13/11/17幼児祝福礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章4節、詩編139篇 「あなたは愛されている」

13/11/17幼児祝福礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章4節、詩編139篇

「あなたは愛されている」

 

父親たち、これは両親よと言い換えても良い言葉ですけど、その次がいいですね。子供たちを怒らせてはならない。子供たちからアーメン!と聴こえてきそうですが(笑)、いや、ほんと、これが子供たち一人一人を愛し、お造りになられた神様の、幼児祝福の言葉なのです。そして、この御言葉を聴く時に、私たちは皆、子供として生まれたことを同時に思い起こしたら良いのです。私たちにも語られていたのです。幼子を、いやどんな人であっても、神様は一人の大切な人格として尊んで下さり愛して下さっていることを、この御言葉は語ります。怒らせてかまん人なんておらんのです。

しかもこの怒るという言葉は、激しい怒りを表す言葉です。激憤とか憤激とか、ひっくり返しただけですが、あるいは前にも言いました、激オコプンプン丸とか、あんまり怒ってなさそうですけど(笑)、この怒りは、言わば自分の人格が、私もあなたと同じ一人の人格を持った人間であるという自分の人格が、全否定されたように感じて、腹の底から湧き起こってくるような怒りと言ったら説明し過ぎでしょうか。子供の怒りだから、そこまで理解してはないかもしれませんが、言葉で説明できんからと言って、その怒りの出所が人格の最も深い所から出ていないとは言えんでしょう。しかもその子供の怒りを神様ご自身が言わば肯定しておられるのですから、私たちは子供の怒りに向き合って、子供の人格を認めるべきでもある。軽んじてはならんと主がおっしゃるのです。

私も父親ですから襟を正しながら語っているところが正直あります。決してご立派な説教をしているつもりはありません。むしろこう思っているのです。私も子供だったから、こんな親になりたいという思いがある。子供を祝福することのできる親。その神様の祝福に、私自身生きられる祝福された親になりたい。共に神様の祝福に生きたい。それが私たちの願いではないかとも思います。その願いがこの御言葉を通して成就する。まこと祝福に満ちた御言葉です。

さてしかし、どうして子供を怒らせることになるのでしょう。幾つか道筋は考えられます。ただ、乳幼児や思春期の場合、ギャーと泣き叫ぶの全部、ああ怒らせたらいかんと考えておったらノイローゼになるかもしれませんので、泣き叫ぶ=怒りという単純化は避けたほうがよいとも思いますが、子供への心構えは皆共通します。一つは、子供への態度や接し方が原則主義、これはこうなんだからこうなんだ!という律法主義の押しつけになって子供の人格を尊ばない場合、親の気分で振り回されるとか、子供にしたらたまったもんじゃないから怒る。当然のことでしょう。本来は、主がしつけ諭されるように育てられるのが当然なのですから、私は神様の子供として生きるために生まれてきたということを、子供や大人が理解していようといまいと、心のどこかで引っかかるから怒るんじゃないでしょうか。おかしいと。でも、どうしておかしいか、神様に聴いて、だからだと思うのでなく、神様を無視して自分に理由を求めたりするのが罪なのですけど、それでも自分が神様の形に生きるために生まれてきた、生まれてきた本当の理由を本当は知っていて、何か違うと、私たちは皆、神様により、その名を愛と呼ばれる神様の形に造られて生まれてきたのに、愛され、愛することがなかったら、やはりおかしいと魂が叫ぶ。その叫びを子供は大人より知っているのかもしれません。だからむしろ私は子供たちに言います。子供たち、いいですか、間違った大人にならないでください。あなたは神様に愛されるために生まれてきました。そして私たち大人は、あなたが生まれてきた理由を、全力で全うさせたいと願っています。願いつつできない私たちを赦しても欲しい。でも信じても欲しい。私たちは神様の愛の中を、あなたたちと一緒に生きていきたいのです。父よ、私たちのこの願いを全うして下さい。アーメン。

ついお祈りになってしまいましたが、原則主義、律法主義を押しつけるというのは、責任逃避です。言い換えれば、言っていることは正しくても、そこに愛する責任がないから怒る。神様の名前さえ出してきて、だから、こうしないあなたは間違っていると、正しいことを、しかし、憐れみ抜きで押しつける無責任を、イエス様は、あなたは間違っていると言われました。神様の憐れみなき正しいだけの正しさは間違っているという、このことは、本当は私たちも、知っているのだと思います。

もう一つ子供が怒る理由として、これと逆の場合もあります。本当に正しいことを、しかも単に言われただけでなく、愛の実践を伴い説得力を持って、だから、こうでしょうと説得される時、例えばイエス様の愛の正しさに、押しつけ主義者たちは、激怒しました。殺意さえ持って、後に本当にイエス様を十字架につけるほど、怒った。この場合、正確に言い直すならこうです。人は自分が間違っていると認めたくないので、愛の正しさに、怒りをもって跳ね返っていくということがある。

じゃあその場合、あるいは先の正しい怒りの反応であっても、怒りの関係は相応しい関係ではありませんので、怒りを引き起こす罪を、親も子も互いに捨てあって、神様の愛のもと、共に祝福に生きるためには、どうしたらよいのか。「主がしつけ諭されるように育てなさい」と言うのです。主イエス・キリストが私たちをしつけ諭されるように、イエス様を真似て子供たちを愛したら良い。その愛故に子供が反抗しても。

主のように、というのであれば、急所は一つです。キリストが十字架で私たちを罪ごと受けとめて引き受けて、身代わりに死んで下さった。愛の正しさは、赦す正しさだった。しかも相手のなすがまま、えいえいというのじゃなく、罪は罪として認めつつ、しかしその裁きと苦しみを代わりに十字架で引き受けて、だから、一緒に生きていこうと、十字架で拡げられた両手一杯の愛で、この愛に一緒に生きよう、と招く。

これが十字架です。十字架のもとで人は生きられる。愛する人を生かすため、自分は死ぬことさえできる愛の十字架の前にひざまずいて空っぽの両手を差し出して祈るのです。イエス様、私の力ではできません、子供を愛することのできない私を憐れんで下さい。そして愛する者に造り変えて下さい。十字架の愛で愛する者へと、あなたの愛に生き、また死ねる十字架の僕にしてくださいと、空っぽの両手を差し出して求める僕は、空っぽのままで帰されることはありません。イエス様の御言葉があります。義に飢え渇く者は幸いである。愛の正義に飢え渇いて空っぽの両手を差し出す、その人々は満たされるからと、イエス様は、私たち全員を招かれて、優しくおっしゃって下さったのです。

その十字架の恵みの木のもとで、自分自身神様の子供の一人として、神様から託された子供たちを、神様に愛される子供として育てる中で、自分もまた育てられます。神様の愛で愛する者にしつけ諭され、育てられ、共に祝福に生きられるのです。感情的になりそうなとき、あるいはもう既になってしまったとき、主よ、と十字架の赦しと愛を求めるところで、何度でも十字架で死ぬのです。イエス様と一緒に自分に死んで、激する感情を殺して落ち着いて、新しい態度で、再度、子供に接し直すとき、子供は親の成長を見るのです。親が成長するのであれば、子供が成長せんはずがない。それは祝福された説得力です。そこで丁寧に言葉で諭したら、子供の理解も成長します。何が罪で、何が赦しで、何が愛の正しさであるのか、そこにイエス様の愛をも知る。親子で、家族で、一緒に知る。私たちは神様に愛され、愛するため生まれてきたのだと。こんな祝福はありません。その、こんな祝福にこそ生きるのです。