14/3/9受難節第一主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章10-13節、創世記4章1-8節 「敵は本能寺の裏にあり」

14/3/9受難節第一主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章10-13節、創世記4章1-8節

「敵は本能寺の裏にあり」

 

この武具、あるいは鎧を具体化するときに、先週は、蜜蜂から完全に身を守る完全防護服のイメージを申しました。まあ、色々なイメージの仕方ができるのでして、ロマ書では、光の武具を身に着けなさいというイメージでも語られます。今日の御言葉、12節が語る具体化は、闘いを前提とした武具のイメージです。直訳は格闘とかレスリングですから、戦場で敵と取っ組み合いになることをイメージしています。逃げることは前提としてない。闘う武具、格闘のための鎧です。有名な天路歴程で著者ジョン・バニヤンは、この武具には前の部分しかないと記します。勇ましいイメージです。実際に戦争状態にあった17世紀英国で、そうでなければ闘えない現実をよく知ってのことであったかもしれません。

ただ、御言葉が語る私たちの闘いは血肉つまり人間を相手にする格闘ではない。人間相手の格闘なら、腕力を鍛えればよいのです。でも相手は聖書が悪魔とかサタンと呼ぶ悪の諸力ですから、腕力を鍛えたちどうにもなりません。人間の力では一切太刀打ちできない。だから、10節で命じるのです。主に依存して、主の偉大な復活の力によって、本当の敵と取っ組みあうことができるように、強くされなさい。それ以外には、取っ組み合うことすらできんからです。そもそも見えません。見えない相手と取っ組みあうのですから、どうやって?と思うのですけど、相手はそんなことお構いなしに攻撃を仕掛けてきます。人間全般を、神様に逆らうままにして、その救いから遠ざけて、自分と同じ裁きに遭わそうと手を尽くす。また、そうはいくかと人々を神様の救いに導く教会を、導くらあてさせるかと、倒そうとして、教会に攻撃をしてくる。それと取っ組みあってでも、倒されないようにして、教会は人々にキリストの救いを伝える。これがこの御言葉の背景ですが、じゃあ、相手は見えん相手であるのに、どうして取っ組みあうイメージが出てくるのか。諸霊の攻撃に、抵抗することができるからです。もちろんこの両手で相手の腕をハッと掴むってのではありませんけど、抵抗はできる。ただし主の復活の力のみによってです。救いの信仰を通って流れる力によってのみと言っても良いでしょう。更に具体的に説き明かしていきます。

私たちの闘いは、私たちから悪魔に攻撃をしかけるということはありません。必ず向こうから仕掛けてきます。こちらから何かするとしたら15節で武具として語られる平和の福音を告げる準備を履物として、伝道をするとき、例えば、今礼拝でキリストの救いを語り、また歌い賛美しているこのときとか、この後かわら版を近隣に配布しにいくとき、また各自で家族や友人にお渡しするとき、私たちは言わば福音のブーツを履いたキリストの兵士として、行軍、進軍をしているのです。別に悪霊に攻撃をしようとやっているのではなくて、愛する人々を何とかして救いたい一心でやっているだけです。が、敵は邪魔をされゆうと認識して、伝道らあさせんように、更には礼拝にも行かんようになるよう、だって礼拝は福音伝道のための最前線本拠地ですから、礼拝出席せんなるよう常に攻撃のチャンスを狙っています。あるいは礼拝出席らあしても意味ないし、ほら意味わからんろう、もっと有意義な時間の使い方あるろうとか、自分で聖書読んで祈って賛美歌ったらえいとか、そうした策略を具体的に展開し、思わせ、感じさせ、そうそう、やめやめ、と姿を見せないステルス攻撃を得意とします。御言葉が語ります私たちの格闘は、この忍びこんで来た思いや感情の原因と取っ組みあうのです。インターネット時代で言えば、敵は私たちの心に対するサイバー攻撃、ハッカー攻撃を仕掛けてくると言えばイメージしやすいでしょうか。私たちの心をハッキングして奪い取り、操り、ダウンさせクラッシュさせて、ああもう、神様のことらあ考えれん、教会のことまで手が回らんと、教会員としての忠誠心をフリーズさせる策略を全く体験したことがないというキリスト者はおらんのじゃないでしょうか。

私たちが取っ組みあうのは、そうした攻撃の手に対して、NO!と手を出して、跳ね返すのです。取っ組みあうと言うよりは、その場合、張り手の応酬みたいかもしれません。NO!NO!NO!NO!言うて。NOやと外国力士になると思うたら、嘘嘘嘘!でも良いのです。相手は嘘の王です。エバを騙したときから、その牙からは猛毒の嘘が噴き出ています。私たちは、嘘はいらん!と御言葉の真理によって跳ね返す。それが神の武具です。御言葉の真理に身を包み、私はキリストに結ばれて神の家族の一員として立っちゅうのだから、その私は仮にお前の嘘に倒されても家族の一員、復活のキリストに結ばれて倒れても立っているんだ!と、もし死ぬ時に倒れて死んでも、キリストは私を永遠の命に立たせて下さる!だから私は今立つのだ!と神様の子供として勇敢に立つことができる。そして、立ち向かうことができるのです。嘘に対してです。対抗して立つと御言葉が語るのは、そういう立ち方です。黙って立っているのではない。張り手で跳ね返す、腰の入った立ち方です。

先週、キリスト者として立つというのは、単に赦しを信じるだけでなく、赦しを与えるため私たちの身代わりに十字架で死なれたキリストを父がその偉大な御力によって復活させられた。その同じ力で私たちをも復活させて下さるという、十字架と復活の救いを信じるのだと、改めて私たちの救いの何たるかを簡潔に申しました。そして、その復活の力は私たちをキリストと一つに結ぶ聖霊様によって、私たちの内にもう既に注ぎ入れられておって、そこで順序としては、まず私たちは神様の子供として立つことができる。自分は誰か?神様の子供だと自覚して立つ。私は洗礼を受けた直後、米国の生物学の授業で、キリストを神と信じる生徒は立てと教授に言われ、最初の授業で立ったことがあります。俺はこれから無神論に基づいた進化論を教えるが一切文句は言うな。わかったら座れと言われて、おおこれが迫害かと足が震えたことがあります。あのとき立ち得たのは全く主の御力であったと思います。キリスト者だから点が悪いと言われんよう懸命に勉強して、その教授から褒められたようにも記憶していますが、それは一つに、私がその教授に対して敵対せずに、その裏で笑っている本当の敵に、何を負けるかと、教授のため同じクラスのキリスト者の友人と祈り、むしろ尊敬と謙遜をもって彼に接したからかもしれません。あるいは授業中にそんなことを言うらあて教授は以前キリスト者から余程嫌な攻撃的態度を受けたのかもしれんとさえ思います。私たちの闘いは血肉を相手にするものではない。これは心してなければ、立っているつもりで既に倒されていることもあり得ると思います。私たちが立つのは自分のためではありません。キリストが死者の中から立たされたのも、自分のためではないように、その復活の偉大な力は、人を死と罪と悪魔の策略から救い出すための恵みの御力であればこそ、その力によって立つ立ち方が、どのような立ち姿を持つのかも、わきまえるべきであるでしょう。神の子の立ち方があるのです。神の家族として立つのです。家族は父に従って、長男でもあるキリストに倣って、キリストの後に続く神の僕、またキリストの一兵卒として、神の愛の武具を身に着けて立つのだとも言えます。人々の救いのために立つ。その力の出所はただ一つ、私たちのために死なれた御子を、また私たちの救いのために、死者の中から復活させられた父の愛です。それが、私たちが今立たされている、この御力に他なりません。

その愛の御力によって、私たちが先ず立っているのは、覚えて頂きたくて何度も言いますが、コラム・デオ、神様の御前です。神様の前に、まず立つ。それなしに人前に立つと偉そうになったり、人を恐れたり、また神様の前に立ってないと、すぐ嘘に倒されてしまいますから、まず常に神様の前に立つ。これに心と人生を、集中する。それが立ち続けるための急所です。礼拝で、神様の前に立つ。かわら版を手にして、神様の前に立つ。家族に向き合って、神様の前に立つ。習慣的な罪の誘惑に遭う時、神様の前に立つ。常に、です。悪魔の策略は、私たちを神様の御前から遠ざけようという目的のもとで、あれこれ手を尽くす策略ですから、先ずこの敵の目的を知ることで、あらゆる策略をも見抜けます。もう一度言います。悪魔の目的は、私たちをコラム・デオから遠ざけることです。どんなに聖書に通じていても、どんな信仰の歴史を積み重ねて来ても、人の目にはどんなに敬虔に見えても、神様の前で襟を正していなければ、神の武具が、相応しく装備されません。言わば福音伝道のブーツを、かかとをつぶして履くような、救いのヘルメットを、おおのベルトが面倒いと締めないで、斜めにかぶっているような、工事現場で事故があったら大変ですけど、それが悪魔の策略なのです。神様の御前に立っても攻撃は受けます。同じように攻撃は受けても、神様の御前で襟を正し、神の武具を襟を正して装備して、御前に立っている兵士は、攻撃には遭うけど倒されません。武具を身に着け、御力によって立っているからです。神様の御前から遠のかんからです。苦闘はします。忍耐もいります。いつ終わるのかと思います。でもそこでひたすら、神様の御前に立つのです。そこじゃなかったら立ち得ないからです。自分の力の無力さを思うでしょう。でもそれがどうしたと思います。そんなのはどうでもかまんなります。むしろ闘いが終わらんかと思うからでしょうか。試練の意味もそこにあるのでしょう。生きていくのが嫌にさえなる格闘の中で、それでも神様の御前で立つというのは、例えば、もし俺が死んだら家族は、キリストを信じたにとキリストを憎むだろうかと考えたら、死ねなくなって祈るのです。天の父よ、ならば、あなたが命をお取り下さいと。悪魔の誘惑と取っ組みあいながら、自分のことより何を考えるか言うたら、愛する者の救いを考えて、父よ、なら、どうかこの苦しみを虚しゅうせず、これが聖書の語る通り、キリストの苦しみの欠けたるところを満たすのでさえあれば、父よ、御心をなしたまえと御前で祈って、時を待つ。あなたの愛を信じますからと、愛する者の救いのために自分の十字架を今日一日負い、明日になったら、また一日負う。自分のためには負えない十字架を、愛する者のためなら負える。愛する者のためならば私たちは立って闘うことができる。キリストの愛の兵士として、そうやって立ち得る。そこに、復活の主の御力があるのです。