14/2/16朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章5-8節、申命記15章12-18節 「聖書の教える上下関係」

14/2/16朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章5-8節、申命記15章12-18節

「聖書の教える上下関係」

 

奴隷たち、という言葉は、ちょっとドギツク聴こえるかもしれませんが、手紙が書かれた当時の社会では普通におったのが奴隷たちでした。けれど、人として人格を尊重されないことも一般的であったようです。現代社会での差別にも該当するでしょうか。人種差別も民族差別も未だ世界からなくならず、日本でも差別は相変らずですから、奴隷なんてのは昔の話でなどと悠長なことは言えんでしょう。

ただ、ここで御言葉は差別や人格の話をおもにしておるのではありませんで、どうして奴隷と主人の話をするかいうと、それが教会員の多くにとって具体的な日常生活の場だったからです。無論、礼拝に集まったとき、どうお互いに接するかも、私たちにとって大切なことですから、それは右頁5章19節以下にある。三位一体の聖霊様に満たされて、主の御心が何であるかを知って生きるには、こうだと、まず礼拝するにあたっては、ここに心を留めなさい、ここに御心があると語られた。そして次に具体的な生活の場として夫婦関係が語られ、親子関係、続いて語られるのが奴隷と主人の主従関係、今の日本に当てはめて言うなら、様々な上下関係に該当するかと思います。夫婦に親子に上下関係。いずれもそれぞれ私たちが具体的に苦労するところでしょう。そうよ、まっこと大変ながやきと。その大変なところで、じゃあ神様の御心は何なのかと問うように導くのが、先の右頁5章17節以下の展開です。主の御心が何なのか。具体的な生活のそのところそのところで、主のお考えがあるのです。ここで、こう生きなさい。こう生きるところで、あなたは主から召されている召しに具体的に応えて生きられる。そしてあなたへの御心が満ち、あなたを通してなされる神様の救いのご計画が成就して、教会がキリストの体として具体的に現れ、世界に証を立てる。そのために、私たちの具体的な生活の部分を御言葉は語ります。その一つが日本ではこれに該当するだろうと言いました、様々な上下関係です。

学校での先輩後輩もそうでしょう。親戚づきあいでも色々あります。年齢の上下だけで、ものを頼まれたりする序列があり、ややこしいのは自分より上に立つ者が年若いとき。私みたいなのが先生とか呼ばれる。敬語の使い方、どういう態度をとるか。上下などなければ、どんなに楽かと思いますけど、あるならそこで、どう生きるのが主の御心か。ここで神様はどんな救いのご計画をなそうと、私たちの持っている上下関係において、どう具体的におっしゃるのか。

そこでまず、下の立場、上の人に従わないかん立場の人々に対して、こう語られる。キリストに従うように、恐れ戦き、真心をこめて、肉において、この世においては上に置かれておる者に従いなさい。

恐れ戦いてというのも、ちょっとドギツク聞こえる表現でしょうか。何かビクビクしゆうイメージを想像するかもしれませんが、これは使徒パウロが好む言い回しと言いますか、私であれば、キリストに襟を正すとか、ここが急所ですとか、よう言います。それに似て、恐れ戦いてというのは、ビクビクするんじゃなく、神様の御前にひれ伏す態度です。これは人間のことだけで済むような話じゃなく、神様の御前でなすことだから、その神様にどうお従いすればよいのか、どうしたら主の御名を汚さず、御心を敬い、御名を崇めることになるのか、真剣に、襟を正して、主に向き合っている姿勢のことを、御言葉は、恐れ戦いてと言う。

ですから、自分の上に立つ人の言うことを、はい言うて聞きながら、けれど何よりそこで意識しているのは、その人の後ろに、主がおられ、主に襟を正しているというイメージです。敢えて言うなら皆さんが説教を聴かれます時に、襟を正して聴くのは何故かと考えればすぐにおわかりになると思います。説教者である私の後ろに、主を見ておられるからでしょう。これもまた上下関係に含まれ得るのかもしれませんが、今日の御言葉が語るのは、礼拝後の具体的生き方です。嫌ないわゆるお説教を聞かされたり、上からものを言われたりするときに、これは礼拝説教じゃないがやき、黙って聞くことらあてできん、神様とこれとは関係がない!…とは言えんだろうと御言葉は語るのです。何故なら、そこにもキリストは私たちの主として共におられて、例えば、嫌な上司に、なお従うことで、わたしに従いなさい、わたしの心は、あなたがなおここで従うことによって、しかも良い態度で従うことで、わたしの証を立てることだとキリストがおっしゃる。そのキリストに対する畏れをもって、恐れ戦いて襟を正して、主が、そうおっしゃいますからと、キリストの故にその人に仕えることが、主の御心であると言われるのです。

とすると、この従いなさいという主の御心は、ひょっと従うと聞いてイメージされるような、消極的で、仕方ないから嫌々言うことを聞くというイメージとは、正反対な生き方だとおわかりになるかと思います。随分積極的な生き方です。言わば、自分は下に立つんだと、自ら下に立つ積極的な態度。無論、当時の奴隷にしても、今の上下関係にしても、自分で選んで下の立場におるということは少ないと思います。でもそこで御言葉は、そのものの見方は、神様を抜きにして見やせんかと問うのです。今ここに立っているのは、神様の救いのご計画のもとで立っているのだと、積極的にキリストと共に立ってよい。主がそこで共におられて、その立場を認め受け入れ、奴隷であろうと惨めであろうと、その働きには大切な意味があるのだと、それは神様の救いのご計画にお仕えする働きであるのだと、人の下に立って仕える立場は、言わば使徒たちが立っていた立場と同じほど聖なる立場だとされるのです。私が今立って皆さんに御言葉を取り次いでいるこの立場も、あるいは小言やお説教をされながら人の下で仕える立場も、聖なる神様の前では同じ、キリストにお仕えするという、救いに仕える立場だからです。

少し前、シスター渡辺が書かれた『置かれた場所で咲きなさい』という本がベストセラーになりました。あれも神様に召された場所のこと、一人一人の召命と生き方を問うたのでしょう。シスターの別の言葉で、この世に雑用などありません。全ては神様の前で心をこめてなすべき、聖なる御用です。でもどんな尊い御用であっても雑にやるなら雑用になりますと言われた。シスターもまた、恐れ戦きを知っている人であり、私たちも皆、この場所に、神様の御前に、召され置かれているのです。

こういう言い方もできるでしょう。奴隷と主人の立場は、御言葉で肉によると言われます。言い換えれば、それはこの世だけのことで、あなたは、この世だけで言えば奴隷だが、けれど、もうそういう見方はしなくてよいと言うのです。教会で馴染んだ言葉で言い換えれば、あなたは自ら神様にお仕えするとして、この世では上の立場にいる人に積極的にお仕えしなさいと。人によっては僕も奴隷も同じことじゃないかと思われるでしょうけど、教会では市民権を得た積極的な言葉です。私たちが人に従うとき、自分をどちらだと見るのでしょうか。奴隷の立場か、それとも僕の立場か。これは単なる積極的思考とは違います。キリストに従う僕として恐れ戦き、襟を正して自分を見るのと、自分だけ積極的に自分を見るのとでは、永遠の違いがそこにあります。

今日の御言葉で、恐れ戦きという態度に続いて、真心を込めてと言われます。定まった一つの心でとも言い直せる言葉です。私たちは、上の人の言うことを聞くのであっても、その人の前に立ちながら、一つの定まった心の場所をもっている。それがキリストの御前です。いつもそこに心が定まっている。ラテン語で言われる昔からの教会用語でコラム・デオ、神の御前でという言葉を身に着けても良いかと思います。どこにおっても、どんなときでも、コラム・デオ。神様の御前にいる。コラム・デオが身に着くとシスター渡辺のようになれます。雑な人でなくなり、雑な物言いをせんなり、雑な働きをせんなるのは、自己啓発なんかではなくて、コラム・デオ、神様の御前にいつも心を定め生きようとする、僕の態度が身に付くからです。

それが7節で言われます、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさいという御言葉の秘訣でもあります。シスターも、人に微笑みを忘れないようにと言いますが、そうだなあと思いながら、中々できん。つい、反感や敵対感情を抱く相手に、はい、喜んで、なんて言えないというのも、また共感できることじゃないかと思います。人に対しては、そうなのです。神様が人となられて死んで下さらんかったら救われん、赦される他に救われようのない私たちですから、無条件で人に喜んで仕えるというのは、どだい無理な話だというのが御言葉の前提でもあります。相手が悪いからというのもそうでしょうけど、仕えるほうにも愛がないからです。神様を抜きにして愛せると思うのが、コラム・デオから離れている態度であるとも言えるでしょう。だから、人にではなく主に仕えるように、です。無条件で私たちに仕えて下さり、いのちを捨てて愛して下さったキリストに対してなら、あなたも仕えられるだろうと、主は、私たちが、仕える僕になれるよう、あなたはわたしに仕えなさいと、召して、助けて下さるのです。そこで、主よ、イエス様とお仕えする態度のことを、喜んでと新共同訳は訳しましたが、これは良い意志、良い志を持ってとか、良い態度でとも言える言葉です。キリストに対する態度です。キリストに心の眼差しが向かっていって、キリストの召しを聴く態度がそこに生まれる。そこに祈りが再び始まる。主が十字架で始めて下さった執り成しの祈りが、私たちの心にも宿り、染み込んで、キリストが立たれるその人の前で、私たちがこの世で従うその人のために、キリストと一緒に祈るのです。この人をお救い下さいと。そのために用いて下さいと。キリストが始めて下さり、私たちがそこで継承する救いの執り成し、救いの奉仕は、決して雑用になりません。それは神様が心から喜ばれる聖なる救いの奉仕、聖なる僕の働きです。それが下に立つ立場です。キリストと共に立つのです。神様の御前で立つのです。コラム・デオの僕は報いられます。そこにこそ神様の御心があります。