13/12/15待降節第三主日礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書1章26-38節、歴代誌上17章10b-14節 「神様がなさることなら」

13/12/15待降節第三主日礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書1章26-38節、歴代誌上17章10b-14節

「神様がなさることなら」

 

どういう風に去って行ったのでしょうか。そこは、でも一番伝えたいところじゃないから、というので詳細は省かれているのでしょうけど、この天使がマリアのもとに来る場面は、よく絵画としても描かれます。映画のワンシーンとしても描写されているのを皆さんもご覧になったことがあるかもしれません。絵画では大体、天使ガブリエルに羽がついておって、なんか空中辺りからマリアに受胎告知をしている構図も少なくありません。こういうのは、私、具体的に考えるのが好きでして、もし羽ばたきながら空中で告げるというのだと、ホバリングっていうのでしょうか、頭上でバサバサされよったら、ちょっとうるさいんじゃないかと想像するのは私だけでしょうか。いや天使は重量ないからというのなら、羽はいわば象徴でって、この想像あるいは妄想は際限なく続くのですけど、聖書に聴くとき、具体的に考えるというのは大切なのです。でないと聖書を通して私たちに語りかけられる神様をも、具体的でなく、抽象的に、何となくこんな神だろうという妄想にしてしまうおそれがあるからです。言い換えれば、これが自分にとっての神様らしさという、らしさに聖書を当てはめて、そのらしさと合致しない聖書の話は、いやそれは違うだろうと、拒否してしまいかねない。おそらく皆さんの想像する天使らしさというのもあるのだと思います。その天使には羽はあるでしょうか。あってもよいと私は思うのですけど、どうしてそう思うかというと、ダニエル書にガブリエルが飛んできたと御言葉が告げているからです。イザヤ書には六つの羽がついていて飛んでいるセラフィムと呼ばれる天使も幻の中ですが登場します。要するに今日のマリアの言葉を借りるなら、主のお言葉どおり、そうなのだと思うからです。らしさの根拠をどこに持つかです。自分に持つなら妄想になりかねないので、御言葉に持つ。そこに神様がおっしゃる通りの神様らしさ、神様のお姿が具体的に見えてきます。神様が神様らしく私たちに向き合われるというのは、どういう向き合われ方をされるのでしょうか。妄想でない真実の救いとは、どういう神様の救いでしょうか。

今日の御言葉に告げられる神様らしさは、こうです。まずガブリエルをマリアのもとに遣わすにあたって、神様が、ガブちゃん、ちょっと。これは妄想ですが(笑)、ガブリエルを、ガリラヤの町、ナザレに遣わすと命じられた。この行き先がすごいのです。淡々と描かれてあるように見えますが、これ実は12月、待降節に入って二週続けて聴いてきましたクリスマスの預言、救い主誕生の約束が、ガリラヤとナザレ、この二つの地名が語られることによって同時に成就した瞬間なのです。

今年の待降節はイヴ礼拝で読まれる御言葉を順に説き明かしておりますが、まず最初の預言イザヤ書9章(1073頁)のすぐ前にこうあります。「先に…異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」神様に逆らい続けた裁きとして、北イスラエルの北方、ガリラヤ地方がアッシリア帝国に強奪されたときの預言だと1日の礼拝で説き明かしました。神様は、しかし、わたしはガリラヤを見捨てない。むしろ裁きの象徴となったガリラヤを救い主登場の舞台としよう。裁かれたガリラヤは、救われるガリラヤになると主は言われる。そのお言葉どおり、イエス様はガリラヤの夫婦のもとで育てられ、やがてガリラヤを出発点として宣教を始められます。ガリラヤで、あの約束の成就がいよいよ始まる。さあ、ガブリエルよ、あの栄光のガリラヤに飛んで行けと告げられる。

そして先週の御言葉イザヤ書11章では、やはり神様の裁きを受け切り倒されたイスラエル、人間の目にはもうこれで終わったと映る他ない、切り倒された切り株から、神様は、しかしその切り倒された切り株を、わたしはダビデに約束した永遠の王座とする。その切り株から生え出る若枝のように、切り倒されたダビデ王朝の直系として生まれる救い主を与えようと、イエス様誕生の預言がされた。これもまた裁きが裁きでは終わらずに、そこに救いがあるのだという救いのメッセージでしたが、その生え出た若枝を意味する言葉がナザレという町の名になるのです。日本語にすれば若枝町と言ったらよいでしょうか。

天使ガブリエルが、神様からガリラヤのナザレに飛んで行きなさいと告げられ、その伝えるべきメッセージを聞いたとき、ついに時が来た!と興奮をしたに違いないと思うのです。これら二つの預言とのつながりがわかると、それまで余り大した意味を感じなかったかもしれない二つの地名に、どんな神様の思いが込められているか、おわかりになるのではないかと思います。たまたまそこになったというのではなく、神様がガリラヤのナザレを選ばれた。ここに神様の、神様らしさが現れています。神様は、約束を実現なさる神様です。しかもその救いの約束とは、裁きから救いが生じる救い、それがわたしの与える救いであり、わたしは必ずその救いをこそ実現すると言われた。そのお言葉どおりに十字架で死なれる裁き主が、ガリラヤのナザレの娘の胎で人となるのです。

ガブリエルがそのメッセージを携え、喜び飛んで行って、ひょっと、いきなりマリアに、おめでとう!って伝えて、わ~ってマリア驚いたんじゃないかと私は想像するのですが、全く逆に、ある映画では、マリアが外で用事をしていると周りの林の木々がザワザワって揺れて、まるで何か出そうっていう怖い感じになって突然後ろに無表情な天使が。怖れることはありません(笑)。まあ、演出としては面白いですが、無表情な天使ね~と私は思うのです。天使は神様の大使ですから、言わば大使館で働く国の大使が、国の顔をしょって外国で働くように、天使は神様の顔を伝える大使でもある。それが無表情ってのは、そこで描かれる神様らしさも、損なわれ、ダメージを受ける、傷をつけられるのじゃないかと思います。キリスト者もそうでして、私たちの表情や生き方に表れる態度を見て、キリストの神様はって人から評価されてしまうことは少なくありません。それを聖書は、私たちはキリストの大使であると言うのです。そうなると、私たちが思い描いている神様らしさというのは自分の事だけでは当然なくなります。私たちの神様は、どんな表情で私たちに向き合われるのでしょうか。どんなお気持ちで私たちに日々向き合っておられるのでしょうか。それを聖書全体から聴いて、お言葉どおりの神様に私たちが向き合う必要がある。それは例えば家族と向き合う時、私はキリスト者らしくしてないんじゃないかと心が暗くなる時にも知らされるのです。おそらくそれぞれに思っているキリスト者らしさというのもあるのだと思います。それがお言葉どおりのらしさかどうかも吟味する必要はあるのですけど、そもそもキリスト者らしさがどこで意識されるかというと、例えばこのクリスマスの季節、その御子に救われた者として、家族や友人たちといるときではないかと思うのです。

そして、そういうところで、ああ自分はキリスト者らしくないと自分を責めるか、それが嫌で逃避したくなるところでこそ、どんな神様が、じゃあそんな私に向き合って下さり、共におって下さっているのかと、キリストを下さった神様を見上げて、キリスト者らしくされるのです。神の民でありながら裁きを受けたガリラヤが、しかし救われるガリラヤとして神様から選ばれ直されてしまう。それこそ神様らしさなのだと、その神様が、今この私に向き合っておられて、あなたを通してわたしは救いの業を行うと言っておられる。わたしはあなたと共にいる、あなたを恵む神であると、ご自身の神様らしさを私たちにも現わされます。

その神様らしさに向き合ったマリアに、美しい、本来の人間らしさも現れます。私はこの姿に本当に打たれます。流石にマリア様とは言いませんが(笑)、彼女が神様を信頼する姿は感動するものがあります。約束の救い主を宿すというだけで、彼女の頭の中はグルングルン状態だったんじゃないかと思うのですけど、一緒に暮らしている家族はどう思うだろうか、これから暮らすことになるはずの婚約相手は何て思うろうか、本当に暮らしてくれるろうか、私を信じてくれるだろうか、そう考えただけで不安に襲われたに違いないのです。他の人たちが何と言おうと、家族や婚約者は、私を信じてくれるだろうか。人は、他人はどうであれ、自分にとってかけがえのない人が、この人は私を信じてくれているって確信があれば、苦難にも立ち向かっていけるのです。よく引用する詩人八木重吉が、妻が私を信ぜぬとき、私の取るべき道は二つ、死か、悪魔になるか、その二つだと言っていますが、夫が私を信ぜぬときと言っても良いのでしょう。それぞれに共感するところがあるのじゃないかと思うのですが、マリアはじゃあそういう不安に襲われるところで、どんな道を選んだか。じゃあ私は神様を信じているか、です。人が私を信じてくれるかより、私は神様の愛を信じているか。自分の事で頭が一杯になるところで、それが人間らしさのようにさえ思われて、だって人間はそうだよってところでマリアは、この私に向き合って下さっている神様は無表情な決断を私に押し付ける神でもなければ、私が信じようが信じまいが勝手に事を進めて行く神でもないことを、神様は私が神様を信じることを、求めておられる方であると、神様を信じる関係を選ぶのです。大切な人から信じてもらえるかは、なお大きな問題だったと思います。けれどもマリアが選択した道は、人間が神様に対して持ちやすい、あるいは妄想してしまいやすい人間と神様との選ぶ関係を、ひっくり返してしまうのです。人間が神を選んだり、神の言葉をどうしようかと自分で選ぶのではなくて、神様に選ばれてしまった者として、もう神様により救い主を恵まれ与えられてしまうことを、選ばれてしまったガリラヤに属する者として、私はただその神様の恵みを信じることを選びますと。それがマリアが申しました信仰の告白、私は主のはしため、僕ですとの告白なのです。信じます、あなたのお言葉どおり、この身になりますように、あなたはそれを神様らしく選ばれたのですね、私はそのあなたの決断を信じますと、マリアが神様を信じる姿。そこに神様らしい救いの恵みを信じた、まことに人間らしい、神様の愛の形に造られた人間が、美しく現れているのです。神様から恵まれる人間らしさに私たちもまた生きられるのです。マリアから天使が去った後も、神様は共におられました。その神様を信じる人間らしさが、キリストの救いを運ぶのです。

13/12/8待降節第二主日礼拝説教@高知東教会 イザヤ書11章1-5節、コリントの信徒への手紙二5章11-15節 「見えない真実が見たい」

13/12/8待降節第二主日礼拝説教@高知東教会

イザヤ書11章1-5節、コリントの信徒への手紙二5章11-15節

「見えない真実が見たい」

 

クリスマスイヴ燭火礼拝で読まれる御言葉を、この待降節は一つずつ説き明かしております。その二回目です。先に歌いました讃美歌もこの御言葉から取られたのだなということを皆さんも思われつつ聴かれたでしょうか。クリスマスの祝いを準備しながら、この御言葉を共に聴くことに、どんな意味があるのか、改めて噛みしめたいと願います。

エッサイの株、また下の段10節や先ほどの讃美歌ではエッサイの根とも言われます。これは救い主イエス様の誕生を預言した呼び名でして、エッサイというのは人の名前です。イスラエルの王ダビデのお父さんがこのエッサイという人でして、要するにダビデの子孫、神様に選ばれた王の直系としてお生まれになられる方が、エッサイの株からお生まれになるという預言です。

何だ随分ややこしい言い回しをするなと思われるかもしれませんが、このややこしさにも、やはり前回と同じで時代的背景があります。その背景が、また私たちにも深く関係するものですので、少し背景を説明します。預言者イザヤがこの預言を語ったのは、おそらく先週申しました北イスラエルに強大なアッシリア帝国が攻め込んできて、首都サマリアが囲まれていた頃か、既に攻め落とされて北イスラエル王国が滅亡し、隣国にして兄弟国の南ユダ王国が、あわわ次は俺たちの番だと政治的、情勢的に極度の不安にあった時期だと思われます。今の私たちの国も、国会を延長してすったもんだの茶番劇をやっておるように思えるのですけど、隣国との政治的緊迫状況や、やはり大きなのは原発の危機管理を国として責任を持って治められない管理することができんので、言わば戦争末期、本当は壊滅的な状態なのに勝利勝利!と真実を隠蔽して情報操作して、日本は大丈夫だから頑張りなさいと国民を管理しておった、そんなキナ臭いことかなと、どうしても思わされるのは反骨の異骨相気質故でしょうか(笑)。国民をわやにすなという気持ちになるのですが、今日のクリスマスの御言葉もまた、それと無関係ではありません。

エッサイの株、エッサイの根の説き明かしをしているのですが、これは切り株です。切られたのです。もっとハッキリ言えばもともとの木が切り倒されて株だけ残った。丁度、この新共同訳聖書は今日の11章の前に一行だけ前の10章の最後が記されていて、「切り倒される」とある。このイメージ。主なる神様に逆らい続けたイスラエルに対して、神様がアッシリアを裁きの斧として振り上げて、罪の裁きとして王国を切り倒されたというイメージです。日本の国は大丈夫でしょうか。教会はどうでしょうか。あるいは裁きのイメージとして火で焼かれるという表現もイザヤは用います。前に見た映画でワイン造りのための葡萄を栽培する農家の映画ですけど、畑が火事で一気に焼き尽くされてしまう。ああ、もうこれで全部終わってしまったと人々は嘆くのですけど、焼け跡の中から、一番古い葡萄の木の根っこが見つかる。木自体はもう焼けて見るも無残で、根があったち、これがどうなるか、もうどうしようもない、終わりよえ、終わりと思うんですけど、その燃えさしの株から芽が萌え出で、ああこれでやり直せるっていう希望が家族に与えられるのです。今日の御言葉をモチーフにしたのかもしれません。

エッサイの株、エッサイの根というのは、もう人間の目から見たら、神様の裁きを受けて、もう終わった、もうダメだ終わりだという人間の目から見たら不可能なところに、いや、神様に終わりはないと、神様の裁きを受けた結果こうなったのであっても、そこで神様は、いや終わりじゃない、そこにわたしは救い主を与えて、あなたが新しくやり直すことができるようにする。あなたをわたしへと正しく導くあなたの王を、正義と真実の王を与えようと、救い主、王の誕生を約束された。それが今日の御言葉の預言です。

そしてこの御言葉で大事なのは、救い主によって与えられる救いが、安易な天国の保証ではないという点です。救い主は人として、エッサイの根から人としてお生まれ下さった方として、私たちを神様の裁きから救い出して下さるのであって、単に天の裁きの座におる神が、えいえい赦いて天国入れちゃうきと救うのではない。無論、赦されなければ誰も天国に入ることはできません。人間は自分の目に見えるところだけで、えいえい、これで私は天国に行けるはずと自分の正しさを見ていると御言葉は語り、けんどそれは自分のことだけじゃいか、自分で自分を裁きゆうだけで神様の裁きはどうなった、神様の正義はどうなったと問うのです。神様の正義と裁きの光に照らされたなら、誰も正しいとは認められない。聖なる神様の前に立ちえないのが人間の罪です。だから罪は赦されなければならないのですけど、しかし、何を根拠に赦されるのか。それが今日の御言葉の語る救いの急所です。切り倒されたエッサイの根から救い主が与えられる。そのことで保証されるのは、この救いが完全に正義であるという保証です。更に丁寧に説いていきます。

今問いましたように、罪は赦されなければならないのですけど、何を根拠に赦されるのか。どういう根拠で私たちは人を赦しますか。無論、どうしてもそこで必要なのは憐れみでしょう。でないと赦しても対立したままということもあり得ると思います。それで何の赦しなのかということになりかねない。じゃあ憐れみがあって、えいえい、もうえいきと神様が憐れみによって人を赦したら、それでえいか。その救いは正しい正義を貫いているか。もしそこでその人の罪によって苦しんだ被害者を正しく憐れんでいれば、です。罪は人と神様に苦しみを与えます。人の罪に苦しめられたことのない方、ここにおられますでしょうか。おらんと思います。神様も罪の被害者です。加害者が、何?それっぱあ我慢をせえと言うことほど恐ろしい加害者の正義はありません。戦争のごとに繰り返されますが、加害者の正義は必ず裁かれます。それが被害者に対する神様の正義でもあります。キリストの救いは被害者に対する正義を保証するのです。無論、神様として自らも苦しめられています。十字架そのものがそうだとも言えますし、私たちはそういう意味では日々神様を十字架につけては、お前なんかいらんと言い続けている毎日だとさえ言い得るのです。その罪と苦しみを神様が我慢され、えい、赦すと言われるイメージなら、受け入れやすいのかもしれません。事実そうだとも言えるのですけど、神様は決して、だからおんしも我慢せえ、わたしも被害者だけど我慢しゆうがやきという上から目線で被害者仲間ぶって、罪に苦しめられている人々に泣き寝入りを強要することはない。正義を押し付け強要するのは、4節で語られる「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」方の正義ではありません。エッサイの根から人としてお生まれ下さった裁き主は、加害者の正義を罪として裁かれ、正しい裁きを執行なさる救い主です。それは福音書に見られるイエス様の歩みの内につぶさに認められる正義でもあります。

イエス様は人としてダビデの子、正統な王の直系として生まれながら偉そうにされたことは一度もなく、いつも弱い人と共におられました。王の都エルサレム入城の際も、皆から王なる救い主だ、あの預言を成就する方だと騒がれる歓声の中、軍馬ではなくロバの子にまたがって都に上り、都が見えた時には、その都が神様に逆らい続けた裁きとして、やがて神様の斧を振るわれて滅亡する様を思われて、ボロボロと大泣きに泣かれた王です。変な王です。目に見えるところによっては強く見えない、弱い王。王様万歳と都に上る時には祝われたのに、わずか5日で、嘘の王やった、嘘の救い主やった、そんな弱い王は嘘や、十字架につけろ、お前らあいらん、お前らあダビデの子じゃない、嘘つきと叫ばれて捨てられる王が、ここでダビデの子と呼ばれる代わりに、ベツレヘムの羊飼いエッサイの根から生まれ育った人として歌われますクリスマスの主、人となられた弱い神様です。

今日の御言葉では、その弱い神様がおっしゃるのです。そのわたしが裁く。全ての加害者の腐敗した正義に対して、神様の完全な正義の裁きを行うと。全ての加害者に、あなたは死ななければならない罪を犯したと、この唇から宣告する裁きを、わたしは行うと預言されます。それはもっともな正義です。救い主は、全ての犯された罪による悲惨の故に、どうして神様はこの罪を見過ごされるのかという涙の故に、いや神なんていないんだろうと呪いたくなるような苦しみの故に、だからわたしは裁くと、罪故の悲しみをないがしろにはしないと、正義の斧を振り上げられます。この正義の側面をないがしろにする救いや赦しは、罪に泣いている人を無理やり犠牲にして、お前が我慢したらこの人は赦されるきという不正の赦しであり、それは神様の赦しではありません。聖書全体が証しする神様は正義の斧を振り上げる方です。そして聖書全体が証しするその斧は、その正義の裁きをなされる方ご自身に向かって天から振り降ろされ、この裁き主は、死ななければならない罪人の死を、救い主として死なれるのです。それが正義をないがしろにしない、泣かされる人の叫びをないがしろにされない、裁き主による赦しの救いです。人間は裁きを根拠に赦されます。クリスマスに鳴る赦しの鐘の音は、同時に裁きのベルでありつつ、その裁きが人間の代表としてお生まれ下さった神様に向かって振り下ろされて、エッサイの根から生まれた方の犠牲によって人は赦され救われるのだという、福音として鳴り響くのです。

切り倒されて、もうダメだと思われた根から生え出られる人として、主が生まれた。神様の裁きは確かにあるが、裁かれて終わりでは決してない。裁きを超え出る救いがある。エッサイの根から、御子を人として生まれさせて下さった神様の憐れみ、正義の裁きを完全に満たされて、その上で赦して人を救われる憐れみがあるのだと、この預言の御言葉は告げるのです。これがクリスマスの救いのメッセージです。

私たちがクリスマスの主を信じお祝いするというのは、ならば神様の裁きを信じるということでもあります。暗い世相で、力ある者が我が物顔で意見をまかり通らせる罪の世にあっても、尚そこで希望を捨てなくて良いのです。流されず、正義に生きて良いのです。キリストが裁いて下さいます。その裁きによって、神様の救いはなるのです。

13/12/1待降節第一主日礼拝説教@高知東教会 イザヤ書9章1-6節、エフェソノ信徒への手紙2章14-18節 「平和の王が来られた」

13/12/1待降節第一主日礼拝説教@高知東教会

イザヤ書9章1-6節、エフェソノ信徒への手紙2章14-18節

「平和の王が来られた」

 

今日から待降節が始まります。このろうそくに毎週一本ずつ火を灯していって22日のクリスマス礼拝を迎えます。また24日の夜に行われるキャンドルサービスの礼拝でも、このろうそくが礼拝に光を与えます。それは今読みました御言葉に登場する光、闇の中に輝き出る救いの光の象徴でもあります。

先週配られた月間予定を見て、あ、今年の待降節はイヴの燭火礼拝で読まれる御言葉を順に説き明かすのだなと、もし発見なさった方がおられたら、褒美はないですけど(笑)すごいと思います。毎年読むだけで説き明かしは説教の御言葉だけですので、今年は一つ一つの御言葉を、ああ、こういう御言葉なのかと、その恵みを噛みしめたいと願い、一つ一つ順に説き明かしていきます。

その最初の御言葉がこれです。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。イエス様お誕生の預言です。この預言が、どういう状況で最初に語られたのか。それもまた、イエス様がどういう救いを私たちにもたらしに来られたのか、私たちを何から救って下さるのかを知るためには重要な知識です。神様は、私たちが何から救われなければならないと、イエス様をお与え下さったのでしょうか。

戦いです。今日の御言葉から見えてくるイメージは戦禍の悲惨です。人は戦争の悲惨から救われなければならない。よくおわかりのことだと思いますが、そのために神様が、永遠の御子を人として生まれさせなければならんかったとはどういうことか。問題は、何でイエス様なのかです。単に戦争がなくなったらえいにねえというだけなら、政治を勉強したらよいのかもしれません。でも政治なんてもう何千年もやってきて、いや国家の政治レベルまでいかずとも、どうして私たちは隣人と、家族とさえ仲良くできなくて争ってしまうのか。あるいは争っている人たちを仲良く和解させることができんのか。それさえできんで戦争を言うても、机上の空論、飲み屋でよく行われる俺が大統領やったらねゃという自己満足と大差ない。なら人はどうやって戦いから救われるのか。

預言者イザヤがこれを預言した状況は深刻です。当時、神様が世界に祝福をもたらすために興されたイスラエル国家は、既に二つの王国に分裂し互いに戦争をしておりました。北イスラエル王国と南ユダ王国がそれですが、特に北イスラエル王国はその初めから、ひとっちゃあ御言葉に従わず神様の言うことを聴かんので、預言者が次々送られて、そんなことしよったら正しい裁きが下されるぜよと、何度も律法の説き明かし預言が繰返しなされたのに聴かず、ついには今日の預言がなされた少し前、アッシリア帝国が攻めて来た。国の北方ガリラヤ地方が蹂躙され、若い者たちや夫たちが捕虜として連れて行かれた。後に残った人々が、一体どのような気持ちで毎日過ごしたか。何でこんなことになってしまったのか。人のせいにしても済まない。それでは前に進んでいけない。闇の中、死を考える。死の陰の地に住む自分たちにとって、一体いつ、この戦争は終わるのか。

その戦争を終わらせるために、神様がイザヤに語らせた預言が今日の預言です。一言で言えば、人間が神様と始めた戦争を、神様のほうから戦争終結の宣言をなさった。もう戦争は終わりだ。あなたがたは今後、王に惑わされ滅びることのないよう、わたしに逆らう王のもとでなく、新しい王のもとで生きなさい。その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」だと、神様と戦争をして自ら悲惨を招いた人間に和平宣言をなさったというのが、このクリスマスの王の預言です。

この預言が当時依然として戦禍が残る状況の人々に、どのように受けとめられておったかを、もはや一人一人調査することはできませんが、一つ推測できるのは、預言の文法に引っかかった人はおったんじゃないかと思います。多くは完了形で語られているのに、目を開けて見たら、まだ軍服を着た占領兵がおって、自分は相変らず闇の中におって、その生まれた平和の王も、どこに生まれたのか、どこにおるのかと思う人は当然おったろうと思うのです。今もそうでしょう。既に預言は成就してイエス様がお生まれになったのに、例えば70年前の戦時下で天皇を拝めと迫害を受けていた日本の教会では、軍服を着た憲兵に見張られながら礼拝を捧げておって、その中でこの御言葉が読まれたら、じゃあ目の前の軍服は何なのかと思ったのじゃないか。イエス様を信じているのに、平和の王が来て下さったのに、何故戦いが続くのかと。現在私は戦いの渦中にあるということを、否応なしに思わされる一人一人にとっても、まだ終わっていない戦いの終結を、どうして神様は預言なさったかと、いぶかられるかもしれません。それに対する一つ目の答えは、この預言で用いられている完了形、つまり輝いたとか、喜び祝ったとか、焼き尽くされたという、既に完了した、という言い方が、時間に縛られた人間の視点でなく、その約束が本当に起こるか、真実か否かを問題にされる神様の視点から語られている。だから、時間的にはまだ起こっていなくても、確実に起こるから完了で語られるというのが一つ目の答えです。預言的完了とも呼ばれるのですが、時間じゃなく、確実性ゆえに完了で語る。例えば雪山で遭難して、もう終わったと思うのも、まだ終わってないのに完了で考えますし、そこでワンワンと救助犬の声が聞こえて、救助隊の姿が見えたら、助かったと思う。まだ脱出自体は完了してなくても、時間のゆえでなく、その確実性のゆえに助かったと言う。それが神様の語り口、預言的語り口でもあるのです。他にも聖書は、キリストに結ばれた者は、キリストと共に復活させられた、そして天の王座に共に座らせられたと語ります。え、まだ死んでませんがと思うのは時間に支配された考え方で、そこでキリストのご支配に身を置くなら、はい、と言えるのです。死ぬのは時間の問題ですが、復活はキリストの救助の確かさの問題だからです。救われたという言い方がそもそもそうです。時間的には私たちまだ死後の裁きにあってない。皆これから、死んだら神様の前で目が開いて、そこで人生の総決算を受ける。その裁きから救われるかどうかは、まだ時間的には誰も体験してないので、時間的には救われたと言うのはおかしい。しかし、キリストの赦しの確かさ、愛の確かさ、十字架で主が受けられた壮絶な罪の裁きが、私のためだったと十字架のキリストを仰ぎ、そこで主が叫ばれた、すべて完了した、裁きはわたしが引き受けて終わったとの御言葉の確かさを、私のための確かさだと信じる者にとっては、もう裁きから救われたのです。そのために生まれて下さったひとりのみどりごが、私たちが受けるべき罪の裁きを全部引き受けて十字架で裁かれ死なれて、裁きは完了した、終わったと裁きからの救いの宣言、和平の布告をなさったからです。

神様にあらがって戦争を起こして、自ら永遠の悲惨を招くはずだった人間の結末を、しかし神様ご自身が、その全責任を引き受けて、あなたのためにひとりのみどりごを与える。あなたの主、あなたの代表として生まれる平和の王を、わたしはあなたのために裁き死なせて、わたしはこの罪の戦争を終結させると父なる神様はイザヤに預言させた。そして預言全体の成就が、未だ時間的には完了してなくて、未だ戦いと戦禍が残っておっても、このことはもう起こったのです。キリストはもう来て下さって、私たちの結末を引き受けて下さった!そこから残りの預言の成就も、未だ時間の問題として戦いの渦中にありながらも、キリストの確かさの光に包まれるのです。キリストの光の下に全てを置いて、赦しと憐れみの勝利に負けた者として、王からの平和に生きられるのです。

13/11/17幼児祝福礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章4節、詩編139篇 「あなたは愛されている」

13/11/17幼児祝福礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章4節、詩編139篇

「あなたは愛されている」

 

父親たち、これは両親よと言い換えても良い言葉ですけど、その次がいいですね。子供たちを怒らせてはならない。子供たちからアーメン!と聴こえてきそうですが(笑)、いや、ほんと、これが子供たち一人一人を愛し、お造りになられた神様の、幼児祝福の言葉なのです。そして、この御言葉を聴く時に、私たちは皆、子供として生まれたことを同時に思い起こしたら良いのです。私たちにも語られていたのです。幼子を、いやどんな人であっても、神様は一人の大切な人格として尊んで下さり愛して下さっていることを、この御言葉は語ります。怒らせてかまん人なんておらんのです。

しかもこの怒るという言葉は、激しい怒りを表す言葉です。激憤とか憤激とか、ひっくり返しただけですが、あるいは前にも言いました、激オコプンプン丸とか、あんまり怒ってなさそうですけど(笑)、この怒りは、言わば自分の人格が、私もあなたと同じ一人の人格を持った人間であるという自分の人格が、全否定されたように感じて、腹の底から湧き起こってくるような怒りと言ったら説明し過ぎでしょうか。子供の怒りだから、そこまで理解してはないかもしれませんが、言葉で説明できんからと言って、その怒りの出所が人格の最も深い所から出ていないとは言えんでしょう。しかもその子供の怒りを神様ご自身が言わば肯定しておられるのですから、私たちは子供の怒りに向き合って、子供の人格を認めるべきでもある。軽んじてはならんと主がおっしゃるのです。

私も父親ですから襟を正しながら語っているところが正直あります。決してご立派な説教をしているつもりはありません。むしろこう思っているのです。私も子供だったから、こんな親になりたいという思いがある。子供を祝福することのできる親。その神様の祝福に、私自身生きられる祝福された親になりたい。共に神様の祝福に生きたい。それが私たちの願いではないかとも思います。その願いがこの御言葉を通して成就する。まこと祝福に満ちた御言葉です。

さてしかし、どうして子供を怒らせることになるのでしょう。幾つか道筋は考えられます。ただ、乳幼児や思春期の場合、ギャーと泣き叫ぶの全部、ああ怒らせたらいかんと考えておったらノイローゼになるかもしれませんので、泣き叫ぶ=怒りという単純化は避けたほうがよいとも思いますが、子供への心構えは皆共通します。一つは、子供への態度や接し方が原則主義、これはこうなんだからこうなんだ!という律法主義の押しつけになって子供の人格を尊ばない場合、親の気分で振り回されるとか、子供にしたらたまったもんじゃないから怒る。当然のことでしょう。本来は、主がしつけ諭されるように育てられるのが当然なのですから、私は神様の子供として生きるために生まれてきたということを、子供や大人が理解していようといまいと、心のどこかで引っかかるから怒るんじゃないでしょうか。おかしいと。でも、どうしておかしいか、神様に聴いて、だからだと思うのでなく、神様を無視して自分に理由を求めたりするのが罪なのですけど、それでも自分が神様の形に生きるために生まれてきた、生まれてきた本当の理由を本当は知っていて、何か違うと、私たちは皆、神様により、その名を愛と呼ばれる神様の形に造られて生まれてきたのに、愛され、愛することがなかったら、やはりおかしいと魂が叫ぶ。その叫びを子供は大人より知っているのかもしれません。だからむしろ私は子供たちに言います。子供たち、いいですか、間違った大人にならないでください。あなたは神様に愛されるために生まれてきました。そして私たち大人は、あなたが生まれてきた理由を、全力で全うさせたいと願っています。願いつつできない私たちを赦しても欲しい。でも信じても欲しい。私たちは神様の愛の中を、あなたたちと一緒に生きていきたいのです。父よ、私たちのこの願いを全うして下さい。アーメン。

ついお祈りになってしまいましたが、原則主義、律法主義を押しつけるというのは、責任逃避です。言い換えれば、言っていることは正しくても、そこに愛する責任がないから怒る。神様の名前さえ出してきて、だから、こうしないあなたは間違っていると、正しいことを、しかし、憐れみ抜きで押しつける無責任を、イエス様は、あなたは間違っていると言われました。神様の憐れみなき正しいだけの正しさは間違っているという、このことは、本当は私たちも、知っているのだと思います。

もう一つ子供が怒る理由として、これと逆の場合もあります。本当に正しいことを、しかも単に言われただけでなく、愛の実践を伴い説得力を持って、だから、こうでしょうと説得される時、例えばイエス様の愛の正しさに、押しつけ主義者たちは、激怒しました。殺意さえ持って、後に本当にイエス様を十字架につけるほど、怒った。この場合、正確に言い直すならこうです。人は自分が間違っていると認めたくないので、愛の正しさに、怒りをもって跳ね返っていくということがある。

じゃあその場合、あるいは先の正しい怒りの反応であっても、怒りの関係は相応しい関係ではありませんので、怒りを引き起こす罪を、親も子も互いに捨てあって、神様の愛のもと、共に祝福に生きるためには、どうしたらよいのか。「主がしつけ諭されるように育てなさい」と言うのです。主イエス・キリストが私たちをしつけ諭されるように、イエス様を真似て子供たちを愛したら良い。その愛故に子供が反抗しても。

主のように、というのであれば、急所は一つです。キリストが十字架で私たちを罪ごと受けとめて引き受けて、身代わりに死んで下さった。愛の正しさは、赦す正しさだった。しかも相手のなすがまま、えいえいというのじゃなく、罪は罪として認めつつ、しかしその裁きと苦しみを代わりに十字架で引き受けて、だから、一緒に生きていこうと、十字架で拡げられた両手一杯の愛で、この愛に一緒に生きよう、と招く。

これが十字架です。十字架のもとで人は生きられる。愛する人を生かすため、自分は死ぬことさえできる愛の十字架の前にひざまずいて空っぽの両手を差し出して祈るのです。イエス様、私の力ではできません、子供を愛することのできない私を憐れんで下さい。そして愛する者に造り変えて下さい。十字架の愛で愛する者へと、あなたの愛に生き、また死ねる十字架の僕にしてくださいと、空っぽの両手を差し出して求める僕は、空っぽのままで帰されることはありません。イエス様の御言葉があります。義に飢え渇く者は幸いである。愛の正義に飢え渇いて空っぽの両手を差し出す、その人々は満たされるからと、イエス様は、私たち全員を招かれて、優しくおっしゃって下さったのです。

その十字架の恵みの木のもとで、自分自身神様の子供の一人として、神様から託された子供たちを、神様に愛される子供として育てる中で、自分もまた育てられます。神様の愛で愛する者にしつけ諭され、育てられ、共に祝福に生きられるのです。感情的になりそうなとき、あるいはもう既になってしまったとき、主よ、と十字架の赦しと愛を求めるところで、何度でも十字架で死ぬのです。イエス様と一緒に自分に死んで、激する感情を殺して落ち着いて、新しい態度で、再度、子供に接し直すとき、子供は親の成長を見るのです。親が成長するのであれば、子供が成長せんはずがない。それは祝福された説得力です。そこで丁寧に言葉で諭したら、子供の理解も成長します。何が罪で、何が赦しで、何が愛の正しさであるのか、そこにイエス様の愛をも知る。親子で、家族で、一緒に知る。私たちは神様に愛され、愛するため生まれてきたのだと。こんな祝福はありません。その、こんな祝福にこそ生きるのです。

13/11/10朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章21節、レビ記19章13-18節 「しもべは愛の出発です」

13/11/10朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章21節、レビ記19章13-18節

「しもべは愛の出発です」

 

短い言葉ですが、むしろそのほうがイメージはしやすいと思います。キリストを畏れ敬うからこそ、よしと互いに仕え合う教会のイメージ、またキリスト者のイメージ。どうでしょう、具体的にフッと浮かぶでしょうか。ん~と、もし思い浮かばんかったら、礼拝後の避難訓練で皆さんが如何に他の兄弟姉妹に配慮して非難されるか、よく見て頂けたらと思います。とか言って、またプレッシャーをかけてますが(笑)、どうか人を押しのけて椅子にもぐる人がおりませんように。

仕え合うというイメージで私がフッと思ったのは、人が嫌がってやりたがらん仕事を、じゃ私がやりますと引き受ける人、また急に頼まれたことを、え?と戸惑いながらも、はい、と引き受けられる方を見ると、僕だなあと嬉しく思います。前にも言いましたが、東神大の寮で各階の廊下に共同の電話がありまして、当時はまだ携帯もそんな持ってなかった時代です。で、電話がけたたましく鳴る。どうなるか。牧師になる人たちの寮です。こぞって取りに行くか。行かんのです。数人を除いて。一人は愛媛の郡中南教会で仕えておられる小林先生。いつも取っていました。中には誰か取れ~って叫ぶだけの人もいました。これは仕える僕と言うよりは上司のやることでしょうか。でもそういう上司は嫌われるでしょう。あるいはそれが社会の当たり前でしょうか。教会はそうではないでしょうと主は言われるのです。

仕える僕のイメージは、言い換えれば、愛するイメージだと言っても良いと思います。心からそう思います。僕になることなしに愛することってできるのでしょうか。自分が誰かを愛しているかどうか、どこでわかるかというと、人に仕える僕の態度と行いがあるかどうかでしょう。愛って何でしょうか。今更な質問に聞こえるかもしれませんが、案外、イメージしにくいのが神様の命じられる愛だと思います。隣人を愛せよと主から求められていると知っていても、その具体的な愛のイメージができなければ、具体的実践はできんでしょう。天の父に祈るのと同じで祈りの具体的イメージを持ってなければ、祈りようがない。どう隣人を愛すればよいのか。抽象的になった愛は愛でないことを、この御言葉は見抜くようにして、互いに仕え合いなさい、そのことで霊に満たされ、具体的にキリストに満ちなさいと命じるのです。

聖霊様に満たされるとは、キリストの具体的な愛の姿に満ちることです。それをこの5章の冒頭、前の頁の1節は、神様に倣う者となりなさいと言いました。そしてそれはすぐ具体的にイメージ化されて、それはキリストのように自分を犠牲にして愛することだ、だからあなたがたも愛によって歩みなさいと、神の家族の生き方が示されていました。そらそうでしょう。神様に倣えと言われても、イメージができんと倣えません。何に倣うのか。すごく具体的です。キリストが私たちの救いのために僕となられて仕えられたように、それに倣って仕えなさい。それが愛だと知っているでしょうと、今日の御言葉に流れ込みます。

仕えると訳された言葉の直訳は、下に配置するという言葉で、誰かの下について軍令に従うという、軍隊用語だった言葉です。軍令とは物騒ですが、教会の軍令は愛です。教会は神の愛の軍隊ですから、もし個人主義の集まりに堕したら、口だけ言葉だけの抽象的宗教に堕すか、行いはあっても、それが個人の自己実現という具体化になるのは必然です。仕える愛は、人の下に自らを配属させ、その人の僕となって仕えることを意味します。ですから、人に良くしてあげても見返りがなく、こんなにしてあげているのにと、その人の上に立ちません。成功・出世主義が人の上に立てと言うのは、皆さんもイメージしやすいと思いますけど、こういう実例もリアルじゃないでしょうか。先の東神大時代、近所に長崎ちゃんぽんの店がありまして、時々ちゃんぽんが確か200円ぐらいの日があって友人たちと行きました。ら、お昼、妙齢のご婦人方が安いからか数名で来ておって、食後レジの前で、奥様ここは私が、いえ今日は私が、い~えいけませんここは…と延々とやっているのを友人が見て、やだね200円で恩を売ろうとして、と言った。払って人に仕えるようでいて、実は人の上に立とうとすることってあるなと、やけにリアルに、これもイメージと共に焼き付いている記憶です。

じゃあ、イエス様に倣い、仕える僕のイメージってどんなでしょう。例えば、200円出すと言われたら、そこで自分がそれをどう感じ思うかに、こだわらず、相手の気持ちを考えて、じゃ今日はありがとうございますと、その人の下に立って、謙虚に微笑んだら、払う側も気持ち良く払って、密かに偉ぶりたい心も静まるんじゃないでしょうか。

話を聴くのも僕の態度でしょうか。偉い人は言いたがるし、聴けないように思います。話を避けたり遮れるのは偉い人の立ち位置でしょう。イエス様は弟子たちが遮ろうとした人々の声をよく聴かれました。柔和で謙遜な者になりなさいと招かれたのも、僕になりなさいと招かれたのです。罪人の仲間と数えられることさえ厭わない、柔らかな柔和と謙遜です。むしろ罪人の側に立ったって良いのだ、罪を犯す全ての人の代表として、その罪責を僕となって全部担って死んだって良いと考えた末、人となられて十字架で人の罪責を負われたイエス様の態度。それは悪や罪を許容する懐の太さがある偉いボスみたいに、俺に任いちょけというのではない。むしろ罪に敏感で、痛み傷つきやすい柔和な態度だから、痛み故その罪を無視できず、またその人から逃げることもしない。自己責任にして逃げないで、一緒に立つ。しかもその人の下に自らを配置して、天の父の御前にひざまずき、この人を、裁きから、また罪の力からお救い下さい、助けて下さいと父に執り成す。それがイエス様に倣う僕の態度でしょう。偉くない心は傷つきやすい心ですけど、そのぶん人に優しくできます。優しく仕える勇気を持って、自分の十字架を負って、わたしに倣いなさいとキリストは私たちを招かれるのです。

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合えと言われた意味も、そこでおわかりになるのではないかと思います。人を愛し仕えるため、その人の下に身を置くときに、痛みを負うこともあるのです。自己実現から、愛の人になりたいというような思いは、そこで打ち砕かれざるを得ん厳しさがこの愛にはあります。憧れだけでなく、畏れの感情、畏敬の念とも言いますが、憧れ夢見る高揚感とは正反対に、冷静で目を覚まされるような思いがそこには必要だと言う。目が覚めるような畏敬というのは、私は一体自分を何様だと思っていたのかと、自分の傲慢や甘さ罪深さといった、難しい言葉で言えば自己認識の甘さに目が覚めて、私が私の力や意志で僕になるのではないと、私にはキリストが必要ですとキリスト認識を新たにすること。キリストに改めて、あなたが主ですと告白し、イエス様、どうか私をあなたの望まれる僕にしてくださいと、主が、わたしに従いなさいと招かれた僕の道に、それでもはいと、いやそれだからこそ、畏れをもって、主の前に襟を正して、はいと向き合える。自分でなく主が、この人に仕えなさいと招かれたのだと、キリストの僕として仕える愛が、そこでスタートするのです。

主を畏れることは知恵の初めという御言葉もあります。すぐ前15節も知恵の必要を説いたのです。考えることと主への畏れとはセットだとも言えます。自分だけ見て考えてないときには、大丈夫大丈夫とか、俺に任いちょけとかって甘く考える。皆さんもおわかりのことだと思いますけど、主を畏れる僕は考えるのです。何を言われても、はいはい考えんと従うのではなくて、逆に考えないと僕になれん。そもそも具体的愛は相手の気持ちを考えることから始まります。自分の気持ちからスタートしない。考えないと僕になれない。人の気持ちや痛みを考えられるのが優しさだから、と言えばわかりよいでしょうか。でもそこで、人からもスタートしないで、キリストを畏れることから始めるのです。

キリストを畏れ敬って仕えるというのは、言い換えれば、キリストを僕の中の僕という意味で、主と崇め、ひれ伏して、主よ、あなたが私たちのことを考えられるように、私も自分ではなく、人のことを考えて、自分を捨てて、あなたの愛の業、執り成しの御業にお仕えしたいのですと、救い主としてのキリストにお仕えすることです。キリストを意識すると言い換えても良いでしょうか。霊に満たされるとは、そのキリストのご臨在、共におられるインマヌエルと共に歩むことです。意識していようとしていまいと、共におられる主であるのなら、ならば主よ、あなたと共に生きたいのですと、キリストと共なる愛の歩みを、具体的に、僕となって仕えて生きる。

互いに、です。自分は例外という人はいません。キリストの体の中に僕でない部分はありませんし、なれない部分もないのです。キリストに結ばれたら、皆、僕です。私たちが僕としての生涯を全うできるようにキリストが私たちに仕えて下さっている、そのキリストを畏れ敬って、私たちは互いに仕え合うのです。