14/1/19朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章25-29節、創世記3章8-9節 「妻のため命を捨てる愛」

14/1/19朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章25-29節、創世記3章8-9節

「妻のため命を捨てる愛」

 

キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように。これが夫たちに神様が要求される自分の妻の愛し方です。そして直ちに申しますけど、この御言葉を私たちは、21節で命じられているように、キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合う態度で聴く必要があります。でないと自己中心に聴きやすい。その愛がないことへの不満や、逆にひょっと自己満足の態度で聴くこともあるかもしれませんが、いずれにしても、キリストに襟を正して向き合って聴くのでなければ、自己中心の態度で、今の状況に御言葉を当てはめて、キリストに対する畏れなき結論になってしまうというのはよくあるでしょう。無論それは独身の人にも当てはまります。先週の妻に対する御言葉と同じで、今日の夫に対する御言葉も、自分には関係ないという人は一人もいません。夫が妻を愛する愛し方は、どんな態度で、どこに向かって、何をゴールに愛するのか。それは、キリストの教会に対する愛によって示されているというのですから、私たちは今ここで何よりもキリストの愛をこそ聴くのです。私たちとキリストのゴールを聴くのです。私たちのためにご自分をお与えになられたキリストの愛を聴きながら、私は関係ないという人はおらんでしょう。まずキリストの愛に、襟を正して向き合うのです。そのときに、すぐ自己中心になりやすい、しかし死んでも自分は自分というこの自分を、じゃあキリストは、どう受けとめて下さっており、それをどうしたらよいとおっしゃっているのかも、よくわかるでしょう。自分とは何かが、十字架のキリストの御前で、わかるのです。

今日の御言葉には、自分という言葉が随分出てきます。のっけから、キリストがご自分をお与えになられたと、キリストの自分からスタートして、じゃあ、あなたの自分はどうなっている?と問われる。そういう問い方だとも言えます。キリストももちろん自分を持っておられます。自分がないわけじゃない。あるから、それを与えることができるし、そのために自分を捨てることもできる。そしてそれは、教会のためにだと言われます。教会のために、ためにと訳された言葉は新約聖書に何回も登場するヒューペルというギリシャ語で、うんちくとしてではなく信仰の大事なキーワードとして覚えて欲しいのですが、~に代わって、~の身代わりとして、という意味の言葉です。十字架のヒューペルと言っても良いかと思います。キリストが私たちのためにご自分を与えられたのは、単なる模範としてとか自分の愛の証明としてではなく、私たちの身代わりに私たちの罪を背負って、身代わりに裁かれ死んで下さったから私たちはその身代わりに罪赦されるという、私たちのため、教会のためです。言い換えれば、キリストが私たちのためにご自分を与えられたというのは、私たちの代表としてのご自分を死に与えられたのであって、他人として個人としてのキリストが立派なことをなさったというのでは断じてありません。有名なコリントの信徒への手紙一13章の愛の讃歌にはこうある。「自分の全財産を人に施しても、また自分の体を焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、一切は無益である」(口語訳)。そこでの施したり渡したりする自分が、身代わりの自分でなかったら、別の御言葉で言えば、その隣人を自分のように、自分として、その人が自分になって、自分がその人になって、自分のように愛するのでなければ、そこには愛したいと思いながらも自分独りでいる自分がいるだけで、それは虚しいというのです。隣人に対する愛のルールがそうであるなら、ましてや妻に対する夫の愛のルール、妻を自分として愛しなさいというのは、本当に自分として愛するのです。二人は一体だからです。むしろ隣人たちとの関係を社会と表現して、全ての社会が生まれる基礎単位が夫婦であることに思いをはせるなら、どうして夫婦が一体であるのか、わかりやすくなると思います。少なくとも神様が世界をスタートされたときの創造の秩序ではそうであり、神様の秩序における夫婦関係の秩序が崩壊するとき、社会が崩壊してきたというのも歴史の証明する事実です。その社会の根源である夫婦たちが、人間関係とは自分自分で歩むのではなく、人と私が一つになって、それが自分となって歩む愛の歩みだと、自分とは、その人と一つになった自分なのだと子供たちに証しし、家族、友人、知人、隣人、社会に仕え証しするとき、キリストの救いの神秘もわかるでしょう。頭より先に心でわかるんじゃないでしょうか。神は愛です。愛がわからんと、神様はわからんし、どうやって生きていけばよいかもわからなくって、苦しい生き方を強いられている私たちのために、しかし、キリストが来て下さって、私たちとなって死んで下さって、あなたは、だからわたしとなって生きなさい、神の子の命に生きればよいと、一つになるために来て下さった。そして、夫に命ずるのです。この愛以外に、妻を救えるか。家族を救えるか。この愛を証しして生きて死ぬため、わたしについて来なさいと、キリストは命じて下さるのです。

夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。そして、それにはゴールがあるのだと、こう続きます。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやその類のものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体として妻を愛するのですから、この愛にはゴールがあることを意識して、自分の妻を見る。妻も自分の夫を見る。また教会は、自分たちを栄光に輝く教会としてご自分の前に立たせて下さるキリストを見るのです。教会生活で考えるのがわかりやすいでしょうか。頓挫しそうになるのです。理由は幾らでもつけられるのですけど、結論としてもう自分としては続けることが困難だと結論づけたくなるときがある。夫婦関係も同じでしょう。結婚の愛の眼差しはロマンティックに相手を見るときも、あるいは穏やかに見るのが困難なときも、なら尚のこと、この愛のゴールを見るのでなければ、今の状況を自分に引き寄せて判断し、自分で結論を出したくなる。何を見るにもゴールを見ることが必要ですけど、こと教会と夫婦に関してはそうだと御言葉は強調する。ゴールを見ない近視眼で幾ら目の前の相手や状況を見ようとしても、相手の真実が見えてない。そもそも自分が見えてないから、状況も見誤ってしまうのだと。あなたが、これが自分だと思って見ている自分は、焦点が合ってない目で見ているから、嘘の自分を見ている。しかし焦点をゴールに合わせるなら、あなたは自分も、相手も、正しく見える。キリストがご覧になっておられるように、正しく相手を見ることができると言う。それは既に二週続けて紹介した最後の審判におけるキリストの御言葉とも重なる真理です。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。キリストの御前に立つゴールに焦点が合っておれば、兄弟姉妹が見えるのです。キリストが、その人と一つになって下さって、この人はわたしだとおっしゃる。命がけでおっしゃる。そして夫に対しても、あなたも自分の妻と一つじゃなかったか。そうだろう。あなたの妻であるこの姉妹にしたのは、自分にしたのだ。そしてそれはまたあなたがたの頭となった、わたしにしたのだと主は言われます。ゴールに焦点を合わせる時に、妻が見えるし、自分が見える。自分は妻と一体で自分です。一体の自分でない自分を考え、自分は自分はと思うのは、自分を見損ねているのです。自分とは誰か。キリストが教会を愛し、教会のために、教会の身代わりとなって、教会をご自分と一つとされて、その愛に、ご自分をお与えになった。教会の身代わり、頭、代表として、教会と一つであるのが、わたしキリストだと言われるように、夫は妻を愛し、自分を与える。何故なら、その自分は妻と一つの自分だからです。妻は自分と別の存在ではありません。教会がキリストとは別の存在ではないように、その御体であるように、キリストの体であるように、妻は夫と一体ですから、夫も妻も、自分と言うとき、もはや自分中心の自分ということは、おかしくなってしまう。自分という言葉の持つ意味が、まったく変わってしまうのです。それがゴールに焦点を合わせる時に、見えてくる結婚の神秘です。それは自分という存在が救われる神秘でもあるのです。

昔好きだった歌で、急に俗っぽい話になりますが、関白宣言という歌の最後、夫婦で歳をとって死ぬ時は、こうありたいという歌詞がある。お前のお陰でいい人生だったと俺が言うから、必ず言うから。別にお涙頂戴しようというのじゃなく、ゴールを見ることの大切さを私たち本当は知っているはずだと訴えたいのです。この歌もまた結婚とは一つとなって生きることだと歌い、そこでグッとくる。そうだと思う。無論何もかも宣言通りいくはずもなく、さださん自身、結婚後、関白失脚という歌を作ります。キリストが身代わりになって下さらんかったら、救われない罪人たちであるのですから、思い通りにはいかんのです。お互いに腹が立つこともあれば落ち込むこともある。でもそこで、ゴールを見上げられるのです。心を高くキリストにあげて、だからこそあなたは愛の欠けた私たちのため、その私たちとこそ一つになるために、天から身を投げ出して、また私たちを引き上げても下さるのですと、栄光のゴールに目を留めて、そこから今を見られるのです。教会生活も夫婦生活も、ゴールから今を見る時に、むしろ解決方法が見えてきます。清められる必要が見えてきます。聖なるもの、神様のものとして、聖別されている自分として生きる必要が、自分事として見えてきます。またそこでそう生きてない嘘の自分も見える。教会も夫婦も自分自身も自分のものとして見ている汚れを、だからキリストが御言葉によって清められ、御言葉の語る自分、御言葉の語る夫婦、御言葉の語る教会を見せて下さって、このゴールにわたしが連れて行くから、わたしについてきなさいとおっしゃる、何度も何度でもそうやって召されるキリストに襟を正して向き合うのです。キリストに襟を正して仕え合うところで、聖なる教会また夫婦として歩める。神様の思いを自分たちの生きる目的、ゴールとする聖なる教会また夫婦として、自分を捨てるところで自分を得て生きられるキリストと一つとされた聖なる自分として共に歩んでいけるのです。