13/12/15待降節第三主日礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書1章26-38節、歴代誌上17章10b-14節 「神様がなさることなら」

13/12/15待降節第三主日礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書1章26-38節、歴代誌上17章10b-14節

「神様がなさることなら」

 

どういう風に去って行ったのでしょうか。そこは、でも一番伝えたいところじゃないから、というので詳細は省かれているのでしょうけど、この天使がマリアのもとに来る場面は、よく絵画としても描かれます。映画のワンシーンとしても描写されているのを皆さんもご覧になったことがあるかもしれません。絵画では大体、天使ガブリエルに羽がついておって、なんか空中辺りからマリアに受胎告知をしている構図も少なくありません。こういうのは、私、具体的に考えるのが好きでして、もし羽ばたきながら空中で告げるというのだと、ホバリングっていうのでしょうか、頭上でバサバサされよったら、ちょっとうるさいんじゃないかと想像するのは私だけでしょうか。いや天使は重量ないからというのなら、羽はいわば象徴でって、この想像あるいは妄想は際限なく続くのですけど、聖書に聴くとき、具体的に考えるというのは大切なのです。でないと聖書を通して私たちに語りかけられる神様をも、具体的でなく、抽象的に、何となくこんな神だろうという妄想にしてしまうおそれがあるからです。言い換えれば、これが自分にとっての神様らしさという、らしさに聖書を当てはめて、そのらしさと合致しない聖書の話は、いやそれは違うだろうと、拒否してしまいかねない。おそらく皆さんの想像する天使らしさというのもあるのだと思います。その天使には羽はあるでしょうか。あってもよいと私は思うのですけど、どうしてそう思うかというと、ダニエル書にガブリエルが飛んできたと御言葉が告げているからです。イザヤ書には六つの羽がついていて飛んでいるセラフィムと呼ばれる天使も幻の中ですが登場します。要するに今日のマリアの言葉を借りるなら、主のお言葉どおり、そうなのだと思うからです。らしさの根拠をどこに持つかです。自分に持つなら妄想になりかねないので、御言葉に持つ。そこに神様がおっしゃる通りの神様らしさ、神様のお姿が具体的に見えてきます。神様が神様らしく私たちに向き合われるというのは、どういう向き合われ方をされるのでしょうか。妄想でない真実の救いとは、どういう神様の救いでしょうか。

今日の御言葉に告げられる神様らしさは、こうです。まずガブリエルをマリアのもとに遣わすにあたって、神様が、ガブちゃん、ちょっと。これは妄想ですが(笑)、ガブリエルを、ガリラヤの町、ナザレに遣わすと命じられた。この行き先がすごいのです。淡々と描かれてあるように見えますが、これ実は12月、待降節に入って二週続けて聴いてきましたクリスマスの預言、救い主誕生の約束が、ガリラヤとナザレ、この二つの地名が語られることによって同時に成就した瞬間なのです。

今年の待降節はイヴ礼拝で読まれる御言葉を順に説き明かしておりますが、まず最初の預言イザヤ書9章(1073頁)のすぐ前にこうあります。「先に…異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」神様に逆らい続けた裁きとして、北イスラエルの北方、ガリラヤ地方がアッシリア帝国に強奪されたときの預言だと1日の礼拝で説き明かしました。神様は、しかし、わたしはガリラヤを見捨てない。むしろ裁きの象徴となったガリラヤを救い主登場の舞台としよう。裁かれたガリラヤは、救われるガリラヤになると主は言われる。そのお言葉どおり、イエス様はガリラヤの夫婦のもとで育てられ、やがてガリラヤを出発点として宣教を始められます。ガリラヤで、あの約束の成就がいよいよ始まる。さあ、ガブリエルよ、あの栄光のガリラヤに飛んで行けと告げられる。

そして先週の御言葉イザヤ書11章では、やはり神様の裁きを受け切り倒されたイスラエル、人間の目にはもうこれで終わったと映る他ない、切り倒された切り株から、神様は、しかしその切り倒された切り株を、わたしはダビデに約束した永遠の王座とする。その切り株から生え出る若枝のように、切り倒されたダビデ王朝の直系として生まれる救い主を与えようと、イエス様誕生の預言がされた。これもまた裁きが裁きでは終わらずに、そこに救いがあるのだという救いのメッセージでしたが、その生え出た若枝を意味する言葉がナザレという町の名になるのです。日本語にすれば若枝町と言ったらよいでしょうか。

天使ガブリエルが、神様からガリラヤのナザレに飛んで行きなさいと告げられ、その伝えるべきメッセージを聞いたとき、ついに時が来た!と興奮をしたに違いないと思うのです。これら二つの預言とのつながりがわかると、それまで余り大した意味を感じなかったかもしれない二つの地名に、どんな神様の思いが込められているか、おわかりになるのではないかと思います。たまたまそこになったというのではなく、神様がガリラヤのナザレを選ばれた。ここに神様の、神様らしさが現れています。神様は、約束を実現なさる神様です。しかもその救いの約束とは、裁きから救いが生じる救い、それがわたしの与える救いであり、わたしは必ずその救いをこそ実現すると言われた。そのお言葉どおりに十字架で死なれる裁き主が、ガリラヤのナザレの娘の胎で人となるのです。

ガブリエルがそのメッセージを携え、喜び飛んで行って、ひょっと、いきなりマリアに、おめでとう!って伝えて、わ~ってマリア驚いたんじゃないかと私は想像するのですが、全く逆に、ある映画では、マリアが外で用事をしていると周りの林の木々がザワザワって揺れて、まるで何か出そうっていう怖い感じになって突然後ろに無表情な天使が。怖れることはありません(笑)。まあ、演出としては面白いですが、無表情な天使ね~と私は思うのです。天使は神様の大使ですから、言わば大使館で働く国の大使が、国の顔をしょって外国で働くように、天使は神様の顔を伝える大使でもある。それが無表情ってのは、そこで描かれる神様らしさも、損なわれ、ダメージを受ける、傷をつけられるのじゃないかと思います。キリスト者もそうでして、私たちの表情や生き方に表れる態度を見て、キリストの神様はって人から評価されてしまうことは少なくありません。それを聖書は、私たちはキリストの大使であると言うのです。そうなると、私たちが思い描いている神様らしさというのは自分の事だけでは当然なくなります。私たちの神様は、どんな表情で私たちに向き合われるのでしょうか。どんなお気持ちで私たちに日々向き合っておられるのでしょうか。それを聖書全体から聴いて、お言葉どおりの神様に私たちが向き合う必要がある。それは例えば家族と向き合う時、私はキリスト者らしくしてないんじゃないかと心が暗くなる時にも知らされるのです。おそらくそれぞれに思っているキリスト者らしさというのもあるのだと思います。それがお言葉どおりのらしさかどうかも吟味する必要はあるのですけど、そもそもキリスト者らしさがどこで意識されるかというと、例えばこのクリスマスの季節、その御子に救われた者として、家族や友人たちといるときではないかと思うのです。

そして、そういうところで、ああ自分はキリスト者らしくないと自分を責めるか、それが嫌で逃避したくなるところでこそ、どんな神様が、じゃあそんな私に向き合って下さり、共におって下さっているのかと、キリストを下さった神様を見上げて、キリスト者らしくされるのです。神の民でありながら裁きを受けたガリラヤが、しかし救われるガリラヤとして神様から選ばれ直されてしまう。それこそ神様らしさなのだと、その神様が、今この私に向き合っておられて、あなたを通してわたしは救いの業を行うと言っておられる。わたしはあなたと共にいる、あなたを恵む神であると、ご自身の神様らしさを私たちにも現わされます。

その神様らしさに向き合ったマリアに、美しい、本来の人間らしさも現れます。私はこの姿に本当に打たれます。流石にマリア様とは言いませんが(笑)、彼女が神様を信頼する姿は感動するものがあります。約束の救い主を宿すというだけで、彼女の頭の中はグルングルン状態だったんじゃないかと思うのですけど、一緒に暮らしている家族はどう思うだろうか、これから暮らすことになるはずの婚約相手は何て思うろうか、本当に暮らしてくれるろうか、私を信じてくれるだろうか、そう考えただけで不安に襲われたに違いないのです。他の人たちが何と言おうと、家族や婚約者は、私を信じてくれるだろうか。人は、他人はどうであれ、自分にとってかけがえのない人が、この人は私を信じてくれているって確信があれば、苦難にも立ち向かっていけるのです。よく引用する詩人八木重吉が、妻が私を信ぜぬとき、私の取るべき道は二つ、死か、悪魔になるか、その二つだと言っていますが、夫が私を信ぜぬときと言っても良いのでしょう。それぞれに共感するところがあるのじゃないかと思うのですが、マリアはじゃあそういう不安に襲われるところで、どんな道を選んだか。じゃあ私は神様を信じているか、です。人が私を信じてくれるかより、私は神様の愛を信じているか。自分の事で頭が一杯になるところで、それが人間らしさのようにさえ思われて、だって人間はそうだよってところでマリアは、この私に向き合って下さっている神様は無表情な決断を私に押し付ける神でもなければ、私が信じようが信じまいが勝手に事を進めて行く神でもないことを、神様は私が神様を信じることを、求めておられる方であると、神様を信じる関係を選ぶのです。大切な人から信じてもらえるかは、なお大きな問題だったと思います。けれどもマリアが選択した道は、人間が神様に対して持ちやすい、あるいは妄想してしまいやすい人間と神様との選ぶ関係を、ひっくり返してしまうのです。人間が神を選んだり、神の言葉をどうしようかと自分で選ぶのではなくて、神様に選ばれてしまった者として、もう神様により救い主を恵まれ与えられてしまうことを、選ばれてしまったガリラヤに属する者として、私はただその神様の恵みを信じることを選びますと。それがマリアが申しました信仰の告白、私は主のはしため、僕ですとの告白なのです。信じます、あなたのお言葉どおり、この身になりますように、あなたはそれを神様らしく選ばれたのですね、私はそのあなたの決断を信じますと、マリアが神様を信じる姿。そこに神様らしい救いの恵みを信じた、まことに人間らしい、神様の愛の形に造られた人間が、美しく現れているのです。神様から恵まれる人間らしさに私たちもまた生きられるのです。マリアから天使が去った後も、神様は共におられました。その神様を信じる人間らしさが、キリストの救いを運ぶのです。