐れみの正しさが伝わってきます。だから人を裁く正しさに立とうとする偽りについてコリントの信徒への手紙二2章では、罪を犯した人を赦し、愛しなさい。それはキリストの前で赦すのだと、その理由がこう言われます。「私たちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。」赦さないことで、その人を引き倒し、教会に不和を起こして、キリストの体を倒そうとする。そのやり口を心得るなら、私たちが腰に締めるべき真理も、一層の思いでギュッと締め直し、神様の御前に立つのです。ここにこそ暖かな救いの真理があるからです。